エッセイ 『ゾンビの手』
私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。
結論から言うと、
「私が他人のことを尊重しすぎていて、甘やかさないから」である可能性がある。
過去にも書いたが、私の友人や知り合い同士が定期的に「ケンカ」をしているところを見ることがあるが、互いの感情が収まるとまた関わり始めることも多い。
しかし、私が、誰かと「ケンカ」になると、相手はその時点で私と関わることをやめてしまうことが多い。
これはなぜか私の友人に聞いてみたところ、
「それはゾンビの手に足首を掴まれるからだよ、あれ怖いんだよ、、」
と教えてくれたが、これは、おそらく「ゾンビ=相手より精神年齢の高い大人」のことを言っているのだと思った。
私は、特に、親しくしている誰かとモメた時や、誰かのマナー違反に耐えかねて注意する時、基本的に「感情的」になることがないし、途中で話し合いから逃げることもない。
冷静に論理的な話し合いをして、相手に謝ってもらうか、話し合いの結果私に非があることを納得できれば私が謝罪する。
私はこれが他人とモメた時の通常の「大人」の対応だと思っていたが、これができる人にほとんど会ったことがない。
他人とモメたり、何かを責められた時点で、感情的かつ交戦的になり、相手に嫌味を言って攻撃したり、話し合いから逃げたり、とまともに話し合いにならない場合が多い。
なので、私の友人同士の場合、互いに感情をぶつけ合うだけで、話し合いは進まず、互いに感情が収まったらまた普通に関わり始めるというパターンが多い。この時、「問題」の解決はなされていない。
つまり、相手に何か失礼な言動をされて許容できないことがあったことを、相手が直すこともしないし、謝罪もない。
そして、逆に、私のようなスタイルは友人からすると「ゾンビ」であるらしい。
つまり、嫌味を言って攻撃したり、反論したりして「攻撃」しても私が一切傷付かない、怒らない=相手が私に関与できない=撃っても刺しても効かない「ゾンビ」、であるという意味であると思う。
なので、相手が何を言っても「私に関与できない(傷付けることも、怒らせることも、追い払うこともできない)」という「状態」が「怖い」ということだと思う。
私は、説明されてもその「怖さ」というのはよくわからない。相手がヤンキーやヤクザのように、高圧的に怒ってくるのであれば「怖い」ということは理解できる。
しかし、私は人と話し合いをするときは、出来るだけ冷静に良識的に自分の意見を伝えるので、話し合いから逃げ出すほど「怖い」という感覚はわからないが、
おそらく、私がどのような「視点」でモノを言っているのかが問題であるように思った。
つまり、相手が持っている精神年齢の最高到達点、つまり「精神的に大人である人格の状態」よりも、私がそれを大きく上回る「大人性」を持った人格で接した場合、相手は、幼い子どもから見た時の「親や学校の先生」を相手にしているような感覚になるのだと思う。
この場合、相手の「攻撃」というものが、基本的に私に「関与できない」と思う。
つまり、私を怒らせたり、傷付けたりするために私を罵倒したり、嫌味を言ったり、感情をぶつけたりしても、私は何も影響を受けない。
この構図自体がもう「怖い」のだと思う。
私からすると、モメたときは互いに「攻撃」などはする必要はなく、互いに話し合って、非があると互いに認めたほうが「ごめんね、気をつけるね」と一言謝ればそれで済む話であると思うが、多くの人はそうはならないのは、やはり「精神的に幼い」からだと思う。
つまり、小さいことであっても、自分の「非」というものを認めることができない、ということである。
そのため、まだ感情をぶつけ合って終わったほうがマシなのだと思う。自分の「非」というものを認める必要がないためである。
私は基本的に、モメる=非の発見と謝罪、なので、感情というものはそこでは邪魔なだけである。
ただ、多くの人にとって「非」は問題ではなく、嫌な気分になり発生した「怒り」を相手にぶつけて、発散する、ことが重要なのだと思う。
「非」、つまり、「至らない点」というのは、基本的には、追求されることなく、許容し合うものである、という扱われ方なのかもしれない。
もちろん、私も、親しくしている相手の「迷惑、至らない部分」というものは、基本的には許容しようとするが、どうしても許容できず直して欲しいことや、謝罪をして欲しいことは注意をするしかない。
ただ、私の場合は、感情をぶつけて自分の相手への不満を発散するという方法ではなく、話し合いをして相手に改めてもらったり、謝罪をしてもらうという方法なので、
まず、他人との「モメ方」自体が多くの人と違い、自分の非を認めることができない幼稚性を持っている人は、私が「非」の追求をしてくるので、逃げ出すしかないということかもしれないと思った。
そして、おそらくそういうタイプは、話し合いが進行しなくても、私が冷静に話し合いを持ちかけようとした時点で、私がどういう目線(状態)で話しているのかに気づいて逃げ出して、そのまま私との関わりを切ってしまう人も何人もいた。
そして、いったん仲良くなっても「関係性の距離が近づくほど怖がられて去られてしまう」と書いたが、これはおそらく、私が相手より「大人」な人格を飼っていることを相手が徐々に知り、相手は、何か私が許容できないことを相手がしたときに、その人格が「出てくる」可能性自体を「怖い」と思っているのかもしれないと思った。
つまり、簡単にいうと、普段は同じような精神年齢の「状態」で私が相手と接していても、いざとなったら、学校の先生が出てきて叱られることが怖いということかもしれない。
画像で解説すると、



つまり、私は皆も美輪さん(まともに話し合いができる大人な人格)を飼っていると想定しているが、実際はそうではなく、
私を怖がる人は、相手が想定していたよりも私が大人な人格を保有していたことを知り、逃げ出すのかもしれない。
私は、精神年齢に差異があるのだとしても、私を怖がる人たちの感覚がわからない。
逆に私は、私を「叱ってくれる(より精神年齢が高い)」人と親しくすることを望んでいるためである。
「叱ってくれる」とは、つまり、「包容」してくれるということなので、それは私にとって「年上に膝枕してもらう」ということと全く同じことだからである。
なので、相手が、私を理不尽に責めるのではなく、ちゃんと叱ってくれた場合、つまり、私より高い倫理性と精神性を持って私を責めてくれた場合、私は相手に包容力を感じてデレデレした甘えたい気持ちになる(お腹に抱きつきたくなる)。
しかしながらこれは、私が最低限自分の精神性や倫理性やマナー感覚に自信があるため、そういう余裕があるだけで、そうではない場合、より高い精神年齢を持つ相手からの「非難」というものは「怖い」のかもしれない。
つまり、叱ってくる可能性のある学校の先生にはあまり近づかないようにする、というような「怖さ」があるということかもしれない。
そのため、叱られることが苦手な人からすると、他人からの「包容力」とは、自分の至らなさを追求せずに放置してくれること、なのかもしれない。
つまり、非を認めることができないという幼稚性を甘やかされることを望んでいる人からすると、私のフェーズの精神年齢(まともに話し合いができる)やスタンスは「怖い」と思うのかもしれない。
そのため、私が相手をある程度話し合いができる相手として、つまり、対等の存在として「尊重」していることが問題なのかもしれない。
私が自分より精神的に幼い人に子どものように感情的になることはできないので、
「可愛いから全部許しちゃうよ?」という甘さ、つまり孫に対するおばあちゃん状態のスタンスをより強く醸し出せるようにならないと、精神年齢の最高到達点に差異がある人は私のことを怖がるということかもしれない。
それができない場合は、やはり、ある程度精神年齢が近い人と親しくなるしかないと思った。
結論:必要以上に尊重せず(相手を同等であるとせず)もっと他人を甘やかす
