親育ては子育て
五十歳を軽く過ぎるまでずっと、どうしてこんなに生き辛いのだろう、という思いと共に生きてきた。
幸い、出会ってくれた沢山の人達のお陰で、そのしんどさとは数年前にオサラバすることが出来た。今はそんな時期があったことも、懐かしい思い出に変わろうとしている。
それでも時折、あの時期はなぜ、あんなに苦しみ続けていたのだろう、と考えることがある。
今は、親が毒親だったからとか、容姿が今一つだったからとか、といったことは関係なかった、と断じることができる。
煎じ詰めると、偏に自分が『成功は是、失敗は非』と考えていたから、頭の芯の方までその考えに支配されつくしていたからだと思う。
何故そういう考え方になったかと言えば、そう考えるように育てられたから、としか言いようがない。
例えば子供が走ってくると、私の親のような親は躓く前に
「走ったら躓きますよ。躓いたらこけますよ。こけたら膝をすりむいて痛いから、走ってはだめですよ」
と言う。
走って、こけて膝をすりむき、痛い思いをする、という子供の経験を、親が言葉で奪ってしまう。
結果、子供は走ることと痛みとの因果関係を言葉でのみ知る。更に走ることに対して、理由の分からない恐怖心だけを抱くことになる。
そして『失敗』という貴重な経験をすることが出来ないまま、ビクビク育つ。
親としての理想の姿はこちらだ。
最低限の危険はないように注意しながら、走ってくる我が子を口出しせずにただ見守る。
子供が躓く。こける。膝をすりむく。痛みで泣く。
知識としてその流れを知るのではなく、こうしたらこうなる、ということを子供が実際に全て体験する。これだけでも口出しするより数万倍、子供の為になっている。
この時に親が子供にかけるべき言葉は何か。
「ほら、だから言ったでしょう。お母さんの言うこと聞かないから」
ではない。
「痛かったねえ、よしよし。今度からは気をつけるんだよ」
である。
「痛かったねえ」
ただ素直に共感し、心で寄り添う。
子供と同じ目線で話し、君の痛みを理解しているよ、と呼びかける。
「よしよし」
危ないことをしてしまった結果、痛い思いをすることになってしまった。更に、涙を振り飛ばして大きな声で泣くという、傍目に恥ずかしい行為をすることにもなった。それでも自分は許され受け入れられるんだ、と安心させる。
とてもとても大切なことだ。
「今度から気をつけるんだよ」
今回は失敗してしまったね。でも軽はずみな行動を取れば、こんな目に会う、ということが分かったね。今度からは失敗しないように出来るよね。
子供に学びの機会があったことを静かに喜び、次回にはきっと上手く出来るよ、と背中を押す。失敗したことを責めず、『次があるさ』と未来に希望を持たせる。
どれも外せない、子供の成長にとって必要な言葉である。
だから『失敗させないのが是』ではない。
けれど親というのは失敗させるのが怖い生き物である。
それは多くの場合、親もその親に『失敗は非だから、そうさせないように』と育てられてきたからである。
例外がない、とは言わない。しかし親はカワイイ我が子を守りたい。傷つけたくない。怖い思いをさせたくない。笑っていて欲しい。
愛ゆえの親心が子供を縛り付けるのは、皮肉な話である。
失敗させたくない、という親の愛には嘘偽りがない、とは思う。
しかし自分の人生を生きてくることが出来なかった親は、往々にして我が子の世間的表面的な安寧を、自分の生きるよすがにしがちである。愛ゆえに子供を縛りつけてしまう。
そのことに親自身が気付いて子供と適切な距離を取るか、または子供が気付いて親の干渉を拒絶するかしないと、子供は自分の人生を生きられなくなる。
親と同じように。
『世間体』は『一般人』と思われる数多の人の、曖昧な『当たり前』で出来ている。
でも人は一人一人みんな違う。違えば『当たり前』も違って当然だ。
自分や他人を粗末に扱うことは許されないが、最低限それさえ守っていれば、『世間体』なんて子育てには不要である。
そうは言っても、我が子が他人様に迷惑をかければいたたまれない気持ちになるのは事実。
そのいたたまれなさをグッと堪えて、何があってもどんとこい、ワシがお前を守ってやる、と両手を広げて我が子を迎え入れることが出来れば、子供にとって最高の親だと言えるんじゃないか。
例え子育てに失敗したと思っても、親が自分の人生を生きることは何歳からだって出来る。
親が自分をごまかさず、生きることに一生懸命になれば、子供は何歳からでも自動的に、うまい具合に育っていく。子育ての失敗なんて、生きてる限りいくらでも挽回できる。
『子育ては親育て』ではなく、『親育ては子育て』なのだと思う。
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