2036年、眠らない街の片隅で16
第十六章:生体認証と、変わらない色恋(いろこい)
2026年、風営法はさらなる大改正を迎え、締め付けはついに限界点へと達した。
新法では、スマートウォッチによる金額管理だけにとどまらず、入店時に網膜と指静脈による生体認証が義務化された。さらに、客の銀行口座、クレジットカード、さらには消費者金融の借入状況までが店舗のシステムとリアルタイムで直結され、年収や資産に見合わない「過剰な決済」は、AIによって完全に自動ブロックされる仕組みだ。
表向き、歌舞伎町から「破滅する女」は一人もいなくなるはずだった。
だが、そんな警察庁の青写真など、この街のドロドロとした執着の前には何の役にも立たない。
「レイさん……もう、まともなルートじゃ1円も引っ張れません」
バックヤードで頭を抱えるハルの前には、何枚もの「住民票の写し」と「白紙の委任状」が転がっていた。
法改正によって店での決済を完全に絶たれた太客の女たちが、今度はホスト個人を「保証人」や「債権者」に仕立て上げ、街の裏金貸しから現金を引っ張り出し始めたのだ。
「生体認証がダメなら、店外で現金を渡せばいい。システムに記録されない『ただのプレゼント』だって言い張れば、警察だって手出しできない。女たちはそう言って、ヤミ金やトクリュウ(匿名・流動型犯罪グループ)の受け子にまで手を染めて金を作ってきます……」
法律が厳しくなればなるほど、金の流れは地下深くへ潜り、より危険で凶悪な組織と結びついていく。ホストクラブの規制が、そのまま客を本当の犯罪の片棒を担がせる引き金になっていた。
ハルの担当客である沙羅も、新法の網に見事に引っかかり、店への立ち入りをシステムから拒否された一人だった。
しかし、彼女のハルへの執着は消えない。それどころか、「店で会えないなら、外で会うしかない」と、ハルの出勤ルートで毎日待ち伏せをし、カミソリを握りしめた手で「ねえ、私の何がダメでAIに拒絶されるの? お金なら、裏でいくらでも渡せるのに」と、泣き叫びながらハルの服にすがりつく。
規制がどれだけ厳格化されようとも、ホストと客の間にある「色恋」という名の依存関係がある限り、女たちは命を削ってでも金を運んでくる。システムが弾くのは「綺麗な金」だけであり、泥水の中から湧き出る「狂気の金」を止める術など、どこにもなかった。
カイトもまた、新法の洗礼を受けていた。
客から「店外のホテル代」や「高級ブランド品の買い取り」という名目で、巧妙に偽装された現金を裏で受け取り、それを自身の違法な口座へとプールし続けている。
「レイさん、これがこの街のリアルですよ」
カイトは、生気の無い目でレイを見つめた。
「国がどれだけホワイトな街にしようとしても、人間の心の底にあるドロドロした欲望は消せない。厳しくなればなるほど、その欲望の単価が上がるだけだ。俺たちも客も、もうこの泥沼から足は抜けないんです」
壁のディスプレイに映るAIホスト・シンは、店内の生体認証ログを「エラーなし、全員一律の規定内」と冷淡に表示し続けている。
システムは、客が店外の暗がりでヤミ金に脅されていることも、ホストが精神を病んで精神安定剤を貪り食っていることも、何一つ検知しない。ただ「法律通りに営業が行われている」という欺瞞のデータを積み上げるだけだ。
「法律がどれだけ牙を剥こうが、関係ない」
レイは、バックヤードの机に散らばった書類をすべてゴミ箱に叩き込んだ。
「ハル、カイト。国がどれだけ首を絞めてこようが、俺たちが向き合っているのはシステムじゃなく、目の前の狂った人間だ。綺麗事の法律の裏で、客が本当に破滅する前に、そのドロドロの執着ごと俺たちが身体を張って受け止めるしかねえんだよ」
生体認証という冷たい電子の檻に閉じ込められた歌舞伎町。
だが、その檻の奥深くで蠢く人間の業と血生臭いドラマは、新法という名の劇薬によって、さらに狂気をはらんだ泥仕合へと加速していく。
