ローマじゃなかった。それでも、私は捕まった。
ROMA/ローマ
Roma(2018年/アメリカ=メキシコ)
監督・脚本・撮影:アルフォンソ・キュアロン
出演:ヤリッツァ・アパリシオ(クレオ)、マリーナ・デ・タビラ(ソフィア)
まったく予備知識なしに観始めた。アカデミー賞に多くノミネートされていた作品、という程度の認識だった。
そして、見事に勘違いした。ローマの話だと思い込んでいたのだ。しかもなぜか戦前の。スペイン語が飛び交い、ドイツを揶揄するような会話が出てきても、「なるほど、そういう設定か」と無理やり理解しようとする自分がいる。人間の思い込みは実にたくましい。
だが、街の空気や人々の生活のディテールが積み重なるにつれ、違和感はやがて確信へと変わる。これは1970〜71年、メキシコシティのコロニア・ローマ地区の物語だ。そこに気づいた瞬間、何か大きな力でスクリーンに引き込まれた。
捕まった。
白黒の映像は驚くほど静謐で、どこまでも澄んでいる。家政婦クレオの日常が、一定の距離を保ったカメラで淡々と映し出される。カメラは多くの場合固定され、動くとしてもゆっくりと水平に滑るだけ。感情を煽るような演出はない。だが、その「何も起きていないように見える時間」が、逆に強い引力を持ってこちらを引き寄せる。
クレオという人物もまた静かだ。感情を露わにすることはほとんどない。雇い主であるソフィア一家に対しても、身勝手な恋人に対しても、彼女は声を荒げない。だがそれは無感情なのではない。むしろ、感情を表に出すことを許されない環境の中で、それでも折れない芯を保ち続けている。その強さが、ふとした仕草や沈黙の奥からにじみ出る。子どもたちや犬たちが彼女を慕うのも、きっとその静かで強い優しさゆえだ。
この穏やかな時間の流れが、ある瞬間にだけ大きく揺らぐ。
子どもたちと映画館へ向かう場面。70年代の街並みや車、ファッションを映し出す長い移動ショットは、時間そのものを丸ごと運んでくるかのようだ。そして、いるはずのないアントニオを目撃してしまう。
ソフィアとベビーベッドを買いに行く場面では、突如として群衆の混乱と暴力が流れ込む。日常の内部に、暴力が無遠慮に侵入してくる瞬間だ。その暴力の中にはフェルミンもいる。
そして海岸のシーン。波にさらわれる子どもたちに向かい、泳げないクレオが海へ入っていく。あの長回しのショットは、彼女の内面が一気に露出する瞬間として胸に迫る。あまりに静かだった人物が、あの一歩で物語の中心に立つ。
この映画の背景には、当時のメキシコ社会の緊張がある。高度成長の裏で広がる格差、そして学生運動とそれを抑え込む権力。その衝突はクレオの個人的な物語と交差し、彼女の人生に影を落とす。歴史は遠くで起きているのではなく、彼女の生活のすぐ隣で、時に無慈悲に流れ込んでくる。
それでも、この映画は声高に何かを主張することはない。なぜなら、この映画は政治を、歴史を、暴力を描き上げたいのではない。ただ、静かな日常の積み重ねを写し取りたいのだ。その日常に、庶民の、人間の力強さを。
派手なドラマはない。だが、忘れがたい体験がある。痛いほどに美しく、そして深く心に残る一本だ。
