🌹女風土記🌹 満州 日本女性初の大使・「女子差別撤廃条約」の立役者 高橋 展子 女史 / Japan's First Female Ambassador, Ms. Nobuko Takahashi

「精度とか常識とか社会通念とかそうものにとらわれないで自分の道を行きます。とっても痛快。」
"I am going my own way without being bound by precision, common sense, or social conventions. It's very exciting."
高橋(富田) 展子 女史
Ms. Nobuko Takhashi
1916 - 1990
満州 生誕
Born in Manchuria
高橋 展子 女史は日本女性初の大使で、「女子差別撤廃条約」日本締結の立役者です。敗戦後の労働省婦人少年職員として「勤労青少年福祉法」「勤労婦人福祉法制定」に邁進。初めて日本の法制度に育児休業を制定。国際労働機関(ILO)事務局長補佐、デンマーク大使を経て、「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(女子差別撤廃条約)」に日本政府代表団首席代表として署名します。
Ms. Nobuko Takahashi is Japan's first female ambassador and a leading figure in Japan's conclusion of the Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination against Women. After the defeat in the war, she worked as an employee of the Ministry of Labor for the establishment of the ``Working Youth Welfare Act'' and the ``Working Women's Welfare Act.'' For the first time, childcare leave is established in the Japanese legal system. After serving as Assistant Director-General of the International Labor Organization (ILO) and Ambassador of Denmark, I signed the Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination against Women (Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination against Women) as the head of the Japanese government delegation.
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「あこがれの英語教師」
満州鉄道に勤める父親と、足尾銅山鉱毒事件で強制廃村となった谷中村村長を親戚に持つ母親のもと、満州の長春に展子は兄と2人きょうだいで生れます。核家族で単純で明るく近代的に豊かに暮らし、大正デモクラシー後期の自由でのびのびとした雰囲気の中でガキ大将として西広場小学校を卒業。大連女学校に進学すると満州事変が始まり、女子大英文科を卒業したばかりの素敵な英語教師にすがりつくように英語を猛勉強します。東京女子大学の英文学科に入学後した展子は、はじめてアメリカ人の英語を耳にしてチンプンカンプン。猛勉強してアメリカ留学を目指すものの戦争で閉ざされ、父親と弟が突然逝去し母親と2人だけになります。八方ふさがりの状態で卒業すると、何とか大手商社に入社して翻訳の仕事に勤務、まもなく河北病院の医師と結婚して退職します。東京で従兄の画家・大野五郎のアトリエに通って、詩人・写真家・画家などの卵たちとよく遊びよく学んでいた展子。「わたしは白無垢の着物なんて着ないわよ、お母さん。」
「アメリカ人女性将校」
専業主婦で過ごすうちに戦争が始まり、夫の出征・疎開騒ぎと続き、適正外国語と目の敵にされながらもほそぼそと英語の勉強を続けます。疎開先の埼玉で夫の戦死と敗戦を迎えます。子供3人を抱えた展子は、ラジオの米兵向け英語放送に耳を傾けながら、浦和の埼玉県庁でGHQ軍政部と渉外する仕事にありつきます。アメリカ軍人の顧問が毎日県知事に指令を出し戦後改革を急ピッチで進めるのを、展子は軍政部顧問と県知事はじめ県庁職員との折衝の通訳・資料の翻訳します。半年後、東京のGHQ女性視察官の案内を勤めた展子は、男性将校と肩を並べて仕事に邁進する姿に感銘を受けるとともに、この女性将校のアシスタントに引き抜かれます。展子は東京のGHQ民間情報教育部・企画課婦人係に所属、毎朝の新聞記事の中から婦人関係の記事を翻訳し、オフィスにある諸外国資料を読み漁り、日本政府の役人ならびに民間指導者との会議準備をしながら1年半を過ごします。アメリカ軍人の男女が仕事に恋愛に余暇に自由に働く職場で、年下の高橋啓と熱烈な恋愛結婚をします。「夫選びが一番です。」
「勤労婦人福祉法」
新設された労働省婦人少年局に移動した展子は、初代婦人少年局長・山川菊栄のもと、女子及び年少労働者また一般婦人について資料収集・実態調査・政策立案・ 資料公表・「婦人週間キャンペーン」に全国の婦人少年室の女性職員とともに従事。膨大な資料をいちいち英語に翻訳しては、週に1回上司のお供をしてGHQへ赴き交渉の通訳をします。GHQがなくなると、旧体制派・吉田茂内閣は山川菊栄を罷免。婦人少年局解体の圧力が強くなる中、展子は課長・田中寿美子の補佐を経て課長となり「事業内ホームヘルプ制度」(企業が家事・育児を補助する人材を雇う制度)を展開。続いて局長として赤松良子を補佐に迎え「勤労青少年福祉法」「勤労婦人福祉法」制定に尽力。 男女の賃金格差が2倍に広がる中で「ベストでないがベター」として「育児休業」を法に盛り込みます。国際労働機関ILO地域会議の東京開催が決まると、展子は同時通訳に抜擢。軍政部で米国各地のなまりに鍛えられていた展子は、オーストラリア英語・インド英語・フランス英語はじめ各国式英語と格闘して自信をつけます。「少女を大使を抱け、そして忍耐強く。」
「女子差別撤廃条約」
ジュネーブにある国際労働機関事務局・ILO本部で事務局長補佐で働き始めた展子は、100か国から集まる職員たちと世界の労働問題を研究し、資料を作成し、条約草案を造り、総会など会議を運営します。意見を言いたい聞きたい場合に署名入りの文書を出し、コピーを取って広く関係者に配り、毎日毎日、文書による協議で仕事の連絡も計画も論議も進め、「黙っていては馬鹿だとみられる」「人と違う意見を言うことが歓迎される」会議で展子は自分に鞭打ってしゃべりたてます。2年を過ごした後、デンマーク駐日大使に着任。2か月後にはコペンハーゲン開催「国連婦人の10年中間会議」の準備に取り掛かります。現地の各国55人の大使へ表敬訪問、週に3日ずつの招かれるパーティーと招くパーティーで友好親善と情報収集。「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(女子差別撤廃条約)」の締結を渋る日本国政府を外圧で制し、日本政府代表団首席代表として署名。帰国した展子は、男性が願望を込めてつくるセックス文化産業の繁昌ぶり、「男女子雇用機会均等法」制定の的外れな論争にカルチャーショックを受けつつ、婦人問題企画推進有識者会議の座長・横浜市女性協会の理事長・女性職業財団の初代会長を歴任します。「世の中にまだ面白いことないかしら。今も好奇心で一杯なのよ。」
-在デンマーク日本国大使館
-ILO
-男女共同参画府
-『ジュネーブ日記 : レマン湖の見えるオフィスで』高橋展子 日本労働協会1979年
-『私の英語修行』富田展子 潮出版社 1981年
-『デンマーク日記 女性大使の覚え書』高橋展子 東京書籍 1985年
-『高橋展子さんを想う : 追悼集』(高橋展子追悼集刊行世話人会 1991.12)https://happywomen.base.shop/items/121659260

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