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お蝶と菊舞屋の憂鬱 第五話 北軍の悪鬼【改訂版】

蝶麗団の歓声が鳴り響く関船は、琵琶湖のさらに深い霧の奥へと分け入っていった。すると、焼け焦げた臭いが漂い、誰もが視界を遮る霧の奥を凝視して緊張感が船上を包んでいた。さっきまでの熱狂が嘘のように、船上に静寂が戻った。

「戦場が近づいている……」

霧の向こうから、これまで聞いたこともない音が響き始める。地を震わせる陣太鼓の音。遠く近く響き渡る怒号と断末魔の叫び。

初めて耳にする「本物の戦」の音は、お蝶の鼓膜を震わせ、心臓を鷲掴みにした。そして、風に乗って流れてくる「何か」が焦げる異様な臭いが鼻を突く。

「……龍之介。この臭いは、何なのだ?」 お蝶が面貌(めんぼう)を手に取り、低く問いかける。

「これは、人の肉が焼ける臭いだ。これが、お前の望んだ戦場だ」 龍之介の冷めた声に、お蝶は喉の奥が引き締まるのを感じた。

やがて、関船の底が浅瀬の砂を削る音が響き、高島の浜へと乗り上げた。

「上陸せよ! 北軍を一人残らず血祭りに上げろ!」 高島で待機していた南軍の傲岸な差配役の怒号と共に、お蝶に魂を捧げた「蝶麗団」の男たちは、野獣のような咆哮を上げて次々と波打ち際へ飛び出していった。

だが、浜へ降り立ち、水際を走るその足に何かが絡みついた。 それは、波に打ち寄せられた腕や足の残骸だった。 「っ……!」
先ほどまで威勢よく叫んでいた蝶麗団は、息を詰まらせた。

お蝶と蝶麗団を待っていたのは、船上の熱狂を冷水でぶちまけるような、圧倒的な「死」の気配だった。

そして、息を呑む間もなく、霧が晴れた視界の先に、目を疑う惨状が姿を現した。

浜辺から続く街道は、すでに死体や怪我人で埋め尽くされていた。

血に染まり、呻き声を上げる民や兵たち。
切り裂かれた腹からは、湯気と共に生温かい臓物が無残に溢れ出し、泥にまみれている。陥没した頭部からは脳漿(のうしょう)がどろりと流れ、原型を留めぬ肉片がいたるところに散乱していた。

お蝶の足元は血と脂が混じった赤黒い泥濘(ぬかるみ)と化し、一歩進むたびに沓底が「ねちゃり」と音を立てる。

立ち込める鉄の臭いと排泄物の悪臭。
一歩足を踏み入れた瞬間、お蝶の鼻腔を強烈な吐き気が襲った。
船上で語った理想や復讐心は、この圧倒的な「死の物量」の前に、藻屑のように吹き飛んでいた。

(これが……戦か。わらわが望んだ、復讐の舞台なのか……!)

彼女は鉄製の面貌(めんぼう)を装着し、女の顔を隠した。
武芸の鍛錬は積んできた。覚悟もしてきた。だが、目の前に広がる光景は、彼女の想像力を無残に踏みにじる地獄そのものだった。

膝が笑い、視界が歪む。弓を杖代わりにしなければ、その場に崩れ落ちていただろう。面貌の中で必死に呼吸を整え、こみ上げる吐瀉物を飲み込む。 恐怖で凍りつきそうな心を繋ぎ止めたのは、胸の奥で燻り続ける漆黒の殺意だった。

「……集中せよ。わらわは、あの男を……新庄直昌を血祭りに上げるためにここへ来たのだ」

その震える背中を、菊舞屋の三人は少し離れた場所から見つめていた。

「お蝶さん、大丈夫ですかね? 案外、脆そうだ……」 平太が不安げに眉をひそめると、龍之介は鼻で笑った。
「放っておけ。あいつは弱みを見せたくない性質(タチ)だ。声をかけようもんなら、意地でも強がり通すに違いない」
「姐御……心配だ。見てくる!」 梅丸が駆け出そうとするのを、龍之介の鞘が遮った。

「邪魔をするな。それより梅丸、雪火からの『虫の知らせ』を受け取る準備をしろ。ここからは遊びじゃねえぞ」 龍之介の低い声に、梅丸はしぶしぶ返事をする。そして、立ち止まり、裸足になって瞑想の準備に取り掛かる。

「梅丸の奴、完全にお蝶さんに心酔してますね」 平太の苦笑いに、龍之介は目を細めて後方の霧の向こうを見据えた。
「……お蝶や梅丸にばかり気を取られるなよ。後ろを見ろ。別便で先に到着していた幽玄団の連中が、やけに近くに張り付いてやがる」
「またあいつらですか。僕たちの『三重契約の仕事』を嗅ぎつけて、横取りしに来たんでしょうか?」
「さあな。だが、火事場泥棒に後ろから刺されるのは御免だ。探りを入れてくる」


龍之介は、菊舞屋と並び称される何でも屋集団「幽玄屋(ゆうげんや)」、(傭兵時は幽玄団」)の陣へと足を運んだ。焚き火を囲む荒くれ共の中に、顔見知りの男である黒蝮(くろまむし)を見つけると、気安く声をかける。

「幽玄団の諸君、儲かっているかね?」
「ボチボチだな。競合相手がいつも間抜けなおかげで、仕事が捗って助かっているぜ」 黒蝮がニヤリと笑うと、幽玄団の連中からドッと下品な哄笑が上がった。

「あの時の宝刀、高く売れたのかよ」 龍之介の問いに、黒蝮は自慢げに話す。
「ああ、そうだ。菊舞屋が追っ手と遊んでる間に、こっちは大儲けよ」
「なら、少しぐらい分け前をよこせよ」
「分け前だと? ……これなら余っているから、くれてやるよ」 黒蝮が投げ寄越したのは、鞘から抜けもしない、芝居道具のような小さくて粗悪な竹光(たけみつ)だった。

そのあまりの軽さに呆れ果てた龍之介は、黒蝮が気づいた時にはすでに背後を取っていた。そして無防備な彼の尻の割れ目めがけ、容赦なく竹光の切っ先を突き立てる。
「こんななまくらで俺の機嫌が取れるかよ。ケツに突っ込んでも痛くも痒くもねえだろ」

ちょっかいをかけられながらも、黒蝮の目は龍之介の背後を探っている。

「……ところで、菊舞屋が南軍に参加するたぁ、珍しいじゃねぇか。あの強情そうな女のせいか?女郎屋でも始める気か? 」

「金欠じゃなけりゃあ、好んでこんな糞の臭いがする戦場に来るかよ。あの女は、まあ……修行中の……厄介者だ」龍之介が適当に誤魔化そうとしたのを黒蝮は見逃さなかった。

龍之介はお蝶と菊舞屋の目的を悟られぬよう、話題を戦況へと強引に変えた。

「高島地域の南軍の連中は戦慣れしてねぇ。だから、ここも北軍(浅井)の進軍をあっさり許しちまったようだな」
「ああ。北軍は用意周到に奇襲を仕掛けてきやがった。だが、本当の勝負はこれからだ」 黒蝮は焚き火の枝を折り、地面に簡略な地図を描いた。

「俺たちは軍船で先回りしたが、南軍(六角)の本隊は陸路で北上中だ。到着にはまだ時間がかかる。それまでは俺たちだけで、ここから北にある『百瀬川(ももせがわ)』までを押さえる必要がある」
「百瀬川で、北軍本隊の南下を迎え撃つってわけか」龍之介は砂浜に目を向けると、続々と南軍の傭兵を乗せた軍船が到着していた。
「そうだ。そのために、高島を奇襲した北軍の先陣部隊を殲滅し、百瀬川まで押し返すのが、傭兵第一陣の俺たちの仕事になる」

「龍さん、一大事です!」 泥にまみれた平太が、息を切らして駆け込んできた。
「背後から北軍(浅井)が! それに、梅丸が雪火さんからの『虫の知らせ』を受け取りました!」

龍之介が背後に振り返ると、霧の中を突き破り、巴紋(ともえもん)の無数の軍旗が躍り出てくるのが見えた。

その軍旗は、北軍の悪鬼・新庄直昌の部隊であった。

新庄軍の騎馬隊が南軍の陣に突き刺さるのが見えた。まるで巨木が倒れるかのように、人や馬が木の葉のごとく空中に跳ね飛ばされ、血飛沫が霧を赤く染めていく。その凄まじい破壊力と進撃の速さに、平太は言葉を失い、顔面を蒼白にして膝を震わせた。
「…まさに、悪鬼だ……このままじゃ僕らも……」

「平太!雪火からの伝言は!」龍之介が叫ぶ。
「な、内容は!……『高島の南軍は、傭兵を捨て駒にし、すでに清水山城へ撤退を開始した』と……!」

龍之介の頬が引き攣った。
「……南軍のクソ共、俺たちを盾にして自分らだけ逃げやがったか。最悪の展開だ」

左右を川と敵軍に挟まれ、背後からは「悪鬼」が迫っている。一刻の猶予もない。龍之介は隣で呆然としていた黒蝮の胸ぐらを掴み、吐き捨てた。

「おい、蝮! 南軍は俺たちを見捨てて清水山城へ逃げたぞ。このままだと俺達は袋のネズミだ。……俺はとっととこの場を撤退する。死にたくなきゃ、お前らも早くここから逃げるんだな!」

呆気にとられる黒蝮を放置し、龍之介は平太の首根っこを掴んで走り出した。
「平太! 梅丸を回収して、軍馬を調達しろ!俺は馬鹿女を連れ戻す!」
「わかりました!」
「あの女、この状況を知ったら何をしでかすか、分からねえぞ!」


復讐心という名の炎だけが、お蝶をこの地獄に立たせていた。だが、どれだけ目を凝らしても、憎き直昌の姿は戦塵に紛れて見当たらない。

その時、南軍の背後が突如として崩れた。
「悪鬼の奇襲だ!」という悲鳴が上がる。お蝶は持ち場を捨て、吸い寄せられるようにその場へ向かった。

騒乱の最前線、鬼神の如く暴れまわる馬上の男が目に飛び込んでくる。

「巴紋の旗印、鹿角(かづの)の脇立に、あの巨大な金棒……新庄直昌!」

直昌の戦いは、もはや武芸の域を超えていた。
金棒が唸りを上げて振り抜かれるたび、南軍の兵士たちは木端微塵に空中に跳ね飛ばされ、原型を留めぬ肉塊となって地面に叩きつけられる。血飛沫の中を、返り血を浴びた鬼の形相で突き進むその姿は、まさに戦場に降り立った悪鬼であった。

お蝶は楯に身を隠し、震える手で矢を番(つが)えた。
清秀を失ったあの日、静姫は死んだはずだ。今ここにいるのは、復讐のためだけに生きる亡霊。……だが、脳裏をよぎる清秀の穏やかな笑顔が、弦を引く指先を微かに狂わせる。

(――心が乱れれば、弓は操れぬ。無心になれ、無心に!)

師・法然の言葉を呪文のように唱え、息を大きく吸い込む。
そして、息を少しずつ吐き出しながら、直昌に狙いを定めたまま弦をゆっくりと引き絞り、隙を探る。

すると直昌の進撃が止まった。
彼が周囲の家臣達に下知を飛ばし、ふっと隙を見せた。

お蝶が「もらった!」と指を離そうとした刹那、遥か彼方にいたはずの直昌の視線が、弾かれたようにこちらを射抜いていた。
「っ……!」 面貌越しに全身を貫かれた。

それは「視線」などという生易しいものではなかった。巨大な鉄槌で心臓を直接叩かれたような、逃れられぬ死の予感。その凄まじい覇気に当てられ、心臓が激しく脈を打つ。お蝶は引き絞った矢を放つことすらできず、呆然と立ち尽くした。

「お蝶! 戦は終わりだ!とっとと逃げねえと命を落とすぞ!」

馬を飛ばしてきた龍之介の怒声が響く。
だが、お蝶は金縛りにあったように動けない。

「死にたいのか!このボケが!」
「……死ねるのなら、本望や。わらわに構うな!」

馬から降りた龍之介が、開き直るお蝶の肩を強く掴んだ。
「死ぬ覚悟だと? 笑わせるな。失敗して自分が殺されるのが怖かっただけだろうが!お前はただ、死の恐怖に震えていただけだ」
「……貴様に、わらわの何がわかる! 失せろ!」

その瞳は悔しさと恐怖に激しく揺れていたが、ただ奥歯を噛み締め、血が滲むほどに唇を震わせて龍之介を睨みつけた。

龍之介は、今までになく低い、静かな声で言った。
「死が怖いなら、お前にはまだ人として生きる価値がある。……だが、独りよがりの怨念で周りを巻き込むんじゃねえ。お前が死ねば、悲しむ奴がここにいることを忘れるな」龍之介は平太、梅丸、急遽組織された蝶麗団らの姿に視線を配る。

「気安く触るなと言っとるやろ!」 お蝶が龍之介の手を振り払おうともがいた拍子に、意図せず指が弦を放した。矢は直昌の喉元へ真っ直ぐに飛んだ

――はずだった。

だが、その寸前。まるで何らかの見えない力に弾かれたように、矢は不自然な軌道を描いて虚空へと逸れていった。

「なっ……!?」お蝶が愕然としていると、龍之介が諭す。
「無駄だ。奴は格が違いすぎる。今の俺達にはどうにもならねえ。だが……やり方を変えれば、……術はある」

北軍の包囲網が狭まり、南軍の傭兵団へ矢の雨が降り注がれる。
龍之介が頭上を楯で覆ったが、お蝶の左腕を矢が掠めた。彼女が苦悶の表情を浮かべていると、合流した平太と梅丸が、彼女を無理やり軍馬に乗せて撤退の準備に入る。

龍之介は蝶麗団に向かって撤退を号令した。
「お蝶様の指示だ!」と偽って、
「今は撤退だ!生き延びれば次がある! ヒャッホー!」

龍之介の掛け声に導かれ、壊滅寸前の第一陣から、菊舞屋と蝶麗団は一早く戦線を離脱した。

馬を走らせながら、龍之介は先ほどの光景を反芻していた。
(あの矢の弾かれ方……まるで……)
直昌の背後に見えたのは、かつて「不死身の驍将」と謳われた、堀能登守の不気味な影であった。




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