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エッセイ 『学校の先生が恐い理由』

私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。

結論を先に言うと、
「私の方が相手より精神的に大人だから」である可能性がある。

小中高くらいを思い出すと、学校の先生というのは、生徒から怖がられていたように思う。
気の弱い先生は、生徒からナメられていじめられたりする現場も見たことがあるが、基本的に、学校の先生というのは、生徒に怖がられているし、ヤンキーであっても先生のことを怖がっている人もいたように思う。

これはなぜなのか?
おそらくこの「怖い」とは、「畏敬の念」だと思う。

つまり、基本的には、子どもより大人の方が「気が強い」ということだと思う。
他者を尊重できて、思いやりがあっても、気が弱い先生はナメられて、ちゃんと生徒がマナーの悪い言動をした時は叱れる先生は、普段は面白くて人気あったとしても根底的には「畏敬の念」を持たれて「恐れられて」いたように思う。

なぜなら、「怒らせたらちゃんと叱ってくるため怖い」ことを知っているからである。

なぜ大人の方が「気が強い」のかというと、「精神的に成熟していること自体に自信がある」ためであると思う。

確かに、倫理観に限らず、全体的に自信がない人より、自信がある人の方が「気が強い」傾向にあると思うし、

自信がなかった人が、何か能力を身につけたり、外見を磨くなどして自信をつけたら、以前より気が強くなるパターンもあるように思う。

ということは、「気の強さ」というのは、それ単体で成り立っているものではなく、あらゆる方向性の「自信」によっても成り立っている可能性が高い。

もちろん、ヤンキーや、子どもっぽい性格であり特に自信があるわけではない人でも、本来的に「気が強い」という人もいると思う。

この本来的に気が強いタイプは私と関わることは怖がらないため、仲良くなるケースが多いように思う。

ただ、そうではない場合、自分より精神的に大人であり、「精神的に成熟していること自体に自信を持っている人」と接するのは、相対的に見て精神的に未熟な人は「怖い」と思うのかもしれない。

もっと簡単にいうと、人は「自分よりも自信がある人と接することが怖い」ということかもしれない。
そして、その自信が精神的な成熟から来るものであれば、「叱られる可能性がある」という意味で、学校の先生が怖いというような種類の「恐怖」を感じるのではないか。

なぜなら、教育をする立場でなくても、より精神的に成熟しているほど、より倫理的に正しいことを「言っても良い器」として相手に言えるためである。

つまり、自分ができていないことで相手を責めても、「お前が言うなよ笑」と言われてしまうが、学校の先生が生徒を叱ることができるのは、精神的な成熟により、先生が自分はできていることにおいて生徒を咎めることができるためである。

それはつまり、基本的に、「他者をより尊重する」考えや、言動についてである。

先生は基本的に、これができていない生徒を「叱り」教育する。

そして、私が相手を教育する立場の関係性でないにしても、精神年齢に差異があるほど、私が相手を「叱ることができる」という状態自体が怖いと感じる場合もあると思う。

そしてコミュニティにおいて、一番精神的に成熟している人の振る舞いが規範的なルールになるという現象を私は何度も経験してきた。

例えば、私の友人グループにおいて、少しヤンチャな女の子がいて、私が入る前は、傍若無人に振る舞い他のメンバーをいじめていたが、私が入ることにより、私が何も注意していなくてもいじめがなくなり、マナーが良くなったことがある。

つまり、その女の子は、私が何のマウントも取っておらず同等然として接していて、何も叱ってもいないにも関わらず、私を格上認定して自ら「配下についた」のである。

そして、私がそのグループから抜けた後、また他のメンバーをいじめ始めたということがある。

これはもう私が何も注意していなくても、その女の子からすると学校の先生に見張られてる状態ということだと思う。
つまり、下手なことをすると叱られてしまったり、内心であっても非難されてしまう可能性自体を「怖い」と感じてたのだと思う。

ただ、その女の子は元々「気が強い」ので、「学校の先生と親しくする」というような状態に耐えることができたのだと思う。

しかし、そこまで気が強くない場合、また、私に対しての有力感を感じていない人からすると、自分より大人と親しくすることは、叱られる可能性や、内心非難される可能性自体を「怖い」と感じて逃げ出してしまうこともあるのかもしれないと思った。

ここで、「有力感」という言葉を使ったが、それは私が相手に対して「甘い対応」をする要素であるのだと思う。

かなりマナーの悪い私の友人の一人は、「あなた(筆者)と一緒にいるのはライオンと一緒にいるようで「怖い」けど、自分があなたの喜ぶお菓子を持っていることを知っているので、なんとか関わることができている」と言っていた。

ここでいう「お菓子」とは、相手の私に対する「有力感」であると思う。そして、おそらくその友人の場合は「面白い」という要素だと思う。

その友人は抜群にユーモアのセンスがあるので、私はそのことを確かに気に入っていて、相手もそのことを知っているのだと思う。

そのため、相手が何か失礼な態度・言動をしたとしても「甘く見てもらえる」という「有力感」があるので、自分より精神的に大人と関わるという恐怖に打ち勝ち近しい距離感で関わることができているということを言っているのかもしれないと思った。

小中高などを思い出すと、生徒の先生に対する「有力感」とは、例えば「ルックス」である。
怒ると怖い男性の先生が相手であっても、美人の女性生徒は、先生と友達のように親しい距離感で生意気に接することができる人もいたように思う。

それは、その女子生徒が、「自分は美人であるという有力感を男性の先生に対して持っているので、多少の失礼があっても甘く見てもらえる」という自覚、自信があるためではないか。

私自身も、偏差値の低い大学内のことではあったが、私が勉強を頑張っていて、ダントツに成績が良かったので、教授たちにそのやる気や実力を気に入られて可愛がれているという認識があったので、かなり生意気に友達のように教授たちと接していたように思う。

これはつまり、私の友人で言うところの「お菓子」を格上(教授)に対して持っている自覚がほぼ無意識であってもあったため、そういう関わり方をできたのではないかと今回のエッセイの内容を当てはめると思った。

つまり、私と親しくなるほどに私のことを怖がり始めて、途中でフリーズして去っていってしまったり、距離をとってしまう人というのは、

まず、私と親しくなるほど、私の方が「精神的に大人である」または、精神年齢や気の強さ含め「格上である」という認識をして、かつ、何か失礼があった時に、甘く見えてもらえる「お菓子」を十分に持っているという自信がなく、かつ、上記の私のソフトヤンキーの友達のように本来的に気が強い(恐怖心が薄い)わけでもないので、

私に叱られたり、内心であっても非難されてしまう可能性があることを「怖い」と感じて、私と親しく関わることに耐えきれなくなる可能性があると思った。

私は、今まで、精神年齢の差異が、ここまで他人にとって「脅威」であるとは考えたこともなかった。むしろ、信頼できる相手として安心材料になると思っていた。

しかし、学校の先生と生徒の関係を考えると、確かに、生徒は先生のことを「怖がっていた」し、これは、子どもが「お父ちゃんおっかない、お母ちゃんおっかない」と怖がることと同じであると思う。

なぜなら、子どもを叱ることができる親が怖い理由は、子どもよりも「気が強く」かつ「より正しい倫理観を持っている」ためである。
そして、上記したように、なぜ親が子どもより気が強いのかというと、自分が精神的に成熟していることに自信を持っているためである。

私は、高校でヤンキーに絡まれた時に、「何言ってるの?」と冷静に論破すると、相手は怖がって逃げていったが、その時点で、私の方が精神的に成熟していたため、「先生に叱られた」というような現象が起きて、ヤンキーに「怖い」と思われたということかもしれないと思った。そして、私はそのヤンキーが自分より精神的に幼いことをわかっていたので、特に「怖い」とは思わなかった。

つまり、私の方がヤンキーより自信があったため、より気が強かった、ということだと思う。これは、先生がヤンキーより自信があり気が強いため、ヤンキーから恐れられているという構図と同じであると思った。

そして、確かに、同じくらいの精神年齢の友達同士で腹を立て合い喧嘩することは互いに怖がらずにしていても、私が相手のマナーが悪い言動に耐えかねて少し注意しただけで過剰に怖がり、私と関わることをやめてしまった人が過去に何人もいたが、こういう構図のせいかもしれないと思った。

結論:精神年齢に差異がある場合、相当相手に優しく接しないと怖がられるし、優しくしていても「自信から来る気の強さ」や「叱られる可能性」を怖がられる


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