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W杯の歓声のあいだに

昨日は、信号待ちのたびに同じ話を聞いた。

自転車で都内を移動していると、赤信号のたび、すぐそばでW杯の話が聞こえた。

「あの場面で決めていれば」
「あの選手は悪くなかった」
「監督の判断はどうだった」

まるで日本中に台本が配られていて、僕だけ配布されなかったみたいだった。

赤信号は赤いままだった。僕はペダルに片足をかけ、青に変わるのを待っていた。そのわずかな時間にも、知らない人たちの声が耳に入る。

信号が青に変われば、それぞれ別の方向へ走り出す。けれど、その先で会った人たちにも、やはりW杯の話を振られた。行きつけの飲食店に入っても、LINEを返しても、話題はいつの間にかそこへ戻っていく。誰かが申し合わせたわけではない。それでも町じゅうが、同じ話題に覆われているように見えた。次にまた話を振られたら、僕は「監督の采配については、本日七件目になります」と窓口みたいに答えようと思った。結局、言わなかった。

W杯に罪はない。代表戦を見て喜ぶ人を責めたいわけでもない。

ただ、国を背負った試合への熱狂が、政治とは切り離された無垢な感動として扱われることには、引っかかる。国旗を振ることも、君が代を歌うことも、「日本」を誇ることも、その場では説明を要しない。だが、そこに距離を置く人だけが、なぜ喜べないのか、なぜ水を差すのかと問われる。

その同調圧力が、僕には怖かった。

怖いのは、皆が同じ話をしていることではない。その熱狂の最中に、誰が何を決め、何を変えているのかを、考えなくて済む空気が広がることだ。権力にとって、国民の視線が別の場所へ向いている時間ほど都合のよいものはない。


2026年6月末、国会で何が起きたのか

偶然かもしれない。だが、その前後に成立した法案や、進められた制度改正を並べてみると、偶然だけでは片づけにくい。どれも、この国をどこへ向かわせようとしているのか。その輪郭が、少しずつ見えてくる。

国家情報会議設置法。首相を議長とする会議体を置き、内閣官房には「国家情報局」を新設する。重要情報活動や外国の情報活動への対処を担い、関係省庁に資料の提出や協力を求める。役所らしい、なんの感情も持たなさそうな名前だ。だが役所というのは、物騒なことをやるときほど、退屈な名前をつける。5月27日、参議院本会議で可決、成立した。

これだけで、監視国家が始まったと言うつもりはない。ただ、情報を集める権限は法律になった。では、その権限を誰が監視し、必要なときにどこまで止められるのか。そこは、まだ十分に見えていない。

国民投票法改正案も、6月19日に衆院を通過し、参議院に送られた。離島から投票箱を運べない場合の開票所特例。投票立会人の選任要件の緩和。改憲案の広報放送に、AMだけでなくFMを加えること。一つずつ見れば、どれも事務的な制度整備に見える。反対する理由も、すぐには見つからない。

けれど、それらは、戦後一度も行われていない憲法改正の国民投票を、いつでも実施できるようにするための準備でもある。改憲の是非が正面から問われるより先に、国民投票を行うための手続きが整えられていく。

6月29日、衆議院では議員定数削減法案の審議が始まった。自民と維新が共同提出した法案で、与野党協議が一年以内にまとまらなければ、比例代表の議席を45も削るという。比例代表は、地盤や資金力を持たない政党にも、票を議席へ変える道を残してきた。そこだけを削れば、最初に細るのは、多数派と異なる考えを国会へ送り込むための出口だ。「身を切る改革」と呼ばれているが、切られているのは、たいてい自分の身ではなく、隣の議席だ。

特別委員会は、与党側の委員長が職権で開会を決めた。野党が欠席するなか、趣旨説明が行われ、審議に入った。参政党の神谷宗幣代表は「民主主義の破壊だ」と言った。その言葉を素直に受け取るつもりはない。だが、反対する側が席にいないまま、比例代表を削る法案の審議が始まったという事実は残る。

もちろん、この法案はまだ成立していない。6月30日の時点で、与党は委員会での採決を見送った。それでも、「成立していないから関係ない」と言える段階では、もうない。

その日の午後、衆議院本会議では国旗損壊罪を新設する法案が採決された。「人に著しく不快または嫌悪の情を催させるような方法」で国旗を損壊した者を処罰する。共同提出者には自民・維新に加えて国民民主・参政党も名を連ねていたが、それでも自民党の中から異論は出た。岩屋毅・前外相は、採決の直前に本会議場から静かに退席した。理由を問われて、彼はこう答えている。国旗への敬意は「自然な形で育まれるべきものであって、刑罰で強制されるべきものではない」。党議拘束には従い、反対はしない。ただ、賛成もしたくない。だから、その場を去った。政治家にしては、ずいぶん人間くさい退場の仕方だった。

法案は賛成多数で可決され、衆院を通過した。ただし参院での成立は、実はまだ怪しい。定数削減の強行審議入りに態度を硬化させた野党は、国会審議そのものをボイコットする構えを見せていて、そのとばっちりを、この法案も受けている。国旗を守るための法律が、別の法律をめぐる喧嘩に巻き込まれて足止めされている。

同じ日、皇室典範改正案も臨時閣議で決定され、衆院へ提出された。旧宮家の男系男子を養子に迎える制度。女性皇族が結婚後も皇族の身分を保てる仕組み。ここまでは、2021年の有識者会議の報告書がもともと下敷きにしている話だ。だが時事通信の報道によれば、養子に生まれた男子に皇位継承資格を認める内容も、提出段階で盛り込まれたという。有識者会議でも、与野党協議でも、一度も正面から語られなかった継承ルートだった。誰も注文していない具材が、提出直前に鍋へ放り込まれていた恰好だ。

国旗への異議を、刑罰で囲おうとする法案。 血統を、国家の正統性として組み替える法案。 情報を中枢へ集める法律。 憲法を変えるための手続きを、現実に動かす改正案。 そして、異論を抱えやすい小さな政党の議席を削ろうとする法案。

「安全保障」
「伝統」
「国旗への敬意」
「投票環境の整備」
「身を切る改革」

どれにも、それぞれもっともらしい理由はある。まるで四字熟語みたいに、綺麗に並んでいる。だが、理由があることと、その先に危うさがないことは別だ。

権力は、「自由を制限する」とは言わない。

「安全保障のため」
「国旗を守るため」
「伝統を守るため」

その説明を一つずつ受け入れているうちに、異議を口にすることは難しくなり、異なる考えを国会へ届けるための選択肢も減っていく。


合法の顔をしたクーデター

クーデターと聞けば、多くの人は戦車と銃、占拠された議事堂を思い浮かべるだろう。

だが民主主義は、そんな派手な形でしか壊れないわけではない。選挙をなくす必要もない。議会を閉鎖する必要もない。異議を唱える側だけに少しずつ負担を負わせ、情報を中枢に集め、改憲を実行できる状態へ近づけ、血統を国家の正統性として固定する。そのうえで、異なる意見を国会へ送り込んできた小さな政党の議席を削減していく。

手続きは、すべて合法のまま進む。国会で審議され、採決され、官報に載る。

だからこそ厄介だ。露骨な弾圧なら、多くの人は警戒する。戦車が走れば、誰でも異常だと分かる。だが、法律の形をして出てくるものには、人は慣れる。「安全保障のためだ」と言われれば、口をつぐむ。「国民のためだ」と言われれば、反対する側のほうが怪しく見えてくる。

僕には、これは合法の顔をしたクーデターに見える。

大げさだと思う人もいるだろう。けれど、ここに並べたのは憶測ではない。国会で審議され、可決され、あるいは法案として提出されたものだ。問いたいのは、それぞれの法案が何を名目にしているかではない。国旗への敬意、安全保障、伝統、改革。そうした言葉のもとで、誰が発言しにくくなり、どんな意見が国会に届きにくくなるのか。そこに目を向けたい。


日本が「一つ」になるとき

「国旗」
「君が代」
「代表」
「誇り」
「一体感」

けれど今、国家は、誰を「日本の一員」と認めるのかを、血統や国旗への敬意をめぐる制度を通して決めようとしている。その横で、「日本が一つになる」という言葉だけが、何の疑いもなく祝祭として受け取られている。

旗を振ることも、君が代を歌うことも、「日本」を誇ることも、その場では説明を要しない。だが、そこにためらいや距離を口にする人だけが、なぜ素直に喜べないのか、なぜ水を差すのかと問われる。

熱狂に乗らない人だけが、冷たい、面倒だ、空気が読めないと扱われる。

国家が「日本」の中身を、従順で異論の少ないものへ変えようとしているとき、「日本が一つになる」という言葉は、誰にとっても同じ意味ではない。それは祝祭の言葉であると同時に、そこから外れる人に説明責任を問う言葉にもなる。


誰が「日本の一員」なのか

僕自身も、「日本の一員」に扱われなかったことが何度もある。

つい先日も、人の少ない終電間際の駅構内で、知らない男に肩をぶつけられた。わざとだと分かるぶつかり方だった。相手は僕の顔を見て、外国人観光客だと決めつけたようだった。

一度や二度なら、気のせいにもできる。でも、酔っぱらいに面と向かって外国人扱いされ、聞くに堪えない言葉を浴びせられたことがある。そのときは、気のせいでは済まなかった。

僕は日本で生まれ、日本語で育ち、日本のパスポートを持っている。それでも、ある種の視線の前では、そんなことは何の証明にもならない。「日本人かどうか」を最終的に決めているのは、戸籍でも国籍でもない。その日、その場で、誰かが下す一瞬の値踏みだ。

外国にルーツを持つ人。帰化した人。在日外国人。国旗を振ることにも、君が代を歌うことにも、抵抗のない人は多いだろう。それでも、「国民感情」を守るための法律ができれば、その感情を本当に共有しているのかを、見た目や名前、話し方から疑われやすい人が出てくる。最初から「仲間かどうか」を値踏みされる人たちだ。

居場所を奪われるのは、個人だけではない。少数政党に託された票もまた、国会に届きにくくなる。比例代表だけを削れば、多数派とは異なる意見を議席に変えてきた政党から、先に消えていく。

個人が異議を口にすることと、投票によって異議を示すことは、別の出来事に見える。けれど、どちらにも同じ圧力がかかっている。

失われていくのは、特定の誰かの居場所だけではない。自分と違う意見を国会へ届けるための選択肢そのものだ。その選択肢が減っていく国で、誰もが同じ熱狂を安心して共有できるわけではない。


それでも、考えすぎだと言う人へ

安全保障のために必要だという人もいるだろう。国旗を傷つける必要など、そもそもないという人もいる。皇統の安定は議論すべき課題だという人もいる。議員定数の削減は身を切る改革であり、当然の歳出削減だという人もいるだろう。W杯と政治を結びつけるのは飛躍だという人もいるだろう。

一つ一つを取り出せば、それぞれに筋の通った説明はある。

だが、法律が通ったあとに問われるのは、掲げられた理由のもっともらしさではない。その結果、誰が発言しにくくなったのか。誰の票が、以前より国会に届きにくくなったのか。問うべきなのは、そのことだ。

自由を奪う政策は、最初からそうだと宣言されない。「秩序のため」「安全のため」「国民のため」という大義名分を掲げて推し進められる。

今回も、そうだった。


W杯後に残るもの

W杯は終わる。街の熱狂も、しばらくすれば別の話題に押し流される。

けれど、6月末に成立し、提出され、審議に入った法律や法案は、熱狂と一緒には消えない。

すでに法律になったものがある。衆議院を通過し、参議院へ送られたものがある。国会に提出されたばかりのものがある。野党が欠席した委員会で、採決を見送られたまま止まっているものもある。

話題が変わっても、成立した法律は現実の制度になり、提出された法案は次の審議と採決へ進んでいく。

サッカーを楽しむなと言いたいわけではない。旗を振るなとも、喜ぶなとも言わない。ただ、歓声のなかにいるあいだも、その外で何が決められているのかは見ていたい。権力は、国民が眠っているときだけでなく、熱狂しているときにも、法律を通し、制度を変え、異なる意見を国会に届けにくくしていく。

だから、差し出された熱狂に、盲目的に夢中になるだけの国民にはなりたくない。

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