「コージー(cozy)」は”何も起きない”というわけでもないお話-投影型と滞在型について-
(※銀座コージーコーナーのことではございません)
「コージー」、とりわけ「コージーファンタジー」が、ただの“何も起きないスローライフ”ではないという話です。
最近、「コージー」という言葉を見かけることが増えました。ここ数ヶ月で急に。
ゆったりした雰囲気や、優しい世界、穏やかな時間。
そういう作品を指す言葉として使われているのだと思います。
でも、最近少しだけ、この言葉の使われ方に違和感を覚えています。
「静かな作品」と「刺激の弱い作品」は違う
いわゆる“スローライフ系”作品の中には、「追放された主人公が田舎で大成功する」話や、「周囲にやたら愛される」、「理想の生活が次々手に入る」というのが多いし、「面倒ごとは可能な限り即解決する」のが常なように思う。
もちろん、それ自体を否定したいわけではなく、そういう作品には確かに需要があるし、読んでいて気持ちいいと思う。
でも、それを全部まとめて「コージー」と呼ぶのは、少し違う気がしている。
なぜなら、そこにある快楽の中心が、
「安心してその場所に滞在すること」
ではなく、
「主人公として理想を叶えること」
になっているからなんだと思う。
コージーは“滞在型”の物語だ
自分にとってコージー作品とは、
「この場所に、もう少しいたい」
と思わせてくれる作品だと感じている。
そこでは大事件は起きない。
でも、人の心は静かに動いている。
時間の移り変わりや、空の色。
誰かが少しだけ寂しそうに笑ったこととか、少しだけ変わった心情とか。
そういう“小さな変化”が積み重なって、世界ができていく。
重要なのは、「何も起きない」ことではない。
むしろ逆で、コージー作品は人の感情や時間の流れを、とても丁寧に描くものだと思う。
ただ、それを“事件”として扱わないだけだ。
「事件が起きていない」ということは、作者の感性に宿るのだと思う。
静かな日常というのは難しい。
単にセリフが少ないとか、田舎暮らしをしているとか、戦わないとか、そういう話ではない。
同じ舞台背景でも、「理想の俺生活」を楽しむ舞台になる場合もあれば、「誰かと時間を過ごす場所」になる場合もある。
似ているようで、そこに流れている空気はまるで違っていて、前者は“投影型”、後者は“滞在型”と言える。
自分は後者のほうに、コージーらしさを感じる。
「何も起きない」のではなく、「心だけが少し動く」
本当に好きなコージー作品には、派手なカタルシスがない。
代わりに、「ほんの少しだけ表情が変わる」とか、「同じ景色が違って見える」、もしくは、「誰かの言葉が心に残っ」たり、「“普通”が特別」だと気づかされたりする。
読後感も、「感動した!」というより、「温かいお茶を飲んだ後のホッと感」に近いと思う
それが、自分にとってのコージーと言える。
私はコージーという言葉が、もっと広く深く育ってほしいと思っている。
だからこそ、「コージー」という棚が、ただの即物的スローライフで埋め尽くされてしまったら、少し寂しい。
本来コージーという言葉は、
もっと“空気”や“感情の解像度”を含められるジャンルだと思うのです。
誰かと過ごす日常。
小さな変化。
積み重なっていく時間や関係性。
そういうものを大切にした作品が、もっと「コージー」と呼ばれるようになったら嬉しいな、と思っております。
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