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タイトル 『上から目線という愛情』

私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。

結論を先に言うと、
「私は上から目線の愛情が欠落しているから」である可能性がある。

他人に対する「思慮深さ」とは本来、他人がどういう人なのか理解し、他人の気持ちを理解し汲んで思い遣る「優しさ」というニュアンスで使われることが多いと思う。

私は、他人がどういう人間でどういう気持ちなのかを理解しようとはかなりするタイプだと思うし、接している相手が不快にならないように、相手によって接し方も変える方だと思う。

そのため、相手が真面目でも、不良でも、陽キャでも、陰キャでも、日本人でも、外国人でも、年齢も問わず、割と仲良くなろうと思えば仲良くなれる方だと思う。それは私が相手がどういう人間なのかを理解した上で、相手に合わせることができるからである。
言葉を変えると、人の種類として、私が「対応できる」幅が広いということだと思う。

ただ、以前はそんなことはなかったが、年々人から親しくなるほど怖がられるようになってきた理由は、私の「思慮」の能力が以前よりも上がってきたため、逆にそれが迷惑になっている可能性があると思った。

もっと言うと、「他者理解の能力」が上がりすぎているため、相手がどういう人間なのか、また、どういう気持ちなのかを理解できすぎてしまうということである。

そして、関係性の初期で、まだ互いに互いを「受容(受け入れる)」していない段階で、自分がどういう人間なのかを深くまで一方的にブワーッと見られて理解されていくことは、「怖い」と思うのではないか。
それは、私が、相手の「未熟さ、至らなさの発見」も同時にものすごい勢いでしていくためでもあると思う。

親しくなるほど、もちろん誰であっても、相手がどういう人間なのか、信頼できる人なのか、自分と本当に気質や感覚が合う人なのか、などを互いに理解し合っていくことはすると思う。つまりこれが「知り合っていく」ということだと思う。

しかし、この他者理解の能力に差があったり、知性や多面性に差があったりすると、私だけが相手を理解して、相手は私に深くまで知られた上で、私のことはまだあまり理解できない、という状態になると思う。

そして、私は相手が、相対的に見て、「他者を思いやる真心がなく、軽薄で利己的な人間だな」と十分に確認すると、相手に精神的に頼ったり、相手を信頼したりすることはできないので、無意識的に心の壁を張り、この一線からは相手を受け入れない、ということを決めてしまうのだと思う。

ただ、この私の一連の心理的な流れというのは、私が相手に口で伝えていなくても、私に見られて理解されていることも、私が心の壁を張ったこともある程度伝わるのだと思う。

それは私の言動の端々や、態度の微妙な変化から感じ取るのかもしれない。明確に何をもって私が相手に心理的な壁を張ったとわかるのかを説明することはできなくても、そういうことを感知するセンスはみんなあるのかもしれない。

私は、もちろん、相手が私と距離をとって表面的に接することでまともに関わろうとしなかったり、去ってしまったりする場合は、相手が私を受け入れていなかったり、警戒していることはわかるが、

積極的に親しくなろうとしてきている相手が、本当は私に心を開く気がなく警戒していると感じるため「怖い」という状態を経験したことがないため、どういう感覚はわからない。

そして、以前のエッセイでも書いたが、大人になるほど、人が人間関係において一番怖れているのが、他人からの「非難、否定」であると思う。
なぜなら、大人になるほど、「アイデンティティ(自分は誰なのか、自分には存在価値があるのかという確認)」の確保と保護が、精神的な健やかさを維持するために必要になってくるためである。

そのため、「親しくなってきた相手が、自分を信頼せずに心の壁を張る」ということは、ある種、人間性の非難・否定としてアイデンティティが奪われてしまうのではないか。

過去にも書いたが、私と恋人として長期的に付き合ってくれた人は、皆、真面目で真心のある人ばかりであった。つまり、私が、相手の精神性を信頼して心を開ける相手である。

私は、気質としては、真面目で堅い人よりも、少しヤンチャな人が面白いため好きなのであるが、相対的に見て、軽薄で利己的な人には上記したように心を開き切ることはない。
それは私が相手に意地悪でそうしているわけではなく、シンプルに信頼できないためであると思う。

そのため、私が関係性の上では親しくしようとしていても、私が相手の精神性を認めて心を開いていない場合は、相手はやはり、「非難・否定」を感じてアイデンティティが損なわれてしまうため、私と親しくすることを「怖い」と感じて距離を取ったり、去ったりしてしまうのかもしれない。

つまり、人は、単に楽しむためだけでなく、他人に「認められたい、承認されたい」というモチベーションで、他人と親しくなることも多いと思うが、私が、ある種相手を認めようとしないことで、相手が欲しい「承認」ではなく「否定」を与えてしまっていることが問題なのではないか。
つまり、「心を開いているという状態」自体が相手に対しての「承認」なのだと思う。

このことは、私が友人に「私が年々人から怖がれるのはなぜか?」と聞いてみたときに、
「フランクだから初めは騙されるけど、途中でこちらを睨んで来ていることがわかり、ハナシが違う!となるからだよ」とか
「あなたは気は長いけど(簡単には怒らないけど)、優しくはない」などと言われたことと照らし合わせることができるよう思う。

これらはつまり、私が親しくしようとしている相手に「心を開いていない」ということを言っているのだと思う。

ただ、これは、私が特別他人に心を開かない人間であるということではなく、「相対的な問題」であるとも思う。

「すぐ嘘をつく上に、すぐ他人を攻撃し、モメた時にまともに話し合いができない人」に、「すぐ嘘をつく上に、すぐ他人を攻撃し、モメた時にまともに話し合いができない人」が心を開いて関わることができたとしても、

「すぐ嘘をつく上に、すぐ他人を攻撃し、モメた時にまともに話し合いができない人」に、「すぐ嘘は付かず、すぐ他人を攻撃せず、モメた時にまともに話し合いができる人」が心を開けないことは、

後者が「優しくない」ためではないと思うためである。単純に、相対的な精神性やマナー感覚の差異によって、相手を受け入れきれなかったり、信頼できないため、心を開いて関わることができないだけであり、優しさの問題ではないと思う。

そのため、相手がどういう人間で、どういう心理なのかを「理解」していることと、相手を認め、信頼して心を開くことは別物であることがわかる。

もっと言うと、思慮深く相手を見たからと言って、相手を承認(認める)できるかは別問題であるということである。

そのため、この差異を乗り越え相手に心を開くためには、過去にも書いたように、相手からの何かしらの「関与」が必要なのかもしれない。

例えば、わがままで軽薄な「孫」が、精神性の高い「おばあちゃん」に存在の否定を受けることなく、認められ、心を開かれているのは、血縁関係にあるということも含めて、孫が「愛らしさ」という「関与」をおばあちゃんにして「愛されている」ためであると思う。

私が、せめて仲良くしたいと思っている相手を、積極的に認めて心を開くには、相手をさらに理解したらいいのだろうか。
というのも、私は、作品や、自分の創作に登場する人物であれば、自分よりも明らかに軽薄な人物でも愛することができる場合もあると思う。それは作品を通して登場人物をより深く「理解」しているためであると思う。

作家・金原ひとみは、「近年は嫌いな他人を積極的に描いて理解して許容できるようにトライしている」と発言していたが、それは、やはり作品というのはより深く他人を理解するための手段だということでもあると思うが、

そもそも理解をより深くするほど、相手を許す(許容する)ことができるということだと思うので、私は「他者理解力が上がってきた」と上記したが、特に現実における他人への理解力が中途半端なのかもしれない。
そのため、他人をある程度理解した上で、(心を開くというところまでは)許容することができていないという、一番最悪の状態になることが多いのかもしれない。

つまり、私は、「思慮深さ=他人を理解し、思いやる力」が上がるほどに、「他人を理解し、思いやる」ことが自分より随分できない・しない他人を認めることができなくなってきているため、親しくなろうとする人に心を開かないという行動で相手を「否定」してしまう問題児化しているということかもしれない。

または、これは、私が手に入れていない「目線」の問題なのかもしれない。以前も書いたが、私は他人に、先輩然とするというようなソフトなものも含めて、「上から接すること」が苦手である。
そして、「他人を尊重すること」とは、相手を自分と同等として扱うことだと思っているところもあるが、これは捉えようによっては「冷たい(優しくない)」のかもしれない。

なぜなら、他人を皆同等として扱った場合、人間性を含め、「相手を認め心を開くことができるかどうかをジャッジする基準」が厳しくなってしまうためである。

つまり、
・同等として扱われた上で認められず心を開かれない、
よりも
・自分よりも下の存在であるとして甘く扱われ心を開かれる

という後者の場合は、実は、「否定されることなく認められている」ということになるのではないか。

私は、今まで、他人を自分よりも下の存在としてマウントを取って上から接することは、相手を軽んじるひどい行為だと思っていた。

ただ、この"マウント"の場合は、もしかすると、「見下している」というよりも、親目線、おばあちゃん目線、先輩目線、というある種の愛情を含んだものもあるのではないか。

私は基本的に、上記のような意味での「上から目線」がないため、常に他人を厳しい目線で見て、精神性を含めた、自分に強度の高い関与力がない人は「認めない」「心を開かない」という心理行動で相手を否定してしまっている可能性があると思った。

私は確かに、「子ども」があまり「可愛い」と思わないので、ある種の、そういう意味での「上から目線(自分より劣っている存在を愛らしいと思う気持ち)」の欠落があるのかもしれない。

確かに、ゆるキャラとかも特に可愛いと思わない。。

女の子の「可愛さ」はちゃんと可愛い、愛らしいと思うが、相手があまりに軽薄な場合は打ち消されて「認めない、心を開かない」の方に傾いてしまうと思うので、「上から目線(自分より劣っている存在を愛らしいと思う気持ち)」の欠落がここでもあるように思う。

どうやったらこの「上から目線の愛情」を育むことができるのか不明である(作品を観たり読んだりするときや創作ではできている気がする)。

結論:✴︎問題発見✴︎


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