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奈良クラブを100倍愉しむ方法#053 第12節対 テゲバジャーロ宮崎  -The Polaris - "深呼吸”

こどもの頃の記憶

わたしたちが幼子であった時ときには、幼子らしく語かたり、幼子らしく感じ、また、幼子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼子らしいことを捨てしまった。

『新約聖書』「コリント人への第一の手紙」 13:11より

子供の頃の記憶というのは、曖昧なものもあればやたらと鮮明に覚えているものもある。そのときとても重要だと思っていたはずのことでも、割と忘れていることもあるし、逆にその時は大して大切なことだと思ってもいなかったのに、今になっても鮮明に覚えているということもある。
雨の日の試合のとき、僕が思い出すのは子供の頃のサッカー部の監督の言葉だ。その日は練習の日だったが、天気は雨。てっきり「今日は練習はないものだ」と思って、一応グランドに集まってはみたものの、すぐに解散になるだろうと思っていた。しかし、当の監督は練習やる気まんまんで登場。あっけにとられる僕たちを前に監督は言った。
「雨の日の試合の練習は、雨の日にしかできない。」
なにか教訓めいたものも感じるが、多分そのときの監督は文字通り「今日は練習するぞ」ということが言いたかっただけだと思う。とはいえ、このセリフだけはやたらと自分の中で覚えている。ただ、それは「大人というのは理不尽なことを言うなあ」という感じのニュアンスであり、「いつも本番のようにプレーしないといけないよ」「実戦を見据えた練習をしないといけないよ」という教訓めいたものを汲み取るのはもっと後のことだった。

こどもの日の翌日の5月6日、「こどもの日」企画ということで、さまざまにイベントがあった奈良クラブ対テゲバジャーロ宮崎の一戦は、ご承知のように0−1で宮崎の勝利。上位進出を狙う奈良クラブとしては痛い敗戦となった。内容としては、ぱっと見たところ凡庸な一戦だった。凡庸というと難しいので、もう少し砕けた言い方をすれば「つまらない」ということになる。「そうは見えましたが、実はこんな隠れたる狙いがあったのですよ」という魅力をここで披露すれば通っぽいムーブなのだが、今回はそういうことはしない。もっとも、選手個人に焦点を当てれば輝くものは見つけることができる。個々の星々は確かに光は放っていた。ただ、点が線となり、象を結び星座を形成するまでには至らなかった。輝きが足りなかったのか、あるいは共通の象が描けていかかったのか。今回はあえて「どうして凡庸になったのか」というところで議論を深めていきたいと思う。結論から言うと、この凡庸さはある種の必然であったし、両チームともにこのような試合を望んでいたように思う。

雨上がりのロートフィールド

フットボール観の原点から

あなたはヘスス・スアレスという人物をご存知だろうか。もし知っているならかなりのフットボール通だろう。それこそ子供の頃、今ほど海外フットボールの放送が無かったとき、僕たちサッカー小僧の情報源は雑誌がメインだった。よく解説で登場される粕谷さんや金子達仁さんの原稿を貪るように読んでいたものだ。いろいろ雑誌を買い続けると、自分にとっては「これが合ってるなあ」というようなものが出てくる。僕にとっては、それが「ワールド・サッカー・ダイジェスト」だった。グラフィックが綺麗で分かりやすいというのがその最もたるところだったのだが、毎月買っていると巻末にある海外記者の寄稿集のページがお気に入りになった。このページの最大の魅力が発揮されるのはワールドカップやヨーロッパ選手権などの国際大会の時である。好成績を収めた国の記者は、彼らなりの価値観で自国を批評する。反対のケースも然りだ。その悲喜交々を読み比べたり、あるいは各国の価値観を比較したりと非常に面白い体験だったと記憶きている。その中で、好成績なのに自国の代表をかなり痛烈に批判したり、相手国を称賛する変わった記者がいた。担当国はスペイン。そう、彼こそがヘスス・スアレス、その人である。

彼の魅力。それは、とにかくこの人は価値観がぶれない、ということに尽きる。一貫してボールを保持し、楽しいフットボールをすることこそが醍醐味だと主張。いくら成績が良くても、内容がつまらなければ「アンチ・フットボールだ」とぶった斬る。自他共に認める筋金入りのヨハン・クライフ主義者で、相手が選手だろうと監督だろうと自説を曲げない。しかし、友人のためならとおせっかいも厭わない(彼は大怪我をしたデポルティボ・ラ・コルーニャ所属のフランを自転車に乗せてリハビリに通わせたりもしていたらしい)。なにせ情熱的な人だ。まさにスペインという人柄。彼の寄稿を読むことが、この雑誌を買う一番の目的となったし、自分のフットボール観を決定づけたように思う。こんなnoteを書いているものだから、ふと彼の名前を思い出し調べてみると『挑戦状』シリーズという形で日本語訳された彼の著作が出版されているではないか。早速取り寄せ、ほぼ全てを読了した。それ以降、彼がこの試合を見たらなんと言うだろうか、というのが試合の観戦軸となっている。

ヘスス・スアレスは4-4-2のフォーメーションを嫌う。特にダブルボランチを嫌う。なぜか。これまでこのnoteで何度も書いてきたように、そして奈良クラブサポーターならご存知のように、ワンボランチのシステム4-1-2-3は、その1の脇のスペースが狙われやすく、ここからピンチを招くケースが多い。スアレスはそのリスクを承知した上で、それでもダブルボランチは「フットボールの醍醐味を毀損する」という。

“ボールを持ちたいか”
”ボールを持てるか”
そこにフットボールの根源的な問いかけがある。
(中略)
言わずもがな、システムにもその意思は表れる。とりわけ、中盤の構成に顕著に出る。ダブルボランチにするか、ワンボランチでインサイドハーフを2人置いた形にするか、では根源的に戦い方が変わってくる。つまり、中盤の構成を見極めたら、チームとしての戦い方のカラーが浮き彫りになる。

ヘスス・スアレス「選ばれし者への挑戦状」より

この日の奈良クラブのフォーメーションは4-4-2、しかもかなりスタンダードな3列に選手が並び立つものだった。対する宮崎は4-2-3-1だが、ヨハン・クライフ的にいうとこれも「4-4-2の亜種に過ぎない」そうで、要はお互いが4-4-2で対峙した形になったわけだ。スアレスは「バランスが良い」とされるこの布陣を痛烈に批判する。

ボールを回し、サイドに大きく展開するためには、ダブルボランチを用いるとパスが1本多くなったり、攻撃に割く人数が減ってしまうからだ。ダブルボランチというシステムの対極にあるシステム。それがアンカーに、インサイドハーフ2人が攻守に躍動する形だろう。

同上

フリアン監督時代に慣れ親しんだ布陣だが、中田監督になってからも見ることができる。神垣がディフェンスラインに落ち、そこから展開していくダウン3だ。FC東京戦の戦い方はまだ記憶に新しいので、覚えている方も多いことと思う。あの時のダイナミックな展開、堀内や中島の絶妙な立ち位置からのボールポゼッションをみて「まるでフリアン時代のようだ」と感じた人も多いだろう。アンカーの脇のスペースはハイラインでディフェンスラインが消しにかかり、ディフェンスラインまで落ちた実質アンカー役の神垣が左右にボールを展開させ、そのフォローにインサイドハーフの堀内、中島が立ち回る。僕たちが「ワクワクするなあ」と感じたのは、そもそもシステムが彼らを前向きに駆動させていたからだ。今日の4-4-2は、逆にシステムがボールを相手に持たせる、あるいは前に運びづらいシステムになっていたということである。もちろん、これは宮崎もそうで、昨年対戦したときの4-3-3で阿野を浮かせる布陣の方が圧倒的に脅威であった。

例えば奈良クラブの10番山本だ。彼はこの試合で、かなりコンディションを上げて仕上げてきていた。控えめに言って絶好調だったと思う。ボール捌き、セカンドボールへの反応、状況判断。どれをとっても「これが山本だ」というプレーを見せてくれた。しかし、だ。ダブルボランチの一角として登場した山本のパスレンジに、奈良クラブの選手はどれだけいただろう?戦術眼にすぐれる山本だからこそ、パスが繋げないと判断するとバックパスという選択肢になる。皮肉にもチャンスっぽいシーンになるのは川井が中に位置取り、インサイドハーフのような立ち位置になったときだった。前に出せないというよりも、出すところが無いという状況だった。
酒井、百田の2トップも同様だ。パスを供給してくれる選手が遠いので、そもそもがチャンスに決められないというよりもチャンスが「ない」。この日の彼らの出来は、彼ら自身に落ち度はないと思う。もちろん、もっとやりようはあったのかもしれないが、おそらく「得点にこだわれ」という指示があったのではないだろうか。指示がないにしても、彼らの今の精神状態を考えれば結果=ゴールこそが最大の目標だったはずである。結果的にそれが逆に作用し、金縛りにあったようなプレーになってしまったように思う。今日の彼らの使命感と、山本のコンディションを考えれば、3バックで3-4-1-2とし山本をトップ下(文字通り10番の役割)という手もあった。こうすれば吉村をもう少し前に上げられる。2トップが前線で待ち受ける形であれば、吉村からのシンプルなクロスも脅威になったはずである。あるいは、山本をボランチに下げ、川井に守備をキャンセルさせた上でトップ下にするという手もあった。

ちなみに、スアレスは認めないところだと思うが、個人の力量がかなり高い場合は4-4-2は最強だと僕は考えている。例えばベッカムがいた頃のマンチェスター・ユナイテッド。スタメン控え含めてかなり個人技術が高い上にアスリートとしての能力も高い選手が揃っていた。どうしても縦の選手間の距離が遠い目になるという布陣の欠点は、ベッカムのフィードの正確さとギグスのドリブルでカバー。スコールズのキックの精度も高く、止めようがなかった。そして、少しでもサボろうものなら監督の前にロイ・キーンから徹底的に詰められる。まさに4-4-2のためのチームだった。
前回の記事で出した現代型4-4-2の始祖、サッキ時代のACミランはどうだろう。サッキはシステムと戦術の有効さを協調していたが、彼のチームは結局のところ、“オランダ・トライアングル”や、バレージ、マルディーニ、アンチェロッティといった際立った個人によって支えられていた。イタリア代表監督としてはアメリカW杯準優勝を勝ち取ったが、結局はロベルト・バッジョ頼みだった面は否めない。
まだまだ成長段階の奈良クラブに、この布陣はあまりに大人びたものだったのかもしれない。モデルとしては、名将ヴェンゲルが指揮し、優勝を逃すも強烈な印象を残したセスク在籍時の4-4-2のチームも頭をよぎった。確かにあのチームは若さを力に変えていた。ただ、特に攻撃においてはかなり精密な約束事があり、この日の奈良クラブはその精度には及ばなかった。この辺りは、もし今後この布陣でいくなら、解説してみようと思う。

「子ども」であること

もっとも、今日のスターティングメンバーはゴールデンウィークのイレギュラーな日程も無関係ではなかった。ベースは先週の天皇杯のスタメンであり、おそらく鹿児島戦と宮崎戦の連戦を想定した準備をしていたと思う。出場した選手はこのチャンスを逃すまいと必死だっただろう。その情熱は確かに伝わった。いつもいつも、準備してきたことがうまくいくわけではない。

ただ、これは昨シーズンにも書いたが、あまりにも必死にプレーしすぎるが故に周りが見えなくなったり、セーフティすぎるプレーに終始してしまったりという傾向も見られた。「がんばる」だけでは勝てないのがフットボールだ。その点、後半から出場した岡田優希、田村翔太、田村亮介の3名のどこか遊び心がありつつ、相手を振り回すプレーぶりには、もはや貫禄すら見える。特に今日は田村亮介選手のプレーが素晴らしかった。あのターンの速さ、正確さは相手には脅威だろう。あれは「がんばる」とは対極の「遊ぶ」という類のプレーであり、適度に脱力できているからこそ生まれる俊敏さである。
チーム全体としても同様だ。今シーズンのこれまでの戦いぶりを振り返ってみると、相手に合わせてしまう試合はことごとく結果が出ていない。むしろ、チャレンジャーとして相手に挑みにかかる試合は実力以上の何かを発揮しているように思う。群馬戦、鹿児島戦がそうだろう。チャレンジャーとして試合に臨むことは、相手に合わせることと同義ではない。相手をリスペクトした上で、それ以上のものを出し切る必要がある。奈良クラブの選手たちは皆チーム戦術に忠実だ。しかしチームとしての約束事を守る「だけ」では勝利の女神の前髪を掴むことはできない。勝利の女神は、戒律を守ることだけを見ているのではない。むしろ、戒律からの解放を目指した者だけにこちらを向いてくれる。

観戦する僕たちはどうだっただろう。正直なところ、「1試合1試合を大切に」と言いつつ、僕自身が「これに勝ったら…」と目の前の試合に集中できていない挙動をしてしまった。シーズン終了のときのことを語るには、僕たちには「まだ」早い。この試合をもっと「愉しむ」ことに集中すべきで、試合の結果を求めすぎるあまり、消極的に見えるプレーにため息を漏らしてしまっていた。
「それは違うんじゃないか」と目を覚まさせてくれたのは、芝生席から届く子どもたちのチャントだった。彼らの声援は、シーズンがどうのこうという大人びた考えは一切なく、純粋に「この試合に全力を出せ」「勝つところをみせてくれ」という意志そのものだった。「おお、なんてやましいことを考えていたのだ」と反省し、僕もメインスタンドから手を叩いて応援をした。ちなみに、今日は雨を避けるためにスタンドの奥の方の席での観戦だったが、ちょうどベンチ外の選手たちの隣での観戦となった。選手たちは子供達の声援に思わず笑顔が溢れていた。きっと子どもたちの「愉しむ」という意志が伝わったのではないかと思う。

「遊ぶ」「愉しむ」は子どもの真骨頂だ。「子どもの日」に、おそらく忘れていた(浮かれていたとも言うが)、「子ども」の頃の感覚を取り戻すべきは、僕たち大人の側だったのかもしれない。ここで再びスアレスを引こう。彼のロナウジーニョについての記述。

しかし、どの選手もロナウジーニョとは一線を画す。
この陽気なブラジル人はすべてが即興だった。子供がストリートサッカーで石ころをかわしたり、ワンツーをしたりするのとまるで同じように、気ままで純近なまま。相手をのしてやろう、という気負いなど少しもない。子供がポールと戯れ、いつまでも楽しみ続ける、その延長でしかなかった。そういう大人のプレーは、他にお目にかかったことがない。
ロナウジーニョは子供に近い選手だった。これは奇跡なのだ。
ストリートはすべてが自由で、なにも背負っていなかった。ひたすらボールを追う。しかしながら、大人になるとそうはいかなくなる。プロとしての振るまい、集団としての規律、負けることへの恐怖、そしてライバルたちと間を軋ませるエゴ。自由にプレーする喜びを失い、無限に生じるはずのインスピレーションを忘れてしまうのだ。

同上

彼の著作を読み直して、フリアン監督の采配を何度も思い出した。彼はリスクを承知でバルセロナ的なトータルフットボールを志向した監督だった。「気持ちはわかるが、奈良クラブの選手にはちょっと荷が重いのではないか」という意見をよく聞いたし、実際自分もそう考えたこともある。しかし、おそらく彼にとっては、宗教的な価値観や美学的な思いから、それ以外の戦術でもって自身の思想を表現するということを許さなかったのだろう。スアレスの著作の節々にも、ある種の宗教的な価値観が見え隠れした。具体的に延べはじめると、もはや奈良クラブのnoteという範疇をこえるのでここでは控えるが、合理的な判断の裏にある非合理的な動機づけが確かに存在するのだ。加えて、そのフリアンの指導が一番身に染みているはずの山本の活躍というのは、フリアンの思想は一過性のものではなく、奈良クラブというチームの思想を貫徹するものであるということだろう。もちろん、中田監督にもそういう美学的な価値観はあるようだし、それはそれで尊重されるべきものである。もっと彼のそういう志向性を全面に出した方が奈良クラブがより奈良クラブらしいプレーを表現できるように思う。

立ち上がることこそ奈良クラブの真骨頂

むしろ、大人としてできることは、こうした非常に悔しい、感情的にはもって行き場のないような試合について、「面白く無かった」「忘れて次節に期待しよう」という感想で終わるその前に、「もっとこうすればよかった」「自分ならこうした」というふうに、話題にすることではないかと思う。この試合は、エンターテイメントとしては非常に満足度の低いものだったことは事実だ。お互いがお互いの良いところを消そうとし、それを超えるプレーは最終的には出なかった。唯一あったのは岡田優希の後半のシュートであり、宮崎の得点もミスに乗じたもので崩されたということではない(とはいえ、決め切った井上選手は素晴らしいと思う)。だからこそ、「自分ならどうした」「どこが良く無かった」「あの選手はよかった」というような話題にはしやすい試合でもある。勝つとそれどころではなく「宴会だ〜」となって(それはそれで幸せだけど)、試合内容自体はあまり語られないように思う。
結果的にミスになったプレーは國武だったが、それについては一切詫びる必要はなく、これからも思い切ったプレーを続けてほしい。彼のスーパーな活躍があったからこそ序盤の躍進ができたわけで、彼にはそれだけの期待が向けられている。全く下を向く必要はない。マルク・ビトもキャッチングの精度が上がっていたし、あわやというシーンもしっかりセーブできていた。キックの威力は健在で、相変わらず相手に脅威を与えている。

晴れのち曇り 時々雨 そんなときは
深呼吸して 愛を歌い 出逢いましょう

Polaris「深呼吸」

変な話だが、こうした敗戦を経験するたびに「もっと強くなってほしい」という気持ちになり、余計に奈良クラブを応援しようというモチベーションは上がる。特定のチームを応援する以上、全てに勝ち続けることは不可能だし、こうした敗戦を飲み込んでいかないといけない。どこかのチームをちゃんと応援している人なら、誰もが経験していることで、それを揶揄するようなことは決してないはずだ。チームというのは、勝利で伸びる部分と敗北から学ぶ部分があるように思う。この試合は「学ぶ」という部分の試合だった。もっと試合を楽しんでいきたいものである。

この試合前は、雨ということもありスタジアムに訪れたサポーターたちが割と狭い範囲で時間を過ごしていたため、普段なかなか話せない人とも交流をすることができた。奈良クラブの存在のおかげで、おそらく普通に生活していたら出逢わなかったたくさんの人たちと出逢うことができている。大人になると「今日サッカーしたいなあ」と思っても、早々友達が集められるわけではない。子供の頃はあんなに容易かったのに、今となっては時間もない。大人になれば友達は減っていくものだが、スタジアムに通うだけで友達が増えていくというのは、この年齢になれば不思議な感覚である。サッカースクールなども含めて、「子どもに戻れる瞬間」があることが、僕たちが日常を生きるために必要な空間なのだなあと思う。

なお、冒頭に引用した「コリント人への第一の手紙」の13のラストは、以下のように締められる。今日、声をあげて応援した子どもたちが大人になったときにも奈良クラブがあることが、一番の継承すべき財産である。どうか彼らの日常に奈良クラブがあることを願う。

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最もっとも大いなるものは、愛である

『新約聖書』「コリント人への第一の手紙」 13:13より