エロを小さじ1 《第五話》
《第五話》池上信男のときめき「父さん、婚活したら?」
ある日、突然、息子に言われた。
「婚活? 父さんを何歳だと思ってるんだ。いいよ、そんなもの」
久しぶりに実家に帰ってきた息子と夕飯を食べていたときだった。
婚活? なんだそれ? 池上信男は唐揚げを喉に詰めそうになりながら笑った。
信男は、男手ひとつで息子の貴明を育てた。
妻が出て行ったとき、貴明は中学生だった。手がかからない年齢になっていたとはいえ、会社員として働きながら、食事の用意、洗濯掃除、学校行事の参加などをひとりでこなすのは、体力的にも精神的にも大変だった。
周りから再婚を勧められたりもした。が、また誰かと一からやり直すことなど想像しただけで面倒だった。離婚時のごたごたを思い出すだけで結婚生活そのものにも魅力を感じなくなっていた。息子と二人だけの生活の方が気楽。そう考えた信男は、再婚の二文字を真剣に考えることはなく今まで生きてきた。
それなのに、社会人となった息子が婚活を勧める。あと五年で定年を迎える父親に。
「でも、父さん、退職したら寂しくならない?」
その言葉が胸に刺さった。
「今はさ、出会いも婚活もネットでできるんだから。そんなに難しく考えないで、茶飲み友達を探す感覚でさ、やってみたら?」
息子は軽い調子で言う。
茶飲み友達。あぁ、それはいいなぁ、と信男も頭の隅で軽く考えた。
次の日、スマートフォンで『婚活』『出会い』と検索をしてみた。沢山のサイトがヒットした。結婚相談所のホームページからマッチングアプリを紹介するサイトまで、出会いはネット上で沢山提供されている。
職場の若い社員たちが、マッチングアプリで彼女を見つけた、結婚することになった、などと話しているのは知っている。そういう時代なのだと分かっている。
でも、五十五歳の自分が、となると話は別だ。ずっと職場と家を往復するだけの生活をしていた男が、出会いなど求めて良いのか? 出会ったとして、誰がそんな男に惹かれる?
もちろんネット上では『ミドルやシニアの方々にも素敵な出会いがあります』『再婚を望まれる方、こちらにご登録ください』などと、広告している。
が、信男は、若者に混じって出会いを求めるということに、どうしても躊躇してしまう。長年、仕事以外で女性と話すことすらしていない。女性と一対一で会話をするなんて、男子校に通っていた高校生のときよりも緊張しそうだった。
やはりこんな浮ついたことは止めようと思ったそのとき、
『まずは自信をつけてみませんか? 講習会と占いであなたをサポートします』
という文字が目に入った。
『出会いが欲しいと思いながら、マッチングアプリや婚活サイトを覗くのに、女性と話しをする自信がない、とウジウジ悩んでいるそこのあなた! ファシナンテでは、まず女性に声をかける講習会から参加できます』
信男は人差し指で画面をスクロールした。
『恋愛運の良い日』
『あなたを輝かせる魔法の液体』
『参加者の声 : 人生ずっぽり変わった』
言葉が、手招きをする。
スクロールするうちに、なんだか変なところを触ってしまったのだろうか、突然スマートフォンの画面がLINEに変わった。
友達に追加しますか? と問われて、それぐらいなら良いかとタップした。
『お友達登録、ありがとうございます。素敵な未来のためにアンケートにお応えください』
すぐにメッセージがきた。
池上信男は、背中をどんどんと押されるのを感じながら、氏名と年齢から記入し始めた。
ファシナンテの事務所は、B駅前の雑居ビルの三階にあった。
LINEで予約をしていたが、信男はまだドアの前でぐずぐずしていた。あのネットの広告文には意味の分からない怪しい箇所もあった。事務所に入るべきかどうか、まだ悩み、ドアを開けることができない。
背後のエレベーターが開いて、三十代らしき男性が降りてきた。信男をちらりと見て、すぐにファシナンテのインターフォンを押す。
「はい。いらっしゃい」
出てきた若い男が、三十代の男と信男の顔を順に見て、どうぞ中へお入りください、と大きくドアを開いたので、信男もやっと踏み出す決心ができた。
事務所は、殺風景だった。待合室と言われた部屋には、さまざまな年代の男が信男を入れて十人ほどいた。見たところ、一番の年長者はやはり信男自身のようだった。
「本日はわざわざお越しいただき、ありがとうございます」
ドアを開けた男とは別の、細身で高身長の男が部屋に入ってきて、にこやかに挨拶をした。
小早川純也、と名乗った。テレビでよく見る俳優に似ているな、と信男は思ったが、その俳優の名前は思い出せなかった。
「当ファシナンテは、異性をご紹介する場所ではありません。男性自らが異性に声をかけ、男としての自信をつけていく、その道順をご案内する場所です。巷には、沢山の出会い系サイトなどがありますが、上手くいかない人は自信のないまま置いてきぼりにされてしまいます。ファシナンテは、恋愛落ちこぼれを作りません。講座や個人面談で、おひとりおひとりが自信を持って恋愛に挑めるお手伝いをします」
小早川純也の声はよく通った。部屋にいる男たち全員の視線を集めて、堂々と話す。
「実は、僕も女性と会話することが苦手でした。自分に自信がなかったのです。でも、このエロティックの素に出会い、変わることができました。今の僕を見てください。抑えつけられない色気があると思いませんか?」
参加者たちが頷いている。
信男は小早川純也の全身を注意深く見つめたが、色気がどこから顔を出しているのかは分からなかった。
「ファシナンテの最大の強みは、ウサギ占いです。皆さんの恋愛運の良い日と運命の女性を占いで示唆することによって、カップル誕生の成功率を高めております。もちろん、その日にはエロティックの素をシュッシュッと吹きかけていただきます」
首を傾げる信男におかまいなく、小早川純也は話しつづける。
「では、みなさん、運命の女性と出会ったときに言う言葉を練習しましょう。復唱してください」
小早川純也は声を張り上げた。
「こんにちは。良かったらお茶でも」
「こんにちは。良かったらお茶でも」
参加者全員が声を揃えて復唱した。信男は、驚いて、首をすくめただけだった。
小早川が皆の顔を見回し、また声を張り上げた。
「あまりに素敵だったので、思わず声をかけてしまいました」
「あまりに素敵だったので、思わず声をかけてしまいました」
今度は、信男も小さな声で復唱した。
小早川が、もっと大きな声で堂々と、と注意を与えた。
「こんな可愛いくてセクシーな人と一緒に、コーヒーが飲めるなんて幸せです」
「こんな可愛いくてセクシーな人と一緒に、コーヒーが飲めるなんて幸せです」
昔、職場の朝礼で、似たようなことをさせられたな、と信男は思った。いらっしゃいませ、ありがとうございます、と何度も復唱させられたっけ。懐かしさと恥ずかしさがひたひたと信男の体内を埋めた。
「運命の女性に出会って、喫茶店で向かい合って座ることが出来たら、無理に会話しようとしないでください。あなたは、ただ話を聞いてあげたらよいのです。女性はただ聞いてもらいたいのです。頷きながら、静かに、耳を傾けてください。もしも女性が、聞いてますか、何も言わないのですね、というようなことを言ってきたら、いや、楽しそうに話すあなたに見惚れていた、と答えてください。それだけで良いのです。下手なテクニックは要りません」
池上信男がこっそりと周りを見ると、数人の男たちがノートにメモをしていた。皆、真剣な顔で頷いていた。
小早川純也の話はそれから一時間ほど続いた。
『今週末はあなたの恋愛運の良い日です。当事務所まで、ぜひお越しください』
ファシナンテで講習会を受けた数日後、LINEに連絡があった。
乗り掛かった船だと、信男は再びあの事務所に行ってみた。
そしてそこで、運命の女性を示唆された。
『ボブヘア、黒縁の眼鏡、紺色のワンピース、小さな白いバッグ』
運命の女性は電車に乗っていた。ファシナンテで渡された白いメモ用紙に書かれたままの格好をした女性。
信男はその女性に近づき、おずおずとお茶に誘った。
「こんにちは。良かったらお茶でも」
「あまりに素敵だったので、思わず声をかけてしまいました」
ファシナンテで覚えた言葉を棒読みするように言った。
断られると思っていたのに、女性は一瞬だけ驚いた顔を見せただけで、信男と喫茶店に行くことを承知してくれた。
女性は、信男より一回り年下の四十三歳だった。訊かれるままに、信男は離婚したこと、社会人となった息子がいることを話した。女性も離婚して、高校生になる娘がいると言った。
それからは、女性の子育ての悩みを聞く側に回った。高校生のお弁当づくり、勉強、異性問題、反抗期。
信男も息子のお弁当作りからなにから全く同じ経験をしてきたので、共感して少しのアドバイスもできた。緊張することもなく話は弾んだ。
ママ友同士がするような話の内容だったけれども、久しぶりに女性と一対一で向き合って話せたという満足感に信男は酔った。
「話を聞いてもらえて嬉しかったです」
まるで人生相談後の感想みたいなセリフを言われた。連絡先の交換もなかった。
それでも、信男は、自分の身体中の細胞が踊り出しているような感覚を持った。
帰り道、ユニクロに入った。
ちょうどリネンシャツが値引きされていた。なんとなくピンクを手に取り鏡を覗き込んで、やっぱり派手だなと思ったときに
「あら、お似合いですよ」
と、見ず知らずの七十か八十か分からないご婦人に横から言われた。
「え、そうですか」
「ええ、ピンクがとてもお似合い。素敵ですよ」
こんなことを知らない人から言われるのは初めてだった。
エロティックの素の効果を、信男は信じていたわけではない。むしろ疑っていた。
でも……。ユニクロの鏡を覗く。
冴えない男の顔。ピンクのリネンシャツ。
小早川純也の声が脳内に蘇った。
「今の僕を見てください。抑えつけられない色気があると思いませんか?」
