【競馬エッセイ007】白い影が追いついた日(2019年 レパードステークス/ハヤヤッコ/田辺裕信)
日曜の15時。
自宅のアトリエは、窓から差し込む光で白く満たされていた。
絵の具の匂いだけが残っている。
キャンバスは今日も白紙のまま。
描きたいのに、描けない日が続いていた。
美大を出たのに、
自分の“色”を出すことが怖くなった。
周りの才能に圧倒され、
いつしか無難な色ばかり選ぶようになった。
気づけば、絵を描くことそのものから遠ざかっていた。
だから、競馬を見る。
馬の走る音は、
自分の色を気にしなくていい時間をくれる。
スマホで新潟競馬場のダートが映った。
夏の光が砂を照らし、
その粒がゆっくりと舞っている。
白い馬がパドックを歩いていた。
ハヤヤッコ。
白毛馬として初めてJRA重賞を狙える位置にいる馬。
10番人気。
誰も期待していないようで、
それがどこか自分と重なった。
白毛は目立つはずなのに、
どこか儚くて、
存在感があるようで、
ないようで。
その曖昧さが、自分の人生と似ていた。
鞍上は田辺裕信。
淡々とした騎乗が好きで、
派手さはないが、馬の呼吸を壊さない騎手だ。
ハヤヤッコの横に立つ姿は静かで、
「この馬の力を信じている」
そんな空気が滲んでいた。
ゲートが開く。
砂煙が上がる。
ハヤヤッコは後方。
画面の端で白い影が揺れている。
前は激しい先行争い。
ハイペース。
砂の粒が光を受けて金色に舞い、
その中を各馬が押し合いながら進んでいく。
向こう正面。
デルマルーヴルが中団から押し上げる。
トイガーは内でじっと脚を溜めている。
ハヤヤッコはまだ後方。
でも、田辺は慌てない。
馬の呼吸だけを見ている。
三コーナー。
私は白紙のキャンバスを横目に、
スマホの画面を見つめていた。
白い馬が、砂煙の中でゆっくりと浮かび上がる。
そして、最後の直線。
新潟競馬場の長い直線がまっすぐに伸びる。
デルマルーヴルが先頭へ。
内からトイガーが迫る。
その外、大外から白い影が伸びてきた。
ハヤヤッコだった。
砂の粒が空中で舞い、
その中を白毛の馬体が切り裂いていく。
田辺の手綱は軽い。
馬が自分のリズムを保つのを、
ただ邪魔しないように添えているだけ。
残り100m。
デルマルーヴルが粘る。
トイガーが内から伸びる。
でも、白い影は止まらなかった。
ゴール板を駆け抜けた瞬間、
アトリエの静けさが少しだけ揺れた。
歓声はない。
ただ、胸の奥で何かがほどけた。
白毛馬として初めてのJRA重賞制覇。
10番人気。
誰も期待していなかった馬が、
誰よりも強かった。
私は白紙のキャンバスを見た。
白は、何も描けない色じゃない。
何にでもなれる色だ。
ハヤヤッコは、
その白さで、誰よりも美しく、誰よりも強かった。
その姿が、なぜか背中を押してくれた。
明日、少しだけ色を置いてみよう。
新潟競馬場の直線は、
そんな気持ちを静かに照らしていた。
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