ゴジラファンを敵に回す😢(毒舌あり)
あーぁ…またか、と。
また私はこうやって、多くの人とは違う見方をしてしまうのかと思いつつ、感じることは止められない。
今回はゴジラについてです。
まずは今日の英語
Even if the whole world sees it differently, I just can't help feeling this way.
例え世界中の人が違う風に見るとしても、私がこう感じてしまうことはどうしようもないんだよね。
なるべく使いやすい英語で、口語でも自然な表現にしました。
the whole world 、正に全世界ですね。日本人にとっては大袈裟に聞こえるかもしれませんが、英語では全然大袈裟な表現ではなく、わりとよく使われます。「全世界を敵に回しても、君が好きだ!」とか。(いや、全世界は敵に回さないよね?大体全世界の人にとっては「そもそもあなた誰?」って話だよね?ってツッコミは不要…😂)
even if は、仮に〇〇でも、例え〇〇だったとしても。
そして、 can't help ○ingで、自分ではどうしようもない感を出しました。just を使うことで更にホントしょうがないのよって感じです。
今回の私の心境そのもの…。
因みにwhole を間違ってwhoreって書かないでね😉。
それだと商売女って意味でトンデモないことになっちゃうからね笑
(また余計な1言…でもある意味、別の単語も一緒に覚えられてお得だよね!?←)
さて、事の始まりは年末新春の特集でゴジラ映画を立て続けに観たことでした。
ゴジラ映画と言ってもアメリカ版。日本のゴジラとは別ものです。
それはわかっていたので、別に深いものは求めずに観ました。
想像を裏切らず、破壊楽しー!強キャラ楽しー!闘い楽しー!最後は悪者倒してスッキリ!みたいな
商業プロレスリング ゴジラバージョン
(ついでにコング←一応主役はコングです笑)
でした。予想通り。
評価は1(10点中)。考学のために観ただけなので、まぁこんなものかと。それは良かったんです。
問題はですねぇ…そこから『ゴジラ -1.0』を思い出してしまい、
あーぁ、あれってものすごい駄作だったよなぁ。なんであんなものが評価されてるんだろう。そうだ、ついでにゴジラの歴史を辿ってみよう。
と思ってしまったことです。止められない探究心…毎回これで痛い目に遭うのに…知りたい気持ちが止められない…😭
最初にことわっておくと、私が-1.0を超駄作と思った理由は
①出演者のほとんどが演技がド下手で学芸会レベルだったから。そのせいで感情移入が全く出来なかった。(なんで上手な人を揃えなかったの?)
②芸能界の事情まで透けて見える演出に白ける一方。
どうせ生きてるよねと思った通り、大怪我したけど生きてますの女主人公。はい、病室のドアを開きましたーえーーーーっっっ!?あれだけの爆風諸々で大怪我した設定なのに顔は奇跡的にお綺麗なまま笑笑笑笑いや失笑!!美波様の綺麗なお顔を醜く崩して見せることは事務所もファンも許さなかったのですね、そうですか、そうですよね。もはやリアリティゼロのお遊戯会。
もうこれだけで、私にとっては良作と思うことは不可能でした。
それはCGは凄いですよ?派手な演出万歳ですよ?でも人間ドラマも何もかも薄っぺら。これじゃぁ日本版もアメリカ版も違いはお国柄が出てるってだけで、私はずーっと
ゴジラが可哀想
と思って観てしまいました。
震災もあったし、観る側の感情もわかりますよ。完全に人間に焦点をあて、生きる希望をウンタラカンタラ。でも、あれじゃぁゴジラは悪役…。最後生きてて良かったですけど…。
遡れば(昭和)初期のゴジラは決して単なる破壊者、悪者ではありませんでした。人間にとっては生活を破壊しに来る存在でありながら、ゴジラは人間の業による犠牲者という側面もあるので、その点では加害者と被害者がひっくり返る二重構図ですね。
ゴジラは人間にとって制御不能な厄災的役割を与えられた存在で、尚かつ人間に警鐘を与える、やや神聖的な存在でもあったのです。
この辺は戦争とか核反対の人達が熱く語っているので、それを参照してください。
でも、私が言いたいのはそこじゃないんです。今回遡っていて、知ってしまったんですよ。
ゴジラにもほのぼのハッピーの幸せ時代があったことを…!
大ショック…。
初期ゴジラとは違い、中期ゴジラになりますとゴジラに「正義のヒーロー」的な役割が与えられるようになりました。その頃のゴジラは、他の怪獣と共闘して結果的に人間を守る側。守護神ゴジラみたいな。ヒーローブームのせいで、ゴジラは人類の外側ではなく内側的な存在に移動したわけですね。
そして後期ゴジラになりますと…
なんと、ミニラという、ゴジラにとっては子ども的な存在が登場します。
(ゴジラ初心者なので知らなかった…よ…。ミニラって命名…ミニラ…)←
その頃のゴジラには、教育・遊び・親子関係という生活的な背景が出現。ゴジラも感情表現があり、時にユーモア的な言動まで!
何故このようなゴジラ像に変化したかというと、どうもこの1960年代後半、ウルトラマン大人気と合間って怪獣ブームに湧いていたようです。つまり、ターゲット層が完全に子どもにシフトして、そこからゴジラに親しみやすいキャラクター像も求められるようになったという流れのようです。ファミリー皆で楽しんで観ましょうね、みたいな。
ゴジラに教育パパ的な側面があったり(もはや擬人化してるので)握手したりと、今では考えられないゴジラのほのぼの生活を垣間見ることが出来ます。
ところが、幸せなゴジラは破壊、核や公害問題、畏怖すべき存在とは相性が悪すぎたんですよね。ゴジラが人間に近くなり過ぎでした。世界に冷戦の緊張や核問題が浮上してくると、ゴジラも再び「人類の外側の存在」に押し戻されることになりました。
私は不勉強で、初期中期ゴジラの印象から平成後のゴジラで、幸せなゴジラ時代があったことを知りませんでした。
今回これを知ってしまったせいで、私の中で崩れ落ちるものがありました。
今まで私がゴジラ映画に対して毎回思っていたのは「ひたすらゴジラが可哀想」でした。
ゴジラはただゴジラとして生きてるだけで人間から攻撃されてるわけです。人間にとって困る存在なのはもちろんですが、そもそもゴジラを生み出したのは人間でしょうと思っていたので、いつも視点はゴジラ側でした。ゴジラが被害者としか思えなかったのです。
初期ゴジラが好きと言ってる人も、大半がこの犠牲者ゴジラ視点がある人だと思ってました。
でも、でもですよ?コアなゴジラファンであればあるほど幸せゴジラのことも知っているわけですよね!?
私はずーっと「ゴジラが可哀想」だから
「ゴジラが幸せになる映画が観たい」
と思ってたんですよ。
でもそれは許されないことなのかと思ってました。犠牲者であり破壊者であるゴジラからヒーローゴジラへ。そしてまた破壊者ゴジラへ。そこに幸せなゴジラがいたとは思わず。
でもいたんですよね?幸せなゴジラ。で、ゴジラファンならそれを知っていたんですよね?
つまりこう思ってたってことですよね。
ゴジラは犠牲者、ゴジラは哀れな存在、破壊者だけど本当に悪いのは人間の業だ、人間よ反省しろ=人間の業を知らしめるためにゴジラには不幸なままでいてほしい、これからも破壊しながら人間に攻撃されて苦しそうな姿を見せてくれ、強くて怖くて恐れられて哀れな存在でいてくれよ、私達人間のために
え?それいう感情こそが人間の業じゃないんですか?それ、欲のために突っ走ってゴジラのような存在を生んでしまった、あなた達が悔い改めよと言ってる人間そのものじゃないですか?と思ってしまったんですよね…😢。
だって、わざわざゴジラを不幸設定にして満足して、それを「犠牲者ゴジラ」として語って、多分「加害人間グループに自分は含まれず、自分は警鐘を鳴らす側の人間だ」って思考なんでしょう?
幸せゴジラが許されたなら、本当にゴジラが犠牲者で可哀想と思ったらゴジラを幸せにしてあげればいいのに。
でもそれじゃぁウケません、日本人が大好きな「犠牲者でありながら破壊者であるゴジラ」じゃないので面白くありません、ゴジラの不幸を消費することで自分の正義感を満たせません、所詮ゴジラはエンターテイメントで商業ですから、人間の業は皆が持ってて消せませんから適度に言い合うのがお約束で健全ですよ?
…はい、ごもっともです。そうですよね。
その上で私は
幸せなゴジラが観たいです。
ゴジラが破壊して楽しー!
ゴジラが暴れて楽しー!
ゴジラをやっつけろー!
いや、ゴジラは警鐘を鳴らしてるんだー!
全部含めて日本版プロレスリングにしか観えなくなりました。ゴジラ好きの語るゴジラ映画に深いものを求めてはいけないというか。価値観180℃変わりましたね。
そう言えば、マイナス1.0で唯一「わぁー!!いい!!!」と思ったのは、例の定番デデデ デデデ デデデデデデデで海からゴジラが登場するシーンだけでした笑!!
ゴジラ好きだよ。幸せになってね😢!
今日も読んでくださってありがとうございました♡
