エッセイ 『他人の弱みを受け止めること』
私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。
結論から先に言うと、
「承認の交換が実質的にできない相手であるため」である可能性がある。
人々が友人や恋人として親しくなろうとする時を見ても、私と親しくなろうとしてくれようとしている人を見ても、彼らがしようとすることは「弱みの共有」であるように感じる。
自分にはこういう悩みがあって、至らなさがあって、こういうことで病んでいる、ということを共有することで仲良くなっていく場合が多いように見える。
私は、自分の至らなさを知ってもらうことで、親しくする過程で相手に何か失礼があっても許してもらうためにそういう自己開示をしているのかなと思っていたが、
人々を観察していると、おそらく、他人と親しくする目的自体が「相手に自分の悩みを聞いてもらうこと、または、自分の至らなさを許してもらうこと(認めてもらうこと)」であるように見える。
つまり、相互の「甘え合い」をすること自体が、他人と親しく「関わること」そのものであるように見えるということである。
私は実は、他人と親しくする際にこの部分はそこまで重要視していないように思える。
つまり、他人と親しくすること=甘え合い、という感覚がおそらく一般的な人より少ないということである。
私が重要視しているのは、一緒にいて楽しいか、ユーモアや趣味やノリが合うか、また、相手に恋愛的な魅力を感じるかどうかなどであると思う。
または、私は、基本的に他人が自分の悩みや不足感や苦しみを強度高く理解できると思っていないので、甘え合いをすること自体を諦めているのかもしれない。
つまり、甘え合いができる人と関わったことがないので、そもそも他人と甘え合いをすること自体を諦めているということかもしれない。
そのため、私が基本的に他人に求めるのは、一緒にいて楽しいかどうかなのかもしれない。
ただ、これではおそらく、相互関与、相互承認が強度高くできないので、つまり、相手と私は真っ当に「関わる」ことができないため、私と親しくしようとしてくれた人は、私と甘え合いができないと感じて、関わることを諦めて去ってしまっている可能性があると思った。
しかしながら、過去に書いたが、私は他人から弱みも含め「理解されたい」という願望はある。
しかし、大人になってから関わった人は、ほとんどが私より「幼稚」であったので、彼らが私のことを理解することは不可能であるという諦めがあるのかもしれない。
私よりも「幼稚である」とは、私よりも自制心がなかったり、他者を尊重し気遣う気持ちや実際的な言動がないと感じるということである。
前回も書いたが、私は、他者に「知性」を強度高く感じるだけで、相手から「理解されている」という安心感や、救われる感覚がある。
そして、それを一番してくれるのは、作品(他者)や作品に登場するキャラクターである。
そのため、前回のエッセイでは、私がよく話題に出す濱口竜介監督の作品で描かれる登場人物に触れると、自分を「理解されている」と感じて「救われる」と書いた。
知性とは、私的には、知能+精神性である。そして、精神性(誠実さや精神的な成熟)とは、知識ではなく「状態」であるため、私より「幼稚な(精神性がない)」人は、状態の共有ができない私のことを強度高く感覚的に理解することは不可能であると思う。
そして、おそらくそれは、実際的に私の悩みを相手に「受け止めてもらう」ことはできないということなのだと思う。
そのため、知性を共有できない相手に、「私にはこういう悩みがあって、こういうことに苦しんでいる」という「甘え」をぶつけても、または単純に不機嫌になるというような「甘え」をぶつけても、私は相手にその甘えを「受け止めてもらった」という実感がないため、特に救われることがない(気持ちが楽にならない)。
そのため、これは私の相手に対する「甘え」が成り立っていないということである。
つまり、相手にある程度の知性を感じない場合、つまり、私のことを強度高く理解してくれているという実感がない場合、「私の甘えが相手に包容される(受け止められる)ことが実際問題としてない」ということであると思う。
そのため、私は相手に甘えても意味がないので、甘えない、つまり、自分の悩みや至らなさや苦しいと感じていることを「共有」しようとすることはあまりしないのかもしれないと思った。
つまり、自分の至らなさや、弱みや、ダサい部分を話題として自己開示することはあっても、それは相手に対する「甘え」ではなく、単なる話題提供や自虐ネタにしかならないことが多いということである。
そのため、前回のエッセイで、私がおそらく他人に心を開かないことが多い理由を考察したが、今回のエッセイの内容を当てはめると、「自分を理解し包容してくれる存在ではないので、甘えることができないから」である可能性が高いと思った。
つまり、私が包容力を感じていない相手に「甘えた」としても、それは形だけになり、実際的に私の気持ちは楽にはならないため、意味がないということである。
つまり、私のことを「認めること(理解すること)」ができない相手に甘えることが実際問題として不可能であるということである。
そのため、私は、他人と「甘え合い」をすることを諦めて、いかに一緒にいて楽しいか、相手に魅力があるか、を親しくする目的としているのかもしれない。
しかし、おそらく多くの人は、互いのことを弱みも含めて理解し合い、互いに悩みをぶつけ合い甘え合うことで、相互承認すること、互いの存在を認め許し合うことを目的としているので、
私とその相互承認が強度高くできないと感じた場合、そもそも私と「関わることができない」と感じて、怖くなったり、親しくしても意味がないと感じるのかもしれない。
確かに、私は友人たちから一方的にわがままに接されたり、不機嫌さをぶつけられたり、病みや悩みをぶつけられて「甘えられている」が、私から甘えることはあまりない。
それは、上記したように、私が友人に甘えても、相手がそれを受け止める器がないため、私の気持ちは救われないためである。
そして、私の友人たちの場合、そもそも精神年齢がかなり低いため自己肯定感が低いことからくる精神的な病みをぶつけてきているように思える。
そして、私は、精神年齢が低いことからくる自己肯定感の低さからくる病み(精神的落ち込みやコンプレックス)はなく、そして、「精神年齢や軽薄/誠実さ(精神性)」が構成要素の一つである「知性」を相手に感じないため、私が相手に甘えることが実質的にできない状態なので、そもそも「甘え」のフェーズが違いすぎるということだと思う。
そのため、私が相手の甘えを受け止めることはできても、私の甘えを相手が受け止めることはできない。
これは、親が子どもの甘えを受け止めることはできても、幼い子どもが親の甘えを受け止めることが実質的にできないことと方向性は同じであると思う。
ただ、問題は、おそらく、私が相手に甘えることができない関係において、私が相手に心を開くことがない、つまり、相手を認めることがないということであると思う。
そうなってしまうと、相互関与、相互承認、つまり本質的な意味で「関わること」自体ができないのではないか。
そのため、「親しく関わる」という目的が達成できない。
つまり、私は、私を認めることができない相手を認めることができないということだと思う。
つまり、これは、相手が私のことを認めていたとしても、相手が実際的に強度高く私を理解しているわけではない場合、私は相手から認められたとは感じないということだと思う。
そのため、実質的な意味で、私を認めてくれない相手を私も認めることができていないのかもしれない。
これは、もう完全に「相互関与、相互承認ができていない状態」であると言える。
ただ、私は、相互承認ができる人とほとんど出会ったことがないので、他人と真っ当に「関わる」こと諦めていて、一緒にいて楽しければそれでいいと割り切っているが、多くの人はそういう関係は耐えられないのかもしれないと思った。
なぜなら、相手が心を開いて私に接していても、私が真っ当に相手に心を開くことがないためである。
それは相手からすると、傷付くし、寂しいし、虚しいし、怖いのではないか。
そのため、やはり、この問題を解決するには、私をある程度の強度で理解してくれる人と関わるか、おばあちゃんが理解はしてくれない孫に心を開いて接するように、相手に強度高く愛情を感じることができる人と関わるしかないのだと思う。
そうでないと、私は他人に真っ当に心を開くことはできないのだと思う。つまり、真っ当に相手に「承認」を渡すことができないということである。
しかし、基本的には、相手が私を認めてくれるため(私が実感することができる承認をくれるため)、相手に愛情を感じるというのだと思うし、ほとんどの人もそうであると思う。
つまり、「おばあちゃんと孫」の関係とは違い、大人同士の関係の場合は、互いにある程度の強度で理解し合えるため、互いに愛情を感じるというパターンがほとんどである可能性が高いということである。
そのため、親しくしようとしてくれている相手が、どれだけ私に承認を送ってくれていても、私はその承認を感じることができていないということだと思う。
そのため、私は、相手に心を開いて承認を返すことができていないため、または、私と相互関与できないことを親しくなるほどに予想するため、私と関わることをやめてしまう人が多いのかもしれないと思った。
ただ、私も、理解や承認は、他者から感じたいので、ひたすらに作品と向き合って、作品(他者)と相互承認しようとしているのかもしれないと思った。つまり、私は、実質的に現実で大人になってから出会った他人に「バブれた(甘えれた)」ことがないので、作品にバブっているのだと思う。
結論:誰のせいでもない
