【#創作大賞2024】ドシャえもん第9話
アパートの入り口で心愛ちゃんを見かけることはなくなりました。大家さんがバケツを置かなくなったからです。
「バケツさえ置かなきゃ悪さもできないだろ?」
大家さんはそう言いますが、そうなると心愛ちゃんに会う機会が減ってしまいます。あの禁じられた遊びはいけないことではありますが、元気な心愛ちゃんを見られる唯一の方法でもあったのです。心愛ちゃんは大丈夫なのでしょうか?殴られてないかしら?
最近は隣から泣き声さえ聞こえ、いや、生活している気配すらしません。泣き声がないならば平穏に生活していると思えないのは、あの男が一緒だからです。最悪のことを想像してしまい、気持ちが落ち着かずイライラも募ります。心愛ちゃんを探しに行かなきゃ。あの危険な男から守ってあげられるのは私だけ、そう思い河原へ行こうと階段を降り始めようとした時です。
「向井さん」
と初老の女性に声をかけられました。
「市川さん?」
1階の住人でした。会釈を交わすくらいの人だったので、声をかけられたことに驚きをかくせません。私は階段を降りた場所にある玄関から出入りする女性と認識していたので苗字を知っていましたが、彼女の方は2階に上がらなければ私の苗字を知ることなどできないはずです。同じアパートの住人と言ってもかなり距離がある間柄だったため、苗字を知られているのは監視されているようで不愉快でした。しかも心愛ちゃんのところへ向かおうとしている時に声をかけてくるなんて!
こみ上げてくる不快感を抑えられず、
「なにか御用ですか?」
とイラつきも隠さず返事をすると、市川さんの口がゆっくりと開きました。
「土・左・衛・門」
「は?」
一瞬、体が凍り付きました。聞き間違いかと思いましたが彼女はまた、
「土左衛門!」
と今度ははっきりとした声で楽しそうに言うのです。その声のトーンに背筋が凍り付きました。
「土左衛門……あれ……あなたが教えたのよね」
「え……なんのことだか」
「蟻もカエルもドシャえもん♪」
「ちょ……やめてください」
「ド~シャえもん~♪ド~シャえもん~♪」
心愛ちゃんが小枝を動かしながら歌っていたメロディを女が再現します。このアパート、なんなの?あの男といいこの女といい、薄気味悪い人達ばかり。早くこの場から立ち去り心愛ちゃんを探しにいきたいのに、両足は地面に吸いついたようになっています。
「心愛ちゃんもあなたみたいに、お父さんをドシャえもんするのかなあ?」
「なにを言っているんですか!」
「カエルの腹は旦那さんに似ていたかしら?」
「意味わかりません!」
「だってあなた、旦那さんをドシャえもんにしたでしょ?」
「……なんのことですか?」
「人間をドシャえもんにすると気持ちいい?」
「変な言いがかりはやめてください!」
「あなた、勝手な理由で土左衛門を楽しんだのよぅ」
「……!」
「世の中ってみんな自分勝手な理由で動いているの。隣の親子に自分の考えを押し付けるのはよくないと思うわぁ」
市川さんは私の目を見てニタニタと笑います。この女、なぜ夫のことを知っているのかしら?私が心愛ちゃんに土左衛門を教えたと知っていたとしても、どうして夫のことを?突然の出来事に混乱し立っていられなくなり、私は思わずうずくまりました。こんなことをしている暇があったら、心愛ちゃんを一刻も早く探しに行かなくてはいけないのに。息もだんだん吸えなり、まるで水中にいるかのようです。
「向井さん?どうしたの?」
その時、大家さんの声がしました。
「ぶはぁっ」
急に呼吸が楽になり体も動くようになりました。めまいもおさまっています。助かった、早く心愛ちゃんを探しにいかないと。もうすぐ日が暮れます。心愛ちゃんが河原で1人座っている姿を想像した途端、切なさが込み上げ矢も楯もたまらず走り出しました。
「ちょっと!向井さんったら!どうしちゃったんだろう?あの人、ボーっとしゃがんでいたと思ったら変な声出して走り出しちゃってさあ。どうなっちゃってんだろうねぇ。全く」
「すみません、先ほどの女性のことで少々お話をお伺いしたいのですが」
「はい?」
少し走ったところで息が切れたので、後ろを振り返ると大家さんが誰かと話をしています。市川さんかしら?話しかけられた時の不気味さがまざまざとよみがえり、私は再び走り出しました。
あの男はいつも心愛ちゃんを怒鳴るか殴るかしかしない。私なら心愛ちゃんをちゃんと守れる。髪の毛も爪も綺麗にしてあげるし、こざっぱりとしたもっとカワイイ服を着せてあげられるわ。ちゃんと食事をさせたらきっとふくふくと丸みを帯びたカワイイ幼児に戻せるはず。あの禁じられた遊びだってやめさせられる。愛情を注いで子どもらしい遊びを覚えさせて。
この世は子育てに向かない人のところにばかり子どもが生まれるようになっています。なんて理不尽な世の中なんでしょう。私ならもっと正しく育てられるのに。しばらく一緒にいるうちに私は心愛ちゃんに同情を寄せてしまったのだと思っていました。しかし、それは同情ではなく母性から生まれる愛だったと、たった今、気づいたのです。深沢だって子どもがいない方がいいに決まってます。早く見つけて心愛ちゃんとこの町を出なくては!早く、このズレを修正して、本当の親子のように私と心愛ちゃんは……。
あれ?正しい?
ズレ?
私、どこかズレている?
心愛ちゃんはやはり河原にいました。でもいつものように川から離れたところに座っていません。川の近くに立っています。
「心愛ちゃ……」
呼びかけようとした瞬間、横に大人が立っているのに気づきました。かなり高い身長のそれは深沢に違いありません。深沢の手が伸びた時、心愛ちゃんの身体が揺れたような気がしました。
「心愛ちゃん!」
