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【判例物語】登記という名の鉄柵 〜善意の相殺、最高裁で散る

本物語は、実際の判例(最高裁令和3年11月27日第二小法廷判決)の事実関係をベースに、物語として再構成したフィクションです。当事者の名称や設定は一般化されていますが、法的判断の核心は判例に基づいています。

届いた「命令」

「……差押え? 何のことだ、これは」

北村製作所の社長、北村は、デスクに届いた裁判所からの封筒を前に呆然としていた。
書類には、銀行が北村の会社に対し、毎月の賃料を差し押さえるという内容が記されていた。

北村の会社は、古くからの知人である佐伯がオーナーを務めるビルに入居している。
「北村さん、家賃のことで銀行が何か言ってくるかもしれないけど、心配いらないから。あの約束、ちゃんと有効だからさ」
電話の向こうで佐伯は弱々しく笑ったが、北村の胸騒ぎは収まらなかった。

助け合いの「相殺」

ことの始まりは、2年前の秋に遡る。
ビルのオーナーである佐伯の会社「佐伯不動産」は、深刻な資金不足に陥っていた。
「北村さん、頼む。あんたがうちの借金の連帯保証人になってくれたら、なんとか食いつなげるんだ。その代わり、もし俺が返せなくなってあんたが肩代わりすることになったら、今後の家賃と相殺してくれればいい。あんたに損はさせない」

北村は悩んだが、長年の付き合いを優先した。2017年の末、北村は佐伯の借金の保証人となり、実際に佐伯の代わりに多額の返済を行った。
それを受け、2019年1月、二人は正式な覚書を交わした。
『北村が肩代わりした4980万円分について、今後の家賃と相殺し、北村の賃料支払債務は消滅したものとする』。

これでお互い様だ。北村はそう信じていた。実際にそれ以降、北村は家賃を払わずに済んでいた。

現れた「先客」

しかし、事態は一変する。2019年夏、佐伯不動産に融資をしていた銀行が、ビルの担保権(根抵当権)に基づき、家賃の差押えを申し立てたのだ。

「待ってください! 家賃はもう、オーナーとの合意で『相殺済み』なんです。払うべき家賃なんて、もう残っていませんよ!」
北村は銀行の担当者に詰め寄った。

銀行側の弁護士は、冷静に一枚の書類を差し出した。
「北村社長。このビルの登記簿謄本をご覧になりましたか?」
「登記簿……?」
「あなたがオーナーと『相殺の約束』をしたのは2019年ですね。しかし、銀行がこのビルに根抵当権を設定し、登記を完了したのはその1年以上前、2017年10月なんです」

銀行側の論理は冷徹だった。
「このビルから生まれる『家賃』は、いわばビルの果実です。銀行は、ビルそのものだけでなく、そこから発生する家賃も担保に取っています。あなたが後からオーナーと勝手に家賃を消し込む約束をしても、先に登記を済ませている銀行には通用しないのです」

二度の勝利と、逆転の雷鳴

北村は納得できず、裁判に訴えた。
「差押えの通知が来るより前に、適法に合意したんだ。後出しジャンケンじゃないか!」

地裁と高裁は、北村の主張を認めた。
「差押えが行われる前に、現実的な相殺合意によって債権が消滅しているのであれば、差押えの対象は存在しない」
北村は安堵した。やはり、正義は自分にある。

だが、銀行は最高裁まで争った。
そして、2023年11月27日。最高裁判所の法廷で、北村の希望は打ち砕かれた。

裁判長は言い渡した。
「原判決を破棄する。賃借人(北村)は、銀行に対し、2790万円を支払え」

北村の耳を疑うような言葉が続く。
「抵当権の登記がされている以上、その不動産から生じる賃料が担保の一部になることは、社会的に公示されています。登記の『後』に、当事者間の合意だけで勝手に賃料を消滅させることを許せば、抵当権者の正当な利益を奪うことになります。たとえ差押えの前であっても、登記後の相殺合意は、抵当権者には対抗できません」

残された教訓

北村は、手元に残った4980万円の「無意味な覚書」を見つめていた。
オーナーの佐伯を助けたつもりだった。家賃で回収できるはずだった。
しかし、法は「先に杭を打った者」を優先した。

北村が肩代わりした借金は返ってこないまま、さらに差し押さえられた分の家賃2790万円を、銀行へ改めて支払わなければならない。「二重払い」の地獄だった。

「登記簿を確認して、抵当権がついていると知っていたら……」
北村は、ビルの入り口にある定礎を眺めた。そこには、建物の名前と共に、あの冷徹な「登記」という制度が、目に見えない鉄の柵となって、自分と家賃の間に立ちはだかっているように見えた。

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