「鏡の前の数秒を握った会社:L'Oréalが「試せない」を体験資産に変えた日」(DX決断録 52/100)
L'Oréalが守ろうとしたものは、化粧品売り場そのものではなかった。顧客が口紅を買う直前、鏡の前で「この色でいいのか」と迷う、その数秒だった。
美容品は、試さないと決められない。口紅も、ファンデーションも、ヘアカラーも、肌に乗せてみるまでわからない。だから美容業界は長く、ECとの相性が悪いと言われてきた。店舗、美容部員、鏡、テスター。これらが購買前の不安を受け止める装置だったからだ。
しかし、この不安を外部の小売やプラットフォームに任せ続ければ、顧客が買う前の判断材料を失う。かといって、自社ECへ振り切れば、Sephoraや百貨店、Amazonのような既存流通との関係を壊しかねない。L'Oréalが選んだのは、そのどちらでもなかった。流通を奪いに行くのではなく、流通の上に差し込まれる「試す・診る・薦める」サービス層を自社で握る。この境界線の引き方こそ、同社のDXの本質である。

Abstract
このケースは、「化粧品会社がARを導入した話」ではない。L'Oréalが向き合ったのは、顧客が買う前に発生する迷いを、誰が受け止めるのかという経営課題だった。店舗に閉じればオンラインで弱い。自社ECへ急げば小売との関係を壊す。外部プラットフォームに任せれば、顧客理解の主導権を失う。
分水嶺は2018年3月のModiFace買収である。L'Oréalは、口紅の新ブランドではなく、70人規模のAR/AI研究組織を買った。30本以上の特許と200本超の論文を持つこの会社をDigital Services Factoryの中核に置き、「試す・診る・相談する・買う」を自社のサービス層として組み替えた。
中国は、その設計が最も早く試された市場だった。2019年の35%成長は成功の証明になった一方、2021年のDouble 11価格保証問題は、ライブコマース時代の統制リスクも露呈させた。L'OréalのDXは、きれいな成功直線ではない。成長市場で実験し、失敗の火傷も含めて本社標準へ引き上げる仕組みだった。
最終的にL'Oréalが握ったのは、流通そのものではなく、購買前の意思決定レイヤーである。Sephoraで売られても、Amazonで試されても、Microsoft Teams上でメイクされても、診断・試用・推奨のソフトウェアは自社が設計する。美容部員をアプリに置き換えた
のではない。美容部員が担っていた「迷いを解く機能」を、あらゆるチャネルに差し込める体験資産へ変えたのである。
1. プロローグ:「試せない美容」という制約を、逆転した設計
美容品の購買には、固有の難題がある。口紅の色は、手の甲に塗っても「唇で見た色」はわからない。ファンデーションの肌なじみは、実際に塗ってみるまで確かめようがない。ヘアカラーの発色は、美容師に施術してもらって初めてわかる。スキンケアの効果は、数週間使い続けて初めて実感できる。
つまり美容業界の顧客接点は、商品棚だけで完結しない。顧客は商品を見ているのではなく、「自分に似合うか」「失敗しないか」「人からどう見えるか」という不安を見ている。この不安を処理してきたのが、店舗の鏡であり、美容部員であり、テスターだった。
ここにDXの分岐点がある。オンラインで売るだけなら、化粧品はただの在庫になる。外部プラットフォームに任せれば、顧客の迷いがどこで解けたのか、自社には見えなくなる。自社ECへすべてを囲い込めば、長年築いた小売との関係を傷つける。L'Oréalが読み替えたのは、「美容はオンラインで弱い」という通念ではない。「購買前の不安こそ、デジタルで資産化できる」という事業構造だった。
この逆転を可能にしたのは、技術への投資だけではない。「なぜこの技術に投資するのか」という問いへの答えが、1909年創業の会社の創業精神に根付いていたことが重要だ。新しいことを始めるのではなく、古い使命を新しい手段で届ける——その連続性こそが、L'Oréalの変革を一貫させた。
2020年、パンデミックで世界中の店舗が閉まったとき、美容業界は一斉にこの問いへ突きつけられた。鏡が消え、テスターが消え、美容部員との会話が消えたとき、顧客の迷いを誰が受け止めるのか。L'Oréalはすでに答えを持っていた。e-commerceは2020年通年で売上の26.6%へ急伸し、バーチャル試用が店舗体験の代替として機能した。Vogue Businessの分析によれば、e-commerceは失われた実店舗売上の50%以上をグローバルで相殺した。韓国では100%を相殺した。準備していたから吸収できた。では、その準備はいつから、どのような思想で積み上げられていたのか。
2. 科学者が作った会社:創業精神からCDO誕生まで
Eugène Schueller(ウジェーヌ・シュエレール)は化学者だった。1909年、彼は無害な毛染め製品「L'Auréale」を起点に会社を作った。美容を商品として売る前に、「科学で安全を証明した上で美容を届ける」という原理を最初から埋め込んだ。これが重要なのは、後年のDXが「創業精神からの逸脱」ではなく「創業精神のデジタル再表現」として解釈できるからだ。
AIによる肌診断も、ARによるメイクのバーチャル試用も、創業者の視点から見れば「科学的に正確な情報を顧客に届ける行為」の延長線上にある。処方の科学がデジタル化することで、インターフェースの科学になった。技術の形が変わっただけで、企業の使命は変わっていない——というのがL'Oréalの自己解釈であり、この解釈が長期の一貫性を生む基盤になった。
この創業精神が現代経営に接続されたのは、2014年のLubomira Rochet(ルボミラ・ロシェ)のCDO(Chief Digital Officer)就任だった。入社時点のe-commerce比率は売上のおよそ2%。7年間でこの数字を14倍以上に変えることになる人物は、自身の役割を「digital transformationをdrive and orchestrateすること」と定義し、全社変革の起点となった。
Rochetが最初に変えたのは、ウェブサイトでもアプリでもなかった。「意思決定の時間単位」を変えたことだった。リアルタイムで各国・各ブランドのデジタルマーケティング実績を把握できるデータ分析基盤を整え、各国マーケターの計画・投資判断を支えた。32,500人のアップスキリング、agile workingの全社展開、データ駆動マーケティングの構築——派手さの面では地味な工程だが、その後のBeauty Tech投資が機能するための「土台」を作る7年間だった。
同時期、GDPR(EU一般データ保護規則)という変化が業界全体を揺さぶった。多くの企業が「規制への対応」として受け取ったこの動きを、Rochetは「wake-up call」と表現した。巨大データプラットフォームの「exorbitant privilege(過剰な特権)」が終わり、広告ターゲティングへの依存構造の限界が見えた。L'Oréalが選んだ方向は、広告ターゲティングの延命ではなく、「消費者が自発的に使いたくなるbeauty servicesを作り、permission-based marketing(同意に基づくマーケティング)へ移行する」ことだった。
この転換の意味は大きい。「個人データを集めて広告精度を上げる」という回路から、「消費者が使いたいサービスを作り、そのサービスを通じて関係を始める」という回路への移行だ。商品を売る前に、接点を設計する。この思想が、2018年の大きな賭けへと繋がる。
3. 2018年3月の賭け:美容会社初のテック企業買収
2018年3月16日、L'Oréalは社史で初のテック企業買収を発表した。買ったのは、口紅の新ブランドでも、EC企業でもない。カナダ・トロントを拠点とするModiFace(モディフェイス)の100%取得だった。
巨大美容企業が買ったのは、顔の上で色がどう見えるかを計算する研究組織だった。従業員約70人。創業からおよそ11年。しかし数字の規模よりも重要なのは、その「中身」だった。30本以上の特許と200本以上の学術論文——これは玩具レベルのAR機能を開発したスタートアップではなく、美容に特化したAR/AIの学術的基盤を持つ研究組織だった。創業者のParham Aarabi(パーハム・アーラービ)は、顔の特徴量を精密に追跡し、現実的な色・質感・動きで再現する「beauty専用AI/AR」を構築していた。
L'Oréalの公式発表は、買収の意図を明確に示していた。ModiFaceを「Digital Services R&Dのheart(心臓部)」にする。Digital Services Factoryに組み込み、Advanced Research(先進研究部門)と密に連携させる。トロント拠点は維持する。外部スタートアップを「吸収して消す」のではなく、研究ネットワークの一極として残す、という選択だった。
Aarabi自身は、この買収について「unprecedented scale(前例のない規模)でbeauty AR/AIを進める機会」と表現した。買収発表時点のL'Oréalは34の国際ブランドを抱え、2025年時点では40のグローバルブランド、150カ国超の展開規模を持つ。研究と製品のポートフォリオがModiFaceの技術と結びつくことで、初めて実現できる規模があった。小さな研究組織の技術が、巨大なブランドポートフォリオという「増幅器」を手に入れた瞬間だった。
この買収が何を意味するかは、同年5月のViva Technology(パリのテックイベント)での展示を見るとより鮮明になる。L'Oréalはここで、ModiFace買収後の活用方針を具体的に示した。ARによるメイクのリモートチュートリアル、スマートミラーとの連携による肌診断、L'Oréal Professionnelの3D ヘアカラー試用、中国のAlibabaと連携したTmall直結の音声対応ミラー、SkinCeuticalsによるカスタムスキンケア処方——これらはすべて、買収からわずか2カ月後の展示だった。
「試す・診る・相談する・買う」という一連のサービス群が、このイベント時点で提示されていた。これは単なるAR試着の拡張ではない。店舗の鏡、美容部員の助言、肌診断、商品推薦という購買前の機能を、ソフトウェアとして束ね直す構想だった。ModiFaceは「機能を買った」のではなく、「体験設計の思想を持つ研究組織を買った」と解釈するべきだ。
2020年1月のCESでは、Perso(パーソ)が公開された。AIを搭載した在宅型パーソナライゼーション機器で、CES時点では第1弾としてスキンケア機能を披露し、リップスティックとファンデーションは後日展開予定とされた。Hieronimusは「Beauty Techリーダーシップへの次の一歩」と位置付け、Technology Incubator責任者のGuive Baloochは「使うほど賢くなる」と説明した。物理デバイスとして「診断→処方→デバイス→ブランド体験」を完結させる試みは、仮想空間のサービスを現実の生活の場にまで延長するものだった。
この2年間(2018〜2020年)で、L'Oréalのデジタル変革は質的に変わった。「ECでも買えるブランド」から「どこにいても試用・診断・推奨を届けるサービス企業」への転換が、製品と組織の両面で始まった。化粧品をオンラインに載せるのではない。顧客が買う前に必要とする判断材料を、オンラインにも、店頭にも、外部プラットフォームにも持ち運べるようにする。この発想の差が、その後の競争力を決めていく。
4. 中国という最前線:35%成長が証明した実験場の設計
L'Oréalにとって中国は、単なる成長市場ではなかった。DXの先行実験場であり、組織人材の供給源でもあった。
2018年9月、ModiFace買収から半年後、L'Oréalは中国で重要な提携を深めた。Alibaba GroupのTmallとC2B(Consumer to Business)モデルの深化提携を発表し、6億人超の顧客基盤を活用した商品設計の実験を開始した。「顧客のデータから商品を設計する」という発想を、ECプラットフォームと組み合わせて具体化した動きだった。
翌2019年、中国L'Oréalは35%成長、15年で最高の業績を記録した。ライブストリーミング、C2B、AI診断、3D試用、スマートサプライチェーンが組み合わさった結果だった。この成果は、2019年12月のAlibabaのGrand ONE Business Awardとして対外的に認められた。当時の中国CEO Fabrice MegarbaneはこのAward受賞時に「beauty and digital are a perfect match(美容とデジタルは完璧な組み合わせだ)」と述べた。
この発言の意味は、単純な称賛ではない。「美容は体験が重要だからオンラインで弱い」という通念を、「だからこそデジタルが介在することで体験価値が最も高まる」として実証したという確認だった。中国でのモデルが、グローバル戦略の設計思想を検証した。
Jean-Paul Agon CEO(当時)は、中国を「L'Oréalがbeauty tech最前線に立てる市場」と位置付け、「中国発イノベーションが世界へのインスピレーションになる」と明言していた。これは「中国市場向けの特別対応」ではなく、「中国で実験したモデルを世界標準に引き上げる」という明示的な設計だった。
この設計の最大の産物が、Asmita Dubey(アスミタ・ドゥベイ)の本社登用だった。中国およびアジア太平洋でマーケティングとデジタル変革を担い、Alibaba・Tencentとの初期の共同事業パートナーシップを築いたDubeyは、2021年4月にGroup CDOとしてExecutive Committee(経営委員会)入りした。発表文では「phase two of its digital transformation(デジタル変革の第二フェーズ)の責任者」と位置付けられ、AIやzero-party data、social commerce、直接顧客関係の構築を軸としたオンライン/オフラインの加速が期待された。中国・APACのマーケティング/デジタル変革で培った知見が本社の標準になる——この組織設計の柔軟性が、L'Oréalのイノベーションサイクルを他社より速くしている理由の一つだ。
ただし中国での経験が示したのは、成功の可能性だけではない。むしろここで、L'Oréalはサービス層を広げることの怖さも味わった。
2021年11月のDouble 11(中国最大のショッピングイベント)で、Li JiaqiとViyaという2人の有力ライブコマース配信者との間で、保湿フェイスマスクの価格保証をめぐる問題が生じた。異なるチャンネルで異なる優待価格が提示されたことを、両陣営は「視聴者に不公平」として是正を要求し、協業停止を示唆した。L'Oréalは「複雑な販促メカニズムで迷惑をかけた」と公式に謝罪した。
この出来事は、小さな販促ミスではない。顧客接点を増やせば増やすほど、価格、表示、推奨、インフルエンサー、EC、ブランド公式の整合性を同時に管理しなければならない。ライブコマースは売上を爆発的に拡大する力を持つが、複数のチャンネル間で価格・表示を整合させる統制は難しくなる。social commerceの強さと脆さは表裏一体だ。
だから中国は、単なる成功市場ではなかった。成長のアクセルであると同時に、チャネル統制リスクを先に発見する実験場でもあった。成功体験だけでなく、この種の「火傷」を本社標準へ持ち帰るところに、L'Oréalの実験設計のしたたかさがある。
5. 技術は共通、文法は別々:4ブランドが使い分ける「同じ基盤」
L'Oréalには4つのDivision(部門)がある。Consumer Products(マス向け)、Luxe(高級)、Dermatological Beauty(皮膚科学)、Professional Products(サロン向け)だ。DXの設計で最も注目すべき点は、同じBeauty Tech基盤が4 Divisionを横断しながら、各ブランドで「体験の文法」が均質化されていないことにある。
Maybellineのケースを見る。2023年7月、MaybellineはMicrosoft Teams向けに仮想メイク機能を展開した。Teamsのenterprise license利用者向けに、12種類の仮想メイクをワンクリックで適用できる仕組みで、ModiFace AIを活用し、Geena Davis Instituteとの協業で多様な表現にも配慮した。マス向けブランドの文法は「大量到達・低摩擦・誰でもワンクリックで使える」だ。自社ECではなく、相手のプラットフォームの中でBeauty Techを届けることが、この文法の表れだった。
YSL(Yves Saint Laurent)Beautéは同じ「パーソナライゼーション」の概念を、まったく別の文脈で表現した。Rouge Sur Mesure by Persoは「何千通りものカスタムリップ色を作れるluxurious, smart home device(贅沢な、スマートなホームデバイス)」として定義された。MaybellineがTeamsというビジネスの場で「誰にでも」届けるなら、YSLは自宅という私的空間で「この人だけのために」処方する。同じ技術が、高級品の文法に翻訳された。
LancômeはHAPTA(ハプタ)でアクセシビリティという軸に向かった。腕や手の可動制約がある人向けに設計されたメイクアプリケーターは、2023年に初披露され、2024年CESで改めて前面に出された。Deputy CEO Barbara Lavernosは「beautyの未来はfully inclusiveでaccessibleでなければならない(完全に包括的で、誰でもアクセスできるものでなければならない)」と述べた。LancômeはDXの文脈を、「誰でも美容を楽しめる社会」という社会的な使命へ接続した。
この3つの対比が示すことは明確だ。L'Oréalは「プラットフォームを統一してUXを均質化する」のではなく、「基盤技術を共通化しながら、各ブランドのDNAに合わせた体験を設計する」という選択をしていた。Maybellineが「民主化」、YSLが「高級パーソナライズ」、Lancômeが「高精度・アクセシビリティ」という使い分けは、同じBeauty Techの思想と技術ポートフォリオから生まれている。
競合他社はどこか一つの軸では強くなれる。しかし4 Divisionを横断しながら、それぞれのブランド文法に合わせた同時展開をする設計力は、規模・研究・ブランド多様性のすべてが揃ったL'Oréalの構造的な差別化だ。「美容体験の共通OS」を持ちながら、その上で動くアプリケーションを各ブランドが独自に設計しているのである。
6. パンデミックという証明:準備していた者だけが吸収できた
2020年、世界中の美容カウンターが閉まった。試用体験の場がなくなり、対面の肌診断ができなくなった。美容業界が長年「オンラインでは試せない」という弱点を持ち続けてきた事実が、かつてないかたちで問われることになった。
L'Oréalにとって、2020年は「準備の答え合わせ」だった。
e-commerceは2020年通年で売上の26.6%へ急伸した。Rochetは「e-commerceはずっと私たちの戦略の一部だったが、その規模感は…壮大なものだった」と後に振り返った。バーチャル試用が店舗体験の代替として機能し、診断サービスが自宅でも受けられるようになった。Vogue Businessの分析では、e-commerceはグローバルで失われた実店舗売上の50%以上を相殺し、韓国では100%を相殺した。
この対応ができたのは、2014年から積み上げた土台と、2018年のModiFace買収があったからだ。Virtual Try-onや診断サービスを複数ブランド・複数Divisionに展開できる状態になっていなければ、パンデミック下での急速な顧客対応はできなかった。意思決定の時間単位を変えた組織設計がなければ、急速な変化に追随できなかった。2014年から6年かけて積み上げたものが、2020年に初めてその意味を証明した。
2021年には、「e-commerceが売上の50%になっても対応できる準備がある」という段階に達していた。Rochetの担当を引き継いでCDOとなったAsmita Dubeyは、「digital is now fully embedded in all divisions, all countries(デジタルは今や全Division・全国において完全に組み込まれた)」と述べた。中央のデジタル組織という「特別な部門」から、会社全体の「OS」へと移行が完了したことを示す言葉だった。
パンデミックによる証明は、単に「危機に強かった」という話ではない。「試せない美容をデジタルで試せるようにする」という問題設定が正しかったことを、市場が強制的に確認したプロセスだった。2020年以降、競合他社も仮想試用やオンライン診断への投資を加速した。しかしL'Oréalは2014年から、競合が追いかけ始めた時点で既に6年以上の先行優位を持っていた。
7. 美容OSとしての戦略:接客ソフトウェアの主導権を離さない
2021年はL'Oréalにとって組織の転換点でもあった。Jean-Paul AgonからNicolas HieronimusへのCEO継承が完了した。
取締役会は18カ月以上の後継者選定の末、「channels、countries、categories を横断してbeautyを理解し、teamsをengageできる人物」としてHieronimusを選んだ。彼は1987年入社後、Garnier・L'Oréal Paris・メキシコ・Professional Products・Luxe・Selective Divisionsを歴任した内部昇格型マーケターだった。純テック出身ではなく、ブランドと市場を横断的に理解するマーケターが、DX第2フェーズのCEOに就任した——この人事が示すのは、L'Oréalがデジタル変革を「テック施策」ではなく「事業全体の経営課題」として位置付けているということだ。
同時に、Barbara Lavernosが研究・技術側の副CEO(Deputy CEO)として就任した。CEOにはブランド×市場の横断的理解を持つマーケター、副CEOには研究と技術の統括者を配置する——DXをマーケティング部門だけに閉じない設計が、人事に反映された。
2023年、バックエンドの再設計が本格化した。9月にDatabricksのLakehouse採用を発表し、「問い合わせから購買、配送、ケア、オンラインからオフライン」という顧客旅程のデータを一つの基盤に統合した。「Consumer 360」と表現されるこの統合は、接点ごとにバラバラだった顧客理解を束ねる工程だった。
2025年1月には、L'Oréal Tech AcceleratorがGoogle Cloud上に再利用可能なMLOps(機械学習の実装を工業化するフレームワーク)基盤を構築・公開した。AI実装を「一回作って終わり」ではなく、「再利用・反復・改善」できる仕組みにするための投資だった。同年6月には、NVIDIA AI Enterpriseを活用し、CREAITECHの3Dレンダリング拡張や、NoliのAI Refinery構築など、AI開発・展開基盤を強化した。
こうした「表の接点(バーチャル試用・診断・推奨)」と「裏の基盤(Lakehouse・MLOps・生成AI)」が2023〜2025年に接続されたことで、L'Oréalのシステムは単なるEC機能から、顧客理解を蓄積し続けるプラットフォームへと変質した。
2025年末の数字は、この変質の結果を示している。e-commerce売上比率30%、Beauty Techサービス利用1.2億回超、digital・tech・data人材8,000人超、65,000人超が生成AIで再教育された。R&I(Research & Innovation)投資は13億ユーロ超であり、研究開発・データ・AIをまたぐ形でBeauty Techを強化している。2026年Q1の業績は売上121.52億ユーロ、報告ベース+3.6%、既存成長+7.6%、調整後既存成長+6.7%で再加速した。香水・ヘアケア・e-commerceが牽引し、Hieronimusは「e-commerceのリーダーシップが、最も成長しているチャンネルに集中投下する力をくれている」と述べた。DXが高成長局面で再び加速装置として機能している、という確認だった。
この会社の本質的な設計思想は、「どのブランド、どの価格帯、どの流通にいても、接客ソフトウェアと顧客理解の主導権を離さない」という一点に尽きる。Sephora(選択小売)を経由して売られても、Amazonを経由して売られても、Microsoft Teamsの画面上で試されても、「発見・試用・診断・推奨」という体験のソフトウェアは自社が設計・提供する。
美容部員をアプリに置き換えたのではない。美容部員が担っていた「迷いをほどく機能」を、チャネルをまたいで再配置したのである。流通を囲い込むのではなく、どの流通にも自社のサービス層を差し込む——この設計が「美容版OS戦略」の正体だ。
競合他社の状況は、この設計の独自性をより際立たせる。Estée Lauder CompaniesはFY2025通年のorganic net salesが8%減、同年第4四半期は13%減だった。ただし2026年5月発表のFY2026第3四半期では2%増に戻っており、再建途上と見る方が正確である。Shiseidoは中国低迷の影響を受け、2024年通期利益が73%減となった。公開情報上、L'OréalほどBeauty Techを全社横断・複数ブランド規模で開示している競合は限られる。
ODDO BHFのアナリストPierre Tegnérは、パンデミック下のL'Oréalを「digital champion(デジタルチャンピオン)」と評した。Ortelli & Co.のMario Ortelliは、パーソナルラグジュアリー領域でbeautyはe-commerce浸透率が最も高いカテゴリーだと指摘し、BernsteinのBruno Monteyneは、美容はソーシャルメディアと相性がよいと述べた。「試せないカテゴリー」が、デジタルとの相性で「最も有利なカテゴリー」に転換された——業界外のアナリストがこの転換を確認している。
8. 教訓と未来への示唆 — 4つの法則
L'Oréalのケースから抽出すべきなのは、「美容企業がデジタルに強かった」という称賛ではない。顧客接点をすべて所有できない会社が、どこだけは譲らないかを決めるための4つの観点である。
第一:創業精神のデジタル再表現として変革を設計する
最も陳腐化しにくいDXは、「新しいことを始める」のではなく「創業以来の使命を新しい手段で届ける」という再表現だ。L'Oréalにとって「科学で安全を証明し美容体験を届ける」という原理は、ARによる試用も、AIによる診断も、同じ延長線上にある。技術投資の選択基準は、流行ではなく、企業の使命をどう再表現するかに置かれていた。
第二:実験場と本丸を分けてリスクをとる
中国での先行実験→本社標準化という構造が、L'Oréalのイノベーションサイクルを加速させた。Asmita Dubeyの登用は、この設計の象徴である。中国・APACで得た知見を本社CDO職へ接続する人材循環は、知識を地域に閉じ込めず、全社標準へ引き上げる仕組みだった。実験場と本丸の設計を意識していない組織は、失敗のリスクをどこに置くかを語れない。
第三:流通排除ではなく「サービス層の掌握」を優先する
L'Oréalは小売パートナーを排除しなかった。Sephora(選択小売)との「構造的緊張」はありながらも、「選択小売を生かしつつ、サービス層だけは自社が持つ」という形で管理した。これは小売との妥協ではない。流通統制より、購買前体験の主導権を優先するという積極的な戦略だった。
第四:技術を共通化し、体験文法を分離する
ModiFace、Databricks、Google Cloud、NVIDIAなどの技術基盤・パートナーを組み合わせながら、MaybellineはTeams(民主化)、YSLはパーソナライズデバイス(高級化)、LancômeはHAPTA(アクセシビリティ)という異なる文法で展開する。基盤は共通化し、体験は分離する。この両立が、同社の競争優位の核心にある。
L'Oréalの次の一手は、生成AIの本格商用化だ。Google CloudのMLOps・NVIDIAとのCREAITECH/Noli・Databricksによる顧客旅程統合が、接客AIの再利用性と精度を高める方向に向かっている。また、2026年3月31日のKering Beauté買収完了により、ラグジュアリー側の配管をさらに強化した。これはDXとは別軸の動きだが、接客ソフトウェアが乗る「ブランドの基盤」が厚くなることを意味する。
1909年創業の化学者の会社は、今なお「科学が美容の中心にある」という原理を変えていない。変わったのは、その届け方だ。処方からインターフェースへ。研究室から顧客の手のひらへ。店頭の鏡から、顧客が買う直前の判断画面へ。
「試せなかった美容」は、今や「最も試せる美容」になった。だが本当に重要なのは、試せるようになったこと自体ではない。試せるようにした会社が、顧客の迷いを解く場所を握り続けていることだ。あなたの会社は、流通を握れなくても、顧客が決める前の何を握れるだろうか。
参考資料(時系列)
1909年 — Eugène Schueller創業。毛染め製品「L'Auréale」を起点に、科学起点の企業原理が誕生。
1963年 — 上場。M&Aを通じたブランド多層化が本格化。
2006年 — Jean-Paul Agon CEO就任。「Beauty for all」へ転換、デジタルを経営テーマへ引き上げ。
2014年 — Lubomira Rochet CDO就任。e-commerce比率2%台から全社変革開始。
2018年3月 — ModiFace 100%買収。L'Oréal初のテック企業買収。Digital Services Factoryのコアへ組み込む。
2018年5月 — Viva Technology(パリ)にて、試す・診る・相談する・買うを一連サービスとして展示。
2018年9月 — Alibaba/TmallとC2B深化提携。中国を「データ駆動の商品企画実験場」として活用開始。
2019年 — 中国で35%成長・15年最高。AI診断・3D try-on・C2B・ライブコマースが拡大。
2019年12月 — AlibabaのGrand ONE Business Award受賞。中国DXの成果が対外的に認知。
2020年1月 — CESでPerso公開。第1弾としてスキンケア機能を披露し、リップスティックとファンデーションは後日展開予定とされた。
2020年通年 — e-commerce比率26.6%へ急伸。パンデミック下でDXの事業価値が証明。
2020年10月 — AgonからHieronimusへのCEO継承計画公表。chair/CEO分離方針も提示。
2021年4月 — Asmita Dubey CDO就任。Phase 2のデジタル変革責任者として登用。
2021年5月 — Nicolas Hieronimus CEO就任。Barbara Lavernos副CEO(研究・技術)就任。
2021年11月 — Li JiaqiとViyaをめぐるDouble 11価格保証問題。social commerceにおける価格統制リスクが顕在化。L'Oréal公式謝罪。
2023年7月 — MaybellineがMicrosoft Teams向けに仮想メイクを展開。Beauty Techが自社EC外へ。
2023年9月 — Databricks Lakehouse採用。顧客旅程データ(問い合わせ〜配送〜ケア)を統合。
2024年CES — HAPTAとSkin Screenを前面化。アクセシビリティをBeauty Techの次の定義として提示。
2025年1月 — Google Cloud上のMLOps基盤を公開。AI実装の工業化・再利用性の向上へ。
2025年6月 — NVIDIAと連携。CREAITECHの3Dレンダリング拡張やNoliのAI Refinery構築など、AI開発・展開基盤を強化。
2025年末 — e-commerce 30%・Beauty Techサービス1.2億回超・digital/tech/data人材8,000人超・R&I 13億ユーロ超・65,000人超が生成AI再教育。
2026年3月31日 — Kering Beauté買収完了。ラグジュアリー側の配管拡張。
2026年Q1 — 売上121.52億ユーロ、報告ベース+3.6%、既存成長+7.6%、調整後既存成長+6.7%。e-commerce二桁成長継続。
参考文献
L'Oréal公式「L'Oréal History」— https://www.loreal.com/en/group/culture-and-heritage/l-oreal-history/
L'Oréal Finance「Governance」— https://www.loreal-finance.com/eng/gouvernance
L'Oréal公式「Executive Committee Members」— https://www.loreal.com/en/group/governance-and-ethics/comex-members/
L'Oréal Finance「Succession Announcement: Jean-Paul Agon to Nicolas Hieronimus」(2020-10-14) — https://www.loreal-finance.com/eng/news-release/loreal-announces-succession-jean-paul-agon-chief-executive-officer-1-may-2021
L'Oréal公式「Executive Committee Nomination: Asmita Dubey」(2021-04-22) — https://www.loreal.com/en/press-release/group/loreal-executive-committee-nomination-asmita-dubey/
L'Oréal公式「Interview: Lubomira Rochet on Digital Transformation」(2021) — https://www.loreal.com/en/news/group/navigating-a-world-of-constant-transformation-is-a-permanent-revolution--interview-with-lubomira-roc/
L'Oréal Finance「Annual Report 2025」(2026) — https://www.loreal-finance.com/en/annual-report-2025/
L'Oréal Finance「Annual Report 2025: Financial Performance」(2026) — https://www.loreal-finance.com/en/annual-report-2025/financial-performance/
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The Moodie Davitt Report / BW Confidential「Beauty Tech Live: L'Oréal」(2021-04-12) — https://ezine.moodiedavittreport.com/the-moodie-davitt-ezine-295/beauty-tech-live-loreal/
Reuters「L'Oréal Quarterly Sales Up on Growth in US and Emerging Markets」(2026-04-22) — https://www.reuters.com/business/loreal-quarterly-sales-up-67-growth-us-emerging-markets-2026-04-22/
Reuters「L'Oréal Shares Rise on Strong First Quarter」(2026-04-23) — https://www.reuters.com/business/loreal-shares-rise-5-pre-market-trade-after-strong-first-quarter-2026-04-23/
TechNode「L'Oréal's Livestreamer Spat with Li Jiaqi and E-Commerce」(2021-11-29) — https://technode.com/2021/11/29/loreals-livestreamer-spat-li-jiaqi-e-commerce/
Yicai Global「L'Oréal Apologizes for Complicated Double 11 Promotion after Influencers Cut Ties」(2021-11-18) — https://www.yicaiglobal.com/news/loral-apologizes-for-complicated-double-11-promotion-after-influencers-cut-ties
L'Oréal China公式 — https://www.loreal.com/en/china/
上海市英語公式サイト「L'Oréal China R&I Center 20th Anniversary」(2025-06-03) — https://english.shanghai.gov.cn/en-Latest-WhatsNew/20250603/8d7b0581bd9643e7a03862edd9d1cd0e.html
澎湃新闻「L'Oréal Shanghai R&I Center Interview」(2021-10-12) — https://m.thepaper.cn/newsDetail_forward_14867324
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