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記号から漢字へ〜ヒロシマ、ナガサキ、オキナワ、フクシマ

昨日は、広島に原爆が落とされて80年目であった。戦争というものの中では、いのちがあまりに小さな存在にされていて、ときどき、あまりに日常的にニュースになっていると、それすら麻痺してしまって、一緒にいのちを粗末にしてしまっている。

昨日の広島平和記念式典を観ながら、そのときに亡くなった一人ひとりに思いを馳せた。

7歳と10歳の我が家の子が「なんでこんな番組見るの?」という反応であったので、かいつまんで原爆のことと、戦争でたくさんの人が亡くなったことを伝えた。
こうして日本の戦争を振り返るのは、亡くなった人たちを思う時をもつためだと伝えた。

思えば実家には「かわいそうなぞう」「ひろしまのピカ」など、読むのもトラウマになりそうな絵本がいくつかあり、しばしば開いていた。
とくに「ひろしまのピカ」は丸木俊さんの絵が心の奥の方までずずんと流れてきて、原爆のもたらしたものが私には刻み込まれている。

そういう体験を、子どもにさせてこなかったことを昨日、悔いた。

ところで昨日、テレビで「ヒロシマ」とカタカナ表記されていたことに対して、ちょっと思うことがあった。

ヒロシマ、ナガサキ、オキナワ、フクシマ。

忘れてはいけない出来事のために、カタカナ表記はよくされる。「◯・◯◯」と、日付を忘れないための表記もある。

そういうものだと思っていたし、それ以上あまり考えなかったけれど、初めて強烈に違和感を抱いたのは「フクシマ」であった。

ライターをしていた私は、福島の事故が起きる前から「原発」に対してよくないイメージを抱いていた。

人が多くない地域に、お金と引き換えに危険なものを作る国の姿勢。使用済み核燃料のその後の行方。

2011年に福島の第一原発が地震と津波で水素爆発を起こして大ニュースになったとき、「フクシマ」という言葉がメディア、市民活動家の中で使用され、記号のようになった。

当時東京にいた私にとって、「フクシマ」は恐ろしい場所のように映った。
危険な放射線にまみれた、かわいそうな土地。追われる人々は気の毒。

そういった記号である「フクシマ」しか感じていなかったのだ。

それから2年のうちに、家族で福島県に引っ越した。

夫の仕事が福島になったからだった。

住み始めてすぐ、「フクシマ」は「福島」になった。
福島の野菜は、それまで食べたどんな野菜より美味しく、空気はどこまでも澄み、米は甘くて美味しかった。
人々は優しく、あたたかい。

引っ越した年にBBQに誘われて行った場所で、電気もなく暗くなった夕暮れの中を「カナカナカナ⋯」とヒグラシの声が響いて、「いいところに引っ越したなぁ」としみじみ思ったのだった。


記号で感じた「フクシマ」には色をなくした地面、死の雰囲気が土地を覆うような冷たさすら漂っていたけれど、「福島」には血が通ってあたたかさがあった。

放射線により土地を耕せなくなったこと、住めなくなったこと、仕事を失ったこと、家族がバラバラになってしまったこと。
聞けば聞くほどに悲しい現実が、福島にはある。

とくに家族が三世代で同居する家庭が多く、山も畑も遊び場になる子どもたちが、そこにみんなで住めないというのがどれほどのものか―それすら、住まなければ実感としてわからなかった事実だけれど。

悲しい事実があるとしても、「フクシマ」と「福島」には、温度差が100℃以上ある。

住んでみて、こんなにあたたかい土地もなかろうとすら思うのだ。

放射線量により住み続ける人と住めない人が分断された。「フクシマ」としてその事実を語るときと「福島」として語るときは、全然印象が違うのだ。

原告となって国や東電を訴えている人も、ごく普通の生活を送っていた人であり、近所に作った野菜を配る人であり、寄り合って漬物を出したりお茶を飲む人なのだ。

その生活の中で、いろいろ、考えて生きる。決して「フクシマ」からは見えてこない人々の生活を大事にしたいと思った。

処理水の放出がニュースになった時、東京に住む活動家の人と温度差があると、福島で復興に携わる人が言っていた。
東京に住む活動家の人の一部には、自分の主義主張を、フクシマの人を利用して伝えようとしている人がいるのではないかと。

もちろん、しばしば福島に来て、たくさんの人とかかわり、おいしいものを食べて楽しんでいる活動家の人も多いだろうし、みながみなそうではないのだけれど。

そして、オキナワ、沖縄。

書く仕事についてから、私は戦跡地や基地関連の場所を初めて回った。今から30年くらい前。
たくさんの人が逃げ込み、ところによっては集団自決のあったガマ(自然洞窟)、米軍基地、ひめゆり学徒隊の記念館、たくさんの人が追われて身投げをした摩文仁の丘、名護の普天間基地の移転先である辺野古の基地予定地(30年前当時)で座り込みをするおじいさん、おばあさんたち。

沖縄のガンジーといわれ、非暴力の反基地平和運動をしていた阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんの記念館も行った。

なにもかもが初めて知ることで、頭を打たれたような衝撃があった。

すべての小中学校は、沖縄に修学旅行で行ったほうがよいのではないかとさえ思った。

あちこちを回って、どこも印象に残っているのだけども、いま思い返して目に浮かぶのは、大通りを歩いているときに「乗っていったら〜?」と車にひょいと誘ってくれた女性とか、辺野古の浜で座り込んで基地移設に反対していたおじいおばあが、「私たちは、ただただ、命どぅ宝(ヌチどぅたから、命こそ宝、の意味)の気持ちさぁ。きれいな海、海のいのちを孫たちに残したい。それだけさぁ」と笑顔で教えてくれたこととか、米軍基地を当たり前の存在にして人を殺す手助けをしたくない、といった話とか。
「オキナワ」というより「沖縄」の人たちの、静かな静かな日々の営みと穏やかさ、そして静かな中にある憤りや悲しみが、とにかく印象に残っている。

それで新婚旅行は、沖縄を選んだ。
沖縄を知るのはとても大事だ。同時に、観光地としての魅力的な沖縄も、好きだ。

オキナワのカタカナ表記には、「日本で唯一地上戦が行われ、日本軍にさえひどい目に遭わされた地」「アメリカに蹂躙された地」「返還されてもなお、県土の多くを米軍に取られている地」といった意味、もっと言えば、沖縄に負のものを押し付けておきながら見て見ぬふりをしている本土の人への、本土の人による抗議や憤りの意味があるのだろう。

その大事さはわかるにしても、あえて言いたい。
カタカナという記号に惑わされずに、そこに行って、土地を知り、人を知り、歴史を知り、ご飯を食べて、風景と匂いを知り、その地を愛していけたら、一番いいなぁと思う。

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