学びの"深さ"とはどこに?
昨日の「教育の役割とは何だろう?」で、文科省のウェブサイト内「平成29・30年改訂 学習指導要領、解説等」のページにある「主体的・対話的で深い学びの実現(「アクティブ・ラーニング」の視点からの授業改善)について(イメージ)」にかんして
「深い学び」のイメージにかんしては、まぁまぁ(言いたいことは)わかるような気もする。けれど…
と書いた。しかし… しかし、だ。
・知識を相互に関連付ける
・「深く理解」する
・問題を見出して解決策を考える
・「創造」する
「深い学び」というものがあったとして、このリストは全て、「深い学び」の副産物として現れてくるものではないか。
何が言いたいのかというと、「深い学び」そのもののイメージではない、ということ。
ぼくがいま、感じられる「深い学び」とは、たとえば、次のようなことだ。
「知識」には、何か必要を感じて取り入れるものと、それが何になるのかはよくわからずに、手に取り眺めたり、味わったり、逃したりしているものがある。
必要があって覚えているような知識からは、たいした「深さ」は得られない。だって、必要があって取り入れてるだけでしょう。
一方、それなりの時間を経て──それは半年かもしれないし、何十年かもしれないが──ある時、ふと、「あっ、あれは、こういうことだったんだ」と思い出したり、「あの時のあれは、いまここで役立つんだ」と気づいたり、そういう知識もある。
すごく若い人たちにはまだわからないかもしれないけれど、あるのだ。
そういった学びには、深さがある。
ぼくはいま、40年生きてきたところだが、これから先、そういう気づきはもっと増えるだろう。増えたら面白いだろうし、歳をとるのも悪くない、と思える。
(つづく)
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