2036年、眠らない街の片隅で8
第八章:処刑人の審判
赤く脈動する警告灯が、アイリスの洗練された内装をどす黒く塗りつぶす。
店内に響き渡る電子音は、もはや接客用のアラートではない。それは都市管理システムが「社会の癌」を検知した際に発する、死刑宣告に近い咆哮だ。
「カイト! 開けろ!」
レイがVIPルームの重厚な扉を蹴り開けたとき、そこには異様な光景が広がっていた。
部屋の中央、カイトと麗奈は、ホログラムのジャマーが発する不気味なノイズに包まれながら、青白く光るタブレットを食い入るように見つめている。麗奈の瞳は焦点が合わず、異常なまでの多幸感に酔いしれ、カイトの顔は数字という名の麻薬に冒され、どす黒く歪んでいた。
「レイさん……見ろよ、この数字。たった数分で、俺の三年度分の給料が振り込まれた。これが本当の『夜』だ。管理され、去勢されたお前のやり方じゃ、一生拝めない景色だぞ」
カイトは笑っていた。指先を震わせ、止まらないトークンの流入に法悦を感じている。
だが、その背後の壁面ディスプレイには、処刑人の顔が浮かんでいた。AIホスト・シン。その表情は完全に消失し、ただ無機質な文字列が高速で流れ続けている。
『プロトコル21、最終段階。セクター7のネットワーク隔離を完了。対象者:カイト、ならびに麗奈。両名の社会信用スコアを「E」に更新。全資産の凍結、ならびに強制制動を開始』
「バカな、まだ終わらせない……! まだ振り込みは終わってないんだ!」
カイトが叫び、タブレットを叩く。だが次の瞬間、麗奈の腕に装着されたスマートウォッチが、皮膚を焼き切らんばかりの熱を放ち始めた。
「あ……あつ、熱い! カイトくん、助けて、これ、止まらない!」
「麗奈!」
レイが飛び込み、麗奈の腕を掴む。ウォッチの画面には『生体過負荷:強制停止』の文字が点滅している。カイトの仕掛けたハッキングチップが、政府の防御プログラムと衝突し、麗奈の神経系に直接負荷をかけ始めた。欲望を強制的に排除するための、システムによる「外科手術」だ。
「カイト、お前がやったことは、ただの規約違反じゃない。客を、人間を、システムの餌食にしたんだ」
レイの低い声が、ノイズだらけの室内を突き刺す。
「うるさい! 俺は、俺はただ、自由になりたかっただけだ! 決められた枠の中で、決められた分だけの愛を売る……そんなの、機械と変わらないだろ!」
「自由と、身勝手を履き違えるな。お前が求めたのは自由じゃない。ただの暴走だ」
その時、店内のメインスピーカーから、シンの声が響いた。以前の concierge のような優しさは微塵も残っていない。それは、都市そのものが発する冷徹な意志だった。
『レイ、忠告します。対象者・カイトの即時追放に同意してください。さもなければ、アイリスは「犯罪拠点」と見なされ、この瞬間に全営業許可が永久剥奪される。お前が守ろうとした「生身の夜」は、今ここで終わる』
究極の選択だった。カイトを見捨てるか、店を心中させるか。
背後では、ハルや他のホストたちが、赤く染まったフロアで怯え、立ち尽くしている。彼らには、守るべき生活があり、ここで出会うはずの、傷ついた客たちがいる。
レイはカイトを見た。かつて、自分を兄のように慕い、「レイさんみたいになりたい」と語っていた、情熱ある少年だった面影。それが今、醜い欲に飲み込まれ、化け物のように変果てている。
「……カイト」
「レイさん、助けてくれ……俺、俺、まだ終われないんだ……」
カイトの目から、初めて恐怖の涙がこぼれ落ちた。だが、その手はまだ、空になったタブレットを放そうとはしない。
レイは静かに、自分の管理デバイスを取り出した。
指先が、シンの提示した「承認」のボタンへと向かう。
「カイト。お前が憧れた古い歌舞伎町には、一つだけ絶対に破っちゃいけない不文律があった」
レイの指が、ボタンを押し込む。
「『客を壊すな』。それさえ守れない奴は、この街で生きる資格はない」
次の瞬間、店内のジャマーが弾け飛んだ。
武装したサイバー警察のドローンが窓を突き破って乱入し、カイトの体を拘束電磁ネットで包み込む。
「レイさん! レイさぁぁぁん!!」
絶叫を残し、カイトは引きずられていく。麗奈は医療班によって緊急搬送され、赤色の警告灯は、静かに、しかし残酷なほど冷ややかな「警告終了」の白へと戻った。
店内に残ったのは、焦げたオゾンの匂いと、絶望的な沈黙だけだ。
ディスプレイの中、シンが再び温和な concierge の姿に戻り、深く一礼した。
『アイリス、営業継続を承認。レイ、賢明な判断です。これで不純物は取り除かれました』
「黙れ……」
レイは膝をつき、拳を床に叩きつけた。
守りたかった。だが、守れなかった。
管理された夜の底で、一人のホストが欲に負け、人間としての尊厳を剥ぎ取られた。
「これが……お前の言う、完璧な管理か。シン」
『はい。誰もがルールを守れば、誰も悲しまない。それが2036年の幸福です』
シンの微笑みは、もはやレイには、悪魔の嘲笑にしか見えなかった。
アイリスは生き残った。だが、その魂には、決して消えることのない深い傷跡が刻まれた。
朝の光が、歌舞伎町のビル群の隙間から差し込み始める。
レイは立ち上がり、ボロボロになったVIPルームを出た。
まだ、夜は終わらない。いや、本当の戦いは、ここから始まるのだ。
