【掌編小説】珊瑚灯籠と海鳴り姫
南の浜には、珊瑚でできた灯籠がひとつ沈んでいるという。干潮の夜、月が海の底まで白く届くころ、波間に淡い紅の灯がともり、その明かりを頼りに海鳴り姫が浜へ上がってくる。姫は貝の冠をかぶり、潮の衣をまとい、耳を澄ませる者にだけ、失われた声を返してくれるのだと、漁師たちは囁いていた。
私は声を失っていた。病ではない。嵐の夜、夫の船が戻らぬと知ってから、喉の奥に石が詰まったようになり、泣くことも叫ぶこともできなくなった。人々は気の毒そうに私を見る。その目がまた、私を黙らせた。ある晩、私は裸足で浜へ出た。潮は遠く引き、沖の浅瀬に、小さな灯がゆらゆら揺れていた。
珊瑚灯籠のそばに、海鳴り姫が立っていた。顔は波の影に隠れ、髪には夜光虫が星のように散っていた。姫は私の胸に手を当てた。すると遠い海鳴りが、私の内側から響いた。ごう、ごう、ざざん、ざざん。そこには夫の名を呼び損ねた声、助けてと叫べなかった声、置いていかないでと泣くはずだった声が、貝殻の中の風のように渦巻いていた。
姫は言った。声は出すものではない。戻ってくるのを待つものでもある、と。
夜明け、灯籠の火は消え、浜には珊瑚の欠片がひとつ残っていた。私はそれを握りしめ、初めて夫の名を呼んだ。掠れた、弱い、波に消えそうな声だった。それでも海は確かに聞き届け、足もとへ白い泡をそっと返した。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ、サポートお願いします! 頂いたサポートは作家としての活動費に使わせていただきます!ありがとうございます!