エロを小さじ1 《第六話》
《第七話》冬美がアレを忘れた。「しまった。あぁ、どうしよう。忘れてた」
島冬美は、長谷博史と待ち合わせの約束をしているコーヒーショップの数メートル手前、お洒落な雑貨店のショーウインドウに映る自分の姿を横目で見た瞬間に、血の気が引くのを感じて、立ち止まった。
ガラスに映る自分の姿を見たのは、デート前の最後の確認のつもりだった。
数日前に買ったフレアスカート。それが似合っているかどうかは、何度も試着して家の鏡で確認した。でも、歩くたびに揺れるスカートの裾、そこからのぞく自分の脚がどんな風に見えるのか、歩きながらガラス窓に映して見たかったのだ。
セクシーかな?
そう思った瞬間に、あっと声を上げてしまった。エロティックの素をつけていない。自分の忘れ物、大失敗に気づいたのだ。
博史くんの待つコーヒーショップへと、弾むように出していた足が止まった。
博史くんに初めて会ったときから今日までの二か月間、アレをつけ忘れたことなど、ない。
エロティックの素。あの液体のおかげで、博史くんに声をかけてもらえた。あの液体のおかげで付き合い始めた。あの液体のおかげで、恋人がいることの幸せを噛みしめることができたのだ。
雑貨店のショーウィンドウに映る自分の姿が、急にみすぼらしく思えた。
なぜ、こんなスカートを買ってしまったのだろう。膝が出る丈のひらひらした裾が、恥ずかしくて堪らなくなった。
家に戻って、エロティックの素をつけて、洋服も着替えようと思った。が、時計の針がそれを許してくれない。待ち合わせの時間まで、あと八分だ。
冬美にとって、時間は絶対だった。今までも、真面目さを取り柄として生きてきた。学生時代も社会人になってからも、遅刻などしたことはない。
冬美は、ガラスに映る自分の姿から視線を逸らし、待ち合わせのコーヒーショップへと再び急いで歩き始めた。
さっきまでの浮かれだ気分はどこかに行ってしまった。履き慣れていないハイヒールの爪先を見つめながら歩く。
今日は、映画を観る約束をしていた。映画館なら顔も見えないぐらい暗い。向かい合って話をする時間も少ないはずだ。
だから、大丈夫。そう自分に言い聞かせた。エロティックの素がなくても、大丈夫。
お姉ちゃんだって言っていたじゃないか、そんなものは嘘だって。効果なんてないって。
あぁ、でも効果がないのなら、なぜ博史くんに声をかけられたのだろう。男性に声をかけられるなんて、セールス以外になかった。本当に奇跡なのに。
そう言えば、お姉ちゃんは、今日、あの講習会に行くと言って出ていった。お姉ちゃんは、どうなっただろう。帰りの電車の中で、誰かに声をかけられるだろうか。声をかけられたら、エロティックの素は本物、魔法の液体だと、言うだろうか。美人だから、声をかけられて当たり前だと思うのだろうか。
俯いて足早に歩きながら、エロティックの素のことばかり考えていた。
冬美は、コーヒーショップの扉を、深呼吸してから押し開けた。
すぐに博史くんが目に入った。いつものようにパーカーのラフな格好でテーブル席に座っている。冬美に気づいて手を振ってくれる。色白の細身、眼鏡の奥の目を細めて笑う。そのふんわりとした笑顔が好きだ、と改めて思う。身体の奥がぎゅっと痛くなった。
冬美は目を逸らした。視線をどこに向けたら良いのか分からないまま、博史くんのいるテーブルまで歩いた。
「今日はちょっと暑いくらいだね。冬美ちゃん、何、飲む?」
席についたとたんに、メニューを渡された。
「えっと、あの、映画館にすぐに行かない?」
冬美は、メニューに目を落としたまま、博史くんに言った。
「え? 上映開始まで、まだ少し時間があるよ」
冬美は、もぞもぞと椅子の上でお尻を動かしながら、エロティックの素がなくても大丈夫、と自分にまた言い聞かせた。
言い聞かせば言い聞かすほど、緊張したように肩に力が入る。エロティックの素をつけている日のように、自然に振舞えない。自信が湧かない。
「えっと、お腹いっぱいだから、何も飲みたくなくて。早めに映画館に行って座りたいの」
「そうか。うん、わかった」
カップに残っていたコーヒーを、博史くんは急いで飲み干した。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
博史くんはレジで支払いを済ませて、当たり前のように冬美の手を握って歩き始めた。
今から観る予定の映画は、冬美が観たかったものだ。恋愛ファンタジー。その前評判について、博史くんはネットで得た情報を話してくれる。
冬美は、博史くんの体温を手の平に感じながら、幸せだなぁと心の底から思った。
博史くんと会ってからの毎日は、綿飴をつくるザラメの一粒一粒で、それが二人の熱でふわふわになっている。甘く大きく絡まったふわふわ。もう綿飴のない生活なんて考えられない。
あのエロティックの素で博史くんを繋ぎ止められるのなら、エロティックの素を買い続ける。とにかく、博史くんを失いたくない、と思った。
映画館に入り、席に座った。少しホッとして、前を向いたまま会話を続けた。
それぞれの職場で今週あった面白いことを教え合う。くすくすと笑い合う。
「冬美ちゃん、大丈夫? 体調、良くないの?」
「え? 体調は大丈夫だよ」
「それなら良かった。なんだか、今日の冬美ちゃん、いつもと違うから」
冬美はギクリとして、思わず隣の博史くんの顔を見た。
「いつもと違う? 私」
「うん、今日の冬美ちゃん、なんだか……」
「へん? なんだか、変?」
「うん、ちょっといつもと違って、変かな? 何か、あった?」
冬美は顔をそむけた。周りにもお客さんが入り始めている。男女のカップルもたくさんいる。
「ううん。何もないよ。大丈夫」
そう答えたと同時にブザーがなり、館内の照明が消えた。上映前のアナウンスがある。
暗闇の中、冬美は唇を噛んだ。
やっぱり、私、変なんだ。今日は、変なんだ。いつもと違うんだ。エロティックの素、つけてないもんね。そりゃあ、変だよね。
博史くんの肩が、冬美の肩に触れる。じんわりと温かい肩に意識が集中する。
私が変なのは、エロティックの素っていうものをつけ忘れたからだよ、って言えたら、どれだけ気が楽だろう。
それでも、可愛いよって言ってもらえたら、どれだけ幸せだろう。
講習会があったあの日、お茶でもと声をかけてきた博史くんは、カフェで向かい合わせで座ると同時に「こんな可愛いくてセクシーな人と、コーヒーが飲めるなんて幸せです」と、書かれた文章を読むように、小さな声で言った。そして、恥ずかしそうに笑った。
そう、あのときも、それからも、私は、エロティックの素をつけてたからね。だからね、可愛いくてセクシーだったの。
セクシー? 本当に私はセクシーになれていたのだろうか。
冬美は暗闇の中、自分の爪を見た。本当はアートネイルも好きじゃない。でも、他の女の子たちのように、外見からも彼氏に好かれる努力をしようと、博史くんと会ってから決心したのだ。
エロティック? なぜそんなものが必要なのだろう。私が満たされた気持ちになるのは、博史くんと同じタイミングでくすっと笑うときなのに。二人にしか通じない笑いや言葉を共有するときなのに。
ありのままだと愛されなくて、変な仮面をかぶって愛されて、幸せを感じながらも仮面が重たくてしかたがないなんて。あぁ、恋愛って、なんて面倒くさいんだろう。
映画に集中できなかった。画面の中で恋をする男女が、遠く手の届かない世界にいる。ハッピーエンドが羨ましい。
右の耳たぶを無意識のうちに指でこすっていた。不安なときに耳たぶをこする癖があるよね、お姉ちゃんに指摘されたことがある。
あぁ、私もお母さんやお姉ちゃんにそっくりだったら良かったのに。なんでお父さんに似た顔なんだろう。子供のときから何度も思った無駄なことをまた考えた。
エンドロールが流れる。終わった。
エロティックの素がないと成立しなかった関係。アレがないと続かない関係。結局は、そういうこと。
館内の照明がついた。
「あぁ、良かったね、ちょっと泣きそうになったよ。冬美ちゃん、このあとどうする? 食事する? どこか行きたいところある?」
横から顔を覗き込むようにして、言われた。
冬美は、バッグの持ち手を強く握って息を吐いた。
「ごめん。私、帰るね。今日は、ごめんね」
「えっ、どうしたの? 何か怒ってる? 今日の冬美ちゃん、本当に変だよ」
「うん、分かってる。変なのは、分かってる」
冬美は顔を背けてそう言って、席を立った。
そう、私は、変です。
