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【創作大賞2026応募作】【動画付短編小説】【JACK】─外伝 今日を生きる/鐘が鳴る(96)

冷えた朝だった。

比叡山はまだ霧に沈み、杉木立は白い海に溶けていた。
石畳だけが細く続いている。まるで誰かが残した、死者の道のように。

コツ……コン。

義足が地面を叩く。
仁は一人、霧の中を歩いていた。

昨日の言葉が、耳の奥にこびりついている。
「今日も依存症です」
老人は笑っていた。三十年断酒していても、依存症。
左脚はもう戻らない。エベレストも、仲間たちも、落ちていった者たちは帰らない。
それなのに、あの連中は笑っていた。

カツン。
義足が小石を弾く。冷たい反動が、幻の痛みを呼び起こす。

「気に入らんか」

声がした。
五島だった。煙草を咥え、杉の影のように立っている。

仁は鼻で笑った。
「気に入ると思うか」

五島は答えず、白い煙を霧に溶かした。

「三十年だぞ」
「何が」
「断酒だ」
「そうだな」
「三十年やっても依存症」

ゴォン──。

低い鐘の音が、杉木立を揺らす。

仁は吐き捨てるように言った。
「救いがない」

五島は肩をすくめた。
「知らんな」

「お前、そればっかりだな」
「本当に知らんからな」

五島は煙草を灰皿に押し付け、静かに続けた。
「だが……救いがないことと、生きることは別だ」

仁は顔をしかめた。
「綺麗事だ」

風が吹き、霧が流れた。
その向こうに人影が現れる。昨日の老人だった。竹箒を手に、ゆっくりと地面を掃いている。

「おはようございます」

老人は二人を見て柔らかく笑った。
「よく眠れましたか」
「眠れません」
「私もです」

箒の音が響く。
シャッ。シャッ。

「三十年経っても、眠れない日があります」
老人は平然と続けた。
「今でも飲みたいですよ」
「冗談だろ」
「本当です」

仁は言葉を失った。

老人は空を見上げ、霧の向こうに何も見えないことを知りながら微笑んだ。
「でも飲まない。今日はまだ朝だからです」

仁は思わず吹き出した。
老人も笑う。
五島は黙って煙を吐いた。

箒が止まる。
「私は酒でした」
「隣の人はギャンブルでした」
「薬物の人も、刑務所から来た人もいました」

シャッ。シャッ。

「みんな何かを抱えています」
「なくなりません。忘れられません」

ゴォン──。

老人は五島を見た。
「あなたは何ですか」

霧がゆっくり流れる。
遠くでホトトギスが鳴いた。
老人は急かさず、ただ待つ。

やがて五島は、低く答えた。
「死だな」

沈黙が落ちた。
仁が思わず顔を向ける。
しかし老人は驚かなかった。ただ静かに頷いた。
「ああ」

五島の方がわずかに面食らった顔をした。

老人は微笑んだ。
「私は酒でした」
「あなたは死ですか」
一拍。
「そんなに違いますか」

風が吹く。
鐘が鳴る。
誰も答えず、誰も否定しなかった。

老人は再び箒を動かし始めた。
シャッ……シャッ。

「だから今日だけです」

仁は義足を見下ろした。
重い。冷たい。借り物のようだ。
失った脚は戻らない。仲間たちも、エベレストも、死者は帰らない。

それでも。

急に、わけもなく、胸の奥に長く沈澱していた感情が、ざわめきながらこみ上げてきた。
理由などない。ただ、霧の冷たさと鐘の響きと、老人の笑顔が、凍えていた何かを溶かした。
痛みは消えない。
空虚も埋まらない。
だがその波が、確かに「まだ生きている」ことを突きつけてくる。

コツ。

仁は一歩を踏み出す。
コツ…。
もう一歩。

老人は振り返らない。
五島も何も言わない。

ただ鐘だけが響いている。

先は見えない。
ずっと見えないままかもしれない。
だが、見えないことと、歩けないことは違う。

コツ、
コオン…

死者の国から戻る道は、いつも霧の中にある。

遠くの雲が裂けた。
朝日が一筋、差し込んだ。
ほんのわずかに。
ほんの一筋だけ。

それで十分だった。

胸の奥のざわめきは、静かに、しかし確かに、朝の光へ溶けていく。

ゴォン──。

仁は歩く。
霧の向こうへ。
生者の側へ。

――続く

※Murekaで制作したオリジナルのイメージ音源です。読後の余韻としてお楽しみください。
(動画内BGMとしても使用しています)


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