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エッセイ 『人に優しくするとは何か』

私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。

結論から先に言うと、
「人は他人と親しくなること自体を怖れているが、それはなぜかと言うと、相手に迷惑をかけた時に非難(否定)される可能性があるためであり、その際に安心材料になるのが「関与の実感(甘えや迷惑を許容されるという確信)」であり、私はその安心を相手に与えることができていないから」である可能性がある。

この「関与」とは、相手が私に「影響力」を強度高く感じることができれば「なんでもいい」という可能性がある。人から人に対しての「関与」になり得る要素を、思いつくもので一つずつ挙げてみようと思う。

①知性
私が、他人から最も「関与」を受ける要素がおそらく知性である。なぜなら、相手からの「理解」を受けることができるため、相手を信頼し頼る気持ちが湧くためである。つまり、私が他人に望んでいることは、「理解されること」であるということだと思う。また、知性=知能+精神性、だと私は考えているので、気遣いや思いやりがあるという相手の精神性を「尊敬」できるためである。私は、おそらく知性を相手から強く感じると、無意識的に相手に心を開いて(相手を認めて)受け入れる(受容する)のだと思う。私が親しくしようとしている相手を「受容」していないことは、私自身気づいていないが、おそらく相手には伝わるものであり、そのことを怖がれている可能性がある。

②気の強さ
過去に、私は、「自分より気が強い人に会ったことがない」と書いた事がある。それは、私が他人に対して高圧的な態度を取るタイプであるという意味ではなく、高圧的な他人からの態度や、理不尽に何かを強要してくる他人の言動に対してあまり屈した事がないという意味である。そのため、気の強さを使い他人を支配してコントロールしようとする「ジャイアンタイプ」は、私と非常に折り合いが悪い。私が一切相手の威圧に屈しないので、つまり、相手のマウント行為を受けて下手に出ることはせずに、あくまで同等として接するので、または、年上や上司などがジャイアンタイプであっても、私は相手をあくまで年上や上司として尊重するだけで、ジャイアン行為には屈せず必要以上に下手に出たりせず、過剰にコントロールされることを拒否するので、相手が怖がって逃げてしまうことが多いためである。そのため、気の強さによって、理不尽に私に関与することは基本的に不可能である事が多い。そのため、私の「他人からの理不尽な関与の拒否のスタンス」が、私が「認めて」いない相手が余計に入り込みにくい私の要素になっている可能性がある。

③ルックス(恋愛的魅力)
私が、現実で親しくした中で他人のルックスや恋愛的魅力に対して、「降参して下手に出た」ことは、過去に一度しかないように思う。その時は、相手の魅力にデレデレで、相手にいくら振り回されても全て従っていた。おそらく、自分の恋愛的魅力によって相手に強く「関与」できているかどうかというのは、相手からすると分かるものなのだと思う。わかりやすい例で言うと、私の知り合いにはすぐにボディタッチをする人がいて、その人にボディタッチをされたらすぐデレデレする人が多いが、私がされた時は、普通に用があるため名前を呼ばれて肩を叩かれた時のような顔でその人を見たので、その人は「う、、」とあからさまに狼狽えていた。これはおそらく、「自分の魅力が私に響いていない(関与できていない)」ということを相手が知ったためであると思った。おそらく同じことを、上記の、私が「降参していた」人にされたら、私はデレデレするのだと思う。そういう反応をした場合、相手は私に「関与できている」と感じて、私と親しくすることを「怖い」とは思わないのかもしれない。そして、ボディタッチ以外も、関わっている中で、私が相手の魅力に十分に「影響されて(関与されて)」いるのかどうかは相手にも伝わるのかもしれないと思った。

④上下関係
これは過去のエッセイでも「相互関与」の代表例として考えてきた。つまり、人と人が親しくする時、年齢、社会的立場、恋愛的魅力、気の強さ、能力、コミュ力などなどで全体的に「優っている」方が「格上」になり「格下」に対して上から接することで、それが相手への「甘え(迷惑)」という「関与」になり、格下がそれを「受け入れる」ことで、格下からの格上に対する「関与」にもなる、というものである。このことで、互いに関与できるため、甘え合いの許容の確認が取れて、互いに恐怖心なく親しくすることができるというものである。日本は特に、この「上下関係という甘え合い」がないと、他人と親しくできない人が多いように思える。しかし、私は、他人に上から接する、つまり、「上から甘えること」が苦手であり、特に精神性などの要素で、私が格上であると認めていない相手から上から接されることも拒否するので、実質、私が他人と上下関係を持って親しくできるのは、尊敬できて私が自分よりも格上だと認めた人だけである。しかし、そういう人と親しくなったことは今までで数えるほどしかなく、特に、年齢が近いほど私は基本的に、上下関係を他人と持つことがなく、そのことが私と親しく関わることを怖がれてしまう理由であると思った。

⑤リスペクト
これは、④の「上下関係」にも包括されている問題であるが、「私が他人から関与を受けている」という意味で言うと、相手への強い「リスペクト(尊敬)」の念が生まれている時であると思う。そして、その場合は、相手は私に「関与できている」と感じて、私と親しくすることを怖がらない可能性があると思った。私は、基本的に「自分がリスペクトできるかどうか」で、相手をリスペクトするかどうかが無意識的に決まるので、例えば、以前働いていた会社の社長が、私に対してかなり上からモノを言ってきた時は、普通に気分が悪かった。なぜなら、私は特にその社長のことをリスペクトしていないからである。つまり、相手が社会的立場として私より上だからと言って、私は自動的に相手をリスペクトするようなことはないと言うことである。なので、「なんでそんなに偉そうなんだろう?」とずっと思っていた(社長だからです⇦)。さらに上の立場の「会長」が出てきて、さらに偉そうに私に接した時も同じ感想であった。そのため、もちろん相手の立場を尊重して礼儀正しくは接するが、私は相手に「恐縮」するようなことはなかった。しかし、好きな映画監督のトークショーに言って会話をする機会があった時は、私は相手に「恐縮」していたと思う。それは私がその監督のことをリスペクトしているためである。私が、作品に込められた精神性含め「本当にすごい。この映画が大好きだ」と思える映画を作るその監督を尊敬しているためであると思う。そのため、私は自然に本当の意味で「下手」に出て接していたように思う。そして、私は、真っ当に友人や恋人になるような可能性のある、ある程度年齢が近い人を「リスペクト」したことは今まで1,2人しかいないと思う。その人たちは、私よりも、気遣いや思いやりやマナーがあり、人間関係やコミュニケーションにおいて相手の「面倒を見る」ことができため、その精神性を尊敬できたためである。その他の親しくなった人は、皆、私よりも「マナーが悪い」とか、すぐ利己的な言動をするため「軽薄だな」と感じたため、好意はあったとしても、誰のことも「尊敬」はしたことがない。上下関係を私が作らない上に、私から全く尊敬もされていないという状態で私と親しくすることは、私に何か失礼を働いた時に許容されるという感覚が持てずに、親しくする事が怖くなる、ということもあるのかもしれないと思った。

⑥面白さ
「面白さ」には、「おかしさ(funny)」と「興味深さ(interesting)」があると思うが、ものすごくマナーの悪い私の友人は、私と親しくする時に「自分もあなたと親しくするのは怖いけど、あなたが喜ぶ"お菓子"を自分が持っているとわかっているため親しくできている」という発言を最近していた。その友人は、マナーは悪いものの、ユーモアのセンスが抜群なので、私がその「おかしさ」に「関与」されていて、つまり、そのことを「認めていて」、そのことで相手が私に関与の感覚を感じるため、私から「迷惑の許容をされる」という確信を持つことができて、私と親しくすることができているということかもしれないと思った。このことは、相手が「私に対して何かで勝っているという自信」というよりも、私に対して「何か関与できていることがあるかどうか」という感覚の有無の問題だと思う。そして「自分もあなたと親しくするのは怖いけど」と言っている理由はおそらく、私には相手よりも強度高く「マナー感覚+気の強さ」があるので、相手は自分のマナーの悪さが出た時に、つまり、私に何か甘えた(迷惑をかけた)時に、私が内心であっても「非難している」、または実際に「注意をしてくる」可能性が「怖い」ということかもしれない。このことからわかるのは、私がマナーの悪い軽薄な人間であれば、能力などに差があったとしても、私と親しくすることを怖がらない人も多い可能性もあるということである。つまり、私と親しくする時に相手が何を怖がっているかというと、私に「迷惑を許されないこと」という部分もありそうであると思った。

以上のことを踏まえると、他人に対する「関与の実感」とは、自分が相手から「特別扱いされることを確認できること」であることが分かる。

怖がらせて従わせる、魅了して惹きつける、尊敬させて信頼させる、明確なメリットを与える、などなど、相手にとって自分が「どういう形でも影響力があるかどうか」という確認をすることが、自分が相手に関与しているかどうかを確認することであると思った。

海外の人とも接したことがあるので分かるが、特に日本人は、他人のことをめちゃくちゃ怖がっているということかもしれないと思った。それはなぜかというと、迷惑をかけてしまうことで、相手から非難されて(否定されて)大人としての社会的なアイデンティティ(存在価値)を奪われる可能性があるからであると思う。

そのため、日本人は、大人になるほど他人と表面的に距離を取って過剰に礼儀正しく接するようになるように思う。これは、単に「礼儀正しいから」というだけでなく、「他人に何か迷惑がかかってしまうことを怖れているため」であると思う。
相手に何か迷惑をかけて、相手から非難(否定)されてしまうと、相手からアイデンティティを奪われてしまうためである。

そのため、自分が相手にとって「影響力」がある人物なのかを確認することは、相手と距離感近く関わるための「安心材料」なのだと思った。それは、相手から迷惑を許容されるという確信から来る、相手から「アイデンティティを否定されない」という安心感である。

そのため、私と親しくなることが怖い=私から非難(否定)されることで、私からアイデンティティを奪われることが怖い、ということである可能性が高いと思った。

それは、今回、主に論じている「甘え(迷惑)に対しての非難」であったり、エッセイ『他人にどう思われるかが怖い』で仮説したように私に「しょぼい」と思われることで、アイデンティティを否定されることではないか。

前者は「マナー感覚」に差異があるほど恐怖心が増し、
後者は「能力」に差異があるほど恐怖心が増す、と思う。

つまり、他人と親しくなった時、「私」が怖がられているというより、人はアイデンティティの否定を怖れ、そもそも他人と親しくなること自体が怖く、私がその不安を払拭できない存在であるということが問題なのではないか。

ただ、過去のエッセイ『自信のなさの方向性』でも書いたが、私は、自制心やマナー感覚や気遣いに比較的「自信がある」ので、親しくなった相手に何か失礼があった時に非難される(否定される)という可能性をあまり怖がっていないのかもしれないが、

私は、近年自分の「体調には自信がない」ので、相手に体調のことが原因で迷惑をかけてしまうことは過剰に怖れている。そのため、体調問題でドタキャンする可能性がある時は、友人と遊ぶ約束さえできない。

私の場合は、相手に迷惑がかかるシーンだけを避けるということで済むが、相対的に見た時に、相手に対して自制心やマナー感覚や気遣い自体に自信がない場合は、相手への関与の感覚=相手から甘え(迷惑)を許容してもらえる確信が必須であり、それはつまり、何か相手に迷惑をかけた時に相手から非難される(否定される)、つまりアイデンティティ(存在価値)を奪われることがないという確信なのではないか。

そのため、やはり私が無理やりでも相手にたくさん甘えて(迷惑をかけて)、相手からの関与を促すことが大事なのではないか。

つまり、親しくなってきても、私が他人に対してマナーが良すぎることが相手を怖がらせている原因の一つであり、また、他に私に強度高く関与できるポイントがない場合、やはり相手は私からのアイデンティティの否定を怖れて親しくすることができなくなるということかもしれない。

確かに、私が、友人や仲良くなってきた人があまりに失礼な言動をしてきたので、どうしても流すことができないと感じ、感情的になって怒るのではなく、冷静に「それはこういう理由でどうかと思う」と「注意」したことがあるが、このことで相手は私から一目散に逃げて関係を経ってしまったことが何度かある。

私は、相手のことが大事なので、関係を続けるためにしたことであるが、相手からすると、人間関係において最も怖れている「非難=アイデンティティの否定」を私にされたため、私と関わることができなくなった可能性があると思った。

私は、ブチギレたわけでもなく、ただ「注意」しただけで、なぜそれまで築いていた関係を止めてしまうという過剰反応を相手がするのか謎であったが、根底的に自己肯定感や自信がない人ほど、他人からの非難(否定)に対してすごく繊細になることもあるのかもしれないと思った。

また、精神年齢やマナー感覚などを始め、相手が私を強度高く「認めて」いるほど、その否定の強度も上がってしまうのかもしれない。

手っ取り早いのは、親しくしたいと思う相手に対して「相手の甘え(迷惑)を基本的に受け入れる」という受容のスタンスを見せることであると思うが、これはおそらく無意識の状態であり、私が自分よりも随分マナーが悪いとか、尊敬できていないとか、そういう場合は、おそらく私は相手を受容しておらず、警戒していて、その感じが相手に伝わっているのかもしれない。

つまり、「下手すると否定(非難)しまっせ?」という、相手を睨んでいる感じが無意識で出てしまっているのかもしれないと思った。
その場合、相手が自力で私に強度高く「関与」できるポイントがない場合は、私と親しくすることが「怖い」となるのかもしれない。

そのため、私は、マナーよく相手に迷惑をかけないように接するという、ただ他人を「尊重」するということだけでなく、ある種、「もっと他人に優しくなる」ことが必要なのかもしれないと思った。

他人に対してすぐに腹を立てて怒る友人に「あなたは気は長いけど優しくはない」と最近言われて、意味がわからなかったが、私はすぐ他人に腹を立てて怒るようなことはないが、友人がしているような「怒り」は「甘え合いの範疇、相互受容の範疇」であり、つまり、「怒って感情的になる」ということ自体が相手に対しての「甘え」であり、

それと異なり、私は注意をするときなどは特に、また普段の状態においても、他人対して一線を越えた甘え(迷惑)を許さないという「ガチ非難」のスタンスがあることが「優しさを欠いている」ため、そのことで怖がる人が多いということを言っているのかもしれないと思った。

そのため、まず私が相手を受容すること、また、「受容の範囲内の怒り方」ができるようにならないと相手が怖がってしまう可能性があると思った。
これはもう完全にスタンス(状態)の問題であると思う。

そして、私から「受容(承認)を受ける」ということ自体が、相手から私に対する関与の隙(甘えを許容されるという特別扱いの実感)なのではないかとも思った。

結論:愛が足りないらしいので、状態として相手を「受容」するなど「関与の隙」を作り、相手を否定してしまわないような工夫をする

むず、、


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