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エッセイ 『他人という鏡』

前回のエッセイで私は、年々「現実で人と関わっているよりも、作品を観たり読んだりしている時の方が人と関わっている実感がある時がある」という感覚がなぜ起こるのかという理由を考えた。

そしてそれだけでなく、別の理由も思いついたので書いてみようと思う。

それは、作品によっては、強度高く「人の誠意、真心を感じることができるため」という理由である。

それは、映画や小説などで描かれている登場人物が持つ真心だったり、作品自体が持つ真心だったりする。

私は、「軽薄である」とは真逆の意味での真心、誠意のことを「ハートがある」という表現をすることが多い。

私自身、”「自分は軽薄である」とは思わない程度には”、ハートがある人間だと思う。つまり、誠意を持って接してくれる人には誠意を持って接するという気質を持っているということである。

ただ、そういう意味での人間性、ハートがあると思う人と私はほとんど親しく関わったことがない。

年齢的には大人な人も含め、こちらが相手の気持ちを尊重し誠意を持って接していても、そんなに精神的に追い込まれるような状況でなくても、割と手前で、自分のメリットを優先したり、保身を優先したり、面倒ごとを避けることを優先し、すぐ逃げたり、嘘をついたり、人のせいにしたりする人が、関わってきた人の中では8, 9割がそうである印象である。つまり、人の気持ちを考えない利己的な言動をするということである。

私がある程度近しく関わってきた人の8, 9割なので、「人」と言えば、そういうものであるという認識はあるが、私は、関わってきた人と比べてではあるが、割と「誠」がある方だという自覚があるので、私から見て「軽薄」な人とは「意思疎通」の感覚が持てない。
なぜなら、自分の中の「当たり前」を全く共有できないためである。

つまり、軽薄であることを、「自分のことしか考えていない」という表現をすることがあると思うが、それはつまり、自分のことしか見えていない、つまり他人の「気持ち」が見えていないということだと思うので、相手がこちらのことを「見ていない」と感じる。

それはつまり、精神的な意味で、相手と「目が合わない」ということであり、それは、相手の存在感を実感することができないということである。それはつまり、相手の「人格」の存在感をあまり感じないということでもあり、それはつまり、人がそこにいるという実感があまり湧かないということである。

これはおそらく、ある種の、「誠実さ・軽薄さ」の気質が大きく異なっていれば、誰でも起こりうる感覚である気もする。

なので、私は、友人に、「あなたは他人のことをアリとしてしか見ていないもんな」とイジられたり、過去に付き合っていた人や仲の良かった教授から「あなたは人のことを見下している」と非難めいた口調で言われたことがあるが、

私から見て、上記の発言を私にした人たちは、私から見ると皆、他人の気持ちを尊重できない軽薄さを持っているので、上記した私の感覚を理解していないだけの可能性があると思った。

相手がまだ幼い子どもであるとかであればまた感覚は違うのかもしれないが、相手が他人に対してあまりも利己的で軽薄な言動を繰り返すことがあるので、私は相手には「人格がない」ように感じ、つまり相手の存在感を能力的に強度高く感じることができない=相手がアリくらいの存在感しかない、ということは確かにある。

つまり、言葉を変えれば、人の心を持たないロボットや、ゲームのキャラクター的に感じるということである。

だからと言って、私は軽薄な人に対して、相手を尊重しない言動や扱いをするわけではないが、つまり関わっている以上は最低限のマナーと尊重を持って接するが、私が(私から見て相対的に)軽薄な人を、ある種「軽んじている」ことは、相手からしても、また、側から見ていても、感じる人も多いのかもしれない。

それはおそらく、私が、相手に全く心を開いておらず表面的に接している=相手を認めていない、ということが伝わるためである可能性がある。

ただ、私は意地悪で心を開いていないのではなく、能力的に、人格を感じていない対象に対して心を開く、認める、ということをしようがないということでもある。

つまり、極端に言うと、誰にとっても、ペッパーくん(ロボット)は、ただAIと音声認識装置を使って、人と会話をしているだけであることは、現段階においては明白なので、それはつまり人格や心が存在しないように感じるので、ペッパーくん相手に心を開くことはほとんどの人が能力的にできないと思うが、それと同じ現象が対人でも起きているということであると思う。

それはつまり、「対象の「存在」を発見し、認めることができない」ということである。
それはつまり、人がそこにいるという存在感をあまり感じないということである。

つまり、私は、肉体を持つ人間が相手であっても、上記の意味で相手と「意思疎通」の感覚を持てないと、存在を発見することがあまりできないため、認めること(心を開くこと)もできないということだと思う。

これは、他人から見た印象として、自動的に私が軽薄な人を「軽んじている、見下している」と捉えられることもあるのだと思うが、このプロセスを理解せずに、単に私が(精神性が自分より大幅にないという意味で)ある種自分より劣っている他人を軽んじる軽薄で酷い人間だという意味で「あなたは人を見下している」と言われてしまうのは不服ではある。

なぜなら、上記したように「誠実さ・軽薄さ」に相対的な差異が大きく生まれるほど、強度の差こそあれ誰にでも自動的に起こり得る現象だと思うためである。

そして、映画や小説などで、他人に誠意を向けることができる登場人物がリアルに描かれていたり、人の気持ちに繊細に深く理解を示すような、登場人物を思いやる視点を持つ作品自体の「真心」の存在を感じた場合、私は、ある種「人の存在感」というものを、現実で関わる「軽薄」だと感じる人と接する時よりも感じるのだと思う。

そのため、そういう意味で、人の存在感(真心、誠)を強度高く感じる作品と触れ合うことが「現実で人と関わっているよりも、作品を観たり読んだりしている時の方が人と関わっている実感がある時がある」という感覚につながっている可能性があると思った。
それはつまり、「意思疎通ができる対象と向き合う」ということであると思う。

このことから、エッセイで散々理由を考えてきた「私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由」にもつながる可能性があると思った。

つまり、私は、年々、他人を尊重するスタンスや精神性が、作品消化や創作やコミュニケーションを通して上がってきているが、それに比例して、多くの他人がどんどん自分よりも「軽薄」になる(私自身が軽薄ではない状態になる強度が上がっているため)という構図になり、

私が、どんどんと、多くの他人の存在を発見し、認めることができなくなってきているため、親しくなった相手が、「軽んじられている、見下されている、認められていない」と感じて、距離を取ったり、去ってしまっている可能性があると思った。

それはつまり、私が相手に対して、親しくなっても、心を開いていないという実感を相手が持つためではないか。

このことから、「あなたは悪くないけど、年々問題児になってきている」とかなり軽薄な友人に言われたことの理解も進むように思う。

つまり、上記したように、私が年々他人を尊重するスタンスが上がってきているので、それに合わせて、軽薄な人をさらに発見し認めることができなくなってきていて、そのことがその友人にも伝わっているということではないか。

私は、かなり性格的にはフランクな方なので、多くの欧米人がそうするように、関わっている他人と友達のように近い距離感でラフに接することは得意であるが、おそらく、それはある種のただの愛想の良さとフレンドリーさであり、相手を認めたり、心を真っ当に開いたりしているかどうか、という状態とは別物なのだと思う。

そして、親しくなった相手は、その私の状態に気づいて怖がってしまうのではないかと思った。なぜなら、私から認められていない=非難、否定をされていると感じるためである可能性がある。

つまり、近しい距離感でラフに接することは、多くの人にとっては、心を開かないとそうできないが、私はできるので、相手だけが心を開いている状態になってしまうということかもしれず、そのことに気づいて、相手が心を閉じてしまう、それはつまり自動的に距離を取らざるを得ないという状態になるのかもしれないと思った。

ただ、私は相手に意地悪をして心を開いていないわけではないし、自分が心を開いていないことにも気づいていなかったので、どうすればいいかはわからない。

ただ、それまで普通に仲良くしていて恋愛に発展しそうになっていた人が、私の小説を読んで、「あなたはまともでしょ、自分はクズだから」と発言し、私を怖がり始めて去っていった人もいるので、

そもそも、私が相手を認めて心を開くかどうかだけでなく、相対的に見て「軽薄な人は、他人を尊重するスタンスを持っている人と接することが怖い」と感じるのかもしれず、これが、アート系のヒューマンドラマ映画を観ることを苦手に思っている人が多い理由にもつながる可能性があると思った。

つまり、作品が持つ真心や他人を尊重するスタンスに触れれることで(私のように癒されるのではなく)自らの軽薄さと向き合うことになり、そのことを怖いと感じたり、苦しくなったりするため、観れないということかもしれない。
それは、もしかすると、私と向き合うことが怖いと感じて、距離を取ったり、去ってしまう人が年々多い理由と同じではないか。

「他人は鏡である」という言葉あるように、人は他人(作品含め)によって自己を確認するので、私と関わることで自分がどういう人間なのかを自分で発見してしまうことを「怖い」と思われている可能性もあると思った。

私と恋愛に発展しかけて、途中で何かに怖がり始めて去ってしまった後に、冗談みたいに軽薄な人と付き合い始めた人を何人も見てきたが、私と関わることで自分の姿を確認しかけてしまった反動で、自分と向き合うことがない人を選んでいるのかもしれないと思った。

確かに、特に大人になってから出会った人であれば、私と長期的に親しくすることを怖がらない人は「誠実」な人が多い。それは、自分はこういう人間である、というそれまでの認識と、私と関わり始めてから起こる認識に大きな差異が生じないためではないか。

それに私自身、自分が人間関係においては「誠実」な方であるという確認は、「他人という鏡」とたくさん触れ合ってきてなされているものであり、特に今と気質に差がない学生の頃などは、別に自分が誠実であるとは思っていなかった。
つまり、学生の頃は、関わっている人々が軽薄なのは、自分が属している小さいコミュニティ(学校)が特殊なだけだと思っていたためである。

「アート系のヒューマンドラマ映画を観ると、特に濱口竜介作品(映画『ドライブマイカー』など)などを観ると、私が想定していたまともな人間性のある大人が出てくるので、その人たちと関わっている感じがしてすごく助かる、私の友達はみんなすごい幼稚で、私は常に頭を抱えているから正気を取り戻せる」

エッセイ 『”オシャレ”とはなんぞや?』

そして、上記のエッセイで私は、引用箇所のように書いたが、それは、「真心を持つ作品(他人)」と向き合うことで、またそこでも私は自分の姿を確認しているため、「正気を取り戻せている」のかもしれないと思った。

なぜなら、確かに、自分から見て軽薄な人とばかり関わっていると、自分がおかしいのか、人々がおかしいのかわからなくなり、つまり自分がわからなくなり、気が狂いそうになることがあるためである(映画『ミッドサマー』状態)。

また、私と関わることで自己の姿を発見することだけでなく、まだ私に軽薄だと思われていなくても、私と親しくなるにつれて自分の軽薄さがバレた場合、私にがっかりされたり、低評価(非難・否定)を受ける「可能性」を、相手が、自分と私の誠実・軽薄さの差異を確認するほど「怖い」と感じる可能性もある思った。

もしそうであるなら、他人に対する私の対応のせいだけではないので、もうどうしようもない(もうお前は映画見とけ)。

濱口竜介監督の映画『ハッピーアワー』の真心シーン。映画を通して観ると、このシーンで深い感動に包まれるのでぜひ観てください。「人の気持ちを尊重する」とはこういうことなんだなということがわかり、自分のことも尊重されているような安心感、多幸感に包まれます(5000円のblu-rayを買わないと観れないし、5時間半もあるけど)。


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