遠藤周作『キリストの誕生』。
今年、注目している展示があります。三浦綾子記念文学館の
遠藤周作生誕100年記念回廊展
「同時代を生きた作家―遠藤周作と三浦綾子―」
上記リンク中程に詳細があります。三浦文学と遠藤文学の共通点。
それは言うまでもなく「キリスト教文学」であること。
三浦綾子さんの作品には別途触れるとして、ここでは表題に記したとおり遠藤周作『キリストの誕生』について、雑感を綴ろうかと思います。
同伴者としてのキリスト
以下、『キリストの誕生』より引用いたします。
人間がもし現代人のように、孤独を弄ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内心と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。
この本、この頁に最初に触れたのはいつだったのか。
私が所有する『キリストの誕生』は第19刷・平成五年(1993)。
恐らくその頃だと思われます。
私は、この言葉に深い感銘を受けたのです。
丁度、ちまたでは「依存」という言葉・概念が取り沙汰されており、「自分も誰か、何かに依存してはいないだろうか?」と逡巡していた時期でした。
愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の哀しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心の何処かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである。
上記の引用部分に続き遠藤が綴った言葉。それは、
だから人間が続く限り、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ず、そのような存在を探し求める。その切ない願いにイエスは生前もその死後も応えつづけてきたのだ。
私はクリスチャンではなく、敬虔な信仰も抱いてはいないため、遠藤周作の真意を『キリストの誕生』から汲み取っているとは到底申せません。
ですが、“永遠の同伴者” という言葉、概念は、先に綴った私の懊悩を
振り払ってくれたのです。
以来、『イエスの生涯』『キリストの誕生』、この二冊は私にとってのバイブルとなりました。
頁が薄茶に日焼けた今も私の書棚にあり続け、日々に迷ったときには、そっと手に取り頁を開きます。
等身大で生きるということ
遠藤周作の言葉を胸に秘めつつ、私は今日も変わらぬ日々を過ごしています。悩み迷い、時に世や人を恨むこともあります。そして、自分の悩みにそっと寄り添ってくれる存在を求めています。
もっと申せば、その存在は既に私の傍らにいるのです。
それは家族や朋友たちです。
愚かな私を支えてくれる存在に感謝しながら、言葉ではなく言葉以上に生き方そのものでそれに応えていくためにも、私は私らしい等身大で生きています。
今、この時も。
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