【エッセイ】余白日記・失った読み方
占いを開くと、同じ項目が並んでいる。
恋愛運。
仕事運。
金運。
健康運。
どれも分かりやすい。短い時間で読めるし、自分が知りたいことも探しやすい。だけど、おみくじを見ると少し違う。
願望。
待人。
失物。
旅行。
学問。
商売。
争事。
転居。
病気。
縁談。
そこには「恋愛運」や「仕事運」という言葉は見当たらない。もちろん、時代が違うからと言ってしまえばそれまでだ。けれど、それだけではない気がしている。
例えば仕事運。
今では仕事とは、会社へ行き、お金を稼ぐことを指す場合が多い。
しかし昔は、家業を継ぐことも仕事だった。
畑を耕すことも仕事だった。
村の役目を果たすことも仕事だった。
社会の中で自分が担う役割、そのものだった。
金運も少し違う。
今なら、収入や臨時収入を思い浮かべる。
けれど本来は、商売が続くことかもしれない。
良い縁に恵まれることかもしれない。
無駄に失わないことかもしれない。
必要な時に必要なものが巡ることかもしれない。
恋愛運という言葉も不思議だ。
昔は恋愛だけを切り離して考えていたのだろうか。
良縁。
夫婦。
家族。
子孫。
人との縁。
そうしたものは、一つの流れとして見られていたようにも思える。
健康もまた、病気にならないことだけではない。
よく眠れること。
季節に馴染むこと。
食べられること。
働ける身体であること。
それらは別々ではなく、ひとつながりだった。
現代の四つの項目は、とても便利だ。けれど便利になるということは、ときに言葉を切り分けることでもある。
本来つながっていたものを分類し、名前を付ける。
そのおかげで分かりやすくなった反面、失った読み方もあるのではないだろうか。
運は、良い悪いを点数にするものだったのだろうか。それとも、人と自然と社会を流れる、一つの巡りだったのだろうか。
占いが娯楽になったことを否定したいわけではない。ただ、恋愛運、仕事運、金運、健康運という四つの窓だけでは見えなくなってしまった景色があるように思う。
ときどき私は、その景色のほうを見に行きたくなる。
