【エッセイ】余白日記・宇宙人について思うこと
宇宙人は、いるのだと思っている。
この広い宇宙に、地球の生き物だけがいるとは思いにくい。けれど、少し不思議に思う。今、描かれ語られる宇宙人たちは、なぜ人間に似ているのだろう。
二本の足で立ち、
二本の腕を持ち、
顔の中心に鼻があり、
正面に左右の目があり、
耳のようなものを持つ。
地球人。もっと言えば、ホモサピエンスの理解の範囲に収まっている。
かつての宇宙人は、もう少し異様だった気がする。
タコのようだったり、
虫のようだったり、
インベーダーゲームの敵のようだったり。
人ではないものとして、もっと遠くにいた。けれど今の宇宙人は、どこか人間の延長にいる。人間の体は、完璧ではない。
食道と気道が近く、むせる。
視界は前に偏っている。
無理に立ち上がったせいで、腰はよく悲鳴を上げる。内臓だって、完璧な設計とは言いにくい。
地球の生き物を見れば、形はいくらでもある。
魚は、えらで呼吸する。
モグラは、目よりも鼻や触覚に頼って生きている。
ふくろうは、耳の位置が左右で違う。
虫は、四本の手足ではない。
世界を知覚するために、必ずしも人間のような目や耳が必要なわけではない。考える場所だって、人間の脳のようなものである必要はないのかもしれない。
そう考えると、宇宙を旅できるほどの種が、なぜわざわざ人間に似た体でいる必要があるのだろうと思う。
二足歩行である必要はあるのか。
顔が前についている必要はあるのか。
目が二つである必要はあるのか。
手足が四本である必要はあるのか。
リアリティを突き詰めたはずの宇宙人が、かえってリアルに見えないことがある。それは、本当に宇宙人なのだろうか。
それとも、私たちが理解できるように、人間の形に近づけられた物語なのだろうか。
怖がるために、顔がいる。
会話するために、口がいる。
感情を読むために、目がいる。
敵か味方かを判断するために、人に近い体がいる。
そうしなければ、私たちは理解できないのかもしれない。ならば、やっぱりそれは物語なのだと思う。宇宙人を描いているようで、本当は人間の理解の限界を描いている。
私たちは、未知のものを見るときでさえ、どこかに自分の形を探してしまう。
宇宙の果てにいるかもしれない誰かを想像しながら、結局、人間の輪郭から離れられない。
宇宙人について考えることは、
宇宙について考えることでもあり、
人間について考えることでもあるのかもしれない。
本当に人間ではないものを、私たちは想像できるのだろうか。
それとも、想像した瞬間に、それはもう人間の物語になってしまうのだろうか。
