見出し画像

【劇評435】コロスが体現する村社会。森田剛と藤間爽子が生きる、安部公房の蟻地獄


 日本語の制約、ジャポニズムの罠に捕らわれず、世界で通用する文学として、私は安部公房をまっさきに思い浮かべる。この巨人に匹敵するのは、倉橋由美子くらいだろうと思いながら、終演後、紀伊國屋ホールから、階下の書店を訪ねた。


安部文学への尊敬


 安部の原作をもとに、新たに再生した『砂の女』(山西竜矢脚本・演出)を観た。この舞台には、まず安部文学に対する尊敬がある。その上で、日本の偏狭な村社会を痛烈に批判する確かな視点があった。

 山西は、老人(福田転球)と村人の三人(大石将弘、東野良平、永島敬三)の四人に、荒れ果てた修道院から出現した亡霊として登場させたところから、観客の度肝を抜いた。

 ここでは、村人たちは、ギリシア悲劇とも通じるコロスの役割を果たしていた。この一点によって、日本の砂丘を舞台にした物語から飛び立って、世界性を獲得したのである。


土着的なデザイン


 反面、舞台上で進行する物語は、美術、衣裳ともに、日本の土着的な意匠を踏まえている。おそらくは昭和の時代、東京からかなり離れた村落に、昆虫の新種を探しにきた中学校教師の男(森田剛)は、海の際にある砂丘に迷い込む。そこでは、蟻地獄のような砂の窪地があり、ひとり住む女(藤間爽子)がいる。縄ばしごから降りた男は、いつ果てることもない砂をくみ出す仕事に巻き込まれていく。この作業を怠れば、家々は崩落する。また、水をはじめとした生活に不可欠な物資も、村人から与えられない。

 外へ出たい。そのために法や倫理を繰り出す男に対して、女は諦念のなかにいて、黙々と働いている。いうまもなく、この蟻地獄は、砂丘の物語だけではなく、男が束の間、逃れてきたはずの東京の物語でもある。

 この舞台がすぐれていたのは、劇が進むにつれて、人類が生まれてから現在まで、このシーシュポスの神話の枠組のなかに生きていると告げているからだ。しかも、その地獄のなかで、人は実現不能と思いつつも、希望の手立てを作りださずにはいられない。男と女の交情がいかに深まろうとも、私たちは、愛情の牢獄からもいつか逃れたいと思わずにはいられない。

森田剛の強い声

ここから先は

865字 / 2画像
この記事のみ ¥ 300
Amazon Payで支払うと最大2%還元のチャンス! 9/30まで

お芝居を観るのは大好きだけれど、もっと深く感じたい。戯曲の読み方を知りたい。演劇の評論やエッセイを書…

長谷部浩劇評スタディ

¥1,000 / 月
人数制限あり

年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。