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【ホラー小説】―ボタン― 《#創作大賞2026#ホラー小説部門》

『あらすじ』

どこにでもいる女子高生の「私」は、ある日を境に世の中のあらゆる‪”‬ボタン‪”‬に強い違和感を抱くようになる。

スイッチ、火災報知器、横断歩道の信号機。押しても反応しないボタンと、自分の中にだけ響く「カチッ」という音。

やがて彼女は、周囲の人々が何かに操作されているように見え始め、自分だけが世界からズレていることに気づく。さらに夢の中には胸に巨大なボタンを埋め込まれた少女が現れ、彼女の存在を侵食していく。

‪”‬私‪”‬と‪”‬僕‪”‬、人間とボタン、押す側と押される側。意思と操作の境界が崩れていく中、彼女は世界の裏側に隠された真実と向き合うことになる。

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―ボタン―

ボタンなんて、気にしたことなかった。
むしろ、意識するほうが変だと思う。
意識するとしたら、ボタンの掛け違いくらい。

私は今、夏に地区で行われているラジオ体操に参加している。そのラジオ体操へ向かうとき、‪”‬あえて‪”‬ボタンをひとつずつズラして、その場へ元気に走っていってる。

そんな話はどうでもいいのだけど、ボタンは様々な種類が存在する。

どのボタンも、ちゃんと押せば応えてくれる。
押し方を間違えなければ、ちゃんと反応する。
それが少し、私自身の安心だった。

今は、‪”‬AIに話しかければ答えが返ってくる‪”‬。あれも少しボタンと似ている気がする。スマホのボタンは凹凸がないのが少し寂しい、なんて変なことも考えている。

人間のように一種類ではない。
信号機のボタン、エレベーターのボタン、自販機のボタン、ゲーム機のボタン、家のチャイム。
全部、ただの‪”‬便利なもの‪”‬でしかない。

押せば反応する。
…いや、正確には‪”‬押されれば‪”‬反応する。
正直、そこに在るというだけで、存在を意識する人間はいないと思う。


ボタンというものは、やりたいことを‪”‬見つける‪”‬とか、そんな思いはあるのだろうか。ある訳ないけど、そんなこと人間の私に分かるはずもない。けれど今は、私の意思ひとつで動かすことも、停止させることもできる。私が主導権を握っている。

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女子高生の私

私はどこにでもいる女子高生。
いつものように人で溢れかえった校門をくぐり、下駄箱の前でボーッとしていると、私を見つけた友達が背中をつつきながら「授業に遅れるよ」と伝えてくれた。

背中に指で押された、嫌な感触が残っている。
普段はそんなこと感じないのに、なぜかその日だけそんな気持ちになった。

授業の時間に遅れないように、教室に向かい走っていると、先生に大きな声で注意されて背中がビクついた。私はビビりなところがあると自称している。

ビビりながら横を振り向くと、火災報知器が設置してあった。その時、なぜか火災報知器のボタンがやけに気になり、気づいたら指がボタンに触れていた。
「こういうのって押したらどうなるか気になるよね」
その時、ちょうど隣に居た男子がそれを聞いて、何故か固まっていた。

そのまま授業がはじまり、給食の時間になった。
なんだか疲れてたせいか面倒くさくなり、給食もかき込むように食べ終わった。そのせいで食べ物を所々に残してしまった。私ってホントみっともない人間。

私にも色んな事情がありイライラしてて、食器も投げるように入れてしまった。お腹がいっぱいになったせいか、その後の授業で数分とせず眠りについてしまった。

‪”‬いつも‪”‬はみんなにちゃんと合わせられるのに、今日はなんかおかしい。みんなと同じタイミングで笑ったはずなのに、なぜかワンテンポ遅れてる。もしかしたらハブられてる…?
年頃の人間はそういった悩みがつきない。

先生まで私をモノみたいに扱ってくる。
移動するときも、指で押されて動かされた気がする。
その扱いに普段温厚な私も少しだけ苛立っていた。

無事授業が終わり、私は皆とジュースでも飲んで帰ろうと、駅前の自動販売機に向かった。

数人で駅前の自動販売機に着くと、そこには一度も話したことのないクラスメイトの女子がいた。
話したこともないし、話しかけなくてもいいやと思い無視していたけれど、そのまま私たちの輪の中に、輪郭だけが溶け込んでいった。

そんなことは気にも留めず、私は手に握った小銭を滑らせ、大好きな炭酸飲料のボタンへ指を伸ばした。


カチッ。

押した感触はあったと思う。
でも、何も起きなかった。
周りの友達は、‪”‬いつも通り‪”‬買っている。

「ねえ…」
自動販売機に語りかけるように呟いたが、当たり前だけど自動販売機は返事なんてしない。

お金は入れたはずなのに出てこない。
「なんで出てこないの?」

文句を言いながらもう一度押した。

カチッ。


やっぱり、出てこない。売り切れてるわけでもないし、押せば出てくると書いてある。それは当たり前のことだ。なのに出てこない。

ランプは点いているのに反応しない。

私は苛立ってボタンを連打した。
カチカチカチカチッ。

連打しながら自動販売機の下の地面を蹴飛ばし、無意識に舌打ちをしていた。


少し冷静になり、下の列の冷たいコーヒーのボタンを押してみた。

カチッ‪…。


ゴトンッ!!

いつも通り当たり前のように、コーヒーが出てきた。

「…?」
「気のせいか、故障か…不良品か…?」

そのとき、自動販売機のボタンと、ちょうど同じ高さに視線が合った。すると、胸の奥がざわつき、私はボタンをじっと見つめたまま、動けなくなった。

そのあいだに、そこに居たはずのクラスメイトは消えていた。


「みんな帰るなら、僕にも帰るって言ってよ…」
私はいつも無意識のうちに一人称が‪”‬僕‪”‬になってしまう。それをいつもお父さんに叱られていた。

だから、みんなの前では‪”‬私‪”‬にしてるんだ。
そんなことを考えながら、コーヒーを買ったけど、「不要だ」と思って、蹴飛ばした地面にコーヒーを置いてその場を後にした。

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横断歩道

その帰り道、僕はいつもの交差点の前にきていた。様々な人間が規則正しく渡ってる場所。でも何故かその日は人が少なかった。横断歩道で待ってるあいだに、ボタンを連打したが赤く光らない。それに苛立ち、ボタンをしつこく押し続けていた。

その日は疲れていたせいか、その時の記憶が曖昧になっている。しばらく、その状態が続いていたらしい。あたりはもう薄暗くなっていた。

その後、通りすがりの男性が私を見るなり、いきなり叫んで、その場から逃げていった。なぜ逃げていったのか意味が分からず、とても不快な気持ちになった。
僕は「変わった人がいるな、変質者だろうか」と呟きながら、公園のベンチでひと休みしてたら、いつの間にか眠りについていた。

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部屋の電気

公園のベンチで眠ったあとの記憶は曖昧で、思い出そうとしても、そこだけ霧がかかったように何も浮かんでこない。いつ、どうやって部屋に帰ったのかも分からない。ただ気がつけば、その日の夜、私は自分の部屋にいた。

意識がハッキリして、部屋の電気を消そうと、壁に埋め込まれてるスイッチに手を伸ばした。

カチッ。



……。
消えない。

もう一度。

カチッ。


……。
やっぱり消えない。それに少し苛立った。

だから少し強く押し込んだ。

カチッ。

……。



パチッ。

遅れて電気が消えた。ベッドサイドの棚に置かれた薄明かりのライトの光がそれに呼応するかのように揺れる。その瞬間、なぜか空間自体が歪んだようにみえた。だから目を擦ってからもう一度見てみた。
するといつもの部屋に戻っていた。


「何なの…接触悪いのかな」

そう呟いた自分の声が、
二重に反響して遠く聞こえた。

変な違和感を覚えたそのとき、少し背筋が寒くなり、
どこからか視線のようなものを感じた。


ゾワッ…!!
背中の奥から、何かがスーッと抜けていくような感覚が走った。幽体離脱のような、自分を天井から見てるかのような…。一瞬の出来事だった。

それから、奇妙なことが少しずつ増えていった。

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公園

ある休日の昼間、私は友人と公園で待ち合わせをしていた。公園には、すでに何人か集まっていた。

ラジオから流れてくる間抜けなピアノの音。気分が悪くなりそうなノイズが流れる。

眠い目を擦りながら、みんなとラジオ体操。
全員、大きな欠伸をしている。だから私もつられるように大きな欠伸をした。他所から見たら、みんな揃って間抜けな顔をしてる、普通とは違った集団に見えていたかもしれない。そう思いながら、続けて大きく背伸びをした。

子供も、大人も、どこかやる気のない動きをみせる。元気はあるのに、無駄のない機械的な動きをしている。もっと元気な人間らしい動きをすればいいのに。

そんな如何にも‪”‬私は人間だぞ‪”‬みたいな考えを巡らせながら、いつの間にか無意識に一番端に立っていた。

腕を上げ下げする。
体をひねる。
足を伸ばす。
息を吸って、吐く。

その一連の動きの中で、普段は気にもしてなかったことに目がいった。


誰ひとり、ズレていない────────。
ピッタリと合ってる。

体操のタイミング。
シャツのボタン。
呼吸のリズム。
眼球の動き。
すべての角度。
変わりゆく表情。
止まるタイミング。

すべてが、妙に揃っている。揃いすぎている。
「気持ち悪ッ」て思ったが、私はあまり気にするタイプではない。

その中で、私だけが少しだけズレている。
何なんだこの違和感。

ズレを直そうとしても直ることはなかった。


一拍遅れて腕を上げると、隣の友人がこちらを見てきた。眼球だけをこちらへ向けてくる。

その目が、ピタッと止まった。黒目はこちらを向いているが、焦点が合ってないからか、どこを見てるか分からない。その状態から、私の身体全体を確かめるように見だした。


胸元を見ている。普通だったらここで気味悪がるべきか。でも別に嫌な感じではない。

でも私は反射的に胸に手をあてた。なぜかそれで少しだけ安心していた。恥ずかしいと隠したくなるのが‪”‬普通‪”‬だよね。私は人間なんだって思える。これが存在する証拠になった。

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変わった父

ラジオ体操が終わると、スタンプカードを持ったおじさんが順番にハンコを押していく。父と近所のおじさんの二人で仕切ってる。

子供たちの後ろでは、迎えにきた母親たちが談笑していた。高校生でラジオ体操に来てるのは私くらいだったし、父親と来ているのも私くらいだった気がする。

私は母親と過ごした記憶がない。だからだろうか。その光景を見ているうちに、ふと疑問が浮かんだ。「そういえば家族ってなんだろう」

気づくといつの間にか友人の存在も消えていた。
その時、色々と考えたが、答えは見つからなかった。


ボーッとしてると横から、「はい、よく来たね」と、父が笑顔でみんなと同じように話しかけてきた。

ハンコを押そうと、父はいつものように笑ってきた。いつものように────────。

スタンプカードにハンコを押す手が、ピタッと止まった。じっと、私の胸元を見ている。

父がまるで他人のような、よそよそしい態度で話しかけてきた。「それ…」


「え?」
父の急な接近にびっくりした。


「ズレてるよ」

「ああ、はい」
つい敬語になった。


私はどんな表情が正解なのか確かめながら笑った。

──────その瞬間だった。


ドクンッ!
胸の奥に妙な感覚が襲いかかる。何かに押されたような感覚。


急に父が別の人間に見えた。
(お父さん…だよね…?え、別人…?)

胸の奥の方の、右側と左側が少しだけズレた気がした。息が詰まった。ちゃんと口の隙間から息はできてるのに。

誰にも触れられていないのに、内側から押されたような感覚があったからだ。口の隙間が少し狭くなった気がした。

思わず半歩後ずさる。体がズレた感覚があったせいか、踏ん張れず足元がフラつき転びそうになった。だけど、何事もなかったかのように父は、ハンコを押してきた。


「はい、次」
その表情はどこか感情のないロボットのようだった。というか、幽体離脱みたいな感覚に襲われた時から、僕には感情というものがよく分からなくなっていた。

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帰り道

帰り道、私は無意識に服のボタンを直そうとした。私には、意識的にボタンをズラしてしまう癖がある。そして気づけば、そのズレを無意識のうちに直している。

指先で、一つずつ掛け直す。

カチッ…。

カチッ…。

カチッ…。
規則的な音だけが、静かな帰り道に溶けていく。

そして最後の一つを留めた瞬間。
...カチッ。その音だけが妙だった。

服のボタンではなく、もっと内側──────胸の奥から鳴ったような気がした。同時に胸の辺りがぼんやりと温かくなった。そして空気が、ほんの少し静かになった。

音が減ったような。
空気が薄くなったような。
世界から何かが抜け落ちたような。

その違和感に気づいた瞬間────。
なぜか私は無意識に笑っていた。理由は分からない。
ただ自然と口元が緩み、頬が持ち上がっていた。そのことに気づいた瞬間、私は慌てて表情を直した。
……今、どうして笑った?

そんな疑問だけが、胸の奥に小さな棘のように残った。私はそのまま、‪”‬いつも通り‪”‬帰って寝た。

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―その夜、私は夢を見た―

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その夜の夢

最初は、ただの暗闇だった。黒以外が一切ない暗闇。

音も、匂いも、重力さえ感じない。
自分が立っているのか、浮いているのかすら分からなかった。声をだそうとしても出ない。ただ、黒い空間。その中に、ひとつだけ…。

白い点…。
漫画に出てきそうな、手を伸ばせば救われそうな光。…私は救われることを望んでいるのだろうか。ふとそんな考えが浮かんだ。

私は今まで、他人に価値を決められたくないから、頑張ってきた。認められるためではない。評価されるためでもない。少なくとも、そう思っていた。

だから私の未来は、希望でいっぱいのはずだ。将来……。私は何になりたいんだ…。心の奥から聞こえてくる。「これだけ頑張ったのだから、報われるべきだ」そんな声が。今の自分が報われていないことを、誰かに訴えているかのようだった。



そんな不思議な感情に頭を支配されながら、私はその光を見つめていた。やがて目が慣れてくると、その白い光がただのボタンだったことに気づいた。

小さな、シャツのボタン。
みんなに愛されて、大切にされてるボタン。
ボタンは、笑ってみえた。私は自然とボタンに手を伸ばしていた。


するとボタンはゆっくりと大きくなっていった。
じわじわと。

呼吸するみたいに。
大きく息を吸い込むように。


膨らんで、縮んで、また膨らむ。そうやって脈打っていた。少しずつ、少しずつ、ボタンは大きくなっていった。そのボタンに私は近づきたくなった。

気づくと、私はボタンに近づいていた。
足は動かしていない。無意識のうちに近づいていた。


遠くから、視界の中心部分に小さく収まっていたボタンは、ボタン以外が見えないほど、視界全体を占めていた。距離が縮まったというより、ボタンしか目に入らなくなっていた。


そして、ボタンが視界から消えたと思ったら、
気づくとボタンを手のひらに乗せて転がしていた。


表面はつるつるしている。その中に少し線状の膨らみも混ざっていた。


どこか生々しい。血管のような凹凸が脈打ってる。それを見て自然と笑みがこぼれた。

自分が笑っていたことに、その時の私は気づいていなかった。


つるつるだけど、まるで皮膚のような質感。
目が慣れてきたのか、血管のようなものもハッキリと見えてきた。


「…!」

声を出そうとしても、出ない。
出してるつもりなのに、自分の内側で響いているかのような感覚。

なぜか逃げるという発想は浮かばない。このボタンと向き合わなければいけない気がした。

今の状態を確かめるように、ボタンをジッと見つめる。見つめているわけではない。どちらかというと、見させられている。目を逸らしてはいけない気がした。


私を試すかのように、ボタンが膨らんだ。
限界までパンパンに膨らんでいった。
それを直視するのが怖くなった私は、そのボタンを下に落としてしまった。

次の瞬間…。

バリンッ!!!!


それが落としてすぐに‪”‬割れた‪”‬。

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覗く目

白い表面の一部に小さな穴が開き、その穴を起点にして無数の亀裂が走った。ピシッ…!!ピシピシッ…!!!細かくひび割れていく表面は、寿命を迎えた殻のようにボロボロと崩れ始める。そして割れた隙間の奥から、見えない何かの気配がする。何かが覗いている。

真っ黒な穴のようなもの……いや、違う…。
それは────────。



目…。目だ。
その目が見えた瞬間から奇妙なことに、それまで曖昧だったこの空間の輪郭が、急にはっきりと浮かび上がった。それは前に、一瞬だが幽体離脱したときに味わった感覚とよく似ていた。

そのまま私は少しだけ前のめりになった。
でも、体は動かない。前のめりになろうとしたが、実際に前のめりにはならなかった。


そのままボタンだけが、ゆっくりと割れていく…。
バリッ…、バリバリバリバリッ…。

目の次は鼻…。
口…。
輪郭…。
髪の毛…。

卵の殻を破るように現れる…。体も見えてきた…。

一枚一枚ゆっくりと破って、中からは女性が出てきた。私と同い年くらいの女性。とても美人な子だった。まさに私の理想像そのものだった。思わず「綺麗…」と口に出しそうになったけど、やはり声は出なかった。

細く白い肌をしたその顔は、どこか儚げだった。
しかし、その目だけは違った。周囲を見渡そうと必死なのか、血走った瞳が忙しなく動いていた。瞳は今にも閉じてしまいそうなほど、重たげに見えた。


割れたボタンをしばらく眺めたあと、彼女はボタンを中心にぐるぐると回りながら、首を真横に傾げてこちらを見てきた。いつの間にか幽体離脱のような状態から、元の身体に戻っているのに私は気づいていなかった。

こちらに何かを訴えかけているようだった。何か喋ってるけど聞き取れない。何も聞こえない。どこか寂しそうな表情をしているようにみえた。

私と同い年くらいの彼女は、自分の理想像と重なるからか思わず見とれてしまう。その身体が羨ましくなる。


私がいつも着ている、お気に入りの白のワンピースを着させてみたい。なんて馬鹿げた妄想が頭をよぎり、私はこの状況を楽しんでいた。

その彼女の身体に一つだけ、異様なものがあった。
胸元に…。

大きなボタンのようなものがついている。ただひとつだけ。心臓のように肉で守られている。

この光景、前にも見たことがある。
現実…?夢…?
分からないけど、覚えてる。覚えてるという表現は正しくないかもしれない。残ってる…?希望してる…?記憶してる…?刻まれてる…?望んでる…?必要としてる…?私は夢なんかみてない。過去の記憶でもない。一瞬、私はパニックになった。

心の中で声にならない声を必死で呟いた。
(これは…誰の………ナノ…!?)


再び視線を戻すと、胸元にあるボタンのようなものが、ゆっくりと脈打っていた。人間に近いリズムで。ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ────────。
そのリズムは、人間の鼓動によく似ている。

──────────────────────

その鼓動に意識を奪われていた私を見透かしたかのように、彼女が不意にこちらへ顔を向けてきた。
私は慌てて目を逸らし、そのときになってようやく、ここが夢の中だったことを思い出した。

夢の中なら、父も学校の人間も居ないし、‪”‬僕‪”‬で居られると思った。そう思うと何故か気が楽になった。

父や学校の人間の前では、‪”‬私‪”‬で居なければならないと、‪僕‪が‪”‬僕‪”‬になるたび父に叱られていた。

僕も顔を彼女のほうに向けると、彼女の血走った目は、いつの間にか血が引いていて、どこか無機質なものに見えた。目があるけど目がないような感じだ。ぼんやりとしている。感情もない。何もない。そんな感じ。


でも、確実に‪‪”‬僕を見ている‪‪”‬。
そして僕と同じ動きをしている…。

不思議と重苦しい空気は流れず、時間を忘れるような時間が流れていた。

「…」
しばらくして、彼女の口がわずかに開いた。何か喋ったようだった。

聞き耳を立てたが、声は聞こえない。
でも確かに何かを話してる。口だけもごもごと動いている。乾いた上唇と下唇が合わさる音が聞こえてきそうだった。
声が聞こえない代わりに────────。

ドクンッ…!!不意に、胸の奥を押されたような感覚が走った。僕は思わず、「ねえ…」と心の中で呟いた。彼女の口元が動くたびに、胸の奥が押されるような感覚が繰り返し襲ってくる。それは痛みではないけど、心地よいものでもなかった。

ドクンッ…。胸の内側から内側へ押し込まれる。

ONとOFFが切り替わるように、突然息が詰まった。「ッ……!」苦しい…。それは喉を締め付けられるような苦しさではなかった。自分の喉ではなくなってしまったかのような違和感。

息を吸おうとしても、思うように動かせない。唾を飲み込もうとしても、飲み込めない。僕の意志を受け付けてくれない。僕の身体のはずなのに。

心の中で僕は必死に声を出した。夢なら覚めてくれ...動けない...助け……。徐々に視界が歪んでいく。世界が少しずつズレていく。

まるで無限とも思える時間、僕は苦しんでいたと思う。そのまま失神しそうになった次の瞬間、彼女が、一歩踏み出してきた。

それに反応するかのように、僕の身体が大きく動いた。強制的に引き戻されたかのように感じた。


僕は彼女の近くにいるのはヤバいと思い、反射的に遠ざかるように反対の方向へ全力で走った。走っても進んでる気がしない。そう思いながらも、身体が彼女から遠ざかろうと必死になった。とにかく遠ざからなければ、僕はここから抜け出せない気がしていた。だから気持ちだけでも逃げていた。藻掻いてただけで、そこから動けていないかと思ったが、少しだけ遠ざかっていた。


そのまま安堵すると、後ろから何か音がする。彼女の足音が…僕の頭の中に、やけに大きく響いてくる。…カチッ。…カチッ。

少し不思議な音だった。ヒールの音でもない。何か硬い音。何かと何かが重なるような音。でも、低い位置から聞こえてきたから、足音ということは分かった。カチッ…。

近くに気配を感じ振り返ると、彼女が僕の足元を確かめるように見てる。

歩いても、走ってもいない。垂直に立っている。
なのに────────。

距離が徐々に縮まってきている。

「僕のほうに来るな…」
このとき、この夢のなかで初めて声を出せた。
しかし声にならない声は、遠くへいかずにその場にそのまま落ちていく。

空気漏れのような息だけが響いてる。
ヒュー、ヒュー…。

するとまだ少しだけ遠くにいる彼女が、急に手を伸ばしてきた。

細長い指先が、届くはずのない私の胸に届いた。
そのまま胸の辺りに指を滑らせて触ってきた。
カチッ…。押された…。


その瞬間、景色全体が変わった。いや、景色が変わったのではなく、視界にフィルターがかかった。

──────────────────────

記憶に残る公園

フィルターがかかると同時に、僕はまたあの公園にいた。これは夢なのだろうか。目の前には、無機質な父の姿があった。そのすぐ近くでは、ラジオ体操の列が規則正しく並んでいる。

みんなが同じ動きを繰り返していた。何かを探すように指先を動かしている。前に見た光景とよく似ているけど、どこかが微妙に違った。違和感の正体を探るように周囲を見渡したとき、僕は気づいた。

全員の胸元にボタンのようなものが付いている。父の胸にも同じようなものがあった。大きさも位置も人それぞれで、統一性はない。

それが本当にボタンなのか。それともスイッチなのか。あるいは単なる装飾品なのかは確かめる術はなかった。それでも、僕はそれがボタンだと確信していた。理由も根拠もないのに、なぜか分かる気がした。昔から知っていたものを思い出したかのように…。ボタン…。それは確かにある。
そして────────。

何故かひとりでにボタンが沈んだ。
誰ひとり、それに抵抗する様子はなかった。

見えない‪”‬何か‪”‬が押している。
人じゃないことは分かる。僕のように夢に迷い込んだ人間の仕業なのか…?


そこに確実に存在している。周りの人間でもない、僕でもない、確かにそこに存在する。何かが押している。みえない指先が、ひとつひとつ丁寧に押していく。一人一人が試されていく。

ガッ。

パチッ。

グイッ。

ポチッ。

ガチャッ。

様々なボタンが押される音がした。
なぜか僕は、カチッと鳴ることを期待していた。
押されるたびに、人が揺れる。様々な形に変化する。

真後ろを振り向く。
手を挙げる。
声を出す。
歩く。
笑う。
屈伸する。
指を動かす。
変な方向に曲がる。

すべてが、ボタンで操作されている。そんな考えは馬鹿げているのに、その光景を見ていると否定できなかった。

人々は自由自在に動いている。
歩き、笑い、会話をし、ごく自然に日常を過ごしているように見える。その中に時折信じられない動きをする人もいた。

身体が不自然な方向へ向き、ぎこちなく動く。その瞬間だけ、表情が変わる。苦しそうに眉を歪め、何かに耐えるように、口元を震わせる。そして誰もが共通して、同じ仕草を見せていた。

全員が、助けを求めるように手を伸ばしていた。
手を伸ばした先を追うと、その先には、僕の友人が立っていた…。

その不可解な事実に気づいた僕は、奇妙な動きを見兼ねて、思わず喉を絞るように叫んだ。
「やめなよ…!!」

でも、誰にも聞こえてない。誰も止まらない。僕は誰にも見られてないみたい。声も届かない。まるで僕が存在していないかのような静寂のあと、僕の背後から、声がした。

──────────────────────

「ズレてるよ」

──────────────────────

僕は振り返った。あの夢に出てきた彼女が、すぐ後ろにいた。正直「またか…」となって、僕は少し疲れていた。彼女は下を向いて少し笑ってるようにも見えた。背中が上下に震えている。

下を向いたまま、彼女は手を伸ばしてきた。その手は、僕の胸元まで届いてきた。ゆっくり…ゆっくりと…。徐々に…。まるで停止してるかと思うくらい、ゆっくりと少しずつ…。しかし不快感のようなものはなく、不思議と逃げようとは思わなかった。ただ待っていた。

もう避けられない距離まで手が伸びてきた。彼女の手をまじまじと見ると、色が白すぎて気味が悪かった。手がボタンのすぐ手前まできて、ピタッと止まった。
「直してあげる」

そう言うと、彼女は優しく微笑んだ。
そして、そのまま指先がボタンに触れた。
…カチッ。触れた指は、そのままボタンを押し込んだ。その瞬間────────。

僕の視界が、完全に白くなった。
何かに閉じ込められたかのような感覚。

追い討ちをかけるように、彼女は僕のボタンを押した。カチッ…。その音は、まるで何かに馴染んだかのように小さく鳴った。けれど、自分の体の中から聞こえるのに、頭の奥深くで何度も反響していた。

カチッ、カチッ、カチッ、カチッ……!……!!
止まらない。しかも、その音は徐々に大きくなっている気がした。

それに連動するかのように、真っ白に塗り潰されていた視界が徐々に何かを映しだし始めた。本来なら何も見えないはずなのに、なぜか‪”‬自分の形‪”‬だけは分かる。それは不思議なことのはずなのに、僕にとってそれは‪”‬見慣れた光景‪”‬になっていた。
目の前に自分自身の輪郭だけが、ぼんやりと浮かんでいる。

その輪郭が、少しずつ薄くなっていく。存在そのものが溶けだしているかのように。

歪んでいく。
形がなくなっていく。
消えてく…。


ドクンッ…。不意に、心臓が浮き上がったような感覚が走った。その違和感に、思わず溜め息のようなものを吐こうとした────その瞬間、「ねえ…」

先程の彼女の掠れた声が僕の脳内に響く。いや、近くからか…耳元ではない。どこだ…。周りを見渡そうとするが、どうすれば見渡せるかが分からない。動き方がわからない。


(っと……て…)
ん?また何か聞こえた気がした。自分の内側からか。
頭の奥を静かに撫でるように聞こえてくる声。

──────────────────────

「もっとちゃんと、合わせて」

──────────────────────

何を…?何を合わせればいいの…?
私は何も答えられない。

答えようとすると、言葉が崩れていく。

「あ……れ」
思考がまとめられない。


意味を持つまえに、形ができるまえに、思考が崩れて消えていく。

──────────────────────

「ズレてると、気持ち悪いでしょ」
―彼女の掠れた声が頭の中に滑り込んでくる―

──────────────────────

その言葉がとても不快で、記憶から今すぐ消し去りたいと思った。負の感情が滑り込んでくる。
なんだ、この頭の中を侵食されていくような感覚は…。振り払いたいのに、視線も意識も奪われたまま動けなかった。

その言葉が徐々に、ゆっくり…ゆっくりと染み込んできた。背中の皮を一枚ずつ剥がされるような、奇妙な感覚に襲われながら、背筋が冷たくなっていく。

そんなことを感じながら背中の位置がどこにあるのか分からなくなるほど、身体の感覚が麻痺していた。
だから確かめることもできない。

その彼女の声を否定したいけど、否定できない。
ズレてると気持ち悪いのは確かにそうかしれないと納得してしまった。


確かに様々なボタンがズレてたとき、私は気持ちが悪かった。その嫌な記憶が蘇る。

みんなと動きが合っていなかったとき。
口の動きと声が合ってなかったとき。
意志と逆の方向をむいていたとき。
一拍遅れた自分に気づいたとき。
朝、ボタンがズレていたとき。
他にも、自動販売機のボタン・延長コードのスイッチ・照明の引っ張るスイッチ・玄関のチャイム・火災報知器、色々ある。


あの‪‪”‬わずかなズレ‪”‬。押しても反応がないとき。ズレて反応するとき。わずかだけど、とても嫌な違和感が残っていた。それが引っかかって、ずっと頭から離れなかった。そういうことがあると、夜も眠れないこともあった。

僕が立ちすくんで考えていると────。
再び、脳の奥深くへ直接響くように声が流れ込んできた。

──────────────────────

「だから、直してあげる」

―再び聞こえてきた―

──────────────────────

ドクンッ…。
その直後、また押された…。

前にも押された感覚はあったけれど、今度はもっとはっきりと、もっと生々しく、自分が確かに‪”‬押されている‪”‬と分かる。それは胸ではない。もっと深い場所。位置を特定するように深く考えていると、また別の記憶が蘇ってきた。

この記憶は…。なんだ…これ…。
そこには不思議な光景が飛び込んできた。
この身体では経験したことのないような光景。

──────────────────────

選別

なんだこの場面は…。選別…?
何故か僕はそれが選別という行為であることを知っている。知らないはずのことまで次々と出てきた。

僕と同じ顔の不良品が捨てられてる…。
僕の顔に傷がついてる…。ダメな僕だ。
あっちは良品…綺麗な僕だ。

何かが、決められて流されていく。
あの僕は安泰だろう。


「右に行こう」と思う前に、右に動いている。
「嫌だ」と感じる前に、捨てられてる。


この工場はボタンを製造する工場のようだ。

──────────────────────

僕は、気づいてしまった。
これは、行動ではない。

自分の意思が、外に押し出されている。
いや、違う。内側に抑え込まれてる。

──────────────────────

そのまま過去の記憶と、今の出来事、どちらにも属さず終わってもいいかと思ったその時、

「やめて…」


やっとの思いで、微かだが声が出た。
僅かに僕が僕で在りたい気持ちが残っていたのか、全く意識せずに言葉が出てきた。「ハアッ!ハアッ!ハアッ…!」

数秒の出来事なのに、もう何時間も息を止めてたかのように、呼吸が乱れてる。「ハアッ!ハアッ!ハアッ!ハアッ!ハアッ…!!」


僕の意思なのか分からないままもう一度、僕は言った。「やめ…て…」

残った気力で、叫びにもならない叫びを出してみたが、掠れてほとんど聞こえない。

「どうしてやめなきゃいけないの?」
掠れた彼女の声が再び聞こえてきた。

考える余地を与えるつもりがないような反応だった。全く隙がない。まるであらかじめ答えを用意していたかのような答え方だった。

掠れているのは、待っていたから。
久しぶりに声を出すからなのか。

──────────────────────

「あなたはズレたままでいいの?」

―迷ってる僕を試すかのような、
追い打ちの問いがきた―

──────────────────────

でも正直、僕はその問いに対して疑問を持っていた。何でそんなことを言うのか理解ができなかった。僕は真っ当に生きてきた‪”‬人間の‪はず‪”‬だから。

ズレている…。
それは、悪いことなのか。そもそもズレてるって何がだ…?


僕を作った親もいる。同じ日に作られた‪”‬きょうだい‪”‬は目の前で捨てられた。そのあと、社会のルールに則って動くようにしてる。

──────────────────────

(………………!!!????!??!!)

──────────────────────

僕は何を考えてるんだ…。お父さんの前では‪”‬私‪”‬で話す。ひとりになったら‪”‬僕‪”‬で話してる。

別に変じゃない。ズレてはいないはず。そんなの誰だって演じてる。皆んなから少し無視されてたこともあるけど、これは個性というものではナイノカ…?

マテ…冷静になれ…!!冷静二ナレ!!

冷静ニ…!!

──────────────────────

そんな人間の不安というものが脳内を駆け回った。
―そしてまた、彼女の声が聞こえてきた―

「ほら、やっぱりズレてる。気づいてないの?」

──────────────────────

再度問われるその言葉に、僕は冷静になった。いや、私は冷静になった。僕のときはよくないかもしれないと思った。

思い返すと、クラスでひとりだけ、タイミングが違う。揃った動きができない。空気をうまく読めない。いつ話しかけたらいいのかが分からない。だから、話しかけられたときだけ答えてた。

ズレてると、確かに居心地が悪いのかもしれない。
でも、「でも…」

その‪”‬でも‪”‬の続きが、出てこない。

──────────────────────

次の瞬間、思考が途中で切れた。
プツッ────────

──────────────────────

私と女の子

一瞬、記憶が途切れたけど、きっと長いあいだ思考が停止していた気がする。私は自分自身の考えを、認めたくないのか…。だから逃げるように考えるのを辞めたのかもしれない。

しばらくのあいだ考えていると、また誰かに押された。カチッ…。

胸の奥が、わずかに揺れた気がした。
「ほら、また」

目の前の女の子は、それを見届けるように静かに私を見つめていた。

その声は、とても優しく穏やかだった。微笑みながら語りかけるような響きで、私を包み込み、そのまま受け入れてくれるかのような安心感のある声だった。だけど本人にとっては、ただ当然のことを教えているだけのように感じられた。

私には母の記憶がない。母が生きてたらこんな感じだったんだろうな──────と思った。けれど、その何気なさが、後になって少しだけ恐ろしくなった。私の知らない何かを、最初から知っているかのようだったから。

女の子は私の様子を見つめたまま、穏やかな声で続けた。「ズレるから、苦しくなるの」

──────────────────────

―それが当然のように、次は景色が暗転して切り替わった。ボタンのONとOFFみたいに―

──────────────────────

公園

気づけば僕はあの公園にいた。あのラジオ体操の公園……。辺りを見回す。けれど景色は少しも変わらない。お父さん……?あのズレたボタンたち……。
でも今度は、無音の世界。風の音も、足音も、誰かの話し声もない。静寂だけが世界を覆っている。

その中で、全員が同じ動きをしながら、その顔には苦悶の表情が浮かんでいる。少し前の記憶の繰り返しのようだ。苦しそうなのに、身体だけは正確に動き続けていた。

そして、気づいてしまった。僕もその中にいた。皆んなと寸分たがわず同じ動き。ズレることなく、完璧に揃って動いていた。1秒のズレもない。同じ顔、同じ動き、同じ表情。
その中にいる僕は、父の前で演じている僕。もう一人の僕。紛らわしいけど、それが‪”‬私‪‪”‬のときの僕だ。

僕は自分を上から見ているかのような感覚があった。
僕はわたしで、私はボク……。じゃあこのボタンは何…。頭の中はごちゃごちゃになりそうだったけど、その気持ちとは裏腹にヤケに冷静な僕がいた。

──────────────────────

何かが僕の思考に入り込むたび、僕の身体を不自由に動かす。腕を上げる。皆んなとぴったり合う。隣と同じ角度。同じ方向。同じ速度。同じ目線。同じ同じ同じ同じ……全部同じ。気持ちいいくらいに揃っていて何故か安心していた。

「ほら」
また女の子の声がした。


「これでいいでしょ」
優しく囁きかけられた。

その声が自然と頭の中に入ってくる。確かに、指示されるがままに動くのはとても楽だった。

ズレないように当てはめればいい。
自分で決めなくていい。
何も考えなくていい。
周りに合わせればいい。
決まったことを守り続ければいい。

この女の子の声に洗脳されてくんじゃないかと思った。そもそも僕はなんなんだ…。自分が無くなっていくのが分かってても止められない。

これは自分の意思じゃないのか…。
そもそも自分の意思ってなんだ…。

でも、それに身を任せるだけで、違和感は消えていく。気持ちが楽になってるのか、それとも洗脳されてるだけなのか…。

……。


「ね?」

女の子の声が今までで、一番大きく聞こえた。
その声が聞こえたほうを振り向くと、女の子がすぐ傍にいた。元からそこにいるかのように、溶け合っていた。違和感がまるでない。いつの間にか同じ公園の、僕が並んでる列に女の子がいた。

女の子がそこに居ることに僕は安心してしまい、頷く素振りを見せそうになった。

「う…」
僕は、返事を途中で飲み込んだ。そのとき…。ふと、僕は思い出した。

──────────────────────

とある朝

それは、とある朝のことだ。
ボタンがズレていたけど、それが当たり前のように走っていた自分。そのズレを定位置には戻さなかった。‪”‬普通‪”‬だったら戻すかもしれないけど、僕はそのズレをまったく気にせず走っていた。

誰にも見られていないと思っていたから。
ズレを揃えないこと、それが自由だと思ってた。
僕は自由を望んでいた。そんな時間が続けばいいと思ってた。

──────────────────────

そんな朝のことを思い出しながら、今の思いが口からこぼれた。「…違う」

何故か自分でも驚いたのだけど、僕は自分に意思があることを、このとき初めて知った気がする。今までは揃えないことが正解だと思っていたから、‪”‬あえて‪”‬ズラしてた。僕は普通というものになりたいのか...?そんな疑問を持っていると、女の子がそれに答える。

「どうしたの?」


なんでそんなこと言うのか不思議そうに、女の子は首をかしげた。変な方向を向いてる。けど、違和感がなかった。それが普通にみえた。


また、どこからか声が聞こえる。
「楽だけど…」

目の前の女の子からではない。
同じ動きで、ラジオ体操をしてる人たちからでもない。これは僕の内側の声だけど、僕の声じゃない。
どこからだ。

そして僕は、‪”‬楽‪”‬という言葉に少し違和感を持った。
自由とは程遠い言葉に聞こえたから。


何かを伝えたくて、頭をフル回転して言葉を探す。でも上手く出てこない。「僕は正解を探してるのか…?」

でも、確かに正解は僕のなかにある。
僕の気持ちは僕のものだ。


今動いてる脳は、本当に僕の脳なのだろうか。そんな、どこか‪”‬普通‪”‬とはズレた疑問が静かに浮かんだ
瞬間……。
キーン────────。
―空気が、確かに止まった―

──────────────────────

無意識

空気が止まると同時に、ラジオ体操の動きも一斉に止まり、僕はゆっくりと全体を見渡した。動きを止めた人たちの中に僕自身の姿もある。

そう思った瞬間も、‪”‬私‪”‬の方の身体がわずかに動けば、その感覚は‪”‬僕‪”‬の中へ直接流れ込んでくる。離れた場所にあるはずの身体が、一本の神経で繋がっているみたいに。

だから他人を見ているようでいて、同時に自分自身を見ている感覚でもあった。

全員が、同じ角度で固まっている。

首の傾きも、腕の位置も、視線の向きも寸分違わない。その光景は統率が取れているというより、人形を途中で止めたような不自然さがあった。

そして普通は止まるはずのない、信じられない角度で止まってる。それを見て無意識に笑ってる僕に、僕は気づいてない。その僕の笑顔に、一切こちらを見ようとしなかった全員が、何かに抵抗するかのように、こちらに首だけを一斉に向けた。

その後に続いて、眼球も追いつくようにこちらを見てくる。

そして全員と目が合った…!!
‪”‬僕‪”‬の方を見てる…。何かダメなことをしてしまった時のような、怒りに満ちた表情で見てくる。

でも何故か目を逸らしてはイケない気がした…。
目を逸らしたら、また‪”‬同じ‪日々‪”‬に戻る気がした。


僕は彼らと目を逸らさぬようにしてた。
なのに全員の胸元のボタンに目がいってシマッタ。

それに応答するかのように、全員の胸のボタンガ────────。

一斉に、脈打った。
ドクンッ!!!

続いて脈打つ。
ドクンッ…!!

ドクンッ…!!

ドクンッ…!!

ドクンッ…!!

ドクンッ…!!

ドクンッ…!!!!

音が、身体の内側に響いてくる。

うるさい…!

うるさい…!

うるさい…!

ウルサイ…!

選別ヲトオッタ人間……自由…ミンナト同じ……◎△$♪×¥○&%#?!
ワタシハナニモノナノダ…!?
ニゲバがない…タスケテクレ…!!

──────────────────────

頭が割れ……。

──────────────────────

定位置

「ねえ」
行き場を失った感情を抑制するかのように、再び誰かに話しかけられた。安心したのか、僕のなかのONとOFFのスイッチが切り替わった。口調はさっきの女の子だけど、この時だけ声が男性のように低くなっている。

そして、僕が理性を取り戻したのを確認したあと、女の子は柔らかい表情に戻っていった。


「ズレてたら、苦しいでしょ」
女の子は先程と同じ優しい声色で話しかけてきた。

──────────────────────

―そのあと、何かのスイッチが入ったかのように、
次々と女の子は僕に声をかけてきた―

「揃ってるほうが人間らしいじゃん」

──────────────────────

「私はわたしに任せておきなよ」

──────────────────────

「‪‪”‬僕‪‪”‬のあなたはもういらないでしょ」

──────────────────────

何のことを言ってるのかよく分からない…。でもはっきりと‪”‬僕‪”‬は「不要だ」と聞こえた。頭にこびりつくような嫌な声だった。‪”‬僕‪”‬とか‪”‬私‪”‬とかどうでもいいじゃないか。

心臓の鼓動が自分のものではないかのように爆速で動いてる。

──────────────────────

「あなたに価値なんてない」

──────────────────────

「あなたはもう要らない」

──────────────────────

「無価値」

──────────────────────

ドクンッ…ドクンッ…ドクンッ…ドクンッ…ドクンッ…ドクンッ…ドクンッ…ドクンッ…ドクンッ…!!

──────────────────────

心臓の音に気をとられていると、息を整えることも許さぬほど、急に世界が大きく歪んでいった。私はそれに同調するかのように揺れた。身体のバランスを保つので必死だ。

激しく地面が波打つ。
波に追いつくので必死だ。身体を保てない…。

僕の輪郭が崩れてしまう…。
でも…これでいいのかもしれない…。

──────────────────────

半分諦めかけていたそのとき、女の子の顔が左右に揺れる様子もなく、真っ直ぐ近づいてきた。

顔と顔が触れそうな距離まできても、僕は女の子の顔から目を逸らさずにいた。そのとき僕の息が、女の子の顔にぶつかるのを感じたが、こちらには生き物としての気配が何も伝わってこない。

でも不思議なことに怖くはなかった。
そういう人間なんだと思った。

──────────────────────

「私はここにいていいの?」

──────────────────────

これは先程の女の子ではない。
‪”‬私‪”‬の僕…?
僕は何がなんだか分からなくなった。

──────────────────────

彼女

さっきの女の子と雰囲気が変わったというか、前にも現れた僕に瓜二つの女性がそこには居た。僕の夢には二人の別の女性が住んでるらしい。そういえば僕も‪”‬僕‪”‬と‪”‬私‪”‬の二つの役割を演じていることを、そのとき何故か思い出した。

その‪”‬私‪”‬に似た彼女の細長い腕が、僕の胸の辺りに伸びてきた。彼女は何故か喜んで笑っていた。

その手は、僕の胸を押し込もうとした。
細長く綺麗な指に力が入っている。
「そこに、あった…」

彼女は驚いたように目を開き、そしてまた小さく笑っていた。

──────ん?ボタンのことなのか。
さっき、女の子に押されたボタン。


このボタンがいつからあるのか、僕は知らない。記憶を辿ろうとしても思い出せなかった。生まれたときからそこにあったかのように、僕の胸の一部として自然に存在している。
呼吸をすることや心臓が動くことを疑わないのと同じで、僕はこのボタンの存在を一度も不思議に思ったことがなかった。

それが大きく、脈打っている。


彼女がすこしニヤけた表情を見せ、すぐに真顔に戻ってこう答えた。
「押されたら、あなたも終わるよ」

ドクンッ…!!心臓が大きく揺れて息苦しくなった。
どういうことだ…?


さらに彼女が聞いてきた。
「それでもいいの?」

そう問い掛けながら彼女の指が、当然のように僕のボタンにゆっくりと沈み込んできた。


ドクンッ…!!!!
その瞬間────────。


僕は、咄嗟に心の中で叫んだ。
(やめろ!!)

本心ではなかったからだろうか。声には出せなかった。だがその気持ちに抗うように、僕は全力で彼女の手を振り払った。

初めて、彼女に触れた。しっかりと感触があった。
凄く柔らかな肌。

そして温度もあった。僕の理想の身体。いや、それとは逆な感情…。人間のように同じを望んでるわけじゃない。でも楽になりたい。そんな葛藤が僕の脳内を駆け回った。


彼女は、少しだけ驚いた顔をしていた。まるで触られるのが有り得ないことのように。「あなた…なりたくないの…?ボタ……」その言葉を最後まで聞かず、僕は走った。なぜかそこに居るのがとても危険な気がした。

僕が走ったと同時に、地面が崩れていった。
怖くて振り返らなかったけれど、後ろから何かが近づいてくる気配がした。

振り返ったらダメな気がする。
背中からゾクゾクとした感覚が這い上がってくる。

しばらく走っていると、突然背中にゾクゾクとは別の何かの感覚が襲ってきた。

………!!!!
背中の肉を根こそぎ剥ぎ取られるような感覚だった。実際には身体が引き裂かれているわけではない。なのに、自分という輪郭だけが削り取られていき、その巨大な何かに飲み込まれていった。

それと同時に息が苦しくなった。
息苦しいどころの騒ぎではない…!!
死んだ方がマシくらいの苦しさだ……!!!

苦しい…!!
苦しい…!!
苦しい…!!!
苦しい…!!!!

息が苦しすぎるッッ!!
どうやって息をするのか忘れてしまって、目も開けられない。


次に心臓がうるさくなってきた。
まるで自分の心臓じゃないかのようなスピードで、
音が鳴る。ドクンッ!ドクンッ!ドクンッ!ドクンッ!……!!ドクンッ!………!!

「止まれ!!」
「止まれ!!」
「止まれーー!!」
僕は何を叫んでるのか理解していない。

「これ、僕の心臓じゃない……!!」
「止めてやる!!」


そのときは止めないといけない気がして、それを押した。カチッ…。僕の手なのに自分の手ではない何かで、押されたような気がした。

心臓が止まった…。ん…?

──────────────────────

押した瞬間、私は安堵した。
自分のモノだと分かる。心臓が止まったことになんの違和感もなかった。途中まで自分のものだと思えないほど、邪魔な存在になっていたからだ。これは、私だ。また私に戻れた。

──────────────────────

―そのまま私は、夢から目が覚めた―

──────────────────────

人間

目をゆっくりと開く。
「パチッ、ギョロ、ギョロ」
周りを見渡す。

天井。眩しい。
自分の部屋。整ってる。
朝…。小鳥が外でチュンチュンと鳴いてる。

体が、汗でびしょ濡れだ。熱い。
息を整える。まだ荒い。
心臓も、まだ速い。ドクンドクンドクン………。
小刻みに鳴ってる。

冷静に我に返る。夢だ。
ただの夢。そうだ、ただの夢だった。

そう思いながら、ゆっくり起き上がる。
立ち上がって、服に手をかける。


ボタンを、ゆっくりと確認する。
一つずつ。

ちゃんと、合っている。
私は安心した。

…はずだった。ん…?何かがおかしい…。一番上だけ。ほんの少しだけ。ズレてる…。そのズレが不自然な感じがした。

疑問に思い、首を傾げたそのとき…。背後のほうで音がした。カチッ…。

その音は、確かに部屋の中で鳴った。

幻聴ではない。もっと現実に近い。乾ききった小さな音。脳内で響いてる。

私は再び心臓の鼓動が早くなったが、恐る恐る首を曲げて視線を背後に送った。

ギョロッ。誰もいない…。

ドアは閉まっている。窓も閉まっている。
私は人間をちゃんとやれてる。

なのにカチッという音と、嫌な感覚だけが残ってる────────。

もう一度眼球だけで振り向いた。


カチ…。

──────────────────────

!!!!?!?

──────────────────────

私は動けなくなってしまった。怖い、というより理解が追いつかない。眼球がぐるりぐるりと様々な方向を見る。

さっきまで、‪”‬夢‪”‬だったはずの感覚が、体の中にまだ残っている。いや、再び蘇ってくる。

胸の奥が熱くなる。
締め付けられる。

あの、押される感覚。まだ指が触れた温度を覚えてる。その感覚が固定されている。その温度を確かめるように、ゆっくりと自分の胸に手を当ててみた。

ドクンッ。
…ある。
心臓…かた…い。

そこに、心臓とは別の何かがある…。
皮膚の下に、硬い丸い感触…。それを指でなぞってみた。位置は、ちょうど心臓の上。心臓ではない…。

安易に押してみた。しかし、これがよくなかった────────。

──────────────────────

ドクンッ…!!

──────────────────────

その瞬間…。

自分の視界がわずかに揺れた。一瞬だけ、自分の姿が見えた気がした。いや、見えたのは本当に自分だったのだろうか。確認しようとしたが、視界はすぐに元へ戻っていった。

そして、自分のいる場所とは別のどこかで、何かが鳴った気がした。最初は音だと思った。だが耳を澄ますうちに、それが音ではないことに気づいた。
……声だ。

遠くから聞こえているはずなのに、不気味なほど鮮明だった。誰かが、すぐそばで囁いているかのように。

誰かの説明する声。
誰かの笑う声。
誰かの話す声。
誰かのヒソヒソ声。

これは私の頭の中の声か…?分からない。
ここは自分の部屋のはずだ。鍵もかかってる。
これは外から聞こえてるわけではない。部屋の中からだ。幻聴か?

意識が少しばかり迷子になってしまった。
だから私は疲れてしまい、「もう、どうでもいいや」と思った。すると、また音が鳴った。

カチッ…。
今度は、はっきりと。自分の中から鳴っている。
また、‪”‬僕‪”‬の嫌な記憶が繰り返される。

──────────────────────

その音と共に、息がどんどんと浅くなっていった。それと並行して鼓動も早まった。
でも、その鼓動とは別に────────。

もうひとつの‪”‬リズム‪”‬がある。
それは同じようで違う音だった。

ドクンッ…。

カチッ…。

ドクンッ…。

カチッ…。

どちらも自分に聞こえてくる。
両方とも自分なのかもしれないと思い始めた。
心臓と、何か無機質なものが連動している。どっちの音か分からなくなってくる。ひとつになろうとしているのか。

私は何かに突き動かされるかのように、もう一度それを押した。

カチッ…。
押した瞬間胸の奥で心臓がもう一度だけ強く跳ねた。

ドクンッ…!!。

カチッ……。

……。

カチッ……。

まるで世界から切り取られたみたいに、心臓の音だけが聞こえなくなった。そこからしばらくの間、違和感だけを残す「カチッ」という音と、その後に続く無の時間が延々と繰り返された。

カチッ……。

……カチッ。

……。

カチッ……。

………………。

カチッ……。

……カチッ。

…………………………。

…………………………。

……カチッ。

………………。

カチッ…。

………………。

カチッ……。

…………。

‪”‬無‪の時間‪”‬と‪”‬カチッ‪”‬という時間が繋がっていた。

無の時間、カチッ、無の時間、カチッ、
無の時間、カチッ、無の時間、カチッ…。

繰り返し考えていると、まるで私が‪”‬無価値‪”‬だと言われてるようにも感じた。でもそのときは、どうでもいいが勝っていた。

──────────────────────

確認作業

ここからはもう作業のように、誰かの記憶が流れ込んできた。これらの記憶は、過去の自分のものだろうか…。

知らない教室。
知らない席。
知らない手。
知らない先生。

知らない言葉たち。
みんなペンを持ったまま固まってる。
ノートに視線を落としているが、目の焦点はどこにも合っていない。まるで時間だけが止まってしまったかのようだった。しばらく様子を眺めていると…。

カチッ…手が動いた。
カチッ…眼球を動かした。
カチッ…声を出した。

カチッ…顔をあげる。
カチッ…質問に反応する。
カチッ…誰かを見る。

それまで止まっていた時間が一斉に動き始めた。すべてボタンの音と共に動いている。気づいたら僕はボタンを握りしめていた。

僕が彼らを操作していた。僕は‪”‬押す側‪”‬に立っていた。女の子の夢を見てるときは、‪”‬押される側‪”‬だったんだ。僕のボタンと連動してるのか…?

その操作する感覚は、あまりにも自然だった。
違和感がなく、慣れたものだった。

まるで、自分の手を動かしているみたいに。
体の一部になっていた。このとき僕は、押すことに快感を覚えてボタンを連打していた。

カチカチカチッ…。
カチカチカチカチカチカチカチッ…。

気づくと機械的に押していた。
「楽しいな…」

思わず漏れたその言葉は、まるで誰かに言わされているかのようだった。その声とは対照的に、僕の表情は人形のように無機質なままだった。

途中から我を忘れて押していたようだ。
このときの記憶が飛んでいた。

──────────────────────

あ…れ…?
―切り替わるように暗転した―

──────────────────────

火…報……の、僕

今度は、別の記憶にきてる…。

走る足。
掃除された廊下。
お喋りする生徒の声。
そこから見える校庭。
追いかける先生。
息切れ。

そして僕を見て「火災報知器押してみよ」と言ってる女生徒。訳も分からず、心のなかで「やめろ」と全力で叫んでる僕。

僕の視線はもの凄く低くなっていた。
そのとき僕は理解した…。自分が学校に設置されている何かのボタンになっていることを。

誰かが、誰かを追いかけている。
自分を押そうとする生徒は先生に怒られていた。

「……」

…これって、
火災報…

──────────────────────

カチッ…!!

―まるでこの記憶がイケナイことのように、
急に自分のボタンを誰かに押された―

──────────────────────

選択する僕

あれ…?僕、なにやってたんだろ…。
再び記憶が曖昧になっていた。
しばらくすると視界が戻ってくる。

自分の部屋の天井が見える…眩しい…。



部屋の明かりに手をかざしてみると、なぜか震えていた。これは、あの夢の続き…?
というか、どこから夢か、どこから現実か、その境目が分からなくなってる。

震える手を抑えながら、とりあえず電気をつけた。カチッ…。

押した瞬間気づいた。このとき僕は、‪‪”‬押す側‪”‬になっている。すなわち人間側だ。僕は何を考えてるんだ…。押される側と押す側……。



そのあと、何時間もその場に立ったまま、ボタンのことを考えていた。もうボタンのことが頭から離れなくなっていた。

僕は何かに恐怖していた。とりあえず落ち着こうと、ベッドに横になろうとしたそのとき、

カチッ…。
再び身体の内側から音が鳴った。



……。

ッ────────────。

カチッ、とボタンの音が鳴った直後、身体の奥で何かが正しい場所へと収まるような、嫌に静かな感覚があった。それは安心感ではなく、得体の知れない静けさだった。

押す側になれたと、思った瞬間だった。安心したはずなのに、胸の奥に残る違和感だけは消えない。何かがおかしい。何が─‬─‬とは言えない。ただ、自分でも気づかないうちに、何か大切なものを置いてきてしまったような感覚だけがあった。

今度は逃げられない。
なのに、不思議と恐怖は湧いてこない。何から逃げればいい…?そもそも逃げたいのは誰だ…?考えれば考えるほど、自分の輪郭が曖昧になっていく。

自分の内側から、強制的に押される恐怖が襲ってきた。

怖い…!
怖い…!
怖い…!

何でこうなったのか、訳がわからなかった。


怯えていると…。
身体が固まって動けなくなった。


指が動かない。足も動かない。
心臓はどこだろう…ボタンはどこだろう…。
目玉がギョロギョロと動いてる感覚だけある。


思考は完全に停止はしていないことだけが救いだ。

(…やめろ!!)

これは自分の声じゃない。
頭の中で考えて作り出した声だ。

口というものから声は一切出ない。

(やめろ…!!)
心のなかで僕が叫んでる。


思考が、少しずつ薄れていく。
なんだか瞼も閉じていってる気がする。
視界がぼんやりとしてきた。

思考が薄くなっていく代わりに、‪”‬待機する感覚‪”‬が広がっていく。人間に必要とされたい…。今までにない感情が芽生えていた。これは自我というものなのか。

押されるのを待っているボタン…。
何もせず。何も選ばず。押されるのをただ待ってるだけ。ただ、人に‪”‬使われる‪”‬ために。


(…違う!!)



必死に、最後の力を振り絞って抗う。
同じは楽だ。そう囁く何かを振り払うように、僕は強く目を閉じた。違う…。同じは楽かもしれない。それでも、僕には意思がある。そう思ったはずだった。そう思ったはずなのに──────────。

──────────────────────

自我

カチッ…。必死の抵抗も虚しく、ボタンは再度鳴った。そのたびに、少しずつ…。

‪”‬抵抗する理由‪”‬が、削られていく。何のために抵抗していたのか分からなくなってきた。意識も朦朧としていく。

どうして抗うんだっけ…。
何のために必死に抵抗していたんだ…。

どうして、自分で選ぶ必要があるんだ…。


押されたほうが、楽なのに。
押されたほうが、楽だから。
誰に…。


気づいたときには、

(もういいか…)

もうその考えを、‪受け入れていた‪。


完全に押される側。
それでも僕は、もう一度だけ自分を押した。
それが快感だ。


まだ、自分の意思で押してる。
押される側になりきれてないのか。

自分に最後の疑問を持ったその瞬間、
カチッ…。



視界が消えた。
真っ暗だ。

代わりに、広がる感覚。


その感覚は、あちこちに…。
様々な場所へ向かって、神経が繋がっていった。

無数の‪‪”‬人‪”‬に。
無数の‪”‬選択‪”‬に。

それが僕に与えられた最後の関門のように思えてきた。


僕は、それらを動かせる。
でも、それを意味するのは────────。

僕が、それらを動かしているということは、僕自身も誰かにとってのそれらに違いない。

だから、今もどこかで、誰かが…。

僕を押しているということ。
だから僕は動いてる。


その事実に気づいてしまった僕の心臓は早まった。ドクンッ!!ドクンッ!!ドクンッ!!ドクンッ!!

ただ、それが本当に事実かどうかは誰も知らない。


それに気づいてから僕の中で、ボタンが永遠と鳴り響いてる。僕も誰かを押し続けている

カチッ…。

カチッ…。

カチッ…。

カチッ…。

カチッ…。

カチッ…。

終わりがみえない…。もう音にしか意識を向けられない状態まで、追い込まれていた。冷静に見れていたのは、僕がボタン側になっていたから…。


それがしばらく続いた。押して、誰かから押されて…。選んで、誰かから選ばれて…。その循環の中で。僕は、完全に理解してしまった…。僕はもう、‪”‬人間‪”‬じゃない。

いつからだ…。僕はまだボタンにもなりきれていない。人間でもない。どちらかというとボタン側な気がする。そう思うと、何故か安心してしまう自分がいた。

誰かの意思を通すためのボタン。役に立てるボタン。

小さな、装置。
みんなが使ってる装置。
なんて、夢見心地になっていると…。


どこか遠くから、また声が聞こえてきた。

──────────────────────

「ズレてるよ」

──────────────────────

その声は懐かしい声の記憶。でも、もう顔は思い出せない。もの凄く遠い記憶な気がした。その記憶の先のなにかを、僕は静かに待っていた。

次に押されることを、ただただジッとして待っている。ただそれだけが、‪‪”‬正しいこと‪”‬ということは知っている。誰に教育されたわけでもないのに、それが正解だと知っている。


早く押されたい。次の記憶が流れてくるのを、少しだけ心待ちにしていた。

──────────────────────

カチッ…。その懇願を受け入れるかのように、すぐに鳴った。

誰かにまた押された。もう僕は抵抗する意思は残っていなかった。次の瞬間────────。

──────────────────────

エレベーターのボタン

また何かの記憶が流れ込んできた。
視界がぐらりと揺れ、景色が切り替わる。

次の瞬間、僕はエレベーターの中にいた。いや、正確には違う。そこにいる誰かの視界を、覗き込んでいた。閉じられた箱の中。

無機質な空気のなかで、誰かの指がゆっくりと僕へ伸びてくる。その‪”‬押す‪”‬という行為は、本来なら何の感情も湧くはずがないのに、胸の奥に説明のつかない嫌悪感がじわりと広がった。

カチッ…。カチッカチッ…。
閉まらない。


カチカチカチカチカチッ!!
苛立っているのか、その指の動きは早くなった。

なぜか僕もそれに少し苛立った。
押されている感覚だけが、何度も、何度も繰り返される。誰かの指に何度も触れられる。

この感じ、前にも味わった気がする。
いつの記憶だ…。

不安。
苛立ち。
違和感。
焦り。

その感情が、直接流れ込んでくる。前に僕はこの感情を、ボタンにぶつけて外へ‪出して‪いた。今度は僕が、それを‪”‬受けている‪”‬…。いや、違う…。

僕は…それを‪”‬受ける側‪”‬の…。

──────────────────────

横断歩道のボタン

色々と考えていると、不意に視界が切り替わった。次に流れ込んできた記憶の場所を、僕は知っていた。目の前には横断歩道。見慣れた白線が規則正しく並んでる。胸の奥に、嫌な予感だけが広がっていた。

僕を触ってくる女性。振り払おうとしたけど、抵抗できない。この女性を僕は知っている気がした。

女性はイライラしていた。
その苛立ちが流れ込んでくるようで、僕まで腹が立ってくる。

その後、そこへ一人の男性がこちらへ歩いてきた。ただ横断歩道の信号が青になったから、渡ってきただけだった。

ただ渡ってきただけなのに、その女性は何かを確かめるように、男性の眼球にいきなり指を入れた…。
それを見て、僕は警察を呼ぼうとしたけど怖くて身体が動かない…。

その後、なぜか男性の眼球に指を入れた女性のほうが叫びだして、男性は恐怖に怯えながら逃げていった。とんでもない現場を目撃してしまった。そう思った。…でも本当に目撃しただけだろうか。

記憶が流れ込んでくるけど、ざるのように記憶が出ていく。自分が何だったのかさえ、分からなくなりながら。

──────────────────────

そこから先は断片だった。
―様々な役割。様々な場所。様々な‪”‬押される側‪”‬の記憶。それらが次々と流れ込んでくる―

──────────────────────

画面のボタン

次は指で押された。
カチッ…。反応がない。というか反応したくない。

また押される。
カチッ…。


────────反応しない。

でも、それは故障ということではない。
ただ、反応しないだけだ。僕は、分かっている。

‪”‬押されている‪”‬だけだということを。まだボタンに意思が残っているだけだということを。そこに意思があるということを、誰も知らない。ただ押されている。ただ使われている。まだ押されてる自覚がないのかもしれない。いや、認めたくないのかもしれない。

──────────────────────

シャーペンのボタン

また指が迫ってくる。カチッ…。

芯が出ない。なぜ押されているのかも分からない。なぜ芯を出さなければいけないのかもわからない。

カチッ…。

カチッ…。

押されるたびに、先程と同じ感情が流れ込んでくる。

不安。
苛立ち。
違和感。
焦り。

────────ああ、そうか。


僕は今、‪”‬そういうもの‪”‬として、存在している。
そういうものとしての価値以外で、存在してはいけないんだ。その瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。ボタンたちの記憶ではない。僕自身の記憶だった。


この夢のような現実のような感覚を、自分の勘違いだと思いたかった。全部「気のせい」だと思いたかった…。


でも────────。
違った。

ある日、ふと思ったことがあった。

「自分の意思だけじゃ、
どうにもできないことのほうが多い」って。

その記憶に触れたとき、無数の‪‪”‬押される感覚‪”‬が、再び僕の脳内に一斉に流れ込んできた。まるで切れていた糸が一本に繋がったかのように、一つひとつを認識する暇もなく、膨大な情報だけが押し寄せる。

──────────────────────

プツンッ────────。
僕はすべての情報を受け止めきれなかった。

―思考が‪‪一時的に‪‬停止する。いや、停止したというよりも、処理能力の限界を超えたのだろう。意識の奥で、散乱した過去の記録を整理するための再起動が始まっていた。壊れかけた機械が、無理やり自分を立て直そうとしているかのように―

──────────────────────

自動販売機

あれ…。僕の脳内に、あの放課後の出来事が再生された。駅前の自動販売機でジュースを買おうとしたときのことだ。けれど、それは‪”‬思い出した‪”‬という感覚とは少し違う。懐かしさも感情の揺れもない。ただ保存されていたデータを読み込んだだけ。そんな感覚だった。それでも、まだ意思は残ってるはずだ。少なくとも、そのときの僕はそう信じていた。

小銭を入れて、いつもの炭酸のボタンを押した。感触はあったはずなのに何も起きなかった。

おそらくだけど、あのときから僕自身がボタンになっていたことに気づいた。ボタン側だったから反応するのは僕のほうだったんだ。最初からクラスメイトなんて居なかったのかもしれない。


思い返せば、もう一つおかしなことがあった。
それは自動販売機での違和感があった日より前の記憶がない…。炭酸ってどんな味なのか、そういえば知らなかった。

感情というものが存在するなら、そのときの僕の感情はこうだった。飲んだことがない…。いや、そんな訳ない。子供の頃から好きだったはずだ。子供の…頃…?

──────────────────────

反応

そこまで考えたところで、胸の奥がざわついた。思い出そうとしても、その記憶だけが薄い霧の向こうに隠れている。誰かに塗り潰されたみたいに。これは、僕だけじゃない。周囲の人々は何事もないかのように日常を続けている。

そう見えていただけだった。よく見ると、みんな少しずつおかしい。そう思うようになったのは、学校で友達に話したときだった。僕にとってボタンの異変は、もう見過ごせないほど大きな問題になっていた。だから同じように感じている人がいるはずだと思っていた。

「ねえ、最近ボタンが反応しなくない?」


友達は一瞬キョトンとした顔をした。

「え?なにそれ?」
冗談を言ったわけではなくて、当たり前のことを確認しただけのつもりだった。なのに友達は可笑しそうに笑った。

「普通に使えるけど、ってか、どうした?」

そして最後に、
「お前がおかしいよ…」

と言った。その言葉自体はおかしくない。でも僕の話を理解できなかったというより、最初から決められた答えを返しているように見えた。

その言葉に、なぜか不安と安心が入り混じったような、不思議な気持ちになった。もし本当に僕だけがおかしいのなら、原因は僕の中にある。それなら説明がつく。世界がおかしいのではなく、僕がおかしいだけなのだから。

でも、その考えを素直に受け入れることはできなかった。なぜならその言葉は、僕に向けられたものには聞こえなかった。

友達は確かに僕を見ていたはずなのに、その視線はもっと別の何かを見ているようだった。あの言葉は、僕の中にいた何かへ向けられていたのかもしれない。なぜなら、そのときから僕はもう、押す側ではなかった。気づかぬうちに、ボタン側になっていた。

こんなことも考えていた。
そういえば最近食事も喉を通らない。少し痩せ細ったかも…。この身体は誰の物なの…?僕は人間なのか、ボタンなのか…。
そんな普通は考えないことを考えていた。思春期の人間はそんなものだと思ってた。

──────────────────────

徐々に交差する記憶

学校の帰り道。横断歩道で確かめるように、ボタンを押してまわっていた。カチッ…カチッ…カチッ…カチッ…。

当たり前のように、赤い文字が映し出された。
私は安心した。ちゃんと光っていたから…。
「あれ、普通じゃん…大丈夫だ」

自分に言い聞かせるように、痩せた頬で小さく笑っていた。

でも、押したあと、
ほんの一瞬だけ────────。


指が戻ってこなかった気がしていた。
ボタンに吸い付くみたいに。ボタンと同化するかのように。

気持ち悪くなり、僕はその感覚を拭うかのように手を振り払った。手を握ったり開いたりしてみたけど、ちゃんと指は動いた。そのときからだ。僕は無意識にボタンを確認するようになった。押して、反応するか。

ちゃんと‪‪‪”‬返ってくるか‪‪”‬。
返してくれるか。僕の指示に従ってくれるか。


それを確かめないと、落ち着かなくなった。
落ち着かせるようにボタンを押しているのに、その表情はどこか硬くなっていった。

朝、家を出るとき…電気のスイッチを一回。

ご飯を温めるために、電子レンジの前に立ったとき…ワット数を一回。

外に出て、鍵を閉めるとき…ドアノブを一回。
家のチャイムを一回。

学校に着いて、下駄箱でロッカーの取っ手を一回。



────────僕は何を確認していたんだ。

次は目の前に、火災報知器が映った。

火災報知器は押したことなかったな。
「火災報知器押してみよ」

試しに押そうとしたが先生に止められた。僕は残念そうに自分で自分のボタンを押してみた。
カチッ…。


あ…れ…?

──────────────────────

景色も認識も操作されてる────────。

──────────────────────

不自然な笑顔

気づけば記憶は、自動販売機へ立ち寄った帰り道へと移っていた。あの日の横断歩道──────。でも、このときの記憶もどこか欠けている。思い出そうとすると靄がかかったように曖昧で、肝心な部分だけが抜け落ちていた。

ただ、一つだけはっきり覚えている。
この日、僕は精神的にズタボロだった。

横断歩道の前で立ち止まり、信号待ちをしているあいだ、苛立ちをぶつけるようにボタンを何度も連打した。だけど、赤くは光らなかった。ついに壊れたかこのオンボロと思って、酷い顔をして舌打ちした。
でもこんな表情、学校では見せることはできないと思って、すぐに笑顔を作った。

まるで、さっきまでの苛立ちなんて、最初から存在しなかったかのように。

不自然な笑顔のまま、僕は再び押してみた。
カチッ…。かなり強く押し込んだ。


だけど、光らない。
吸い込まれそうな漆黒の色のままだった。

反応がない。反応があるとすれば僕の心が怒りに飲み込まれていく感覚だけだった。ずっと反応がない。まるで、このボタン自体が「機能していない」みたいだった。‪”‬死‪”‬を連想させるような変な感覚だった。

その感覚がなんだかイラついて、僕はその場を離れた。その時ぼくは、「どうせ別の横断歩道に行けばいい…あれはダメだ」と呟いていた。

──────────────────────

―その時の記憶を思い出すと、僕は自分が否定されてるかのような感情になり、とても胸が苦しくなった。
思い出すのを辞めたくなっていた―

──────────────────────

存在価値

動かないボタンに価値はない。
そう思って、角を曲がった。次の横断歩道。かたちは先程の横断歩道とたいして変わらないものだ。さっきのより少しだけ汚れが少ない。これは期待できると思い、先程までのイライラはどこかへ飛んで行った。自分では気づいてなかったけど、作った笑顔はいつもの平坦な表情に戻っていた。


同じように立ち止まって同じようにボタンを押す。
次は自信があった。カチッ…。

光らない。


カチッ…カチッ…。
やっぱり、反応がない。真っ暗なのに文字の場所に、手のひらを覆い隠すように置いて、ボタンと同じ高さに目をやった。

カチッ…。もちろん光らない。

「またかよ」
その言い方は、どこか乱暴に聞こえた。

なぜか自信を打ち砕かれた感覚に襲われた。
そして僕の顔は、また悪魔にでも取り憑かれたかのような表情へと変わっていった。自分がどれほど豹変しているのかに気づく余裕もないまま、僕は再び歩き出した。

そのときはまだ‪‬、自分がおかしなことをしているとは思っていなかった。‪”‬いつものこと‪”‬をしてると思っていた。

次に三つ目の横断歩道。四つ目…。五つ目…。
どれも結果は同じだった。押しても、光らない。変わらない。

車も来ない。
赤くならない。
何も変わらない。
誰も通らない。
意味が無い。

自分もなんでここに居るか分からない。
あれ、なんでここにいるんだっけ…。

いや…違う…。変わっていないのは、僕のほう…?何か役割が…やることあったっけ…?何のためにここに居るんだ…。ふと、そんな考えが頭をよぎる。

僕は気持ち悪くなり足を止め、横の電柱に寄りかかった。そして、そのまま通ってきた道を振り返った。

さっきまで通ってきたはずの道が、妙に遠く感じる。
道路に向かって、足から根が張ったかのような感覚だった。

本当に、歩いてきたのか?歩いてきた記憶がない。
ボタンに手をかけて、吸い込まれるような漆黒に目を奪われ…あれ?なんかおかしい…。歩いてきたはずだったけど、それとも…。

‪”‬移動したつもりになっているだけ‪”‬なのか?
肩から首筋にかけて鳥肌のようなものが走った。

胸の奥がざわつく。

──────────────────────

やっぱり、この時から僕は……。

―記憶を整理していくほど、
頭の奥が割れそうに痛くなった―

──────────────────────

僕は確認するようにもう一度、目の前のボタンを押そうとした。その瞬間だった。

ボタンが視界から消えた。
代わりに目の前へ迫ってきたのは一本の指。

──────なんだ、あれは。
僕は驚いて、心の中で必死に叫んだ。
「やめろ!!」

──────────────────────

けれど、その指は止まらない。ゆっくりと確実にこちらへ近づいてくる。僕はパニックになり、思わず目を閉じた。

──────────────────────

そして、恐る恐る目を開けると、何もなかったかのように目の前にボタンがあった。
「なんなんだ…今の……」

混乱しながら考えているうちに、ひとつの違和感が形になっていく。記憶がスライドするように切り替わっている。僕は違う横断歩道へ移動しているつもりだった。次々と別の場所へ飛ばされているのだと思っていた。

だが違う。僕はずっと同じ場所にいた。違う横断歩道を転々としているつもりで、実際には同じ場所を何度も繰り返していたんだ。


足を動かすように脳へ指令を送っていた。それなのに、僕は一歩も進めていなかった。ただその場所を足踏みしていただけだった。景色が微妙に違って見えたのも、視界が歪んで見えたのも、記憶が曖昧に繋がっていたのも、全ては僕の認識がズレているからだった。──────では、僕はいったい何を見せられているんだ。

現実のほうは、1ミリも動いていない。というか.この違和感はなんだ…?空が真っ暗…。学校を出たのは、17時にもなってない時間だったぞ…。しかも、今は真夏。時間が長いのが普通だ。いや、そんなこと疑問に思うのもおかしいか。

そんなことを考えながら、もう一度ボタンを押した。

カチッ…。
もう赤く光るかどうかなんて関係なくなっていた。

カチッ……。
カチッ…。
カチッ…。
カチッ……。

押すたびに、自分がここにいることを確認していた。
押せる…よね…。

さっきまで強がってた声が徐々に弱々しくなる。息苦しい…助けてほしい…。でも、生きてるってことは…分からなくなってきた…。

「ここにいる」
「消えてはいない」
「ちゃんと存在してる」
「大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫」
「カチカチカチカチカチカチカチカチ」

声が早くなっていった。その中に自分の声とは別の何かが混ざっていたことに僕は気づかない。

もう一度、横断歩道のボタンを押した。

カチッ…。
でも、ボタンは光らない。光らないどころか感触もいつの間にかなくなっていた。ここには、もう‪”‬反応する対象‪”‬がない。私のここに居る証拠。

だから、押しても意味がない。無意味…無価値…。

「存在している」という前提そのものが、もう通用していない。少しづつ怖くなり、指先が少し冷たくなってきた。


いや、違う…。自分の感覚が、薄くなっている。
僕は何を考えてるんだ…。

自分の手なのに、触れている感じがしない。
怖い…。鼓動が早くなる。早く…鼓動はどこに…。
心臓は…。


カチッ…。
それでも、押す。
押すことに集中する僕の目は、まるでボタンの奥の何かを見るような目になっていた。

押すのをやめたら、本当に消えてしまいそうで。
その瞬間、前にも感じたあの嫌な感覚が脳裏をよぎった。
(死)

あのとき死んでるように見えたのは、ボタンだった。
でも今、その感情が向けられているのは────僕自身だ。

このやりきれない思いを拭うかのように、ボタンを押し続けた。カチッ、カチッ、カチッ…。
息遣いも荒くなってきた。

──────────────────────

────────ねえ。

記憶を整理中の僕は、自分の記憶に声をかけていた。
過去の自分に、今の自分が話しかけてる。

―このときの‪”‬僕‪”‬は、
今の‪”‬僕‪”‬の存在を知らない―

──────────────────────

ふと、誰かの声が脳内に響いてきた。この時の僕は不気味で仕方がなかった。僕は驚いて周りを見渡すが、誰もいない。僕のすぐ後ろから確かに聞こえてくる。

「それ、押しても意味ないよ」
今の僕が、この時の僕に話しかけてる。

声の方向へ僕は振り向いた。無限とも思えるこの空間を見渡す。誰もいない…。

なぜか不思議と、‪”‬怖い‪”‬という感情はなくなっていた。どこか、もう一人の自分との対話のような気がしてた。

「ねえ」
僕の声が僕自身に流れる。自分の声が繰り返されてる…。いや、違う…。自分の中で、相反する二人の自分がぶつかり合っているのか。

目を細めてもう一度周りを見渡した。すると、ついさっきまで自分が立っていた場所に、‪‪”‬もう一人の自分‪”‬が立っていた。

なりたくないと思ってる自分が立ってる。
穏やかな顔でこちらを見てる。

その‪”‬もう一人の自分‪”‬に対して、何故か僕は睨みつけていた。その姿を憎むような目で、全てを恨んでるようだった。

同じ姿で、同じ顔で、同じようにボタンを押してる。
ただ違うのは、表情と雰囲気、そして、ボタンに執着しているか、していないかの違いなだけだった。


僕は無意識にボタンを押し続けている。
カチッ…カチッ…カチッ…。

その姿をみて彼女は笑ってた。
だけど、見えない鎖に縛り付けられてるように動こうとしない。僕は彼女の手元を見た。

ボタンは────────。
赤く光っていた。いつも通り、正常に。
「…え?」

僕は思わず、手元のボタンを見ていた。
まったく光っていない。

カチカチカチカチカチカチッ。
何度押しても反応しない。

ドンッ!!
思わず怒りをぶつけてしまった。

──────────────────────

―この瞬間、今まで‪”‬僕‪”‬を見ていた僕と、見られていた僕。その境界が一気に崩れた―

──────────────────────

あっちは光っている。
あっち側の僕が意気揚々と横断歩道を渡るのがみえた。あなたはもう用済みだと言われてるかのような顔をしてた。

なんだか自分の存在する、意味が分からなくなってきた。

諦めるかのようにボタンに手を触れる。
カチッ…。ダメだ…。

また別の横断歩道を探しにいこう…。疲れた…。
もう一人の彼女はいつの間にか消えていた。


僕は半分諦めたように歩き出した…。どうせ別の横断歩道に行けばいい。あれはダメだ。使い物にならない。なければまた別を探せばいい。

そう思って、角を曲がる。何故かこの道見覚えがある。正直、曲がってるのかどうかなんて、もうどうでもよくなっていた。

次の横断歩道。この形も先程の横断歩道とたいして変わらないものだ。違うのが、新品同様に使われている。でもなぜか触りたくない。

だけど今度は期待できると思い、同じように立ち止まって、同じようにボタンを押す。もう嫌気がさしていたが、なぜか今度はすこし自信があった。前にもこんな感覚に襲われた記憶がある。

カチッ…。

…光らない。

カチッ…カチッ…。

やっぱり、反応がない。
画面に顔を近づけて押してみた。

カチッ…。
もちろん光らない。

「またか…」


あの自信はなんだったのか、僕の顔にもう表情はなかった。

無表情とはこのことだろう。何かに生気を吸い取られたような顔をしている。毎朝みんなに振り撒いてる笑顔のようなものはそこには残っていない。


立ち尽くしていると、頭になにかが入り込んできた。夢か現実かハッキリしない今、頭の中で何かがハッキリした。僕はずっと、渡るために横断歩道のボタンを探していたんじゃなかった。まったく違かった。

‪”‬押すため‪”‬にボタンを探してた。おそらくボタンなら何でもよかったんだ。自分の日頃の鬱憤を晴らすかのように、ボタンを連打してるわけではなく、ボタンに攻撃していた。いや、正確には拒絶していた。

だから、いくら押しても、光るわけがない。
ボタンは嫌がっていた。すなわち、ボタンには命があったのだ。


認識されない。私のことを人間だと認めてもらえない。ボタンからすれば私は、無機質な‪”‬その辺に落ちてる石‪”‬のような存在だったのだ。

私の存在が、通らない。いつの間にか声も出せなくなっていた。このままでは私は本当に無機質な石のような存在になってしまう。

そんなことを考えていると、私は自然とボタンを押していた。カチッ…。今度は、少しだけ強く押した。


そのとき、ボタンの奥から、かすかな振動と、かすかな声のようなものが返ってきた。「やめろ…」

何か聞こえた…。いや、気のせいか。
空耳だと思いそのまま押し続けるが、誰かが同じように押し返してくる。


カチッ…。(カチッ…)

音が重なって聞こえる。

向こう側の誰かと、同時に押してる。


そして一瞬だけ、ボタンが、赤く光ったような気がした。それが弱々しく、最後の灯火のようにみえた。

赤く光ったボタンは、すぐに消えた。

「ああ、そうか」

僕はまだ、完全には消えていない。でも消えてもいいのかもしれない。そんな思いがチラついてる。

でも、どちら側にも行ききれていない。だけど確かに存在している。だから今もこうして、横断歩道を転々としている。僕は結局だれなんだ…。

存在を証明するためだけに押す。
カチッ…カチッ…カチッ…。

気づけば、またボタンを押している。

──────────────────────

この時から、僕は無駄な抵抗をしていたんだ。

──────────────────────

さらに交差する記憶

存在の証明なんて出来ないと思っていると、向こう側から、顔にくっきりとシワが刻み込まれた男性が歩いてきた。世間でいったら僕の父親くらいの人だった。

私はなぜか慌てて顔を隠した。その慌てぶりがかえって不審に映ったのか、思いきり目が合ってしまった。

その顔に見覚えがある。あれ…?ラジオ体操のときの…。お父さん…?お父さん…だよね…。気づかない。気づかないふりか……?

いや、ただの通りすがりのおじさんだ。顔が同じに見えた。人の顔が同じに見えるなんてよくあることだ。僕は少し安心した。

向こう側の赤ランプは一回で点いたみたいだ。

僕もそのまま再度ボタンを押そうとする。あちらが点いたのなら、もう僕が押すのは無意味だと分かっていても押し続けていた。でも当たり前のように光らない。

作業のように繰り返した。
カチカチカチカチカチカチカチッ…。

もう意味がないと気づいていた。
それでもやめられない。

だって…。
押すのをやめた瞬間…。

本当に「いなかったこと」にされる気がするから…。


しばらく押しながら佇んでいると、信号が青になり、
向こう側の横断歩道から、先程のおじさんが歩いてきた。目の前から見ると、やっぱりお父さんに似てる。
同じ顔をしてる。

僕はその男性の前に立ち、確かめるように話しかけた。「お父…さん…?」

男性は穏やかな顔で、こちらを見てきた。
そして男性が口を開きかけた、その瞬間だった。

僕は無意識に、その男性の目に指を押し込んでいた。

僕はなんでそんなことをしたのか、自分の感情も理解できていなかった。表情ひとつ変えず、男性はその指を振り払い叫んだ。
「なんなんだお前!!」

その怒声とは裏腹に、顔には穏やかな笑みすら浮かんでいる。だが本人は、その異様な違和感に気づいていない。

あまりにも表情と声が噛み合っていなかったせいか、その叫び声が僕に向けられたものだと理解するまで、少し時間がかかった。その間の記憶が曖昧になっている。そこだけ切り取られたように、記憶がぽっかりと欠けていた。

そして、欠けた記憶を埋めるように、男性の表情が徐々に変わっていった。穏やかだったはずのその顔は、化け物を見るかのような怯えと嫌悪に染まっていった。

その場に立ち尽くしていたが数秒後、やっと理解して僕も叫んだ。

──────────────────────

「ァ゛#%&*@!ーーーッーーッ!!!」

──────────────────────

この世のものとは思えない叫び声に、男性は驚き逃げ去っていった。

僕はそのあとむせ返った。
「ウエッゴホッ...ヴ...ゲホッゴホッゴホッ...」

やはり、あの男性の顔に見覚えがあった…。お父さんだ…。僕の視界も…お父さんから見た僕も…全て変わってしまっていた…。そう思った瞬間…僕は理解してしまった…。


自分がこの世のものとは、違った何かになっていることを…。

──────────────────────

存在

そう理解してから、僕は自分の居場所へ帰ろうとしばらく歩いた。僕が歩いてると、皆んな逃げていく…。自分では確認できないけど、この僕を見て、皆んな避けていった。僕が歩いてるのを見て、気味悪がっている。

僕は理解してるんだ…僕は…もう…。
人間とは違った異形の姿に…なってしまったことを…。もう‪”‬普通‪”‬じゃないんだ。

しばらく歩いて、公園のベンチに座って休んだ。
僕はそのまま公園のベンチで眠りについた。

──────────────────────

居場所

長いあいだ眠っていたのだろうか。
気づけば暗かったはずの外は、すっかり明るくなっていた。僕はそのままの格好で学校へ向かった。もしかしたら、まだ僕のことを覚えている人がいるかもしれない。そんな淡い期待を胸に抱きながら、校舎の中を歩いた。

教室へ向かっていたはずなのに、気づくと僕はまた火災報知器の前に立っていた。赤いボタンがそこにあった。しばらくそれを見つめたあと、僕は教室の扉を開けた。その瞬間、教室にいた全員の視線が一斉にこちらへ向いた。けれど、誰の顔にも表情がなかった。

喜びも、驚きも、戸惑いもない。ただ無表情な目だけが、静かに僕を見つめていた。僕自身も声が出なかった。

教室の空気は妙に静まり返っていた。確かに誰かが話している。ざわめきもある。それなのに、まるで厚い膜を一枚隔てた向こう側のように、音だけが遠かった。誰かが何かを言ってるはずなのに、言葉として頭に入ってこない。聞こえているのに、聞き取れない。そんな不気味な感覚だけが、胸の奥を支配していった。

代わりに、聞こえてくるのは────────。
カチッ…カチッ…カチッ…。

規則的な、小さな音。しかもその音は、頭の奥の方から聞こえてくる。まるで最初からそこに用意されていたかのように、一定のリズムで鳴り続けていた。

違和感を覚え、ゆっくりと視線を落とすと、私の指先が震えていた。いや、違う。震えているのではない。何かに合わせるように、規則正しく動いている。

僕は無意識に、何かを押しているような仕草を繰り返していた。

そこには何もない。何もないはずなのに、目の前にボタンが存在しているかのような感覚だけがあった。それでも指先は、確かに何かを押している。

柔らかく沈み込み、指を離せばゆっくりと元に戻る。そんな感触だけが、異様なほど鮮明に伝わってきた。

押す…また押す。それでも足りない。気づけば、さらに強く押していた。何度押しても感情は満たされない。何も変わらない。それでも指だけは、何かに取り憑かれたように、同じ動作を繰り返していた。カチッ…カチッ…カチッ…。

すると、そんな僕の様子に気づいたのか、教壇のほうから鋭い声が飛んできた。

「やめて!」
今まで、遠くで響いてるだけだった声が、急にはっきりと聞こえた。僕は思わずハッとして顔を上げた。教室中の視線が、一斉にこちらへ向けられていた。

さっきまで遠くで、ざわついていたはずの声は消え、不気味なほど静まり返っている。クラスメイトたちは皆、同じ表情を浮かべていた。何か恐ろしいものを見るかのような目で、僕を見つめている。

「やめて」と叫んだのは先生だった。
教壇のまえに立つ先生もまた、表情こそ変わらないものの、その目の奥には怯えが浮かんでいるように見えた。僕が決してしてはいけない何かをしているかのように。

「その子を…押さないで」


次に聞こえてきた声は、先ほど教壇のほうから響いたものとはまるで違っていた。ひどく小さく、掠れていて、今にも途切れてしまいそうな声。それでも必死に届けようとしてくる。最後に残された力を振り絞っているかのような声だった。

「それ以上、押したら…」
カチッ…カチッ…カチッ…カチッ…。

僕は、止まらなかった。
確かめるように何度も何度も押し続ける。何を確かめたかったのか、自分でも分からない。ただ指だけが、意志を持ったように動いていた。

その瞬間、教室の外に設置された火災報知器が、不意にぐらりと傾いた。そんなことは有り得ないと思った。外れるような構造にはなっていない。壁と一体化してるボタンがこちらへ向かって倒れ込む。何かを訴えかけるように。まるで何かを懇願するかのように。──────お願いだから、もう押さないでくれ。そう頭を下げるように、火災報知器が激しく前に倒れた。

ガタンッ!!


その外れた背のほうから赤い血のようなものが流れてきた。そんな奇妙な現象が起こってるにも関わらず、僕のボタンを押す動きは止まらない。

指の動きと同期するように、学校中の様々なボタンがカチカチと鳴り出した。


火災報知器。
誰かのスマホ。
照明のリモコン。
エアコンのスイッチ。
シャーペンのノック部分。

カチッカチッカチッカチッ…。ドクンッ。
全部が、同じリズムで押されている。その中に鼓動のようなものも混ざっていた。僕の指と繋がっているみたいに脈打つ。僕の頭の中から嫌な感情が湧き上がってきた。
(やめろ…やめろって!!)

なぜか叫んでいたのは、押されているはずの僕ではなかった。────押してる僕自身が叫んでいた。


先生の様子がおかしい。
‪‪”‬その子‪”‬を救おうとしていた先生は、もう先生ではなかった。顔が酷く凹み、内側から何かに押し潰されたように歪んでいる。その皮膚の奥では、何かが蠢いている。別の何かが、そこから出ようとしているかのように。

いや、先生だけではない。さっきから気になっていた。「その子」って、誰のことだ?教室には先生と、クラスメイトと、僕しかいない。なのに、僕には見えていない誰かのことを話しているようだった。

そこで僕は気づいた…。あの夢のボタンは、ただ脈打って生きてるだけではなかった。僕の元へと近づいてきていたんだ。ゆっくりと、確実に。僕のところへ。

記憶も何もかもを取り込んでいた。
ボタンは、ずっと僕の傍にいた。

そのことに気づいた瞬間、背筋に冷たいものが走った。あれは、ただそこにあったわけではない。ずっと僕を目指して近づいてきていたんだ。気づかないほど、ゆっくりと確実に僕のもとへと…。

そう考えると、恐怖より先に確かめたいという衝動が湧き上がってきた。その答えを求めるように、僕は最後にもう一度ボタンのことを考えながら、何もないはずの空間へ、ゆっくりと指を押し込んだ。

カチッ…………。
指先に確かな感触が返ってくる。そしてそのまま、深く押し込んだとき────────。

──────────────────────

ベコッ!!

教室の全員が、同時に‪”‬凹んだ‪”‬。

──────────────────────

別になにか騒ぎになる様子はない。
それどころか、僕の頭の中の靄はいつの間にか消え、本来の色を取り戻していた。そして、僕はひとり立ちすくんで無意識に笑った。

ゆっくりと、自分の心臓の部分に手を当ててみると、僕の心臓はもう動いていなかった。


「ああ、そうか……
僕は…僕の目の前に邪魔な存在が現れたときだけ、
別の自分になってたんだ…」


「お父さん…先生…友達……僕にとって、どうでもいい存在がいるとき、僕は僕を殺して生きていた…
いや、すでに人間として……死んでいたのかもしれない…」


「‪”‬私‪”‬という別の人格が現れたり…というか僕は人間ではなかった…」


「これで僕はボクになれたんだ……」
そう言ってボクはまた笑った。


ボクは最初からボタンだったのか、それとも途中からボタンになってしまったのか、最後まで分からなかった。「その子」が結局、誰のことだったのかも……。何ひとつ分からないまま……。

──────────────────────

意味

ただ、一つだけ確かなことがある。
ボクもまた、ずっと選び続けていた。押すか、押されるか、選ぶか、選ばれるか。その違いばかり考えていたけれど、本当は違った。…ただ、ボクも何処へ向かうかを選んでいた。




記憶が正しければ、この日は真夏だった。それなのにボクの身体は、一度も汗を流さなかった。けれど、そのとき頬を伝うものがあった。汗なのか涙なのか、それとも別の何かだったのか。ただ、その雫は迷うことなく顎先から落ちて、誰にも気づかれないまま地面へ消えていった。


そして息をしてない身体で、最後に覚えてることが一つだけある。


ボクはずっと、自分がここに存在する意味を探し続けていた。そして、それを見つけたんだ。だから安心していた。





自分の価値を見つけたボクは、そのまま意識が遠のいていった。思考が少しずつ薄れていく……。コレは一時的な停止ではナイ。思考…自我…感情…完全に停止スル。何モ選バナクテいい。ボクの役割は、モウ決まっているノだかラ。

気づけばボクは、最後にもう一度だけ笑っていた。


やっと、ボタンニナレタ⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯。




カチッ…。

カチッ……………。

カチッ……………。

カチッ…。



ボクノ価値…。



………。




………。




………。



ミツケタ。




―ボタン―
#小説
#ホラー小説
#創作大賞2026
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#最後まで読んでいただき 、ありがとうございました!!

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