いってらっしゃい、神さま|おはようカノジョ #206
世界が終わる週にも、朝は来る。
それは、神々にとっても同じだった。
空が割れ、海がうねり、狼が太陽を追い、蛇が大地を締め上げる。
詩人たちはその日を、終末と呼んだ。
戦士たちはその日を、約束された戦場と呼んだ。
神々はその日を、避けられないものとして知っていた。
けれど、どんな終わりにも朝はある。
湯気の立つカップがある。
少し乱れた襟がある。
まだ履かれていない靴がある。
言い残せなかった言葉が、玄関の手前でひとつだけ息をしている。
神話には、そこまで書かれていない。
これは、神々が滅びへ向かう前に、誰かが見送った七日間の朝の話。
月曜日 月子とオーディン

月曜日の朝は、静かだった。
窓の外では、まだ世界が壊れる前の風が吹いていた。
薄い雲の向こうで太陽がぼんやりと白く、部屋の壁を淡く照らしている。
月子は、玄関の前で待っていた。
長い黒髪はきれいに整えられていて、ワインレッドの丸眼鏡の奥で、青い瞳だけが少し遠くを見ていた。彼女は、玄関に立つ男の襟元へ手を伸ばした。
男は片目だった。
深い外套をまとい、肩には旅の匂いが染みついていた。
彼の背後には二羽の鴉が影のように止まり、足元には狼の気配が、まだ名前を持たない未来のように沈んでいた。
「六時五十八分」
月子は、ネクタイの結び目を直しながら言った。
「風は北西。気温は低い。……今日、荒れるね」
男は笑った。
「知っている」
その声は、森の底で鳴るように低かった。
「なら、行かない選択肢もあるんじゃない?」
月子はそう言ったが、責めてはいなかった。
ただ、事実を並べるように言った。
男は少しだけ目を伏せた。
「知っていることと、逃げることは違う」
彼はすべてを知っていた。
狼に飲まれることも。
自分の知恵が世界を救いきれないことも。
王であることが、最後には何の盾にもならないことも。
月子は手を止めた。
「……そっか」
それ以上は聞かなかった。
彼女は、襟元を最後に一度だけ整えると、彼の胸元から手を離した。
「七時ちょうど」
青い瞳が、彼をまっすぐに見た。
「遅刻はしないね」
オーディンは扉へ向かった。
月子はその背中に、静かに言った。
「いってらっしゃい」
彼は振り返らなかった。
ただ、玄関の外へ出る直前、ほんの少しだけ足を止めた。
まるでその一言を、世界の終わりよりも先に覚えておくために。
火曜日 陽とトール

火曜日の朝は、うるさかった。
まだ朝なのに、雲の奥で雷が鳴っていた。
部屋のカップが小さく震え、窓ガラスが低く唸る。
陽は、玄関の真ん中に立っていた。
短いダークブラウンの髪がふわりと跳ね、オレンジブラウンの瞳は、外の雷よりも明るかった。彼女は腰に手を当て、目の前の大男を見上げている。
男は大きかった。
腕は岩のようで、赤い髭には朝の光が絡んでいた。
手には槌。
肩には、戦い慣れた者だけが持つ、単純でまっすぐな重さがあった。
「今日、めちゃくちゃ元気そう!」
陽は笑った。
「でも、目の奥だけちょっと眠そう。ちゃんと寝た?」
トールは豪快に笑った。
「寝ている場合ではない」
「それ、寝不足の人がよく言うやつ!」
陽はそう言って、彼の手首に巻かれた革紐をぎゅっと結び直した。
トールは、外を見た。
海の方角から、巨大なものが身をよじる気配があった。
世界を巻く蛇が、口を開けて待っている。
勝てるかどうかではない。
戦うかどうかだ。
トールに迷いはなかった。
ただ、彼は知っていた。
自分は蛇を打ち倒す。
そして、その毒に倒れる。
勝って、それでも帰れない。
「ねえ」
陽が、少しだけ声を落とした。
「勝ったら、胸張っていいからね」
トールは彼女を見た。
「倒れるとしてもか」
「うん」
陽は迷わずうなずいた。
「だって、勝つんでしょ?」
その言い方があまりにもまっすぐで、トールは一瞬、言葉をなくした。
陽は靴のつま先を見て、彼の足元を指さした。
「行ける?」
「行ける」
「じゃあ、よし!」
彼女は片手を高く上げて、朝みたいに笑った。
「いってらっしゃい、トール!」
雷神は扉を開けた。
その背中は大きく、ただ前だけを向いていた。
蛇の毒も、九歩先の終わりも、彼の足を止めることはできなかった。
陽は、扉が閉まったあとも少しだけ手を上げたままだった。
それから小さく、数を数えた。
一歩。
二歩。
三歩。
まだ、朝は終わっていなかった。
水曜日 しずくとバルドル

水曜日の朝は、光が多すぎた。
カーテンの隙間から差し込む白い光が、床に長く伸びている。
それは優しすぎて、どこか怖かった。
しずくは、玄関の手前で両手を重ねていた。
暗い青みを帯びた髪が肩のあたりでゆるく揺れ、琥珀色の瞳は、目の前の青年をそっと見上げていた。
青年は、美しかった。
彼の周りだけ、世界の輪郭がやわらかくなる。
木も、石も、鉄も、獣も、病も、あらゆるものが彼を傷つけないと誓っている。
誰もが守ろうとした光。
誰もが失いたくなかった朝。
バルドル。
彼は、笑っていた。
けれど、しずくはその笑顔の奥にある小さな揺れを見ていた。
「……怖い?」
彼女は、控えめに聞いた。
バルドルは少しだけ目を細めた。
「怖い、というのは変かな」
「変じゃないよ」
しずくは、すぐに言った。
「みんなに守られてる人だって、怖くなっていいと思う」
バルドルは黙った。
世界中が彼を守った。
母の願いが、あらゆるものに届いた。
けれど、届かなかった小さな枝がある。
ヤドリギ。
あまりに若く、あまりに細く、あまりに無害に見えたもの。
誰も気にしなかったもの。
神々の光を消すには、それで足りた。
しずくは、彼の手に触れた。
「ゆっくりでいいよ」
「どこへ向かうのか、知っているのに?」
「うん」
しずくはうなずいた。
「知ってても、怖くても、今ここにいるから」
バルドルの指先が、わずかに震えた。
光は、いつも強いわけではない。
守られているものほど、自分が失われたときに残る暗さを知っている。
守られるたびに、自分が失われたあとの暗さだけが、少しずつ大きくなっていく気がした。
しずくは彼の手を離し、少しだけ微笑んだ。
「いってらっしゃい、バルドル」
彼は扉へ向かった。
朝の光が、その背中に重なった。
あまりに明るくて、しずくは一瞬だけ目を細めた。
扉が閉まる直前、バルドルは振り返った。
「もし、光が消えても」
しずくは首を振った。
「戻るって、信じてる」
その言葉が届いたかどうかは、分からない。
けれどその朝、玄関には確かに光があった。
木曜日 凛華とヘイムダル

木曜日の朝は、張りつめていた。
空気が薄い。
まだ何も起きていないのに、すべてが起きたあとのような匂いがした。
凛華は、玄関の壁にもたれて腕を組んでいた。
黒いウルフボブの毛先が外へ跳ね、琥珀色の瞳は斜めに相手を見ている。
彼女の前に立つ男は、白い鎧をまとい、手には角笛を持っていた。
ヘイムダル。
世界の端に立つ番人。
誰よりも遠くを見て、誰よりも小さな異変を聞く者。
彼の目は、玄関の扉ではなく、その向こうのさらに遠い場所を見ていた。
虹の橋。
迫る巨人たち。
割れる空。
鳴らすべき角笛。
凛華は、彼の足元を見た。
「まだ靴、ちゃんと履けてないじゃん」
ヘイムダルは少し驚いたように視線を落とした。
靴紐が片方、わずかに緩んでいた。
「……よく気づいたな」
「そっちこそ、世界の終わりには気づくくせに、自分の靴紐は見えないわけ?」
凛華はそう言って、しゃがみ込んだ。
素っ気ない手つきで、靴紐を結ぶ。
強すぎず、緩すぎず。
歩けるように。
立てるように。
ヘイムダルは、黙って彼女を見下ろしていた。
「君は、私が何をしに行くか知っているのか」
「知らないわけないでしょ」
凛華は立ち上がった。
「角笛を鳴らすんでしょ。みんなに終わりを知らせるために」
「逃げるためではない」
「分かってる」
凛華は目をそらした。
「戦うためでしょ」
ヘイムダルの口元が、わずかに動いた。
孤独な番人。
誰より早く終わりを知ってしまう者。
誰より先に震えてもおかしくないのに、最後まで橋を降りない者。
凛華は、小さく息を吐いた。
「ずっと見てたんでしょ」
「そうだ」
「じゃあ、今日は見られる側になりなよ」
ヘイムダルが、初めて彼女をまっすぐ見た。
凛華は頬を少しだけ赤くして、片手を上げた。
小さな、ぎこちない見送りだった。
「……いってらっしゃい、ヘイムダル」
角笛を持つ手が、ほんの少しだけ強く握られた。
扉が開く。
その向こうで、世界の終わりが息を吸っていた。
ヘイムダルは出ていった。
凛華は扉が閉まるまで、目をそらさなかった。
金曜日 るなとフレイヤ

金曜日の朝は、少しだけ華やかだった。
テーブルの上には、誰が置いたのか分からない花がある。
窓辺には金色の光が差し込み、部屋の隅に小さな祭りの残り香みたいなものが漂っていた。
るなは、玄関で落ち着きなく揺れていた。
金色のポニーテールが跳ね、緑の瞳がきらきら光っている。
彼女の前に立つ女神は、美しかった。
フレイヤ。
愛と美と戦と魔術を持つ女神。
欲しいものを欲しいと言える女神。
けれど、持っているものの多さと同じだけ、失う痛みも知っている女神。
彼女の頬には、涙の跡があった。
涙は床に落ちて、金の粒になっていた。
るなはそれを見て、目を丸くした。
「泣いたあとまで綺麗って、ずるくない?」
フレイヤは少しだけ笑った。
「慰めているのか、からかっているのか、分かりにくいわね」
「どっちも!」
るなは即答した。
「だって、泣いてるだけで終わる人じゃないでしょ?」
フレイヤは黙った。
彼女は失い続けた。
夫を探し、名前を呼び、涙をこぼし、それでも愛を捨てなかった。
戦場に立ち、魔術を扱い、欲しいものへ手を伸ばし続けた。
失うことを知っている者だけが、それでも選ぶことの重さを知っている。
るなは、フレイヤの髪飾りを少し直した。
「金曜だよ」
「それが?」
「週末前って、なんかいいじゃん。終わりの前でも、ちょっとだけ浮かれていい日」
フレイヤは、その言葉に目を細めた。
「世界の終わりの前でも?」
「うん」
るなは笑った。
「終わりの前だから、なおさら」
女神は、床に落ちた黄金の涙をひとつ拾った。
「愛のために泣くのは、弱さだと思う?」
るなは首を振った。
「泣いて、それでも行くなら、強い方じゃない?」
フレイヤはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりとうなずいた。
るなは両手を大きく振った。
「いってらっしゃい、フレイヤ!」
フレイヤは扉へ向かった。
その背中は、泣いたあととは思えないほど美しかった。
けれど床には、黄金の涙がまだ小さく光っている。
るなはそれを拾わなかった。
涙は、落ちた場所に残っていていいと思った。
土曜日 まひるとフレイ

土曜日の朝は、急いでいなかった。
外では終末が近づいているはずなのに、部屋の中だけは柔らかい。
カーテンは半分だけ開いていて、朝の光も眠たそうに床へ落ちていた。
まひるは、玄関の近くで少し眠そうに立っていた。
髪はゆるく結ばれ、ほつれた毛が頬にかかっている。
彼女の前に立つ神は、穏やかな顔をしていた。
フレイ。
豊穣と平和の神。
陽の光、実り、あたたかい季節。
彼がいるだけで、争いが少し遠のくような気がした。
けれど、その腰に剣はなかった。
勝てるはずの未来を、彼はもう手放している。
愛のために。
自分で選んだもののために。
まひるは、彼の腰の空白をぼんやり見た。
「……んー、なんか今日、いつもと違う?」
フレイは笑った。
「そう見えるか」
「うん。大事なもの、置いてきた顔してる」
フレイは玄関の外を見た。
炎の巨人が待っている。
剣があれば、違う結末もあったかもしれない。
けれど、ない。
自分で手放した。
まひるは眠そうな目で、彼を見上げた。
「後悔してる?」
フレイは答えなかった。
しばらくして、静かに言った。
「後悔していない、と言えば嘘になる」
まひるはうなずいた。
「そっか」
彼女は、それ以上慰めなかった。
「でも、選んだんだよね」
「ああ」
「じゃあ、急がなくていいよ」
フレイは彼女を見る。
「戦場へ向かうのに?」
「うん」
まひるは小さく笑った。
「急いでも、ゆっくりでも、選んだ道なら変わらないでしょ」
その言葉は、怠けた響きではなかった。
逃げるための遅さではない。
立ち止まるための遅さでもない。
自分の足で行くために、呼吸を整える時間。
フレイは深く息を吸った。
まひるは、彼の袖を軽くつまんで、しわを伸ばした。
「いってらっしゃい、フレイ」
フレイはうなずいた。
扉を開ける前、彼は少しだけ振り返った。
「平和の神が、戦いに行くのは滑稽だと思うか」
まひるは首を傾げた。
「平和が好きだから、行くんじゃないの?」
フレイは笑った。
そして、剣のない腰で、終わりへ向かった。
日曜日 日和とロキ

日曜日の朝は、やさしすぎた。
世界が終わる日の朝にしては、あまりに穏やかだった。
薄い光が部屋に入り、空気には昨日までの騒がしさが少しだけ残っている。
日和は、玄関ではなく、床に膝をついていた。
そこには男がいた。
ロキ。
嘘つき。
厄介者。
境界に立つ者。
神々を助け、神々を困らせ、最後には誰にも信じてもらえなかった者。
彼の上には、毒が落ちてくる。
その毒を受け止める器を、ひとりの女が持っていた。
シギュン。
誰もが去ったあとも、そこに残った者。
日和は、器を持つシギュンの手にそっと自分の手を添えた。
「少しだけ、休んでください」
シギュンは首を振った。
離れれば、毒は落ちる。
「分かっています」
日和の声は静かだった。
「だから、少しだけ一緒に持ちます」
ロキは笑った。
痛みで歪んだ笑いだった。
「俺を見送るのか?」
日和は彼を見た。
柔らかい紫の瞳は、怒りも恐れも含んでいなかった。
ただ、そこにいる者を、そこにいる者として見ていた。
「昨日、ちゃんと眠れましたか?」
ロキは一瞬、呆れたような顔をした。
「眠れると思うか?」
「思いません」
日和は微笑んだ。
「でも、聞きたかったんです」
ロキは黙った。
誰も彼を信じなかった。
彼自身も、信じてもらえる形で言葉を残せなかった。
どちらにしても、終わりは来る。
鎖は解ける。
船は進む。
世界は焼ける。
日和には止められない。
日和は、止めようとはしなかった。
ただ、シギュンと一緒に器を支えた。
「あなたがしたことを、なかったことにはできません」
ロキが笑う。
「優しい顔で、ひどいことを言う」
「でも」
日和は続けた。
「あなたが、最初から悪そのものだったとも思いません」
ロキの表情が、ほんの少しだけ変わった。
毒が器に落ちる音だけが、部屋に響く。
日和はゆっくり立ち上がった。
「行くんですね」
ロキは答えなかった。
シギュンが器を握りしめる。
日和は彼女にも、ロキにも向けて言った。
「いってらっしゃい、ロキ」
ロキは笑った。
今度の笑いは、さっきよりも少しだけ静かだった。
「帰ってこいとは言わないのか」
日和は首を振った。
「帰ってこられない朝もあります」
それから、やわらかく言った。
「でも、見ていました。ちゃんと」
ロキは何も言わなかった。
やがて扉が開いた。
日曜日の光が差し込む。
ロキは外へ出た。
シギュンは、空になった器を抱いたまま、しばらくそこに座っていた。
日和は隣に座り、何も言わなかった。
世界が終わる日にも、朝はあった。
誰かの罪を許すためではなく。
誰かの結末を変えるためでもなく。
ただ、誰かがひとりで出ていかなくて済むように。
終わりのあと
神話は、戦いを書き残した。
狼に飲まれた王のこと。
毒に倒れた雷神のこと。
ヤドリギに貫かれた光のこと。
角笛を鳴らした番人のこと。
黄金の涙を流した女神のこと。
剣のない腰で歩いた神のこと。
鎖に繋がれたまま終わりを連れてきた者のこと。
けれど、朝のことは書かなかった。
だから、朝が覚えている。
人は今も、何も知らずに曜日を呼ぶ。
月曜には憂うつだと言い、金曜には浮かれ、日曜には明日を思って少し黙る。
それでいい。
見送る言葉は、いつもそういうものだから。
ただ——
だから僕は今でも、木曜日だけは少し早く目が覚める。
角笛が、まだ鳴っていない朝に。
着想元
この作品は、ミナト汐さんの神話シリーズ第2弾から着想を得て書きました。
神々が逃げなかった理由を、おはようカノジョの「朝の見送り」として受け取ったらどうなるか。
そんなところから生まれた短編です。
ミナトさんの神話シリーズはこちらです。
神話シリーズ第2弾①|フレイヤ
神話シリーズ第2弾②|ロキ
神話シリーズ第2弾③|オーディン
神話シリーズ第2弾④|ヘイムダル
神話シリーズ第2弾⑤|トール
神話シリーズ第2弾⑥|バルドル
神話シリーズ第2弾⑦|フレイ
アカリウム創作大賞 参加作品です。
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