人は明日も生きているかのように、今日を生きている
祖父が亡くなったと連絡が入ったのは、意識がないと電話がきてから、わずか3時間後のことだった。
母方の祖父。
小学校卒業まで一緒に住んでいて、生まれた時から寝食を共にしながら、共働きの両親と一緒になって育てていただいた。軽トラで保育園に送ってくれたし、キャッチボールもしたし、寝る前には毎晩おやすみのタッチをして、子どもながら僕も思い出はたくさんあった。
祖父は大変聡明で勉強家で、部屋には何冊も本があって、本棚にはどこにも売られていなさそうな古い本がたくさん並んでいた。
当時親族で本をここまで貪るように読んでいたのは僕ぐらいだと思っていたけれど、そんなことはないなと思わざるを得なかったほどの書物の数々だった。
地域の誰もが知っていて、誰からも頼られる印象で、親族の中でも特に尊敬していた祖父。
日曜、19時過ぎに意識がないと連絡が届いて、22時過ぎには亡くなったと連絡が入った。
本当に亡くなったのだろうか。そんなことすら思うほど急な報せだった。
月曜、朝一番で新幹線に飛び乗って、ぼんやりと車窓に広がる田舎の風景を見て祖父の元へと向かう。
ここまで身近な人が亡くなることは、ある意味幸運なことにも初めてだったので、どうにも実感が湧かなかった。単にしばらく会っていなかったからなのかもしれない。新幹線を降りて、在来線に乗り換え、またぼんやりと琵琶湖の手前に広がる田んぼや、瓦の屋根の家々、いくつもの工場を眺めて進む。
見慣れた駅名と、見慣れない街並み。
流れゆく風景の中には、大きく変わっているところも、全く変わっていない懐かしいところも点在していた。
僕は母に指定された病院へと、駅から徒歩で向かった。
亡くなって半日経ったが、まだ病室にいるようだった。
マスクをして、アルコール消毒して、コロナ時代を思い出すなと思いながら、病室に入る。
ドラマで見ていた、顔を覆う白い布。初めて見た。僕は少し背筋が伸びる。
「自分で取りな」
母がそう言ったので、僕は荷物を置いて、布を持ち上げた。
とても穏やかな、色が若干白くなった顔がそこにはあった。
見慣れた顔だった。
具合が悪くて顔色が薄いぐらいの印象で、目を開けたとしても驚きはしないほど、思った以上に綺麗で和やかな表情をしていた。
「はるか来てくれたで」
母がそう言ってくれた。僕は言葉が出なくて、悲しいはずなのに、本当に悲しいのかよくわからない感情で、その顔を見ていた。
直接触っても問題ないらしく、僕はその顔にそっと静かに触れる。
亡くなると人の肌はこんなに冷たくなって、こんな感触なんだなと思った。
大動脈瘤破裂。
死因を先に聞いていた僕は、昨夜のうちに調べていた。相当痛かったはずだ。看護師さんの話によると、枕もベッドも絞れるんじゃないかと思うぐらい、上半身の汗でびっしょりになっていて、しばらく苦しんでいた時間があったという。
それでも、最期はこんなにも穏やかな表情で硬直していくんだなと思った。
手が胸の前で組まれていた。
早朝看護師さんに、わざわざ手を組んでいただいたんですねと母が聞くと、「自分で組まれましたよ」と言われたそうだ。死期を悟ったとしても、激痛の中、呼吸も困難な中、どうしてそんなことができようか。僕はそんなことを思いながら、その硬直しかけている冷たい腕にも触れた。
「よー頑張ったんやな、お疲れさんやな、ありがとうな」
そんな言葉しか出なかった。
ちょうどすぐ後に父も合流して、この後の流れについての話をした。
祖父は献体といって、医学生などの勉学のために身体を提供することを希望していたため、これから身体は県立医大に送られるとのことだった。
県立医大でホルマリン漬けにされたあと、未来の医師や看護師の勉強のために身体を提供し、あちこちを解剖などが行われる。そして状態次第で、半年から3年後までに医大で火葬をして、最後は比叡山に納骨するそうだ。
つまり、葬式は執り行われない。
今日がお別れの日で、すぐに県立医大へ送らなければいけないため、僕は急いで帰ってきたという経緯もあった。
やがて祖父は病室から霊安室に運ばれて、県立医大へお送りする方が来て、今後の説明に同席させてもらった。
献体というものが世の中にあることを、僕はこのときに初めて知った。2人だけしか説明を受けられないそうで、母の意向で父は退出し、僕と2人でこの後の説明や同意書についてなどの話を聞いた。
死亡診断書の原本を初めて見た。死因は、その原因、またその原因と、トヨタのなぜなぜ分析ぐらい深掘りして書くことになっていることも知った。通常火葬の手続きは日付を決めて役所に出すこと、意外と手続きはたくさんあること、最近は墓じまいをする人が多いこと、何もかも初めて知ることばかりだった。
手続きが終わり、祖父と最期のお別れのとき。
頑張ってな、と声をかけた。
頑張って人生を生き抜いたその後も、また誰かの役に立とうとしているのだ。頑張ってな、僕も頑張るわ。冷たい額に手を置いて、僕は誓うようにそう呟いた。
そうして、祖父の身体は黒い車に乗せられて、真夏の灼熱の中、一礼をする僕らを背に、県立医大へと送られていった。
この一連は、母から連絡が来てから、まだ24時間も経たないうちに起こった出来事だった。
たった約半日の間に、実感を遠く置き去りにしたまま、忘れることのない肌の冷たい感触と、不思議な感情と、新たな教養と、たくさんの思い出を残して、祖父は旅立っていった。
一昨日は、元気だったそうだ。
本当に、この一日にも満たない間に起こったということに、やはりまだ実感のような想いは追いついてこない。
そういうもんなのか、と思った。
そういうもんなんだろうな、とも思った。
人は、まるで明日も生きているかのように、今日を生きている。
明日も生きているかのように仕事をして、明日もまた会えるかのように人と会い、またいつか話せるかのように談笑する。
時間は有限だとか、親孝行には期限があるだとか、時間は命であるという言葉はよく聞くけれど。
その意味を本当に理解していたのだろうか。
明日も生きていると思い込んでいるから、もしかしたらどこか中途半端に一日を終わらせる日もあったのかもしれない。
僕は自問する。
今日は本当に生き切ったのだろうか?
世のため人のために尽くし、天命を待つだけの一日を過ごしただろうか?
これは、死に物狂いで全部やれということではない。
優先順位の話だ。
今日は何を優先し、何を思い、誰と会い、どんなことに取り組んだのだろうか。
明るい未来を断言しながらも、今日一日を一生だと思って生き抜いただろうか。
明日も生きているかのように振る舞えるのは、それだけ豊かで恵まれた世界に生まれ落ちてきたからである。
その先天的な幸せを噛み締めながら。
今日を、一生と思って生きる。
さて、今日も素晴らしい一日が始まる。
