見出し画像

【創作大賞2026応募作】【動画付短編小説】【JACK】─外伝 今日を生きる/灯【ひ】(97)


新宿、週末夜の繁華街。
時折、けたたましい嬌声だけが、遠い祭りのように響いていた。

雨が上がったばかりの路地裏は、湿ったアスファルトが街のネオンを鏡のように映していた。赤や青の光が水溜まりに滲み、足を踏み入れるたびに小さな波紋が広がる。

歌舞伎町の喧騒は、もう背中の向こうだった。
代わりに、路地を渡る湿った風だけが、雨の匂いを運んでいた。

飛鳥は一人で歩いていた。

仕事帰り。
人通りは少ない。
だが、気配はあった。

背後。
一つ。
二つ。
三つ。

足音。

飛鳥は振り返らない。
慣れていた。

人気商売は、好意だけを集める仕事じゃない。
愛された数だけ、恨まれることもある。

心臓の音が、少し速くなる。

角を曲がる。
前にも男がいた。
後ろにもいる。

逃げ道は塞がれた。

男が笑う。
「久しぶりだな」

飛鳥は顔を上げる。
見覚えがあった。
昔の客。
金を使った。勘違いをした。断られた。壊れた。
そんな顔だった。

男の目は濁っている。
飛鳥の胸の奥がざわつく。
あの夜の記憶。執着。罵声。そして、壊れた笑顔。

「お前のせいでよ」

飛鳥は答えない。

男が距離を詰める。
その瞬間。

腕が捻り上げられた。
鈍い音。
男が地面に転がる。

陽子だった。
手首を押さえ、逃げられない角度で固定している。息一つ乱していない。

男が呻く。
「警察かよ!」

陽子は冷たく見下ろした。
「だから何?」

男は言葉を失う。

警察手帳は見せない。

必要がなかった。

その夜は、

それで終わった。

――はずだった。

三日後。
再び雨の匂いが残る夜。

飛鳥は一人で歩いていた。

スマホが震える。
陽子からだった。

『今夜は一人で帰らないで』

飛鳥は小さく笑う。
『刑事さんは心配性ね』

返信は来ない。
だが、嫌な予感だけが残った。

歩きながら気づく。
人が多い。同じ顔。同じ視線。

車が止まる。一台、二台、三台。

若い男たちが降りてくる。目が死んでいる。
あの日の男の仲間だ。

逃げる。

だが角を曲がった先に、陽子が立っていた。

「こっち」

「知ってたの?」

「予想はしてた」

「なんで来たの」

「……仕事よ」

飛鳥は笑わなかった。陽子も笑わなかった。

男達が広がる。

十人近い。

陽子は飛鳥の前へ出た。

「警察気取りか?」

男が笑う。

「気取りじゃない」
陽子は答える。

別の男が吐き捨てた。
「仲間が捕まったんだよ」
「落とし前つけろ」

男達が距離を詰める。

陽子は携帯に触れる。
応援要請はしている。
だが、間に合わない。
それも分かっていた。

「その女を渡せ」

飛鳥が動こうとするのを、陽子が手で制す。
「下がって」

静かな声だった。
反論できない。

その時——

背後から声。
「水くせえな」

男達が振り返る。

南雲だった。
ポケットに手を入れ、退屈そうに立っている。

陽子が眉を動かす。
「……何でいるの」

南雲は肩を竦めた。
「それ、こっちの台詞」

男達の表情が、一斉に変わった。
誰も、声を出さなかった。

若い男が叫ぶ。
「ビビってんじゃねえ!」

南雲が視線を送った。
低い声。
「……帰れ」
感情はない。

男の足が止まる。

それだけで、誰も前へ出なくなった。

さらに、白いシャツが闇から浮かび上がる。
神宮寺だった。
「飛鳥」

飛鳥は苦笑する。
「みんな来ちゃったの?」

神宮寺は微かに笑った。
「来るだろ」

さらに奥。
煙草の火。
五島が立っていた。

男の一人が息を呑む。
「……あいつ」
「銃が効かない男だ」

空気が変わる。

南雲が一歩前へ出る。
「悪いが」
「今日は、お前らの夜じゃねえ」

遠くで、サイレンが聞こえ始める。

男達は顔を見合わせる。

そして、ゆっくりと後退した。

闇に溶けるように、姿を消していく。

雨の匂いだけが残った。

――その夜。

JACK。

湿った風が、扉の隙間から入り込む。
古い木の香りと、静かに混ざり合っていた。

神宮寺は、カウンターでグラスを磨いている。
五島は奥の席。煙草の火だけが浮かぶ。

南雲も、陽子も、飛鳥も、もう帰った。
静寂だけが残る。

神宮寺が口を開く。
「仁は?」

五島は煙を吐いた。
「山だ」
「まだいるのか」
「いる」
「どうしてる」

少し間。
「今日も飲んでないらしい」
「丸椅子に座ってる」

神宮寺は小さく笑う。

五島は笑わない。
「帰ってくると思うか」

長い沈黙。灰が落ちる。

五島は、静かに言った。
「戻る」
一拍。
「あいつは、まだ生きる側の人間だ」

さらに、小さく続ける。
「人間ってのはな」
「失くした足で、前より遠くまで歩くことがある」

神宮寺は何も言わない。
ただ、グラスを磨き続ける。

店の時計だけが、時を刻む。

比叡山の霧の向こうで、鐘が鳴っている気がした。ゴォン――。

夜は、まだ終わらない。
だが、朝を知った者はいる。

その時。
神宮寺は、グラスを磨く手を止めた。
扉のベルが鳴る前に、気づいていた。
来ると、分かっていた。

カラン。
扉のベルが鳴る。

神宮寺が顔を上げる。
美咲だった。
その後ろに、沙織がいる。

「帰るよ」
美咲が言った。

神宮寺は、少しだけ笑う。
「はいはい」

沙織が頬を膨らませる。
「はいはいじゃない」

五島は煙草を咥えたまま、目を閉じてフッと笑った。
「……帰る場所がある奴は、そう簡単には壊れねえよ」

紫煙だけが、 夜の湿り気に溶けていった。

店の灯りは、今日も消えない。

――第三部 完

今日は、お前らの夜じゃない。
雨の街に立っていたのは、
戦うための男たちじゃない。
誰かが帰る場所を、
守り続けてきた人間たちだった。
ネオンの光と雨粒が窓に滲む。
一本ずつの絆は、
やがて錦の織物になった。

──映像

※Murekaで制作したオリジナルのイメージ音源です。読後の余韻としてお楽しみください。
(動画内BGMとしても使用しています)

いいなと思ったら応援しよう!