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「いま、ここ」/六道輪廻、人間、仏法

仏教の有名な教えに「六道輪廻」があります。

これは我々自体が「六つの迷いの世界(六道)」を生まれ変わり、死に変わりしながら果てしなく巡り続けるという考え方です。生前の行い(業:ごう)によって行き先が決まるとされ、最終的にはこの苦しみのサイクルから抜け出す(解脱する)ことを目的とした教えのことです。

私はこれに関し、これまでまるで嘘のように感じておりました。どこか形而上的に感じられ、ちっとも信じておりませんでした。

しかし最近はこれはもしかしたら「真理」なのかもしれないな、あるいはとても大切なことなのかもしれないな、そう思うようになったのです。

そもそも我々がこの世に生を受けるためには、父母の存在があり、それらにまた父母の存在が必要のわけです。彼らが生まれてこなければ、またそこで出会っていなければそのようなことにはなりませんでした。生物学的な話で言えば、多くの精子はその途中で息絶えて、その中の何億分の一の限られた者だけしか、生き残ることがでないと言われております。

それは「ご縁」が限りなく細やかに結ばれてきた結果なのです。

仮にそこがうまくいったとしても、そこから何某のトラブルがあれば、我々はこうして無事に生まれてくることはできませんでした。

我々が今こうして生きてることは、単なる事実といばそうかもしれませんが、実に奇跡的な「起こり」だというわけです。

このようなことを改めて思うと、「六道輪廻」はあるんじゃないかと思うわけですよね。我々の一切はまさに「六道輪廻」そのものではないかということです。

我々が今ここで人間として生きているということは、実に「奇怪」なことだからです。確実に何かの作用が働いていた、何かの力が働いていたとしか考えられないからです。ただのほほんとしてきただけでは、このようなことは決してあり得なかったと思うのです。

今ここで人間として生まれていることは、当然のことではありません。簡単なことではありません。

それは確実に尊いものなのです。我々の今はそのように前世より繋がってきた命なのです。「六道輪廻」こそ、ここでの真理なのです。今もその途中です。いま、ここ。あるいは我々の一切はその過程なのです。

人として生きていることが一体どういうことなのか、今生きていることがどういうことなのか、またその中で我々がやるべきことは何なのか。今我々は優先的に何をすべきなのか。

そういったことが必然的にわかってくるはずです。ましてや人生を粗末にすること、この人間としての命を粗末にすることはあってはならないことです。

つまり仏法に生きること、それが我々にとっての最善であり、今考えなければいけない最適解だということです。

人間にとっては「仏法」についてこそが、大切なことなのです。

「無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義」(百千万劫というとてつもなく長い間をかけ、そこで生まれ替わり、死に替わりしても、それでも会うことが難しい、この上ない尊い仏法に私は今、出会うことが出来た。今後はこの千載一遇の好機をのがすことなく仏さまの真実の御教えを正しく実践していきたい)

千載一遇のチャンス、また時間も多く残されているわけではないということ。このことをよくよく考えたいものですね。

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