「みんな愛してるから」第一章 夏織⑦
次の日すぐに、文也は夏織が妊娠したことを上司に申し入れ、退職の旨を切り出した。夏織は彼の隣で、黙っているだけでよかった。
おめでとう、という祝福の声が、ぱらぱらと上がった。以前子供ができた職員に対しては、もっと皆、声を大に祝っていたのに。夏織は自分の評価が地に落ちていることを、改めて実感した。
話し合った結果、夏織は月末で退職することになった。あと二週間ほどの勤務だが、閑職に追いやられていたので、引き継ぐ業務も何もない。
週に何日かは出勤する必要があるが、残っている有給の消化に努め、文也の棲むマンションに引っ越しする準備にあてる。
夏織が「残り期間もわずかではありますが、よろしくお願いします」と頭を下げた後の、百合子の表情は見ものだった。
わなわなと唇を震わせて、充血した目で夏織を睨みつけてくる。その異様さに、近くにいた同僚たちは、彼女から距離を置いた。
彼らの目は、「もしかして、古河さんが百合子さんにやられたって言ってたの、本当だったんじゃないの?」と、百合子を疑う目になっており、やがてその空気は伝播し、課長にも伝わった。
課長は百合子から、夏織の悪評を散々に聞かされ、冷遇してきた張本人だ。
彼は咳払いをして、「とにかく、最後まで頑張って働いてくれ」とだけ言い残し、そそくさとその場を離れた。
課長を見送り、それから夏織は、百合子に再び視線を戻す。
百合子は青い顔をして、唇を噛みしめていた。二重あごがたるんでいて、その顔はとても醜い。
嫉妬に塗れた女を、夏織は見下した。鼻で笑いそうになって、じっと堪えた。
痩せてもっと魅力的な女になろうという努力もせず、大人しく自分の言いなりにできそうな文也に狙いを定めた、浅ましい女。
夏織との交際を知ったときに、大人しく諦めていれば、こんなに惨めな思いをすることはなかっただろう。
すべては彼女の自業自得だ。
夏織は微笑みを浮かべて、百合子から視線を外し、デスクに戻った。
現在文也が暮らしているマンションに移るだけなので、準備にそう人手はいらない。
そんな夏織の主張は通らなかった。妊娠してから、文也はとても過保護になった。まだ安定期じゃないんだから、と諭された。
「君や赤ちゃんに何かあったら、僕は何をするかわからないよ」
いつもと違う強い口調と真顔に、夏織は頷くことしかできなかった。百合子に傷つけられていたときも、似たようなことを言っていた。
万が一、妊娠に気づかないまま、百合子の嫌がらせによって流産していたとしたら、彼はその元凶である彼女を、どんな目に遭わせていただろう。ちょっと見てみたい気もした。
「ごめんね、明美。休みの日に手伝いに来てもらっちゃって」
「いいって」
食器を緩衝材で梱包しながら、明美は言った。他に手伝いを頼める友人などいなかった。
「宅配便で送るんだっけ?」
「そのつもりだったんだけれどね。文也くんが、知り合いから軽トラック借りてきてくれるって……あ、噂をすれば」
ピンポン、とチャイムが鳴った。ゆっくりと立ち上がり、夏織は彼を出迎える。
「どうぞ。まだ散らかってるけど」
室内に促すと、文也と明美が初めて対面する。明美は彼の顔を見て、何か言いたげな表情で、夏織を見た。
言いたいことはわかっている。改めて、文也が夏織の元彼たちとは全然違うのだと実感したのだろう。
ワイルドで性的なアピールに特化していた男たちは、恋人にするにはよいが、結婚相手としては信用できない。三十年近く生きてきて、文也と出会ってようやくわかったのだ。
幸せは、平凡とほぼイコール。結婚相手に危うさを求めてはならない。
「小野田明美です。夏織とは、大学時代からの友人で」
よろしく、と差し出された手を、文也は握った。
「浅倉文也です。夏織さんから、お話は伺ってますよ」
「あらやだ。悪口かしら?」
「明美!」
止めなければ、何を言われるかわかったものじゃなかった。鋭い一声に、明美は肩を竦め、鞄の中から財布を取り出した。
「どこ行くの?」
「そろそろお昼だから、買い出し。なんか食べたい物ある?」
それなら僕が行きますよ、と文也は言ったが、明美はにやにやと笑った。
「いいえ~。私、お邪魔虫ですから~」
そう言ってスタスタと部屋を出て行ってしまうものだから、夏織は文也と顔を見合わせ、苦笑する他なかった。
「なんというか……面白い人だね」
「マイペースなのよ。昔っから。よくも悪くもね」
洋服の海に埋もれたまま、夏織は明美の話をした。学生時代から今に至るまで、彼女の笑えるエピソードはたくさんある。その一つ一つを順を追って紹介すると、文也は声を上げて笑った。
会話をしながらも、文也の手は止まらなかった。不用品としてあらかじめ除けてあった物を、ゴミ袋に分別していく。
それを横目で見ながら、夏織は引っ張り出してきた洋服たちを吟味する。
しばらく働くこともないだろうから、これを機に、かっちりしたスーツの類は処分してもいいのではないだろうか。マタニティドレスも買わなければならないし、文也の家のクローゼットを占領するわけにもいかない。
洋服の仕分けに没頭している夏織の耳に、不用品と格闘している文也の「あれ?」という声が耳に入った。
「どうかした?」
「いや、夏織さん、喫煙者だったかな、と思って」
文也の手の中にあるのは、灰皿だった。
しまった。先に捨てておけばよかった。
だが、今更後悔しても遅いので、夏織は顔に出さないように努めて、笑顔で「ああ!」と言った。
「昔、よく泊まりに来てた友達がね。その子が持ち込んで、そのままになってるだけ」
「捨てていいの?」
「いいのよ。どうせ、もう取りになんて来ないわ」
決して嘘ではないが、罪悪感は残る。込み上げてきた苦い物を、ごくりと飲み下して、夏織はさっさと洋服の整理に戻った。
半分くらい分別が終わったところで、明美がコンビニから戻ってくる。はい、と渡されたのはビニール袋だけではなかった。
「これは?」
「帰ってきたら、郵便受けからはみ出てるのが見えたから、持ってきちゃった」
白い封筒には、切手もなければ、宛名もない。夏織は首を捻り、裏返してみたが、送り主の名前も書いていなかった。
「何かしら……」
直接投函された手紙に、不気味な予感がして、夏織は二人に覗き込まれないように、中身に目を通した。
一瞬だけ息を詰めて、それから夏織は、ビリビリに手紙を引き裂いた。小さく破いて、ゴミ袋にそのまま放り投げる。
そのあまりの素早さに、文也と明美は目を丸くしている。
「どうしたの?」
「何でもない。ただの、ダイレクトメールよ。それより早く、お昼にしましょ」
今度は明確に、嘘をついた。つき通さなければならない。
コピー用紙には、たった一言、こう印刷されていた。
『すべて知っている』
と。
いいなと思ったら応援しよう!
いただいたサポートで自分の知識や感性を磨くべく、他の方のnoteを購入したり、本を読んだりいろんな体験をしたいです。食べ物には使わないことをここに宣言します。