余白日記・心という言葉
私は、心や魂のありかについて、ことあるごとに考えている。
「心ない行い」「心を失う」という言葉がある。以前には、「腑に落ちる」という言葉についても考えた。昔の人は、理解することを腹で感じ、覚悟を腹で決めるものとして表現した。今では、それらをまとめて「心」の働きとして受け止めることが多い。
けれど、心とは何だろう。
今では、心は脳の働きだと考えられることが多い。脳科学は目覚ましく発展し、感情や記憶に関わる領域も少しずつ明らかになってきた。
それでも、赤い花を見て「赤い」と感じる、その感覚そのものはどこにあるのだろう。哲学では、それをクオリアと呼ぶ。
脳の活動は説明できても、「赤さ」や「痛さ」や「懐かしさ」を感じる私自身は、まだ説明しきれていない。
だから私は、「心」を脳という一つの言葉にまとめてしまっていいのだろうかと思ってしまう。
魂とは何だろう。意識とは何だろう。自我、精神、感情とは何が違うのだろう。
昔は別々に考えられていたものを、私たちは「心」という便利な言葉で包み込んでしまったのではないだろうか。
もちろん、言葉をまとめることには意味がある。複雑なものを整理し、人に伝えやすくするためだ。
でも、ときどき思う。
私たちは、分かりやすくするためにまとめたのだろうか。それとも、分からなくするためにまとめてしまったのだろうか。
私は最近、「運」や「平均」という言葉について考えてきた。どちらも便利な言葉だ。便利だからこそ、一つの言葉で理解した気になってしまう。そして、その中にあった細かな違いは、少しずつ見えなくなっていく。
「心」も、きっと同じなのだろう。
知っているはずの言葉なのに、いざ説明しようとすると、その輪郭は曖昧になる。だから私は、今でも心や魂のありかについて考え続けている。
答えを探しているというより、その言葉が本来指していたものを、もう一度見つめ直したいだけなのかもしれない。
