じいちゃんへ。歌人・岡野弘彦の五十日祭に寄せて
祖父・岡野弘彦が2026年4月24日に他界しました
先日、101歳の祖父が世田谷区の老人ホームで静かに息を引き取り、1世紀以上にもわたって生きたその生涯の旅路を終えました。
生前、お世話になった皆様、祖父と親交のあった皆様には、心から感謝申し上げます。本人の希望もあり、内内のみの家族葬を執り行うことになり、すぐにお知らせできなかった非礼をお許しください。
その前の週にも親族で集まり、ワイワイと「どこの墓に入りたいか?」など、本人とも話していたような矢先でしたので、ついに、、、という感覚でした。
【プロフィール】:岡野弘彦(享年101歳)
歌人であり、国文学者。三重県津市・雲出川の源流部にある川上若宮八幡宮という35代続く宮司の家の長男として生まれ、皇學館や國學院で神主としての教育も受けつつも、生涯の師・折口信夫との出逢いから、神主は継がず、国文学・歌人の道へ進んだ。
歌人・国文学者・民俗学者である折口信夫の最後の内弟子として、晩年の折口の生活の世話などもして、折口の死後は全集をまとめあげる作業に心血を注いだ。その後、国文学・歌人としての道を歩み、國學院大學文学部の教授時代には、学生運動の最前線で大学側、学生側、双方に対して理解を示し、仲介役として奔走する。
1983年から2007年まで宮内庁御用掛として昭和天皇の作歌指南役を務めたほか、天皇陛下(徳仁さま)と皇后陛下(雅子さま)にも和歌の進講をした。宮中歌会始の選者や召人も務めた。
岡野弘彦は、この日本列島に生きた古代人の感覚を深く探求した折口信夫の思想を色濃く受け継いだ最後の内弟子だった。前衛的短歌の旺盛時代でも、古典的な格式の高い和歌の調べを一貫して詠み続けた。和歌の心の現代最後の守り人だったといえるかもしれない。
訃報を受けてから本日まで、僕は胸にぽっかりと穴が開いてしまったようになり、人生を歩む足取りに、どれだけ祖父の存在が大きく影響していたかを痛感することとなりました。
あれこれ悩みましたが、葬式で伝えられなかった祖父への言葉をしたため、来月の五十日祭で祖父に伝えようと思いました。その一部をここに公開することで、皆様に祖父の存在を、少し違う角度から感じていただけたら嬉しく思います。

じいちゃんへ
101歳まで生きてくれて、ありがとう。
気持ちが整理しきれず、先日の葬式では伝えられなかったこと、
ようやく言葉になりはじめてきたので、書こうと思います。
じいちゃん、本当は、本当は、もうちょっと生きていてほしかった。
あと少しだけ一緒に過ごして、もっと色々なことを教わりたかった。
じいちゃんから受けとってきたものを、もう少しで、自分なりに形にして報告することができたのに、、というのが率直な思いです。
でも、じいちゃんとは小学生の頃一緒に住んでいたし、
大人になってからも何度も何度も話を聞いてもらってきた。
これ以上贅沢を言ってはいけないね。
1世紀にわたる人生、お疲れさまでした。
見事な最期でした
そしてじいちゃん。本当に、見事な最期でした。
じいちゃんから僕への ”最後の贈り物” はその最後の最後まで歌い生きた姿でした。
いつも小さな紙と万年筆を手元に置いていて、
移動するときも、食事の時さえも、思いついた歌をしたためていましたね。

じいちゃんが大好きな伊豆の家から、世田谷の老人ホームに移ったとき、気持ちも弱ってしまうかなあと心配していました。
しかし、じいちゃんは老人ホームでも変わらず毎日歌を詠み続けて、
窓の外のケヤキの葉っぱが揺れる姿を見るだけでも、時空を超えて万葉の世界を脳内で旅することができる。歌人というのは、いつまでも旅ができるんだなあと、驚愕しました。
じいちゃんの長寿の理由は、歌に生きた人だったからだろうなあと。

昨年の12月、皇后陛下のお誕生日で宮中にお呼ばれして、じいちゃんに随行したときのこと。
認知症がすすみ、5分前の記憶さえも曖昧なじいちゃんは、
両陛下が何をご質問してくださっても、
「はい、私の生まれた家は三重県の深い山の奥にありましてねえ」と、
生まれ育った川上とその神社の話をしてましたね。ひやひやしたよ(笑)
たっぷりと20分ほど時間をかけて、じいちゃんが三度ほどそれを繰り返したところで、たまらずカットイン。
僕「皇后陛下にプレゼントされたお歌について触れたらいかがですか?」
と、和歌のことに話を振った途端、、、、
・このような豊かな言葉をもった民族として生まれたことへの感謝
・その言葉を生み出したこの豊かな気候/風土の列島に生まれたことへの感謝
・それをずっと見守り、祈り続けてくださった天皇家の皆様への深い感謝
という見事な感謝を、お贈りした和歌の内容と、自身の出自である川上若宮八幡宮の話とをからめながら、朗々と話すじいちゃんの姿には舌を巻いたし、両陛下も嘆息していたことを、生涯忘れないと思います。
じいちゃんを緩和ケア施設に移すか検討していた際に、老人ホームのスタッフの皆さんが、「岡野先生のことは私たちで最後までお世話させてください」と申し出てくれたり、医師の死亡確認後に、介護士の一人の女性が「最後にハグしてもいいですか?」と聞いてきてくださった。
じいちゃんは、いつも誰にでも「ありがとうございます」「ありがとうございます」って伝えていたものね。
人が死を迎えるときに、恐怖や寂しさにとらわれることなく、
ここまで歌い生きて、感謝で満ち溢れた姿でいられるものなのかと。
ひとつの「人間の理想の最期の姿」を見せられたように思います。
そんなかっこいい姿を見せてくれて、本当にありがとう。
旅と、岡野弘彦と
さて、僕のことも少し話したいと思います。
僕にとって、学生のころから日本各地を旅するのは、じいちゃんに報告するためだったようにも思います。

僕「この間は、島根県の雲南市に行ってきてさ、菅谷たたらというまだ高殿(たかどの)のあとが残ってる集落にいってさ、ずっと●●先生という地元の元校長先生のお家でどぶろくを飲みながら話を聞いていたの。たたら製鉄ってさ、鉄と火の物語だと思っていたんだけど、たたらばで大事だったのは、あの谷地形による風と水の流れだったんだね!ちょっと感動しちゃった。」
あなた「ほう。それなら、”出雲風土記”にそのあたりのことが書いてあったと思うから、読んでみるといい」
じいちゃんは僕にとって、この日本列島を愉しむための辞書のような存在でした。
じいちゃん、いつも旅の話を聞いてくれて、ありがとうね。
おかげで日本各地に、素晴らしい仲間ができたよ。
彼らはみんなその土地を愛してやまない、御師(おし)のような人々。
和歌をもとに土地を紐解き、時空を超えてその地にたたずんだ昔の人に心情を重ねることができるじいちゃんとは、また別の視座からその土地のすばらしさを僕に教えてくれる人たちです。
先日、伊豆の家でじいちゃんの歌集を改めて見返していて、幼くして母を亡くした僕と兄貴について詠んだ歌がいくつも目に入り、心配してくれていたんだなあって思った。
母のなき 幼き者がしのびきて われの胸乳を あはれまさぐる
この歌を読んだとき、僕はようやく、じいちゃんが僕らのさみしさを、ずっと抱いてくれていたのだと知りました。
この先も僕は、「どう生きていこうかな?」と立ちすくむこともあると思います。そんなときは、郡上や、日本各地の仲間の存在を頼ろうと思っているよ。
じいちゃんが戦争のあと、傷ついた心のよりどころを探して、
紀伊半島の歌枕の地をめぐり、いまだそこに息づく人の温かさと、
かつてそこにいた歌人たちの心模様を、確かに感じて安心したように。
僕も土地とつながった仲間の存在を頼ろうと思う。
だから、きっともう大丈夫だからね。

この美しき火山列島は
さて、じいちゃんは、日本のことをたまに、
「この美しき火山列島は」と表現していましたね。
最近になってようやくそのことの意味がわかってきました。
世界に存在する十数枚の地殻プレートのうち4枚がぶつかりあい、
そのプレートの沈み込み運動よって、世界の7%の活火山が日本に過集中する。
その火山が織りなすものすごく複雑な地下の構造に、
世界の平均降水量の約2倍の雨がしみわたり、
しみわたった水はそこら中から湧き出て、流れをつくる。

つまり、日本は世界でも稀有な、そこら中で水の流れを感じられる
「源流大国」であり「流域大国」だということを、
本や色んな人との出逢いによって改めて気づきました。
この「流れ」そのものがあらゆる生命の躍動を生み出し、
季節のうつろいとともに、
歌人たちの歌心さえも刺激している。
じいちゃんは、そんなことを、「この美しき火山列島」という言葉にこめていたのかなって。
僕は、岡野家が三重の山奥の神社で36代にわたってやってきたように、
人を水場にいざなう御師として、
様々な人を長良川の源流域への旅にいざなっています。
それは、
「土地に存在する流れと、そして自分の中にある内なる流れ」を味わうような旅。それが自分なりの最も素直な表現方法だと思っています。

いつかじいちゃんの師である折口先生が「神道を体系化できなかった」ことに無念を感じていたということを教えてくれたね。
僕は何度も何度も、川に入るうちに、この列島においての根底思想として「流れを生きる歓び」があるのかなって思うようになったよ。
じいちゃんが感動した歌人の感覚や、折口先生が探求していた古代人の感覚の根底には、この万事がうつろいゆき、流れていくさまを感じやすい日本の
気候・風土的特徴がある。
そして、この列島に住んできた人たちは、
水の流れを感じながら、自分と他者が離れた別々の存在でなく、同じ流れの中に溶けあっている存在であることや、
水の流れや季節の流れのように、人間の織りなす全てのことがうつろって変化していくことを感じていたのではないかなと。
この流れ(ナガレ)の思想は、気の枯れ(ケガレ)を祓うものとしてとても大切だったのかなって。いま、そんなことを考えているよ。

先日仲間たちと立ち上げた会社、その名も「御師社(おししゃ)」というのだけれども、 そのWEBの最初に、あなたの遺した言葉「この美しき火山列島は」という言葉への、自分なりの返歌を書いたので、是非読んでみてほしい。
あなたが愛したこの火山列島を、
僕は「流れ」とともに生きていくことで、
愉しんでいこうと思います。

さて、色々書きましたが、
正直、毎日悩んでばかりです。うまくいかないことも多い。
それでも今日もこの美しき火山列島のあちこちで、
水は湧き出でて、流れ、億千万のいのちを潤している。
そしてあなたから受け取った美しい言葉たちが、
今日も僕の身体を駆け巡っているように思います。
「言葉は魂、言葉は心である」
じいちゃんのこの言葉を胸に、
ぼくも残りの人生を歌い生きてみようと思います。
「伊豆大島の向こうの、海のかなたにやがて帰るんです。」
そう言っていましたね。
そろそろ、そちらに着きましたか。
安らかに、お過ごしください。
あなたから受け継いだ法螺貝で、
いつもあなたへの近況報告を吹いております。
たまに耳を傾けてみてくださいね。
2026年5月19日 春樹より

