余白日記・お金様の宗教
どこかで聞いたような話がある。
講師が一枚の紙幣を取り出して、これは欲しいですか、と尋ねる。手でくしゃくしゃにしても、みんな欲しいと言う。床に落として、靴で踏みつけても、やはり欲しいと言う。
「それでも、この紙幣の価値は変わりません。あなたも同じです。どれだけ傷つき、踏みにじられても、あなたの価値は変わらないのです」
そんな話だったと思う。いい話なのだろう。
いい話だろうか?
けれど、なぜだろう。私はこの話に、ずっと何か引っかかる。
踏みつけられた紙幣の価値が変わらないのは、本当に「傷ついても本質は変わらないから」なのだろうか。
紙幣は、ただの紙ではない。そこに数字が印刷され、紙幣として発行され、国や銀行や、それを使う人たちが「これはこの金額として使える」と認めている。だから、少しくらい汚れても、しわになっても価値が変わらない。
むしろこの話で変わらないのは、紙幣そのものより、それを取り囲んでいる約束の方ではないだろうか。
もし講師が取り出したのが、一枚の陶器だったらどうだろう。
床に落として踏みつければ、割れる。
ガラスなら砕ける。
人間も、本当はこちらに近いのではないかと思う。
傷つけば傷つく。壊れることもある。失ったものが戻らないこともある。「あなたの価値は変わっていない」と言われたところで、割れたものが元通りになるわけではない。
それでも人は、割れたところで終わるわけではない。
欠片を拾う。つなぎ直す。傷を抱えたまま、また使える形を探す。きれいに元通りにはならないかもしれない。それでも何度も自分を作り直して生きていく。
そう考えると、私には紙幣より、金継ぎされた器の方が人間に近く見える。
もちろん、壊れたから美しくなった、などと言いたいわけではない。壊れない方がよかった傷もある。金で継いだから損失まで価値に変わるわけでもない。ただ、壊れたという事実を消さずに、それでもその先の形を作ることはできる。
それにしても、少し妙な話だ。
人間には決して失われない価値がある。それを伝えるために持ち出されたものが、お金だった。
「踏みつけても、この20ドルが欲しいでしょう」
みんなが欲しがることを、この話は最初から疑っていない。
人間の価値について語る話なのに、そこで最も確かなものとして扱われているのは、人間ではなく紙幣の価値なのだ。
そう思うと、この寓話が急に違って見えてくる。
私たちはいつから、人の価値を語るときにまで、お金に保証してもらわなければならなくなったのだろう。
