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【創作大賞2026応募作品】猫の神様と商売の神様 作品全編

◾️あらすじ

将来に迷いながらカフェで働く青年・ハニ丸。

そんな彼の人生を変えたのは、人気キッチンカーのクレープ屋を営む自由奔放な師匠・幸せ之助との出会いだった。

人が集まるお店には理由がある。

応援される人には共通点がある。

幸せ之助や仲間たちとの日々の中で、ハニ丸は商売の本質、人との繋がり、そして本当の幸せについて少しずつ学んでいく。

優しく涙もろいマスター。
支えてくれる仲間たち。
そして、ときどき起こる不思議な出来事。

笑って、泣いて、心が温かくなる。

仕事に悩んだことがある人。
人間関係に迷ったことがある人。
自分らしい幸せを探している人へ。

これは、仕事を通して人生を学ぶ、一人の青年の成長物語。


猫の神様からの挨拶

なぁなぁ、お前さん、お前さん。

お前さんは最近、ちゃんとワクワクしとるか?

あ、ワシは猫の神なんじゃがな。ワシには幸せ之助ちゃんというマブダチがおるんじゃ。

今でこそ楽しそうに笑っとる幸せ之助ちゃんじゃが、昔は悩んだり迷ったりすることもたくさんあった。

じゃがのぉ。

幸せ之助ちゃんは、そんな毎日の中でも少しずつ気づいていったんじゃ。

幸せになるために必要なのは、もっと頑張ることでも、もっと我慢することでもなく、まず先に考えるべきは、“心の余裕”なのかもしれんとな。

心に余裕ができると、見える景色が変わる。
見える景色が変わると、出会う人が変わる。
出会う人が変わると、人生が変わる。

そして時には、自分でも想像しておらんかった夢と出会うこともあるんじゃ。

不思議なもんじゃろ?

そしてのぉ。人生というのは、思っておる以上に面白い。

苦しいこともある。悲しいこともある。失敗もする。

じゃがその全部が、あとで振り返ると宝物になったりするんじゃ。

この物語は、そんな幸せ之助ちゃんの"あるお弟子さん"が、仕事や人生を通して、少しずつ心の余裕を取り戻し、ワクワクする生き方を見つけていく物語じゃ。

もちろん、ワシらの考えが正解とは限らん。

じゃが、
「最近ちょっと疲れとるなぁ」
とか、
「なんだか毎日が楽しくないなぁ」
とか、

そう思っとるお前さんには、何かヒントになるかもしれん。

あ、そうそう。本当は普通の人間にはワシの声はニャーニャーとしか聞こえんのじゃが、今は特別に人間の言葉で話しておる。内緒じゃぞ。

では。物語を始めるとしよう。


プロローグ

「どうかボクを弟子にしてください!お願いします!」

「もうお弟子さんは取らない事にしてるので、全力でお断りします!」

「そこを何とか、お願いします!お願いします!」

「やだやだやだやだぁ〜!」

これがボクとちょっと変な師匠との関係の始まりだった。


ボクはハニ丸。
25歳。
田舎町の小さなカフェでアルバイトをしている。

仕事は嫌いじゃない。
マスターも優しい。
常連さんも温かい。

でも――
自分が何をしたいのかは分からなかった。

毎日は平和だった。

でも、このまま歳を取っていくのかなという焦りだけはあった。

子どもの頃は、
大人になれば自然と夢が見つかると思っていた。

でも気づけば25歳。
周りの友達は結婚したり、
仕事で活躍したりしている。

それなのにボクだけが、
どこへ向かっているのか分からなかった。


冬のある日の夜、ディナータイムのラストオーダーの時間の少し前にお店のドアが開き2人組の男女がそこに立っていた。

仲の良さそうな2人だった。

ハニ丸「いらっしゃいませ。2名様ですか?」

綺麗でしっかり者な雰囲気の女性が笑顔で答えてくれた。

女性「はい2人です。まだお食事大丈夫ですか?」

ハニ丸「21時ラストオーダーなので間もなくですが、それでもよろしいですか?」

女性「ありがとうございます。それで大丈夫です。いいよね?ん?あれ?」

後ろに立っていたはずの男性に向かって同意を求めようと振り返った女性だったが、いつの間にか男性の姿が見当たらない。

車に忘れ物でも取りに行ったのかと思ったが、それからすぐに戻ってきた2人のやり取りで忘れ物以外の理由だったと判明した。

女性「忘れ物?」

男性「違うよ。視線を感じて外の方を見たら黒猫さんがジ〜って見てたの。だからお話しに外に出てたんだ。」

女性「そう、黒猫さんいたんだ。会えて良かったね。21時オーダーストップでまだ大丈夫だって。いいよね?」

男性「うん。」

声も可愛らしく話し方も幼い感じの男性で、小さな子供じゃあるまいしというような理由だったが、女性の慣れた対応からしていつもの事のようだと感じた。

ハニ丸「それではこちらのお席へどうぞ。」

2人は並んで席に座り、楽しそうにメニューを眺めた。

料理が運ばれると「いただきます」と手を合わせ、食べ終わると「ごちそうさまでした」と笑顔で席を立つ。帰り際も「美味しかったです。また来ます。」
飲食店側としては、とても気持ちの良いお客様だった。


その日から毎晩のように2人で通ってくれるようになり、少しずつ仲良くなって会話をするようになった。

付き合いたてのカップルのような雰囲気に見えたが実は2人は夫婦で、旦那さんは幸せ之助さん、奥さんはリナさん、ボクはハニ丸くんと呼び合うようになった。

ちなみに、幸せ之助さんはリナさんを「リナちゃん」と呼び、リナさんは幸せ之助さんを「まるちゃん」と呼んでいる。

そもそもが「幸せ之助」というのも本名ではないらしい。そして、「まるちゃん」というリナさんの呼び方も本名とは関係ないらしく、ボクの中ではニックネームとして解釈した。

ボクは、自分が何をしたいのか分からず将来に不安を感じていることを話し、幸せ之助さん夫婦は仕事の都合で最近この町に来たこと、仕事終わりに美味しい物を食べるのが夫婦の楽しみであること、2人共40代で10歳くらい若く見られること、幸せ之助さんは猫が好きであることなどを話してくれた。

そして、猫好きの幸せ之助さんは特に野良猫が好きらしく、熱く野良猫愛を語っていた。

幸せ之助「ハニ丸くん、ボクは野良猫さんをとってもリスペクトしているんだよ。野良猫さんはさぁ、飼い猫ちゃんと違ってエサもらえないんだよね。お腹が空くとその辺で食べれそうな物を一生懸命に探して、それが生き物だったとしたら物音をよ〜く聞いて、動きをよ〜く見て、シャって捕まえるの。ポケ〜っとしてたらご飯にありつけないんだよ。そんな過酷な自然界の中を生きながら、好きな時に好きな所へ行ってぬくぬく日向ぼっこしたり、お友達とジャレあったり、したい事して猫生を満喫してるの。猫じゃらしとかブンブン振り回してもさぁ、クルクルって身体の向きを合わせて瞬時に反応するし、凄いよね。何か嫌な事があったって他の猫のせいになんかしてられない。変な先入観を持たずにその場その場で判断して、全部自分の責任で生きてるんだよ。自分の死期が近づいてくると誰にも見られないように姿を消すのも、自分の事を本当によく分かってるんだよね。それから、いつどこに行けば会えるっていう存在じゃないの。この広い世界でたまたま出会う野良猫さんは、野良猫さんがそこに居てくれてこそ会えるんだよ。だからね、野良猫さんとの出会いは奇跡と言っても過言ではない尊いものなんだよ。大切な出会いなんだよ。」

おっしゃる事は素晴らしいとは思うけれども、ちょっと変な人なのは確かだ。


その頃からお店の常連さんたちの間でキッチンカーのクレープ屋さんが話題になっていた。

どうやら仲良し夫婦で日本各地を回っているキッチンカーのクレープ屋さんがボクの町に来ていて人気になっているようだ。

どちらかと言うと甘い物が苦手なボクはクレープにはあまり興味が無かったが、来る人来る人「メチャクチャ美味しい!」と口を揃えて言っていて、「甘いクレープだけじゃなくて、サラダ系のしょっぱい系のクレープもあって、それが特にオススメなんだって。」という常連さんの情報に少し興味が湧き、近くのスーパーに出店しているようなのでランチタイムの後の休憩時間に行ってみる事にした。


スーパーの駐車場に着くと、ボクは目の前の光景に唖然とした。

見た事も無いようなカッコいいディズニーランドで見るようなクラシックカーが停まっていて、キッチンカーの周りに人だかりができている。
人口の少ない田舎と言われるこの町では見た事の無い光景だった。

楽しそうにメニューを見ているお客さんの声と共に耳を疑う声が聞こえてきた。

お客さん「今2時間待ちだって、どうする?」

ハニ丸『えっ?2時間待ち?マジか!?』

しかもメニューを見ると、甘いクレープだけではなかった。人気ランキングの上位には、
・ハムエッグチーズカレー
・生ハムと玉子のイタリアンサラダ
と書かれている。

ハニ丸『こんなクレープ屋さん初めて見た。』

気づけばボクは一番人気のハムエッグチーズカレーを注文していた。

他のお客さん達がメニューを選んでいる中、ちょうど注文口が空いていたのでボクは注文口の前に立ち後ろを向いて作業をしている女性のスタッフさんに声を掛けた。

ハニ丸「すみませーん、注文いいですか?」

すると、中にもう1人いた男性のスタッフさんがチラッと顔を向け声を発した。

男性「あっ、ハニ丸くん。」

その声に反応して振り返った女性のスタッフさん。

女性「あーこんにちはぁ!ハニ丸くん来てくれたんだぁ。ご来店ありがとうございます。」

読者の皆さんが御察しの通り、そこにいたのは幸せ之助さんとリナさんだった。

ボクにとっては驚きの展開だったが、恐ろしいほど忙しそうなこの状況を察してササっと軽い挨拶と注文を済ませ、ボクは2時間後の仕上がりを待つ事にした。

駐車場に停めた自分の車の中でしばらく様子を見ていても、次から次へと注文をする人とクレープを受け取りに来る人が絶えない。

時間があったのでスマホで調べてみると、幸せ之助さんのお店は過去に8時間待ちになったこともある人気店だった。

ハニ丸『マジか……。』

思いがけない出会いと展開に困惑しつつ、今まで気にもしなかったキッチンカーについて興味が湧いてきたボクだった。

そして、こんな事を考え始めた。

ハニ丸『キッチンカーなんて今まで興味無かったけど、こうして見てるとなんか楽しそうだな。なんか、いいかも。』

その後も中古車のキッチンカーをネットで見ながら時間まで待ち、仕上がりの時間になったので幸せ之助さんとリナさんのキッチンカーへとクレープを受け取りに行った。

ちょうどリナさんが仕上がったクレープを紙に包んでくれているタイミングだった。

リナ「ハニ丸くん、お待たせしましたぁ。ちょうど今出来上がったところだよ。はい、どうぞ。ありがとうございます。」

幸せ之助「ハニ丸くん、ありがとうございます。また夜お店行くね。」

ハニ丸「幸せ之助さん、リナさん、ありがとうございます。じゃあ、また夜にお店でお待ちしてます。」

受け取ったクレープの仕上がりの美しさと美味しそうな見た目にまたもや目を疑いつつ、ボクは車に戻って早速クレープを食べ始めた。

ハニ丸『!?』

クレープをひと口かじったボクは衝撃を受けた!

ハニ丸『何これ!?メチャクチャ美味しい!こんなクレープ初めて食べた!』

言い方は悪いが所詮クレープと思っていたボクの想像を遙かに超える美味しさで、ボクは夢中でクレープを口に運びあっという間に食べ終わってしまった。

ハニ丸『思ってたより食べ応えはあったけど、もっと食べたいな。』

そんな事を思いつつ、相変わらずお客さんが絶えないみたいなので、さらに2時間待つ余裕はなくバイト先のカフェへと向かった。

カフェに戻ってディナータイムのバイト中も、キッチンカーの事を考えてワクワクニヤニヤが止まらなくなってしまい、マスターに変な人扱いされながら幸せ之助さん夫婦が来るのを待ち侘びるボクだった。

あの夫婦の周りには、
ずっと笑顔があった。

そして何より幸せ之助さん自身が、誰よりも楽しそうだった。

ボクは気付いていた。
本当はクレープの作り方なんかじゃない。
ボクはーー
この人の生き方をもっと知りたかったんだ。

そして、ラストオーダーの時間が迫った頃、ボクの待ち侘びていたお客様が入店してきた。

リナ「こんばんは。」

幸せ之助「こんばん、ニャ〜〜〜!!」

仲良くなって気心が知れてきてから、幸せ之助さんの入店の挨拶は決まってコレだ。

ここ最近のボクはそれに合わせて「はい、こんばんニャ。いらっしゃいませ。」と2人をお迎えするのがお決まりになっていたが、この時ばかりは昼間からのワクワクと興奮が冷めやらず幸せ之助さんの姿を見るなり勢い余って想いが口に出てしまった。

ハニ丸「どうかボクを弟子にしてください!お願いします!」

このボクの勢い任せのひと言が、ちょっと変な師匠との師弟関係と、商売を学ぶ不思議な体験の始まりとなったのである。


第1章 弟子入りの条件

① 弟子入り騒動

ハニ丸「どうかボクを弟子にしてください!お願いします!」

幸せ之助「もうお弟子さんは取らない事にしてるので、全力でお断りします!」

ハニ丸「そこを何とかお願いします!」

幸せ之助「やだ!」

ハニ丸「お願いします!」

幸せ之助「やだ!」

ハニ丸「お願いします!」

幸せ之助「やだぁ〜!」

ハニ丸「お願いします!」

幸せ之助「シャーーーーッ!!」

ハニ丸「猫みたいに威嚇しないでください!」

幸せ之助「キィーーーーッ!!」

ハニ丸「鳴き声変わってますよ!」

幸せ之助「やだやだやだやだぁ〜!!」

ハニ丸「やだくないやだくないやだくな〜い!!」

これがボクとちょっと変な師匠との関係の始まりだった。

ボクの名前はハニ丸。
つい昨日まで将来やりたい事も見つからないまま、田舎町の小さなカフェで働いている25歳だ。

そして今。

ボクたちは、大の大人2人とは思えないやり取りを繰り広げていた。

リナ「まぁまぁ2人とも落ち着いて。」

仲裁に入ったのは幸せ之助さんの奥さん、リナさんだった。

リナ「そんな大きな声出してたらお店の迷惑でしょ。」

そう言われてボクたちはハッとした。
そして店内を見渡した。
誰もいなかった。

シーン。

静まり返る店内。
ボクは少し気まずくなった。
リナさんも少し気まずそうだった。
そしてマスターはもっと気まずそうだった。

幸せ之助「ほらぁ〜。」

幸せ之助さんは嬉しそうに店内を見渡した。

幸せ之助「お客さんいないから大丈夫だよぉ♪」

リナ「そういう問題じゃないの。」

幸せ之助「ね、マスター!」

マスター「え?」

幸せ之助「お客さんいないから大丈夫だよね!」

マスター「……。」

幸せ之助「だってお客さんいないもんね!」

マスター「……そうだね。」

幸せ之助「ほらぁ〜♪」

マスターは少しだけ肩を落とした。

ハニ丸『マスター、ごめんなさい。』

リナ「だからそういう問題じゃないの。」

幸せ之助「ニャハハハ♪」

結局そのまま2人は席に座り、いつものように食事を始めた。

しかし幸せ之助さんは明らかにご機嫌ななめだった。

ボクが水を持っていく。

幸せ之助「シャーーーッ!」

ボクが料理を運ぶ。

幸せ之助「キィーーーーッ!」

追加のスプーンを持っていく。

幸せ之助「シャーーーーーーッ!!」

完全に縄張り争い中の野良猫だった。
ボクが近づくたびに威嚇してくる。
さすがに理不尽である。

リナ「まるちゃん。」

幸せ之助「シャーーーッ!」

リナ「私にも?」

幸せ之助「はっ!?......ごめんなさい。」

どうやら反射だったらしい。

ボクは仕方なくカフェラテに猫のラテアートを描いて持っていった。

幸せ之助「わぁ〜!!」

幸せ之助さんの目がキラキラ輝いた。

幸せ之助「猫さんだぁ〜♪」

さっきまで威嚇していた人とは思えない。

単純だった。

幸せ之助「かわいい〜♪」

リナ「機嫌直った?」

幸せ之助「直ったぁ〜♪」

リナ「良かったね。」

幸せ之助「うん♪」

ハニ丸『良かったねじゃないと思う。』

その後も幸せ之助さんは猫ラテをいろんな角度から眺めていた。たぶん5分くらい眺めていた。

そしてようやく満足したのか、幸せそうな顔でカフェラテを飲み始めた。
ボクはそんな様子を見ながら思った。

ハニ丸『この人、本当に昼間あの大行列のクレープ屋さんやってた人だよな……?』

どう考えても変な人にしか見えなかった。

② お弟子さんを取らない理由

閉店後。
マスターが気を利かせてくれて、ボクたちは少し話をすることになった。

昼間の興奮はまだ冷めていない。
2時間待ちの行列。
人生で食べた中でも一番美味しかったクレープ。
そして、あの楽しそうに働く2人の姿。
ボクは改めて頭を下げた。

ハニ丸「お願いします!どうかボクを弟子にしてください!」

幸せ之助「やだ。」

ハニ丸「また即答!」

幸せ之助「即答選手権があったら県大会ベスト16くらいまでは行ける自信ある!」

ハニ丸「いらない自信です!しかも、県大会ベスト16って、微妙な自信ですね。」

幸せ之助「ニャハハハ♪」

リナ「ごめんね、ハニ丸くん。」

リナさんが申し訳なさそうに笑った。

リナ「でも本当に、もうお弟子さんは取らないことにしてるの。」

ハニ丸「何か理由があるんですか?」

ボクがそう聞くと、幸せ之助さんは少しだけ真面目な顔になった。

幸せ之助「実はね、昔はお弟子さん取ってたんだよ。」

ハニ丸「やっぱりそうなんですね。」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんは頷いた。

幸せ之助「ボクたち、日本中あちこち回ってたからさ。」

リナ「ありがたいことに、たくさんのお客様と出会えたの。」

幸せ之助「でもね。次はいつ来るの?って聞かれても、1年後とか2年後になっちゃう場所もあったんだ。」

リナ「1回しか行けなかった場所もあるしね。」

幸せ之助「だから、お弟子さんを育ててお店を残そうと思ったんだ。」

ハニ丸「お客様のために。」

幸せ之助「そう。また食べたいって思ってくれる人がいるなら、その町にお店があった方がいいと思った。」

ボクは素直に凄いと思った。
店舗を増やしたいからじゃない。
お金儲けのためでもない。
お客様のため。
そんな理由で始めたなんて思わなかった。

ハニ丸「それって素敵な話ですね。」

幸せ之助「ボクもそう思ってたんだけどね。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「料理ってレシピがあるようで無いんだよ。同じ材料を使っても。同じ手順で作っても。作る人によって変わる。」

リナ「もちろん悪いことじゃないの。それがその人のお店の個性になることもあるから。」

幸せ之助「でも、お客様はボクたちのお店を好きになってくれてるんだ。だから、お弟子さんのお店に行って。なんか違ったなぁ。って感じる人もいる。」

ハニ丸「なるほど……。」

幸せ之助「お弟子さんが悪いわけじゃない。でもボクは申し訳なく感じちゃったんだよ。」

リナ「それにね。」

リナさんが笑った。

リナ「お弟子さんを育てるのって、本当に大変なの。」

幸せ之助「めちゃくちゃ大変。」

リナ「時間もかかるし。」

幸せ之助「お金もかかるし。」

リナ「でも一番は。」

幸せ之助・リナ
「自分たちのお店に使える時間が減る。」

2人はまるで打ち合わせしていたみたいに同時に言った。

ハニ丸「そんなにですか?」

幸せ之助「そんなに。」

リナ「そんなに。」

幸せ之助「ボクたちね。今のお店が楽しいんだよ。」

リナ「うん。」

幸せ之助「来てくれるお客様と話したり。」

リナ「喜んでもらえたり。」

幸せ之助「そういう時間が一番好きなの。」

ボクは昼間の光景を思い出した。
次から次へと来るお客さん。
忙しいはずなのに笑顔の2人。
そして、どのお客さんも楽しそうだった。

ハニ丸「なるほど。なんか分かる気がします。」

お2人の話を聞いて感じたことを、ボクなりにまとめた。

ハニ丸「やっぱり商売って、お金のためにやるんじゃなくて、お客様のためにやるものなんですね。」

幸せ之助「違うよ。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「商売はお金のためにするものだよ。」

③ 商売とお金の話

幸せ之助「違うよ。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「商売はお金のためにするものだよ。」

ハニ丸「ええっ!?」

思わず大きな声が出た。
だって今までの話を聞いていたら、
絶対に逆の答えが返ってくると思ったからだ。

ハニ丸「でも、お客様のためにお弟子さんを育ててたんですよね?」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「だったら商売もお客様のためなんじゃないんですか?」

幸せ之助「それとこれとは別のお話。」

ハニ丸「別なんですか?」

幸せ之助「別。」

幸せ之助さんはカフェラテをひと口飲んだ。

幸せ之助「じゃあ聞くけどさ。」

幸せ之助「もしボクたちのお店が赤字続きで潰れちゃったらどう思う?」

ハニ丸「嫌です!」

即答だった。

幸せ之助「なんで?」

ハニ丸「だってもう食べられなくなるじゃないですか!」

幸せ之助「うん。うん。」

ハニ丸「今日初めて食べたばっかりですけど、もう食べたいです!」

リナ「ふふっ。」

幸せ之助「じゃあさ。お客様のためだからって、今の半額で売ったらどうなると思う?」

ハニ丸「それは......。」

少し考える。

ハニ丸「お客様は喜ぶと思います。」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「でも赤字になります。」

幸せ之助「うんうん。」

ハニ丸「そのうち潰れます。」

幸せ之助「うんうんうん。」

ハニ丸「......ダメですね。」

幸せ之助「そういうこと。」

幸せ之助さんはニコッと笑った。

幸せ之助「お店が続いてこそ、お客様はまた来られる。だから商売はちゃんとお金をいただかなきゃいけない。」

リナ「応援してくれてるお客さんからしたら、お店が無くなっちゃうことが一番残念だからね。」

幸せ之助「そう。大切なお客さんの為にも、お店を守るのはボクたちの最も果たすべき責任。だから、商売はお金のためにするものなんだよ。そのお金の先にみんなの幸せがあるから。」

ボクは少し考えた。
今まで、「お金のため。」という言葉に、
あまり良いイメージを持っていなかった。

でも今の話を聞くと、
お店を続けるためにも、
お客様に喜んでもらい続けるためにも、
お金は必要なものなんだと思えた。

ハニ丸「なんか......。少し価値観が変わった気がします。」

幸せ之助「ほうほう、どこらへんがチミの心に刺さったんだい?」

ハニ丸「お金の先にみんなの幸せがある、その深い意味がわかってきた気がして。」

幸せ之助「あ〜そこ刺さっちゃったかぁ〜、ボクの素敵な言葉、刺さっちゃうよねぇ〜。うんうん。」

ハニ丸「すぐ調子に乗れちゃうんですね。」

幸せ之助「素敵が溢れてるから仕方ないよね♪」

ハニ丸「ポジティブ!」

幸せ之助「ニャハハハハ!」

リナ「ふふふ。」

少しずつボクの商売の勉強が始まっていた。

④ マスター暴走

でも、不思議だった。
ほんの数時間前までただの常連さんだったのに、今はこうして人生について話を聞いている。
人の縁って、本当に不思議だ。

ハニ丸「でも、ボクは本当に人との出会いに恵まれてるなって思います。」

リナ「そうなの?」

ハニ丸「はい。例えばマスターとか。」

幸せ之助「ほぉ。」

ハニ丸「ボク、高校を辞めたあと何をしたらいいか分からなくなっちゃって。将来の夢も無かったし、やりたい事も無かったんです。」

リナ「そうだったんだ。」

ハニ丸「はい。ある日なんとなくこのカフェに来て、カウンターに座ってマスターと話してたんです。そしたらマスターに聞かれたんですよ。」

『ハニ丸くん、夢はあるの?』

ハニ丸「でも、その時のボクは何も答えられなかった。本当に何も無かったから。そしたらマスターが何も言わずにカフェラテを出してくれて。」

リナ「うん。」

ハニ丸「それで......。」

『やりたい事が見つかるまで、うちで働かないか?』

ハニ丸「そう言ってくれたんです。」

店内が少し静かになった。

ハニ丸「だからボクにとってマスターは......。第二のお父さんみたいな人なんです。」

その時だった。

ズズズッ......。

店の奥から妙な音が聞こえた。

幸せ之助「ん?」

ハニ丸「え?」

ズズズズズッ......。

幸せ之助「リナちゃん。」

リナ「なに?」

幸せ之助「なんか溺れてる?」

リナ「そんなわけないでしょ。」

幸せ之助「でも聞こえるよ?」

ハニ丸「テレビじゃないですか?マスターいつもこの時間は【商売の神様】って番組を見てるんですよ。」

幸せ之助「う〜ん。テレビの音なのかなぁ?」

ボクはあまり気にせず話を続けた。

ハニ丸「だから本当は、お弟子さんになるのを諦めて......。自分で勉強しながら――」

バーーーーーン!!

突然。

店の奥の扉が勢いよく開いた。

そして。

聞いたこともないような大声が店内に響いた。

???「あきらめるなぁぁぁぁぁーーーーーっ!!」

ハニ丸「うわっ!?」

リナ「きゃっ!」

幸せ之助「ぎゃーーーーーーっ!!」

幸せ之助さんはリナさんにしがみついてプルプル震えている。

幸せ之助「お化けぇぇぇぇぇ!!」

リナ「まるちゃん、落ち着いて!マスターだから!」

幸せ之助「へ?」

そこに立っていたのは――
マスターだった。

目は真っ赤。
鼻水はダラダラ。
涙で顔はグシャグシャ。
まるで滝に打たれてきたみたいだった。

幸せ之助「あ。」

リナ「あ。」

幸せ之助「さっきのズズズッて。」

リナ「うん。」

幸せ之助「マスターの鼻水だったんだ。」

マスター「そうです!!」

幸せ之助「そんな元気よく言うこと!?」

マスターはズカズカと歩いてきた。
そしてボクの前で立ち止まった。

マスター「ハニ丸くん!」

ハニ丸「は、はい!」

マスター「キミはバカだ!」

ハニ丸「なんでですか!?」

マスター「とてもバカだ!」

ハニ丸「追い打ち!?」

マスター「どのくらいバカかと言うと!25歳にもなって九九が怪しい!」

ハニ丸「怪しくないです!」

マスター「8×8は!?」

ハニ丸「えっと......。」

マスター「ほらぁぁぁ!!」

幸せ之助「はいはいはい!ボク答えていい?8×8は緑!葉っぱは緑〜、なんちゃって♪」

ハニ丸「なんなんですか!師匠も乗らないでください!」

幸せ之助「へ?師匠じゃないもんねぇ〜だ!」

リナ「まるちゃん。きっと何か大事なお話だから、静かにしてようね。」

幸せ之助「はぁ〜い。」

⑤ マスターの心の叫び

マスターはボクの肩をガシッと掴んだ。

マスター「ハニ丸くん!」

ハニ丸「は、はい!」

マスター「キミはバカだ!」

ハニ丸「またそれですか!?もういいですよ!」

マスター「本当にバカだ!」

ハニ丸「だからなんなんですか!」

マスター「しかし!私は知っている!」

ハニ丸「何をですか!もうっ!!」

マスター「キミが誰よりも一生懸命な人間だということを!私は誰よりも知っているんだよ!」

店内が少し静かになった。

マスター「私は10年間見てきた。失敗しても。怒られても。朝から晩まで働いて。キミは誰よりも真面目に仕事をしてきた!」

マスターの表情は真剣そのものだ。

マスター「夢が無くても。目標が無くても。キミは一生懸命だけはやめなかった!」

ボクは黙って聞いていた。

マスター「だから私は......。嬉しかったんだ。」

マスターの声が少し震えた。

マスター「今日、初めて聞いたんだよ。ハニ丸くんの口から。やりたい事が見つかったって。」

リナさんも黙って聞いていた。
幸せ之助さんも珍しく静かだった。

マスター「私はずっと待っていたんだ。いつかこの子が......。自分の夢を見つける日を......。だから――」

マスターは深々と頭を下げた。

マスター「幸せ之助さん。リナさん。」

頭を下げたまま鼻水をすするマスターから、ひと雫の涙が床に落ちた。

マスター「どうか、この子を見てやってください。お願いします!」

店内が静まり返った。

ボクは言葉が出なかった。
まさかマスターが、
そんなふうに思ってくれていたなんて。

幸せ之助「......。」

幸せ之助さんは少し考えるように黙っていた。
涙腺がゆるいと言っていたリナさんは目に涙をためていた。

そして。

幸せ之助「ねぇねぇ、マスター、マスター。」

マスター「はい。」

幸せ之助「ひとつ聞いていい?」

マスター「はい。」

幸せ之助「いつから盗み聞きしてたの?」

マスター「最初からです。」

ハニ丸「全部じゃないですか!!」

リナ「全部だったのね。」

マスター「はい。」

幸せ之助「正直だ。」

リナ「正直ね。」

マスター「正直です。」

幸せ之助「なんで泣いてたの?」

マスター「第二のお父さんで限界でした。」

リナ「うんうん。でも、早い。」

幸せ之助「ニャハハハハ!」

マスター「笑い事ではありません!」

幸せ之助「いや、ちょっと面白い。」

マスター「私は真剣です!」

幸せ之助「それが面白い。」

リナ「まるちゃん。」

幸せ之助「ごめんなさい。」

でも、その時の幸せ之助さんの顔は少しだけ優しかった。

⑥ 弟子入り成立

幸せ之助さんは少し黙ったまま天井を見上げた。

幸せ之助「う〜ん。」

リナ「まるちゃん?」

幸せ之助「う〜ん。」

リナ「考えてる?」

幸せ之助「考えてる。」

幸せ之助さんは腕を組んだ。

そして。

幸せ之助「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい!」

幸せ之助「ひとつだけ聞いていい?」

ハニ丸「はい!」

幸せ之助「もしお弟子さんになれなくても、自分でお店やる?」

ハニ丸「やります。」

即答だった。

幸せ之助「お。」

ハニ丸「やります。」

幸せ之助「即答だ。チミも即答選手権出る?」

リナ「まるちゃん!おふざけしないの!」

幸せ之助「ごめんなさい。」

ハニ丸「だって今日決めたんです。ボク、自分のお店を持ちたいです。そして。幸せ之助さんたちみたいに誰かをワクワクさせられるお店を作りたいんです!!」

幸せ之助「......。」

リナ「......。」

マスターはまた泣いていた。

ハニ丸「さっき泣き止んだのに、早いですって。」

マスター「無理だ。」

幸せ之助「ニャハハハ。」

幸せ之助さんは笑った。

そして。

幸せ之助「分かった。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「ボクたちのお店のやり方をそのまま教えるつもりはない。」

ハニ丸「え?あ、はい。」

幸せ之助「ボクたちと同じクレープを作れるようにもならなくていい。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「でも。」

幸せ之助さんは少しだけ真面目な顔になった。

幸せ之助「自分のお店を作るための相談相手くらいならなってあげる。」

ハニ丸「......え?」

幸せ之助「だからぁ。条件付きでお弟子さん合格!」

ハニ丸「......。」

一瞬。
頭が真っ白になった。

ハニ丸「え?」

幸せ之助「だから。合格だって。」

ハニ丸「......。」

リナ「良かったね、ハニ丸くん♪」

ハニ丸「えぇぇぇぇぇぇぇーーーーーっ!!」

幸せ之助「うるさい。」

ハニ丸「だって今!」

幸せ之助「うるさい。」

ハニ丸「師匠って呼んでいいですか!?」

幸せ之助「まだダメ。」

ハニ丸「なんでですか!?」

幸せ之助「ボクがまだ心の準備できてない。」

ハニ丸「そこなんですか!?意外と照れ屋さんなんですね、師匠って。」

幸せ之助「うるさい!黙れ、弟子っ!!」

リナ「ふふふ。」

マスター「うおおおおおおおおおっ!!」

ハニ丸「マスター!?」

マスターは両手を天に向かって突き上げていた。

マスター「やったぁぁぁぁぁ!!弟子入り成功だぁぁぁぁぁ!!」

幸せ之助「こっちもうるさいし。マスターとりあえず鼻かみなよ。飛び散るとばっちいし。」

マスター「あ、すみません!」

リナ「私ティッシュ持ってるよ。はい、マスター。」

マスター「ありがとうございます。」

⑦ 正直者のマスターの本音

マスターはリナさんから受け取ったティッシュで、思いきり鼻をかんだ。

マスター「失礼しました。」

幸せ之助「うん。だいぶ人間に戻ったね。」

マスター「元から人間です!」

リナ「まるちゃん。」

幸せ之助「ごめんなさい。」

マスターは少し照れくさそうに笑った。

そして、改めてボクの方を見た。

マスター「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

マスター「本当に良かったね。」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんわり熱くなった。

ハニ丸「……はい。マスター、本当にありがとうございます。」

マスター「うん。」

マスターは嬉しそうに頷いた。

マスター「私も本当に嬉しいよ。この10年、キミが自分の道を見つける日を待っていたんだから。」

ハニ丸「マスター……。」

マスター「でもね。」

マスターは急に真顔になった。

マスター「ここからは、正直者のマスターとして本音を言わせてもらう。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「お。」

リナ「正直者のマスター。」

マスター「このお店の名前は、TOO HONEST CAFE。日本語にすると、正直過ぎるカフェ。」

幸せ之助「ぴったり。」

リナ「本当にぴったりね。」

マスター「私は開業する時に決めたんです。お客様に嘘をつかない。誤魔化さない。正直な商売をしようと。」

ボクたちはマスターの言葉に耳を傾けた。

マスター「だから今も、正直に話します。」

マスターは一度、大きく息を吸った。

マスター「ハニ丸くんが夢を見つけたことは、本当に嬉しい。」

ハニ丸「はい。」

マスター「私が第二のお父さんのように思ってもらえていたことも、本当に嬉しい。」

ハニ丸「マスター……。」

マスター「そして、ハニ丸くんを送り出したいという気持ちも本当です。」

リナさんが静かに頷いた。

マスター「でも。正直に言うと。」

マスターはひと呼吸おいて続けた。

マスター「ハニ丸くんがうちを辞めてくれたら、私のお小遣いが満額に戻るかもしれないという期待もあります。」

店内が静まり返った。

ハニ丸「……え?」

リナ「……え?」

幸せ之助「……え?」

マスター「私のカミさんは、とても強い人です。家では完全に尻に敷かれています。」

幸せ之助「強いんだ、奥さん。」

マスター「はい。最強です。」

リナ「そこは即答なのね。」

マスター「はい。」

マスター「そしてここ最近、夜のお客様の入りが少なくなってきました。」

ハニ丸「……。」

マスター「それでもハニ丸くんには経験を積ませてあげたいし、お給料も出したい。そう思っていたら、カミさんに言われました。足りない分はお前のお小遣いから出すんだぞ、と。」

ハニ丸「えぇぇぇぇぇっ!?」

マスター「さらに。長年コツコツ貯めてきた私のヘソクリも、いよいよ底をつきそうです。」

ハニ丸「そんなことになってたんですか!?」

マスター「お恥ずかしい話ですが、そんなことになっていました。」

幸せ之助「マスター……。」

マスター「はい。」

幸せ之助「かわいそう。」

マスター「ありがとうございます。」

幸せ之助「でもちょっと面白い!」

マスター「笑わないでください!」

幸せ之助「ごめんなさい。」

マスターは少しだけ恥ずかしそうに咳払いした。

マスター「だから正直に言うと。」

マスター「ハニ丸くんが自分の道を見つけたことは、私にとっても希望だったんです。」

ハニ丸「マスター……。」

マスター「寂しい。それは本当です。でも嬉しい。それも本当です。そして、お小遣いが戻るかもしれない。それもまた、本当です。」

リナ「全部本当なのね。」

マスター「全部本当です。」

そして、マスターは続けた。

マスター「なので、ハニ丸くんが弟子にして欲しいと叫んだ時、お小遣いが戻ってくる希望の光が差したんです。なんとかハニ丸くんが説得して弟子入りを認めてもらえる展開を期待して、閉店後にもう一度話してみるべきと背中を押しました。」

ハニ丸「あ、そういうことだったんですね......。」

マスター「しかし、聞き耳を立てていると交渉は難航。ハニ丸くんもお2人の考えに納得してきちゃって、私もだんだん諦めはじめ、悲しくなってきました。でも、この時はまだ泣いてません。」

幸せ之助「うん、だってお父さんみたいってとこで泣いたんだもんね。」

マスター「はい、絶望のドン底に叩きつけられた私の心に、ハニ丸くんのあの言葉が染み渡って、もう涙が止まらなくなりました。あ、あと鼻水も。」

リナ「感情の起伏が激しい。」

マスター「その後、ハニ丸くんが弟子入りを諦めるって言ったので、再びドン底に真っ逆さま。もう自分でもよくわからない感情の渦が......。気付いたら私はドアを開けて飛び出し、叫んでいました。あきらめるな、自分への叫びと共に。」

ハニ丸「え!?あれってボクに向けた叫びじゃなかったんですか!?」

リナ「この一連の私の感動と涙、返して。」

幸せ之助「正直過ぎるぅ〜!」

幸せ之助さんはお腹を抱えて笑った。

でもボクは、笑いながらも胸がいっぱいだった。
マスターは、自分のお小遣いを削られても。
ヘソクリが底をつきそうになっても。
それでもボクを雇い続けてくれていた。

ボクがいつか、自分の道を見つける日まで。
何も言わずに、ずっと見守ってくれていたのだ。

ハニ丸「マスター。」

マスター「うん。」

ハニ丸「ボク、頑張ります。」

マスター「うん。」

ハニ丸「必ず、自分のお店を作ります。」

マスター「うん。」

マスターはまた少し泣きそうになっていた。

マスター「それでこそ、私の大切な息子みたいなハニ丸くんだ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「よし。」

幸せ之助さんが、ポンと手を叩いた。

幸せ之助「じゃあハニ丸くん。」

ハニ丸「はい!」

幸せ之助「まず最初の教え。」

ハニ丸「はい!」

幸せ之助「正直過ぎるマスターみたいな人は、ちゃんと大事にすること。」

ハニ丸「……はい!」

幸せ之助「こういう人とのご縁は、お金では買えないからね。」

その言葉を聞いて、ボクは深く頷いた。
商売の勉強は、まだ始まったばかりだ。

でもその前に。ボクはもう、たくさんの大切なものをもらっていたのかもしれない。

この日。ボクは、幸せ之助さんとリナさんのお弟子さんになった。

そして同時に。自分の人生を、自分の足で歩き始めることになった。

翌日。

ボクは人生最初の宿題を出されることになる。

しかも、
クレープとはまったく関係のない宿題を。


第2章 猫の神様とニャン丸くん

① 師匠からの最初の条件

こうしてボクは、幸せ之助さんとリナさんのお弟子さんになった。

……正確には、条件付きのお弟子さんだ。

幸せ之助「じゃあハニ丸くん。」

ハニ丸「はい!」

幸せ之助「お弟子さんになったからには、まず最初に条件を発表します。」

ハニ丸「条件……。」

ボクは思わず背筋を伸ばした。
きっと厳しい修行の話だ。

毎日早朝からクレープ作り。
接客の練習。
経営の勉強。
そういう覚悟はできている。

幸せ之助「ひとつ。」

ハニ丸「はい!」

幸せ之助「猫の神様の言うことを、よ〜く聞くこと。」

ハニ丸「……はい?」

幸せ之助「ふたつ。」

ハニ丸「いや、ちょっと待ってください。」

幸せ之助「野良猫さんをリスペクトすること。」

ハニ丸「待ってくださいって!」

幸せ之助「みっつ。」

ハニ丸「進めないでください!」

幸せ之助「最初の1年は、余計なことをせず、基本を一生懸命やること。」

ハニ丸「……。」

ボクは一瞬だけ黙った。
最後のひとつだけは、ちゃんと商売っぽかった。
でも、その前のふたつが明らかにおかしい。

ハニ丸「猫の神様って何ですか?」

幸せ之助「猫の神様は猫の神様だよ。」

ハニ丸「説明になってません。」

幸せ之助「そのうち分かる。」

ハニ丸「野良猫さんをリスペクトするっていうのは?」

幸せ之助「野良猫さんをリスペクトするってこと。」

ハニ丸「だから説明になってません。」

幸せ之助「そのうち分かる。」

ハニ丸「そのうちばっかりじゃないですか!」

幸せ之助「人生には、そのうち分かることがたくさんあるのです。」

リナ「まるちゃん、それっぽいこと言ってるけど説明してないよ。」

幸せ之助「ニャハ♪」

本当にこの人に付いていって大丈夫なのだろうか。

いや、もうお弟子さんになってしまった。
たぶん大丈夫。
きっと大丈夫。
大丈夫だと思いたい。

幸せ之助「あとね、ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「これからいろいろ覚えることはあるけど、最初から特別なことをしようとしなくていいからね。」

ハニ丸「特別なこと?」

幸せ之助「そう。商売を始める時って、みんな何か凄いことをしようとするの。珍しいメニューとか。派手な宣伝とか。他のお店にはない特別な何かとか。」

ハニ丸「……。」

正直、少し心当たりがあった。
自分のお店を持てるかもしれない。
そう思っただけで、頭の中にはいろんなアイデアが浮かんでいた。

幸せ之助「でもね。最初の1年で大事なのは、凄いことをすることじゃない。」

ハニ丸「じゃあ、何をするんですか?」

幸せ之助「当たり前のこと。」

ハニ丸「当たり前のこと?」

幸せ之助「うん。当たり前のことを、当たり前じゃないくらい一生懸命やる。」

その言葉だけは、不思議とすっと胸に入ってきた。

幸せ之助「それができないまま特別なことをしようとしても、だいたい上手くいかない。」

リナ「お店を始めたばかりの頃って、自分が思っている以上に余裕が無いからね。だから最初は、やることをシンプルにした方がいいの。」

幸せ之助「そう。心に余裕が無いと、猫の神様の声も聞こえないからね。」

ハニ丸「また猫の神様……。」

幸せ之助「大事なの。」

ハニ丸「分かりました。」

分かったと言ったけれど、正直まだほとんど分かっていなかった。

猫の神様。
野良猫さん。
当たり前のこと。
その全部が、どう商売に繋がるのか。
今のボクにはさっぱりだった。

でも、幸せ之助さんとリナさんが大切なことを教えようとしてくれている。
それだけは分かった。

ハニ丸「師匠。」

幸せ之助「なんだい?ボクの可愛い可愛いお弟子ちゃん♪」

ハニ丸「急にメッチャ受け入れましたね。」

幸せ之助「で、なに?」

ハニ丸「ボク、ちゃんとやります。」

幸せ之助「あったりまえじゃあ、ポケッ!あっ、間違えてポケって言っちゃった!ボケね、ボケ。」

怒った感じで可愛くなっちゃった、痛恨のミス。

ハニ丸「ボケ、了解です。猫の神様のことも、野良猫さんのことも、今はよく分からないですけど。とりあえず、ちゃんと聞いて、ちゃんと見て、ちゃんと学びます。」

幸せ之助さんはニコッと笑った。

幸せ之助「よろしい。」

リナ「良かったね、まるちゃん。」

幸せ之助「うん♪じゃあ明日、ハニ丸くんの相棒に会いに行こう。」

ハニ丸「相棒?」

幸せ之助「そう。ハニ丸くんのお店になるキッチンカー。」

ハニ丸「えっ!?」

幸せ之助「ボクのお気に入りの子を貸してあげる。」

ハニ丸「本当ですか!?」

幸せ之助「本当。名前は、ニャン丸くん。」

ハニ丸「ニャン丸くん?」

幸せ之助「うん!とってもかわいいよ♪」

幸せ之助さんは、今にも飛び跳ねそうなくらい嬉しそうに笑っていた。

その笑顔を見た瞬間。
ボクの胸の奥が、また少しワクワクし始めた。

猫の神様。
野良猫さん。
ニャン丸くん。
分からないことだらけだけど。

どうやらボクの新しい人生は、思っていたよりずっと不思議で、ずっと賑やかなものになりそうだった。

② ニャン丸くん登場

翌日。
ボクは幸せ之助さん、リナさん、マスターと一緒に車に乗っていた。向かう先は、幸せ之助さんのキッチンカーが置いてあるという第2駐車場だ。

ハニ丸「ところで、マスター。本当に大丈夫なんですか?」

マスター「ん?何を心配してくれてるんですか?」

ハニ丸「ボクがお店を始めることです。」

ボクは少し気になっていた。
もしキッチンカーを始めるなら、このカフェを辞めることになる。マスターに迷惑をかけてしまうんじゃないかと思ったのだ。

マスター「実は、半年くらいで娘が大学を卒業して帰ってくる予定なんで、まぁ大丈夫です。」

ハニ丸「あ。娘さん帰ってくるんですね。高校生の頃、お店を手伝ってましたもんね。」

マスター「ええ。だから問題ありません。」

リナ「それより、」

リナさんが話に加わった。

リナ「昼間はキッチンカー。夜はカフェでバイトさせてもらえばいいじゃない。閉店作業と翌日の仕込みだけとか。始めてしばらくは売上げも出るかわからないし。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「そうそう。キッチンカーの仕込みもやらせてもらったら?」

マスター「正直、閉店作業と翌日の仕込みをハニ丸くんに押し付けれなくなっちゃうのは悩みでしたので助かります。21時以降はドラマとか好きな番組たくさんあるので。」

ハニ丸「テレビ見たくて押し付けてたんですか?まぁ、ボクも助かります。」

幸せ之助「仕込み場所代も浮くし最高じゃん!」

リナ「一石二鳥。」

ハニ丸「しかしマスター、本当に正直ですね。」

マスター「はい!」

そんな話をしているうちに、第2駐車場へ到着した。幸せ之助さんは車を降りるなり嬉しそうに歩き出した。その先には、大きなシートが掛けられた何かが置いてある。

幸せ之助「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「これが君の相棒だ。」

ハニ丸「相棒?」

幸せ之助「心して見るように。」

嫌な予感がした。ものすごく嫌な予感がした。幸せ之助さんはニヤニヤしながらシートを掴んだ。

そして――
バサッ!!勢いよくシートを引き剥がした。
その瞬間。ボクは言葉を失った。
そこにあったのは、猫好きが予算と情熱を投入して完成した猫型キッチンカーだった。

ハニ丸「……。」

マスター「……。」

幸せ之助「どう?」

ハニ丸「猫ですね。」

マスター「はい、猫ちゃんですね。」

幸せ之助「えっ。」

目は猫。耳も猫。ヒゲまで付いている。車体の前面には、満足そうな猫の顔が描かれたキッチンカーだった。

幸せ之助「ニャン丸く〜ん♪」

幸せ之助さんは嬉しそうにスリスリスリスリしている。

ハニ丸「キッチンカーですよね!?」

幸せ之助「ニャン丸くんだよ。」

ハニ丸「いや、キッチンカーですよね!?」

幸せ之助「ニャン丸くん♪」

ハニ丸「会話になってない!」

リナ「ふふふ。」

幸せ之助「ニャン丸く〜ん♪」

幸せ之助さんは愛猫と再会したみたいに、ニャン丸くんを撫で続けていた。

幸せ之助「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「この子の名前はニャン丸くん。そして。」

幸せ之助さんは誇らしげに胸を張った。

幸せ之助「君のお店の名前は――」

ん?お店の名前?

幸せ之助「野良猫のクレープ!」

ハニ丸「野良猫のクレープ?」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助「いい名前でしょ?」

猫の神様。
野良猫さん。
ニャン丸くん。
昨日から猫ばっかりだ。

でも――
なぜだろう。
少しだけ。
本当に少しだけ。

面白そうだと思っている自分がいた。

ボクはもう一度ニャン丸くんを見た。
やっぱり猫だった。どう見ても猫だった。

でも不思議と。
少しだけワクワクしている自分がいた。

③ 猫の神様、現る

幸せ之助さんはニャン丸くんの運転席へ向かった。そして何やらゴソゴソと探し始める。

幸せ之助「あったあった♪」

そう言って取り出したのは、小さな招き猫の置き物だった。

ハニ丸「招き猫ですか?」

幸せ之助「違うよ。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「猫の神様。」

ハニ丸「いやいや。」

どう見ても招き猫だった。

幸せ之助「はい。」

幸せ之助さんは、その招き猫をボクに差し出した。

幸せ之助「今日からハニ丸くんの相棒。」

ハニ丸「ニャン丸くんがいるじゃないですか。」

幸せ之助「ニャン丸くんは移動担当。」

ハニ丸「担当制なんですか。」

幸せ之助「こっちは人生担当。」

ハニ丸「急に重い。」

リナ「ふふふ。」

マスター「役割分担がしっかりしていますね。」

ハニ丸「そこ感心するところですか?」

ボクは半ば呆れながら、その招き猫を受け取った。手のひらに乗るくらいの大きさで、少し古びている。

でも普通の招き猫と違うのは――
なぜか表情が妙にドヤ顔だった。
まるで、『ふふん。』とでも言いたそうな顔をしている。

ハニ丸「どう見ても置き物ですよね?」

幸せ之助「違う。」

ハニ丸「招き猫ですよね?」

幸せ之助「猫の神様。」

ハニ丸「同じ会話を繰り返さないでください。」

幸せ之助「大事なことだから。」

リナ「まるちゃん、本気で言ってるから諦めた方がいいよ。」

ハニ丸「本気なんですか?」

リナ「本気。」

ハニ丸「余計に困るんですけど。」

マスター「私はもう慣れました。」

ハニ丸「慣れない方がいい気がします。」

幸せ之助さんは満足そうにうなずいた。

幸せ之助「困った時は相談するといいよ。」

ハニ丸「猫に?」

幸せ之助「猫の神様に。」

ハニ丸「いや、しゃべらないでしょ。」

幸せ之助「しゃべるよ。」

ハニ丸「しゃべりません。」

幸せ之助「しゃべる。」

ハニ丸「しゃべりません。」

リナ「仲良しだね。」

マスター「仲良しですね。」

ハニ丸「どこがですか。」

幸せ之助さんはニヤニヤしていた。

その時だった。
カラン――
どこからともなく、小さな音が聞こえた気がした。

ハニ丸「ん?」

ボクは辺りを見回した。でも誰も反応していない。風で何かが揺れただけだろうか。もう一度、手の中の猫を見る。やっぱりただの置き物にしか見えない。

でも――
なぜだろう。

ほんの少しだけ。そのドヤ顔が、
『だから猫の神様だって言ってるじゃん。』
と笑ったように見えた。

もちろん、気のせいだと思う。
たぶん。
きっと。
絶対に。

……たぶん。

④ 1年目にやること

幸せ之助さんは満足そうにうなずくと、猫の神様をボクの手のひらから取り上げた。そして、ニャン丸くんのダッシュボードの上へちょこんと置く。

幸せ之助「よし。」

ハニ丸「何がよしなんですか。」

幸せ之助「これで猫の神様の着任完了。」

ハニ丸「着任って。」

幸せ之助「猫の神様も忙しいんだよ。」

ハニ丸「絶対暇だと思います。」

マスター「たしかに。」

幸せ之助「失礼な。」

幸せ之助さんは猫の神様に向かって手を合わせた。そして急に真面目な顔になる。

幸せ之助「それじゃあ、そろそろ本題ね。」

ハニ丸「本題。」

幸せ之助「ハニ丸くん。最初の1年でやることを教えます。」

ボクは思わず姿勢を正した。ようやく修行らしい話が始まるらしい。

幸せ之助「まずはこれ。」

幸せ之助さんは指を1本立てた。

幸せ之助「笑顔と挨拶。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「次。」

幸せ之助さんは2本目の指を立てた。

幸せ之助「綺麗で片付いた状態を維持すること。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「次。」

3本目。

幸せ之助「営業時間を守ること。」

4本目。

幸せ之助「SNSにポジティブな投稿をすること。」

5本目。

幸せ之助「心を込めて『ありがとうございます』を伝えること。」

6本目。

幸せ之助「お客様の顔を覚えること。」

ハニ丸「……。」

ボクは少し考えた。そして素直な感想を口にした。

ハニ丸「思ったより普通ですね。」

リナ「ふふっ。」

マスター「私も最初に聞いたらそう思います。」

幸せ之助「そうでしょ。」

ハニ丸「もっとこう……。」

幸せ之助「もっとこう?」

ハニ丸「商売の秘伝とか。」

幸せ之助「ない。」

ハニ丸「伝説の集客術とか。」

幸せ之助「ない。」

ハニ丸「成功者だけが知る裏ワザとか。」

幸せ之助「ない。」

ハニ丸「ないんですか。」

幸せ之助「ない。」

即答だった。

ハニ丸「夢がない。」

幸せ之助「夢はある。」

ハニ丸「どっちなんですか。」

幸せ之助「夢はあるけど裏ワザはない。」

リナ「それは私もそう思う。」

幸せ之助「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「商売ってね、当たり前のことを、当たり前じゃないくらい一生懸命やるのが大事なの。」

ハニ丸「当たり前のことを、一生懸命。」

幸せ之助「そう。だから、まずはこの6つを覚えておけば大丈夫。」

幸せ之助さんはニコッと笑った。

ハニ丸「それだけでいいんですか?」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「なんだか簡単そうですね。」

幸せ之助「ニャハハ♪」

幸せ之助さんは楽しそうに笑った。

幸せ之助「そのセリフを言う人はね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「だいたい後で泣く。」

ハニ丸「えっ。」

リナ「だいたい泣くね。」

マスター「だいたい泣きます。」

ハニ丸「そんなにですか?」

幸せ之助「そんなに。」

ボクは少しだけ不安になった。

でもその時のボクはまだ知らなかった。
この6つの“当たり前”が、
思っていたよりずっと奥深いものだったことを。

⑤ 当たり前を続けられる人

ハニ丸「でも、本当にこれだけでいいんですか?」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「なんかもっと凄いことをやるのかと思ってました。」

幸せ之助「みんなそう思うんだよね。」

幸せ之助さんは笑いながらニャン丸くんをポンポンと叩いた。

幸せ之助「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「商売ってね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「当たり前のことを、当たり前じゃないくらい一生懸命やる人が、最後は強いの。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助さんは少しだけ空を見上げた。

幸せ之助「でもね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「その当たり前を何年も続けられる人は、実はそんなに多くないんだ。」

風が吹いた。
駐車場の隅で、小さな枯れ葉がコロコロと転がっていく。

幸せ之助「だから最初の1年は、特別なことなんてしなくていい。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「まずは基本。」

幸せ之助「当たり前を一生懸命やる。」

幸せ之助「それができるようになったら、その先はいくらでも広がるから。」

その言葉は、不思議なくらい真っ直ぐ胸に入ってきた。

猫の神様のことは、まだ分からない。
野良猫さんのことも、まだ分からない。

でも――
当たり前のことを大切にする。
それだけは、今のボクにも分かる気がした。

幸せ之助「よし!」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「じゃあ次は初出店の準備だね♪」

ハニ丸「えっ、もうですか!?」

幸せ之助「もうです。」

ハニ丸「心の準備が!」

幸せ之助「大丈夫大丈夫♪」

ハニ丸「絶対大丈夫じゃない!」

リナ「ふふふ。」

マスター「頑張ってください。」

こうしてボクの修行は、本格的に始まることになった。

⑥ ハニ丸くんのノート

その日の夜。
ボクは家に帰ると、1冊のノートを開いた。今日教わったことを忘れないうちに書いておこうと思ったのだ。

タイトルを書いた。
『お弟子さんノート』
そして、その下に今日学んだことを並べていく。



① 猫の神様の言うことを聞く

※まだよく分からない。



② 野良猫さんをリスペクトする

※これもまだよく分からない。



③ 最初の1年は基本を大切にする



④ 当たり前のことを一生懸命やる

・笑顔と挨拶

・綺麗で片付いた状態を保つ

・営業時間を守る

・SNSにポジティブな投稿をする

・心を込めて「ありがとうございます」を伝える

・お客様の顔を覚える



ボクはペンを置いた。

ハニ丸「うーん……。」

改めて見ると、やっぱり普通だった。

商売の裏ワザも無い。
秘密の成功法則も無い。
伝説の集客術も無い。
あるのは当たり前のことばかりだ。

でも――
幸せ之助さんも、リナさんも、マスターも、なぜかみんな同じことを言っていた。

『当たり前が一番難しい。』

ボクはノートを閉じた。
正直、まだ半信半疑だ。
でも今は、それでいい気がした。

どうせ明日から始まるのだ。
ニャン丸くんとの新しい生活が。

そして――
猫の神様と一緒の、不思議な修行が。

机の上を見る。そこには昼間もらった猫の神様が置かれていた。相変わらずドヤ顔だった。

ハニ丸「だから、ただの置き物ですよね?」

もちろん返事はない。
……ないはずだった。

カラン。

どこからともなく、小さな音がした気がした。

ハニ丸「ん?」

気のせいだろうか。ボクが首を傾げると、猫の神様は相変わらずのドヤ顔でこちらを見ていた。
まるで、『そのうち分かる。』と言いたげに。


第3章 野良猫のクレープ、開店準備!

① クレープ修行開始

翌朝。

ボクは少し早めにカフェへ向かった。今日からいよいよクレープ修行が始まる。

昨日までは何となくワクワクしていたけれど、朝になってみると少しだけ緊張していた。本当にボクなんかにできるのだろうか。そんなことを考えながら店のドアを開ける。

ハニ丸「おはようございます。」

幸せ之助「おはよ〜♪」

リナ「おはよう。」

マスター「正直、眠いです。」

ハニ丸「毎日言ってません?」

マスター「毎日眠いので。」

ハニ丸「なるほど。」

幸せ之助「なるほどじゃないよ。」

幸せ之助さんはニャハハと笑った。
そして、なぜか急に真面目な顔になる。

幸せ之助「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「もし明日、マスターがハニ丸くんのパンツ洗ってくれたら、ありがとうって言う?」

ハニ丸「え?」

朝イチで何の話だろう。

ハニ丸「言いますよ。」

幸せ之助「なんで?」

ハニ丸「なんでって……。だってパンツ洗ってくれたんですよ?言わないでいる方が無理ですよ。」

幸せ之助「うんうん。」

ハニ丸「ありがとうございますって言います。」

幸せ之助「だよね。」

幸せ之助さんは満足そうにうなずいた。

幸せ之助「じゃあさ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「子どもの頃、お母さんが洗濯してくれてた時は?」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「毎回ありがとう言ってた?」

ハニ丸「いや……。」

少し考える。言っていなかった。
たぶんほとんど言っていない。

ハニ丸「言ってなかったかも。」

幸せ之助「不思議だよね。」

ハニ丸「たしかに。」

幸せ之助「やってることは同じなのに。」

リナ「毎日あると当たり前になっちゃうんだよね。」

幸せ之助「そう。人はね。当たり前になると感謝を忘れるの。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「でもね。商売も同じなんだよ。」

ハニ丸「商売も?」

幸せ之助「うん。お客さんが来てくれること。挨拶してくれること。SNSを見てくれること。また来てくれること。全部当たり前じゃない。」

ボクは昨日教わった6つの基本を思い出した。
笑顔。挨拶。ありがとうございます。どれも当たり前に聞こえる。でも、その当たり前が本当は当たり前じゃない。そういうことなのかもしれない。

幸せ之助「だから最初の1年はね。当たり前を大切にする練習期間。」

ハニ丸「練習期間。」

幸せ之助「そう。商売の神様ってね。実は当たり前の中にいるんだよ。」

ハニ丸「また神様ですか。」

幸せ之助「猫の神様もいるよ。」

ハニ丸「そっちはまだ信じてません。」

リナ「ふふふ。」

幸せ之助「まあ、そのうち分かる。」

ハニ丸「またそのうち。」

幸せ之助「人生はそのうちの連続だからね。」

ハニ丸「便利な言葉ですね。」

幸せ之助「便利だよ。」

まったく反省していない顔だった。

ハニ丸「なるほど。当たり前に思ってることほど、実は当たり前じゃないんですね。」

幸せ之助「そういうこと♪」

リナ「いい話だったね。」

ハニ丸「ですね。」

マスター「ただひとつだけ言わせてください!」

ハニ丸「は、はい?」

マスター「私がハニ丸くんのパンツを洗うことは、まずありません!」

ハニ丸「まだ言ってたんですか!?」

幸せ之助「ニャハハハハ!」

リナ「ふふふ。」

朝のカフェに笑い声が響いた。

そして――

幸せ之助「よし。」

幸せ之助さんは両手をパンッと叩いた。

幸せ之助「じゃあクレープ修行始めるよ♪今日から1週間でクレープ作れるようになってね♪」

ハニ丸「……はい?」

幸せ之助「1週間♪」

ハニ丸「1週間!?」

まだ知らなかった。

このあと待っているのが、想像以上に過酷なクレープ修行だということを。

② 地獄の特訓

軽いミーティングの後、ボクはニャン丸くんの前に立っていた。いよいよクレープ修行だ。幸せ之助さんは腕を組みながらニヤニヤしている。

幸せ之助「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい!」

幸せ之助「これから地獄の特訓が始まる。」

ハニ丸「地獄……。」

幸せ之助「覚悟はいいかい?へなちょこくん♪」

ハニ丸「誰がへなちょこですか!」

幸せ之助「ニャハハハ!」

リナ「頑張ってね。」

マスター「正直、無事を祈っています。」

ハニ丸「そんなにですか。」

幸せ之助「フッフッフッ。」

すると、幸せ之助さんは鉄板の前を指差した。

幸せ之助「じゃあまず焼いてみよう。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「見よう見まねで。」

ハニ丸「説明なしで?」

幸せ之助「うん♪」

ハニ丸「地獄ですね。」

幸せ之助「まだ地獄の入り口だ!なんたって今日のボクは、スパルタ鬼コーチだからなっ!」

幸せ之助さんはケラケラ笑っていた。

ボクは恐る恐る生地を流した。
そしてトンボを持つ。
なんとなく見たことはある。
たぶんこうだ。
たぶん。

グチャッ。

ハニ丸「……。」

ビリッ。

ハニ丸「……。」

グチャグチャ。

ハニ丸「……。」

幸せ之助「ニャハハハハハ!」

ハニ丸「笑い事じゃないです!」

リナ「すごい形になったね。」

マスター「正直、芸術的です。」

ハニ丸「フォローになってません。」

幸せ之助「うん。じゃあ午前中はトンボだけ。」

ハニ丸「トンボだけ?」

幸せ之助「トンボだけ。」

ハニ丸「焼かないんですか?」

幸せ之助「焼かない。」

ハニ丸「クレープ作らないんですか?」

幸せ之助「作らない。」

ハニ丸「何するんですか?」

幸せ之助「ひたすらクルクル。」

ハニ丸「クルクル。」

幸せ之助さんはテーブルの上にトンボを置いた。

幸せ之助「まず力を入れない。」

クルッ。

幸せ之助「押さない。」

クルッ。

幸せ之助「流す感じ。」

クルッ。

ハニ丸「なるほど。」

幸せ之助「じゃあやってみて。」

クルッ。

ガクッ。

クルッ。

ガクッ。

クルッ。

ガクッ。

幸せ之助「違う違う。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「今ちょっと押した。」

ハニ丸「分かりません。」

幸せ之助「分からなくていい。」

ハニ丸「いいんですか。」

幸せ之助「とりあえず真似する。」

それから午前中いっぱい。

クルクル〜。
クルクル〜。
クルクル〜。

幸せ之助「そうそう。今のちょっと良かった。」

ひたすら同じ動きを繰り返した。

リナ「頑張るねぇ。」

マスター「正直、根性ありますね。」

幸せ之助「いいねぇ♪」

気が付けば昼になっていた。
みんなで簡単に昼ご飯を食べる。



そして午後。
再び鉄板の前に立った。

幸せ之助「じゃあ焼いてみる?」

ハニ丸「はい!」

ジュワァァァ。

クルッ。

クルッ。

クルッ。

ハニ丸「あっ!」

朝とは違った。
まだいびつな形。
でもなんとなく丸い。

リナ「おぉ。」

マスター「朝より全然いいですね。」

幸せ之助「クレープになってる♪」

その瞬間だった。
ボクの中で何かに火が付いた。

ハニ丸「もう1回やります!」

午後の練習が始まった。

クルクル〜

クルクル〜

クルクル〜

ハニ丸「師匠!」

幸せ之助「はいはい。」

ハニ丸「今どうでした!?」

クルクル〜

ハニ丸「師匠!」

幸せ之助「うんうん。」

ハニ丸「今どうでした!?」

クルクル〜

ハニ丸「師匠!」

幸せ之助「また!?」

リナ「ふふふ。」

最初は楽しそうだった幸せ之助さんも、
だんだん疲れ始めていた。



15時。

リナ「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい?」

リナ「よく頑張るねぇ。」

ハニ丸「ありがとうございます!」

リナ「そろそろ1回休憩したら?」

ハニ丸「あ、ボクは大丈夫です!」

リナ「大丈夫?」

ハニ丸「疲れたら休みます!今ちょっと何か掴みかけてる気がするので!」

リナ「そっかぁ。」



さらに数時間後。

幸せ之助「ねぇねぇ。」

ハニ丸「はい!」

幸せ之助「ちょっと休もうよぉ。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「もうお外暗くなってきちゃったよぉ。」

ボクは時計を見た。
18時12分。

ハニ丸「わっ!もうこんな時間だったんですね!」

幸せ之助「そうだよぉ。ボクもう疲れたよぉ。」

ハニ丸「じゃあ。」

ハニ丸「休憩する前にもう1回だけ焼いていいですか?」

幸せ之助「え?」

ジュワァァァ。

クルッ。

クルッ。

クルッ。

ハニ丸「あぁぁぁ!」

惜しい。

かなり惜しい。

あと少しだった。

ハニ丸「もう1回!」

ジュワァァァ。

ハニ丸「もう1回!」

ジュワァァァ。

ハニ丸「もう少しなんだよなぁ!」

ジュワァァァ。

幸せ之助「……。」

ハニ丸「もう1回!」

幸せ之助「……。」

ハニ丸「もう1回!」

幸せ之助「ねぇねぇ。」

ハニ丸「はい?」

幸せ之助「もしかしてハニ丸くんって。」

ハニ丸「はい?」

幸せ之助「失敗をあんまり怖がらないタイプ?」

ボクは少し考えた。

ハニ丸「どうなんでしょう。でも失敗したら、次どうしたらいいか分かるじゃないですか。」

幸せ之助「……。」

ハニ丸「だから失敗はそんなに嫌いじゃないです。」

幸せ之助「地獄だ……。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「地獄の特訓だぁ……。」

ハニ丸「言い出したの幸せ之助さんですよね?」

幸せ之助「鬼!」

ハニ丸「誰がですか!」

幸せ之助「悪魔!」

ハニ丸「だから誰がですか!」

幸せ之助「きさまの血は何色だぁ!」

ハニ丸「赤です!」

リナ「ふふふ。」

マスター「正直、どちらが師匠か分からなくなってきました。」

どうやら地獄の特訓で先に音を上げたのは、
ボクではなく幸せ之助さんの方だったらしい。

③ クレープ職人への第一歩

翌日も、その翌日も、ボクの地獄の特訓は続いた。

いや――
正確には、幸せ之助さんにとっての地獄の特訓だったのかもしれない。



2日目。

ジュワァァァ。

クルッ。

クルッ。

クルッ。

ハニ丸「あっ!」

昨日より丸い。まだいびつだけど、ちゃんとクレープっぽい。

幸せ之助「おぉ〜♪」

リナ「進歩したねぇ。」

マスター「正直、昨日とは別人です。」



3日目。

巻く練習が始まった。

ビリッ。

ハニ丸「あっ。」

ボトッ。

ハニ丸「あっ。」

グチャッ。

ハニ丸「あっ。」

幸せ之助「ニャハハハハ!」

ハニ丸「笑い事じゃないです!」



4日目。

少しずつ。本当に少しずつ。クレープらしい形になっていった。

リナ「お客さんに出しても怒られないレベルにはなってきたね。」

ハニ丸「本当ですか!?」

リナ「うん。」

マスター「優しいお客さん限定ですが。」

ハニ丸「限定付きなんですか。」



そして――

5日目。

ジュワァァァ。

クルッ。

クルッ。

クルッ。

トン。

ハニ丸「……。」

目の前に、ちゃんとしたクレープがあった。

ハニ丸「できた。」

リナ「おぉ〜。」

マスター「正直、感動しました。」

幸せ之助さんもクレープを見つめている。

幸せ之助「ねぇねぇ。」

ハニ丸「はい?」

幸せ之助「この前聞いたよね。」

ハニ丸「何をですか?」

幸せ之助「失敗を怖がらないタイプかって。」

そういえば聞かれた。
初日の夜。幸せ之助さんが地獄だと騒ぎ始めた時だ。

ハニ丸「ああ。聞かれましたね。」

幸せ之助さんは完成したクレープを指差した。

幸せ之助「ボクね。何かができるようになるかどうかって。才能より先に、別のことだと思ってる。」

ハニ丸「別のこと?」

幸せ之助「できるようになるまで続けるかどうか。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「スポーツも。勉強も。仕事も。だいたい同じ。」

幸せ之助さんは笑った。

幸せ之助「できないうちはさ。失敗なんて気にしなくていいんだよ。いっぱい失敗した人の方が強い。」

ハニ丸「強い?」

幸せ之助「うん。いっぱい挑戦した証拠だから。」

ボクは黙って聞いていた。

幸せ之助「才能がある人が勝つんじゃなくて。できるまでやった人が勝つことの方が多いよ。」



その言葉は、なぜか胸の奥に残った。

高校を辞めた時。
ボクはずっと思っていた。

自分には何も無いんじゃないか。
人より劣っているんじゃないか。

でも。
5日前、まともなクレープなんて1枚も作れなかった。

昨日より今日。
今日より明日。
少しずつできるようになっている。

それは才能じゃない。
ただ、繰り返した結果だった。



幸せ之助「だからね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「できないことを練習してる時は。」

幸せ之助さんはニコッと笑った。

幸せ之助「失敗したもん勝ち。」

ハニ丸「失敗したもん勝ち。」

幸せ之助「そう。」

リナ「良い言葉だね。」

マスター「正直、名言ですね。」

幸せ之助「ニャハハ♪」

そして幸せ之助さんは、突然パンッと手を叩いた。

幸せ之助「よし!」

ハニ丸「はい?」

幸せ之助「じゃあ次はメニューだ!」

ハニ丸「ついに!」

どうやら、ボクの修行はまだまだ終わらないらしい。

④ 個性探しはまだ早い

クレープ修行が始まって1週間。
ボクはようやく、1人でクレープを作れるようになっていた。

もちろん完璧じゃない。でも少なくとも、それっぽくはなってきた。

幸せ之助「よし。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「じゃあ次はメニューを決めよう。」

ついに来た。お店作りだ。
幸せ之助さんは1枚の紙を取り出した。

ハニ丸「何ですか?」

幸せ之助「メニュー。」

ボクは紙を覗き込んだ。

・チョコ
・バナナ
・バナナチョコ
・キャラメル
・イチゴ
・イチゴチョコ
・ツナマヨ
・ハムチーズ

ハニ丸「……。」

幸せ之助「どう?」

ハニ丸「少なくないですか?」

幸せ之助「少ない?」

ハニ丸「少ないです。」

幸せ之助「そう?」

ハニ丸「そうです!」

ボクは思わず言った。

ハニ丸「もっとこう……。」

幸せ之助「もっとこう?」

ハニ丸「特別なメニューとか。」

幸せ之助「例えば?」

ハニ丸「ローストビーフとか。」

幸せ之助「いらない。」

ハニ丸「即答っすね。」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「自家製カスタードとか。」

幸せ之助「いらない。」

ハニ丸「りんごをじっくり煮込んだり。」

幸せ之助「いらない。」

ハニ丸「聞く気あります?」

リナ「ふふふ。」

幸せ之助さんは楽しそうに笑った。

幸せ之助「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「この前言ったよね。」

ハニ丸「最初の1年は基本。」

幸せ之助「そう。」

幸せ之助さんは大きくうなずいた。

幸せ之助「とくにさぁ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「ハニ丸くんみたいなタイプって、始め張り切りすぎていろいろ一気に始めようとしちゃって空回りして余裕なくす。」

ハニ丸「ああ、そうなんですよねぇ。」

ボクは苦笑いした。

ハニ丸「ボク、こう見えて単純だから突っ走っちゃうんですよねぇ。」

幸せ之助「うんうん。」

幸せ之助さんは何度もうなずいた。

幸せ之助「心配はいらないよ。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「単純で突っ走るタイプにしか見えないから。」

ハニ丸「ひどい。」

幸せ之助「なにも驚かない。」

リナ「たしかに。」

マスター「正直、私もそう思います。」

ハニ丸「味方がいない。」

幸せ之助「ちなみに。すぐテンパるでしょ?」

ハニ丸「そうなんですよ、意外とこう見えてすぐテンパっちゃうんですよ。」

幸せ之助「でしょうね。そんなふうにしか見えてないよ。安心して。」

ハニ丸「いや、安心できない。」

みんなが笑った。
幸せ之助さんは少しだけ真面目な顔になる。

幸せ之助「でもね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「だからこそ最初はシンプルがいいんだよ。」

幸せ之助さんはメニュー表を指差した。

幸せ之助「やることを増やしすぎると、人って余裕がなくなる。」

ハニ丸「余裕。」

幸せ之助「そう。余裕がなくなるとね。周りが見えなくなる。失敗も増える。焦る。また失敗する。」

ハニ丸「うわぁ……。」

ものすごく想像できた。たぶんボクはそうなる。かなり高い確率で。

幸せ之助「だから最初は余白を残しておくの。」

ハニ丸「余白。」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんはニコッと笑った。

幸せ之助「余白があると、人はうまくいくんだよ。」

ハニ丸「そういうものですか?」

幸せ之助「そういうもの。まぁ、その話はまた今度。」

ハニ丸「また今度なんですね。」

リナ「始まると長いからね。」

マスター「正直、2時間コースです。」

幸せ之助「ニャハハ♪」

そして幸せ之助さんは、ニャン丸くんを指差した。

幸せ之助「それにさ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「勝負できる特徴なら、もう持ってるじゃん。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「ニャン丸くん。」

ハニ丸「……。」

リナ「十分目立つよね。」

マスター「正直、一度見たら忘れません。」

ハニ丸「それは否定できません。」

幸せ之助「お店の名前も。」

ハニ丸「野良猫のクレープ。」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんは満足そうにうなずいた。

幸せ之助「だから最初は、それで十分。」

ハニ丸「十分?」

幸せ之助「うん。目立つための要素は、もうある。でもね。」

少しだけ幸せ之助さんの表情が柔らかくなった。

幸せ之助「本当に大事なのは、そのあと。」

ハニ丸「そのあと?」

幸せ之助「ハニ丸くんの内側にあるもの。」

ハニ丸「内側。」

幸せ之助「そう。優しさとか。一生懸命さとか。人を大事にする気持ちとか。そういうものを磨いて、ちゃんと輝かせることができたら。それが個性になる。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「まぁ。」

幸せ之助さんはニヤッと笑った。

幸せ之助「この話も、そのうちね。」

ハニ丸「またそのうちですか。」

リナ「出た。」

マスター「出ましたね。」

幸せ之助「人生は、そのうち分かることだらけなのです。」

ハニ丸「便利な言葉ですね。」

⑤ 開店日決定

幸せ之助「よし、開店日決めようか。」

ハニ丸「開店日?」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんはスマホを取り出した。
何やらカレンダーを開いている。

ハニ丸「え、ちょっと待ってください。」

幸せ之助「ん?」

ハニ丸「まだ早くないですか?」

幸せ之助「何が?」

ハニ丸「まだクレープも完璧じゃないですし!」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「メニューも決まってないですし!」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「個性もまだですし!」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「うんじゃないですよ!」

幸せ之助さんはニヤニヤしていた。
絶対楽しんでいる。

幸せ之助「じゃあ質問。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「いつなら自信持てる?」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「1か月後?」

ハニ丸「たぶん。」

幸せ之助「3か月後?」

ハニ丸「もっと自信あります。」

幸せ之助「半年後?」

ハニ丸「かなりあります。」

幸せ之助「1年後?」

ハニ丸「めちゃくちゃあります。」

幸せ之助「じゃあ1年後でも同じこと言うよ。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「まだ不安ですって。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「だって初めてだもん。」

その言葉に少しだけ黙った。
確かにそうだ。初めてなんだから不安が無くなる日は来ないのかもしれない。

幸せ之助「だからね。ある程度できたら始める。走りながら覚える。それでいいの。」

リナ「私たちもそうだったしね。」

マスター「正直、最初から完璧な人なんて見たことありません。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助さんはカレンダーを見ながら言った。

幸せ之助「よし。1か月後。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「オープン。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「野良猫のクレープ。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「開店で〜す♪」

ハニ丸「ええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」

リナ「出た。」

マスター「良い悲鳴ですね。」

ハニ丸「1か月ですか!?」

幸せ之助「1か月。」

ハニ丸「早いです!」

幸せ之助「大丈夫。」

ハニ丸「何を根拠に!?」

幸せ之助「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい!」

幸せ之助「どうせ今日も帰ったらクレープの練習するでしょ?」

ハニ丸「します。」

幸せ之助「明日も?」

ハニ丸「します。」

幸せ之助「明後日も?」

ハニ丸「します。」

幸せ之助「だから大丈夫。」

ハニ丸「根拠が雑!」

幸せ之助「ニャハハハ!」

⑥ 猫の神様のドヤ顔

その日の夜。
ボクは自宅のアパートに戻っていた。

ハニ丸「ふぅ……。」

今週は本当に濃い1週間だった。
クレープ修行。
地獄の特訓。
開店日決定。
そして――
ニャン丸くん。

ハニ丸「1か月後かぁ……。」

まだ実感が湧かない。
でも、不思議と少し楽しみだった。

ハニ丸「野良猫のクレープか……。」

ボクは小さく笑った。
そして何気なく机の上を見た。
そこには幸せ之助さんから渡された招き猫――
いや。
猫の神様が置いてあった。

ハニ丸「……。」

ドヤ顔だった。相変わらず見事なドヤ顔だった。

ハニ丸「猫の神様ねぇ。」

ボクは猫の神様を持ち上げる。

ハニ丸「どう見ても置き物なんだけどなぁ。」

『ふふん。』

そんな顔をしている。

ハニ丸「しゃべるわけないし。」

『ふふん。』

ハニ丸「人生担当らしいし。」

『ふふん。』

ハニ丸「絶対ただの置き物だよな。」

カラン――

ハニ丸「……。」

ボクは固まった。

ハニ丸「え?」

部屋を見回す。
誰もいない。
窓も閉まっている。
風もない。

ハニ丸「……。」

もう一度猫の神様を見る。
相変わらずドヤ顔だった。

『ふふん。』

そう言っているように見える。

ハニ丸「いやいや。」

気のせいだ。
きっと気のせいだ。
疲れているだけだ。

ハニ丸「今日は寝よう。」

そう言って猫の神様を机の上へ戻した。

カラン♪

ハニ丸「……。」

ボクは聞こえなかったことにした。
その方が平和だと思った。

猫の神様は相変わらずドヤ顔だった。

そしてなぜか、

少しだけ勝ち誇っているように見えた。

⑦ ハニ丸くんのお弟子さんノート

今週はたくさん失敗した。

クレープ生地は破れたし、
焦げたし、
変な形にもなった。

でも――
失敗するたびに、
少しずつできることも増えていった。

だから今は、
「失敗しないこと」
よりも、

「できるようになるまで続けること」
の方が大事なんだと思う。



【今日学んだこと】

・できるようになるかどうかは、才能よりも「できるようになるまでやるかどうか」

・失敗は悪いことじゃない

・最初の1年は基本を大切にする

・個性探しはまだ早い

・余裕がなくなると大事なものが見えなくなる

・オープン日は突然決まる



【今日の気づき】

幸せ之助さんは、
「本当の個性は内側にある」
と言っていた。

優しさとか。
一生懸命さとか。
人を大切にする気持ちとか。

まだよく分からないけど、
いつか分かる日が来るのかもしれない。

……たぶん。



【追記】

猫の神様は、
やっぱり置き物だと思う。

たぶん。
きっと。
絶対に。
……たぶん。


第4章 オープン初日

① オープンの朝

いよいよ、その日がやってきた。
野良猫のクレープ、オープン初日。

まだ太陽も高くなりきっていない朝。
ボクはニャン丸くんの前に立っていた。

ハニ丸「……。」

なんだろう。緊張している。
でも、ワクワクもしている。

1ヶ月前までは、ただのカフェ店員だった。
それが今は――
自分のお店を持っている。

ハニ丸「本当に始まるんだなぁ。」

そうつぶやいた時だった。

幸せ之助「おはよ〜♪」

振り返ると、幸せ之助さんとリナさんが手を振りながら歩いてくる。

ハニ丸「おはようございます!」

リナ「おはよう。」

幸せ之助「どう?緊張してる?」

ハニ丸「してます。」

幸せ之助「いいねぇ。」

ハニ丸「いいんですか?」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんは笑った。

幸せ之助「初めてなんだから緊張して当たり前だもん。」

ハニ丸「たしかに。」

リナ「むしろ全然緊張してない方が心配かも。」

ハニ丸「それもたしかに。」

すると幸せ之助さんはニャン丸くんを見上げた。

幸せ之助「いやぁ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「今日もかわいいなぁ。」

ハニ丸「そこですか。」

幸せ之助「ニャン丸く〜ん♪」

スリスリ。

ハニ丸「朝から始まった。」

リナ「いつものこと。」

幸せ之助「今日からデビューだもんねぇ。」

ハニ丸「デビューするのはボクです。」

幸せ之助「ニャン丸くんも。」

ハニ丸「車です。」

幸せ之助「違う。」

ハニ丸「車です。」

幸せ之助「ニャン丸くん。」

ハニ丸「会話にならない。」

リナ「ふふふ。」

その時だった。

カラン♪

ハニ丸「ん?」

ボクは反射的に音のした方を見る。
ダッシュボードの上。
そこには猫の神様が座っていた。
いつも通りのドヤ顔で。

幸せ之助「おっ。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「猫の神様も気合い入ってるね。」

ハニ丸「絶対関係ないです。」

幸せ之助「ある。」

ハニ丸「ないです。」

幸せ之助「ある。」

ハニ丸「ないです。」

リナ「仲良しだね。」

ハニ丸「どこがですか。」

幸せ之助さんは満足そうにうなずいた。
そして。
少しだけ真面目な顔になる。

幸せ之助「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「いよいよ今日からだね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「でもね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「今日の売上げがどうとか。お客さんが何人来たとか。そういうのは今は気にしなくていい。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「今日はね。」

幸せ之助さんはニコッと笑った。

幸せ之助「ちゃんとオープンできたら100点。」

ハニ丸「100点。」

幸せ之助「うん。」

リナ「まずはスタートラインに立つこと。」

マスター「正直、それが一番大変ですからね。」

いつの間にかマスターも来ていた。

ハニ丸「マスター!」

マスター「おはようございます。」

幸せ之助「よし。」

幸せ之助さんはパンッと手を叩いた。

幸せ之助「それじゃあ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「野良猫のクレープ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「開店準備開始〜♪」

ボクは大きく深呼吸をした。
そして――
人生で初めて。
自分のお店のオープン準備を始めた。

② 初めてのお客様

午前10時。
野良猫のクレープは無事にオープンした。

ハニ丸「いらっしゃいませー!」

ボクは元気よく声を出した。
スーパーの入り口へ向かうお客様たちが目の前を通っていく。

ハニ丸「おはようございます!」

ペコリ。

ハニ丸「いらっしゃいませー!」

ペコリ。

ハニ丸「野良猫のクレープでーす!」

ペコリ。

―――――

誰も来ない。



10分後。

誰も来ない。



30分後。

誰も来ない。



1時間後。

やっぱり誰も来ない。



ハニ丸「……。」

ボクは笑顔を作った。
でも。

ハニ丸『あれ?』

思っていたのと違う。
オープンしたら少しくらい興味を持ってもらえると思っていた。

ニャン丸くんは目立つ。
お店の名前も目立つ。

だから何人かは来てくれると思っていた。
でも現実は違った。



ハニ丸「おはようございまーす!」

ペコリ。

通り過ぎる。



ハニ丸「いらっしゃいませー!」

ペコリ。

通り過ぎる。



ハニ丸「野良猫のクレープでーす!」

ペコリ。

通り過ぎる。



ハニ丸「……。」

だんだん声が小さくなっていく。
なんだろう。
少しだけ不安になってきた。

ハニ丸『これ、大丈夫かな?』

そんなことを考えていると。
1人のお客様が立ち止まった。

ハニ丸「!」

メニューを見ている。
ボクは慌てて笑顔を作った。

ハニ丸「こんにちは!」

お客様「あ、どうも。」

ハニ丸「クレープいかがですか?」

お客様「あ、えっと……。」

サササッ。

ハニ丸「……。」

去った。

ハニ丸『なんで!?ボク、何か変なこと言った!?』

思わず頭の中で自分にツッコミを入れた。
でも分からない。
何が正解なのかも分からない。


時計を見る。11時40分。
オープンしてからもうすぐ2時間。
売上はゼロ。

ハニ丸『まずいなぁ……。』

……。

ハニ丸『いや。』

……。

ハニ丸『大丈夫。』

……。

ハニ丸『今日はオープンできたら100点。』

師匠はそう言っていた。
最初は慣れること。
焦らなくていい。
そう教わったばかりだ。



ハニ丸「いらっしゃいませー!」

もう一度声を出した。

すると――
12時を少し過ぎた頃だった。
1人の女性がメニューを見上げた。
そして。

女性客「すみません。」

ハニ丸「はい!」

女性客「チョコバナナ、1つください。」

ハニ丸「……え?」

女性客「チョコバナナ1つ。」

ハニ丸「……。」

女性客「大丈夫ですか?」

ハニ丸「ありがとうございます!!」

思わず大きな声が出た。
女性客が少しびっくりしている。
でも止まらなかった。

ハニ丸「本当にありがとうございます!!」

女性客「ふふっ。」

ハニ丸「ただいまお作りします!」

ついに!
最初のお客様が来てくれた!

その瞬間――
胸の奥で何かが熱くなった。

2時間。
たった2時間かもしれない。
でも今のボクには、とても長い2時間だった。

ハニ丸『よし。頑張ろう。』

ボクは気持ちを込めて、生まれて初めてのお客様のクレープを焼き始めた。

③ 23個のクレープ

初めてのお客様にクレープを渡したあと、
ボクはしばらく胸がドキドキしていた。

ハニ丸『買ってもらえた。本当に買ってもらえた。』

自分で作ったクレープを。
自分のお店で。
お金をいただいて。
買ってもらえた。



女性客「ありがとう。」

ハニ丸「こちらこそ、ありがとうございます!」

女性客は笑顔で去っていった。ボクはその後ろ姿を見送りながら、小さくガッツポーズをした。

ハニ丸『よっしゃ。』



それから少しずつ。
本当に少しずつだった。
お客様が来てくれるようになった。

お客様「チョコバナナください。」

ハニ丸「ありがとうございます!」

お客様「イチゴチョコひとつ。」

ハニ丸「ありがとうございます!」

お客様「キャラメルください。」

ハニ丸「ありがとうございます!」

まだまだ慣れない。
クレープを巻くたびに緊張する。
お客様を待たせないように焦る。

でも、午前中とは違った。
売れない不安よりも、
目の前のお客様に意識が向くようになっていた。



そして14時頃。

リナ「店員さーん。」

ハニ丸「あっ。」

幸せ之助「おすすめくださーい♪」

ハニ丸「師匠たちじゃないですか。」

幸せ之助「へ?」

リナ「初めまして。」

幸せ之助「ボクタチ ショタイメン デスヨネ?」

ハニ丸「え〜っと、なんでカタコトなんです?」

リナ「あ、すみません。彼、自動音声ゴッコがマイブームみたいで。」

ハニ丸「あ、そうなんですね。なかなか自由なパートナーさんであれですね。」

幸せ之助「アレ トハ ナンデスカ?
ステキ ノ バアイハ 1ト シャープヲ オシテクダサイ。」

ハニ丸「え〜っと、他に選択肢は無いパターンですね。」

リナ「ところで店員さん、おすすめは?」

ハニ丸「はい。定番ですがチョコバナナです。」

幸せ之助「おぉ〜。」

リナ「じゃあチョコバナナひとつください。」

幸せ之助「ボクはイチゴチョコ〜♪」

ハニ丸「ありがとうございます!」

注文を受ける。
焼く。
巻く。
渡す。
修行で何百回も練習した動きだった。

でも、今日は少しだけ違う。

ハニ丸『ちゃんとお客様に出せてる。』

そう思えた。



幸せ之助「じゃあボクたちデートしてくるね〜。」

ハニ丸「デート。」

リナ「夜またカフェでね。」

ハニ丸「はい!」

幸せ之助「初日の感想聞かせてね〜♪」

ハニ丸「分かりました!」



そして、
午後も営業は続いた。
たくさんではない、
でも、少しずつ、
野良猫のクレープに立ち寄ってくれる人がいた。



気が付けば時計は19時。
閉店時間だった。

ハニ丸「終わったぁ……。」

ボクはその場にへたり込んだ。

足が重い。
肩も重い。
腕も重い。

売上を確認すると23個。
約14,000円。

ハニ丸「23個かぁ。」

もっと売れると思っていた。
正直に言えばそうだ。

でも――

ハニ丸『ゼロじゃなかった。』

それだけで十分嬉しかった。

今日買ってくれたお客様の顔が浮かぶ。

ハニ丸『ありがとうございます。』

誰もいないキッチンカーの中で、ボクは小さくつぶやいた。



そして。
ここからが本当の試練だった。

ハニ丸「閉店作業か……。何からやるんだっけ……。えーっと……。えーっと……。」

……。

……。

ハニ丸「分からん!!」

野良猫のクレープ。
オープン初日。

最後の戦いが始まった。

④ 夜の反省会

閉店作業を終えカフェに着いた時、時計の針は21時ちょうどを指していた。

ハニ丸「つ、疲れたぁ……。」

ボクはフラフラになりながらカフェのドアを開けた。

カラン♪

幸せ之助「おかえり〜♪」

リナ「お疲れさま。」

マスター「正直、よく生きて帰ってきましたね。」

ハニ丸「大げさじゃないですか?」

マスター「初日の閉店作業込みですから。」

ハニ丸「たしかに。」

思い出しただけで疲れが蘇る。

幸せ之助「どうだった?」

ハニ丸「楽しかったです!」

幸せ之助「おっ。」

ハニ丸「もちろん疲れましたけど。」

リナ「うんうん。」

ハニ丸「でも、お客様が来てくれた時は本当に嬉しかったです。」

幸せ之助「何個売れた?」

ハニ丸「23個です。」

幸せ之助「おぉ〜♪」

リナ「初日なら十分じゃない?」

ハニ丸「そうなんですか?」

マスター「正直、ゼロじゃなかっただけでも立派です。」

ハニ丸「マスター、それボクも思いました。」

みんなが笑った。



幸せ之助「実はボクたち、あの後もハニ丸くん見ながらご飯食べてたんだよ。」

ハニ丸「え?デートじゃなかったんですか?」

リナ「デートでもあったよ。」

幸せ之助「お弟子ちゃん観察会でもあった。」

ハニ丸「嫌な予感しかしません。」



幸せ之助「とりあえず、これ見てぇ。」

幸せ之助さんはボクにスマホの画面を見せた。

ハニ丸「あ。」

思わず声が漏れた。

そこに写っていたのは、
クレープを渡しているボクだった。
自然に笑っていた。
すぐにあの時の場面だとわかった。

リナ「あの時ね。」

ハニ丸「最初のお客様です。」

マスター「良い顔してます。」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんは満足そうにうなずいた。

幸せ之助「これが今日1番いい顔。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「今日は23個売れたことよりね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「この顔になれたことの方が大事。」

ハニ丸「……。」

たしかにそうかもしれない。
今日1番心に残っているのは、
最初のお客様が来てくれた瞬間だった。

幸せ之助「さて、ここから授業です。」

ハニ丸「やっぱり。」

リナ「始まった。」

マスター「正直、ここからが本番です。」

幸せ之助「では、1限目。」

ハニ丸「学校なんですか。」

幸せ之助「テーマは――」

幸せ之助さんはニヤリと笑った。

幸せ之助「心の余裕。」

ハニ丸「心の余裕。」

幸せ之助「今日のハニ丸くんに、一番足りなかったものだね♪」

ハニ丸「うっ。」

こうして。

野良猫のクレープ、
オープン初日の反省会が始まったのだった。

⑤ 心の余裕

幸せ之助「その前に。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「ちょっと面白い物見せてあげる。」

幸せ之助さんはスマホを取り出した。

ハニ丸「?」

幸せ之助「じゃーん。」

画面を見せられる。

ハニ丸「うわっ!?」

そこに写っていたのはボクだった。

キッチンカーの中で、
ぎこちない笑顔を浮かべているボク。

ハニ丸「えっ!?」

ハニ丸「いつ撮ったんですか!?」

幸せ之助「昼間。」

ハニ丸「全然気づきませんでした!」

リナ「気づいてなかったねぇ。」

マスター「正直、かなり堂々と撮ってました。」

ハニ丸「えぇ……。」

幸せ之助「ちなみに次。」

スッ。

写真が切り替わる。

ハニ丸「あー……。」

今度はさらに微妙だった。
笑顔のつもりなのに、
なんだか目が笑っていない。

ハニ丸「なんか怖いですね。」

リナ「ちょっと怖い。」

マスター「近寄りがたいですね。」

ハニ丸「やめてください。」

幸せ之助「そして最後。」

写真が切り替わる。
そこには、さっき見せてもらった1番自然な笑顔のボクがいた。

幸せ之助「じゃあ質問。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「今日、1番心に余裕があったのはどのタイミングだと思う?」

ハニ丸「え?」

ボクは写真を見比べた。

そして――

ハニ丸「あ。」

幸せ之助「分かった?」

ハニ丸「最初のお客様を見送った後です。」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「注文が入った時は嬉しかったです。でも同時に緊張もしてました。ちゃんと作らなきゃって。失敗したらどうしようって。頭の中そればっかりでした。」

幸せ之助「そうだよね。」

ハニ丸「でもクレープを渡して。ありがとうって言ってもらえて。見送った時はホッとしてました。」

幸せ之助「そう。」

幸せ之助さんは満足そうにうなずいた。



幸せ之助「じゃあもう1つ質問。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「なんで写真撮られてることに気づかなかったと思う?」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「ボク、普通に近くにいたよ?」

ハニ丸「……。」

言われてみればそうだ。
師匠が外にいた記憶すらない。

ハニ丸「余裕が無かったから。」

幸せ之助「正解。」

幸せ之助さんはテーブルの上にあったスプーンを持ち上げた。

幸せ之助「例えばさ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「これ。」

ハニ丸「スプーンですね。」

幸せ之助さんはスプーンを目の前まで近づけた。

幸せ之助「今どう?」

ハニ丸「スプーンしか見えません。」

幸せ之助「だよね。」

そして今度は腕を伸ばして離す。

幸せ之助「今は?」

ハニ丸「周りも見えます。」

幸せ之助「そういうこと。不安とか焦りってね。心の中にスプーンを近づけてる状態なの。」

ハニ丸「なるほど。」

幸せ之助「売れなかったらどうしよう。失敗したらどうしよう。大丈夫かな。そういうことばっかり考えてると。」

幸せ之助さんはスプーンを顔の前に持っていった。

幸せ之助「それしか見えなくなる。」

ハニ丸「たしかに。」

リナ「今日の午前中のハニ丸くん、そんな感じだったかもね。」

ハニ丸「そうですね。」

マスター「写真を撮られても気づかないくらいに。」

ハニ丸「うぅ……。」

幸せ之助「でもね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「今日のハニ丸くんが余裕無かったのは当たり前。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「だって初日だもん。初めてのお店。初めての接客。初めての経営。余裕が無い方が普通。」

ハニ丸「たしかに。」



幸せ之助「だから1年目に1番大事なのは。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「売上を増やすことじゃない。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「まず仕事に慣れること。」

ハニ丸「慣れること。」

幸せ之助「そう。」

幸せ之助さんは優しく笑った。

幸せ之助「慣れて余裕を作ること。」



幸せ之助「今日の23個はね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「23個売れたんじゃない。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「23回、余裕を作る練習をさせてもらった。」

ハニ丸「……。」

その言葉を聞いて、
今日見たお客様たちの顔が頭に浮かんだ。

もしかしたら。

本当のスタートラインは、
ここからなのかもしれない。

⑥ 本物の笑顔

幸せ之助「よし。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「第2限目。次は笑顔について。」

ハニ丸「笑顔。」

幸せ之助「そう。」

幸せ之助さんはスマホの写真を見ながらうなずいた。



幸せ之助「まず確認。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「この写真。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「1枚目と2枚目と3枚目。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「受ける印象違うよね?」

ハニ丸「全然違います。」

ボクはスマホを見た。
1枚目。
オープン直後。
気合いは入っている。
でも少しぎこちない。

2枚目。
お客様が来なくて不安になっていた頃。
笑顔のつもりなのに目が笑っていない。

3枚目。
最初のお客様を見送った後。
自然に笑っている。

ハニ丸「3枚目だけ別人みたいです。」

リナ「うん。」

マスター「正直、1番素敵です。」

ハニ丸「ありがとうございます。」

幸せ之助「じゃあ問題です。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「商売で武器になるのはどの笑顔でしょう?」

ハニ丸「3枚目です。」

幸せ之助「正解。」

ハニ丸「ですよね。」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんは笑った。

幸せ之助「でもね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「ここで勘違いしちゃいけない。」

ハニ丸「勘違い?」

幸せ之助「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「毎日ずっと心から笑える?」

ハニ丸「いや。」

幸せ之助「不安な日もあるよね。」

ハニ丸「あります。」

幸せ之助「疲れてる日もある。」

ハニ丸「あります。」

幸せ之助「嫌なことがある日もある。」

ハニ丸「あります。」

幸せ之助「だよね。」

......。

幸せ之助「だから。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「商売人に必要なのは。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「いつでも機嫌良くいることじゃない。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「本物の笑顔と同じ笑顔を作れること。」

ハニ丸「同じ笑顔?」

......。

ハニ丸「でも。本物じゃないんですよね?」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「それって作り笑顔じゃないですか?」

幸せ之助「そうだね。」

ハニ丸「ダメなんじゃないですか?」



幸せ之助「実はね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「人間って面白いんだよ。」

幸せ之助さんはそう言うと、自分の口元を指差した。

幸せ之助「人は楽しいから笑うと思ってる。」

ハニ丸「そうですよね。」

幸せ之助「でも実際は。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「笑うから楽しくなる。」

ハニ丸「え?」



リナ「聞いたことある。」

マスター「私もあります。」

幸せ之助「心と身体って繋がってるの。」

ハニ丸「なるほど。」

幸せ之助「だからね。」

幸せ之助さんはニコッと笑った。

幸せ之助「本当に嬉しい時の笑顔を身体が覚えていたら。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「同じ顔を作ることはできる。」



ハニ丸「でも難しそうです。」

幸せ之助「そんなことないよ。」

ハニ丸「そうですか?」

幸せ之助「簡単。」

ハニ丸「簡単?」

幸せ之助「鏡。」

ハニ丸「鏡?」

幸せ之助「以上。」

ハニ丸「説明が短い!」

みんなが笑った。

幸せ之助「例えばさ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「今日の最初のお客様。」

ハニ丸「あ。」

幸せ之助「その時の気持ち覚えてる?」

ハニ丸「覚えてます。」

幸せ之助「じゃあ鏡の前で思い出してみる。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「その時どんな目だったか。どんな口だったかどんな頬だったか。」

ハニ丸「なるほど。」

幸せ之助「それを繰り返す。」

ハニ丸「練習するんですね。」

幸せ之助「そう。」

幸せ之助さんはうなずいた。

幸せ之助「スポーツも練習する。クレープも練習する。なのに笑顔だけ練習しないのは変じゃない?」

ハニ丸「たしかに。」

幸せ之助「ほとんどの人はやらない。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「だからやるだけで一歩前に出られる。」

ハニ丸「なるほど。」

幸せ之助「しかも無料。」

ハニ丸「そこ大事ですね。」



幸せ之助「ただし。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「本物の笑顔を作るのにも。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「やっぱり心の余裕は必要。」

ハニ丸「繋がってるんですね。」

幸せ之助「繋がってる。」

幸せ之助さんは昼間の写真をもう一度見た。

幸せ之助「だからまずは余裕。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「そして笑顔。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「その積み重ね。」

ハニ丸「なるほど。」



幸せ之助「よし。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「今日の授業はここまで。」

ハニ丸「終わりですか?」

幸せ之助「うん。」

リナ「初日だしね。」

マスター「正直、これ以上は頭に入りません。」

ハニ丸「たしかに。」



ボクはスマホに写る自分の顔をもう一度見た。

ぎこちない笑顔。
不安な笑顔。
そして自然な笑顔。

同じボクなのに、
こんなにも違って見える。

ハニ丸『笑顔も練習か。』

クレープと同じように。
もしかしたら、笑顔も少しずつ上手になっていくのかもしれない。

そう思った。

⑦ ハニ丸くんのお弟子さんノート

今日は野良猫のクレープのオープン初日だった。
正直、朝はワクワクしていた。

でも――
オープンしてから2時間。
お客様は誰も来なかった。

「本当に売れるのかな。」
「大丈夫かな。」
「ボクなんかにできるのかな。」
そんなことを何度も考えた。

今思えば、
あの時のボクは余裕が無かったんだと思う。



でも、
最初のお客様が来てくれた。
チョコバナナを注文してくれた。

そして、
「ありがとう。」
そう言ってくれた。



あの時の気持ちは、
たぶん一生忘れないと思う。

23個売れたことも嬉しかった。

でも本当に嬉しかったのは、
「誰かがお金を払ってボクのクレープを買ってくれたこと」だった。



【今日学んだこと】

・心の余裕が無くなると周りが見えなくなる

・最初は売上よりも仕事に慣れることが大事

・余裕ができるとお客様の表情が見える

・笑顔にも種類がある

・本物の笑顔は人に伝わる

・笑顔も練習できる



【今日の気づき】

ボクは今日、
写真を撮られていることにも気づかなかった。
それくらい余裕が無かった。

でも、
最初のお客様を見送った時だけは違った。
ホッとしていた。
嬉しかった。
自然に笑えていた。



師匠は言った。

「23個売れたんじゃない。」

「23回、余裕を作る練習をさせてもらったんだよ。」



最初は意味がよく分からなかった。

でも今なら少し分かる気がする。

今日の23個は、
売上だけじゃなくて、

ボクを少し成長させてくれた23個だったのかもしれない。



【追記】

マスターは、

「正直、ここからが本番です。」

と言っていた。

ボクもそんな気がする。

まだスタートラインに立ったばかりだ。

でも――

なんだか少しだけ、
明日が楽しみだ。


第5章 成長のヒント

① もう1人の自分

オープン初日の反省会はまだ続いていた。

幸せ之助「ところでハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「今日、不安だった?」

ハニ丸「不安でした。」

幸せ之助「焦った?」

ハニ丸「焦りました。」

幸せ之助「テンパった?」

ハニ丸「テンパりました。」

幸せ之助「でしょうね。」

ハニ丸「否定できません。」

幸せ之助さんはコーヒーをひと口飲んだ。

幸せ之助「じゃあさ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「今日のハニ丸くんがもう1人いたらどうだったと思う?」

ハニ丸「もう1人?ボクがですか?」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「えーっと……。」

幸せ之助「もしね。」

幸せ之助さんは少し楽しそうに話し始めた。

幸せ之助「テンパってるハニ丸くんの隣に。10年後のハニ丸くんが立ってたら。」

ハニ丸「10年後のボク。」

幸せ之助「そう。」

ハニ丸『……。』

少し想像してみた。

10年後。
今よりもっと経験を積んで。
自分のお店も続いていて。
少し余裕がありそうな自分。

幸せ之助「お客様が来なくて焦ってる時。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「10年後のハニ丸くんは何て言うと思う?」

ハニ丸「うーん……。」

少し考える。
そして。

ハニ丸「そんな日もあるよ。」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「今できることやろう。」

幸せ之助「うんうん。」

ハニ丸「そんな感じだと思います。」

幸せ之助「じゃあ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「注文が続いて焦ってる時は?」

ハニ丸「……。」

ハニ丸「慌てなくていい。」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「1個ずつ作れば大丈夫。」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「たぶんそう言います。」



幸せ之助さんは満足そうにうなずいた。

幸せ之助「それ。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「それが今日のお話。」

ハニ丸「?」

幸せ之助「人ってね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「自分のことになると見えなくなる。」

ハニ丸「たしかに。」

幸せ之助「でも他人のことなら意外と冷静に見れる。」

ハニ丸「そうですね。」

幸せ之助「だから。」

幸せ之助さんはボクを指差した。

幸せ之助「心の中にもう1人の自分を作る。」

ハニ丸「もう1人の自分。」

幸せ之助「そう。」

幸せ之助「できれば理想の自分。」

ハニ丸「理想の自分。」

幸せ之助「うん。困った時。焦った時。不安な時。その人に相談する。」

ハニ丸「自分なのに相談するんですか?」

幸せ之助「そう。」

ハニ丸「変な感じですね。」

幸せ之助「でも面白いよ。例えば今日なら。」

幸せ之助さんは昼間の写真を指差した。

幸せ之助「お客様が来なくて焦ってるハニ丸くんに、もう1人のハニ丸くんがこう言う。おいおい、まだオープンして1時間だろ?そんなに慌てるなよ。笑顔なくなってるぞ。ってね。」

ハニ丸「ああ。」

なんとなく分かった。

幸せ之助「そうやって会話すると。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「自分を外から見られるようになる。」

ハニ丸「なるほど。」

幸せ之助「そして。」

幸せ之助さんはニコッと笑った。

幸せ之助「理想の自分に少しずつ近づいていく。」

ハニ丸「なんか不思議ですね。」

幸せ之助「不思議だけど効果あるよ。」

リナ「私もやる時ある。」

マスター「正直、私はよく怒られています。」

ハニ丸「誰にですか?」

マスター「理想の自分にです。」

ハニ丸「何したんですか。」

マスター「だいたい何かやらかしてます。」

みんなが笑った。

幸せ之助「まぁ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「これも慣れだね。でも覚えておくといいよ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「これから1人でお店をやっていく時、もう1人の自分は。」

幸せ之助さんは優しく笑った。

幸せ之助「きっと良い相談相手になってくれるから。」

ボクは静かにうなずいた。

もしかしたら、
今日のボクに一番必要だったのは、
師匠ではなく――

未来の自分だったのかもしれない。

② 客観視という武器

幸せ之助「それでね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「さっきの“もう1人の自分”の話には、続きがある。」

ハニ丸「続きですか?」

幸せ之助「うん。今度は少しだけ難しい言葉を使うよ。」

ハニ丸「難しい言葉……。」

幸せ之助「客観視。」

ハニ丸「客観視。」

幸せ之助「そう。自分を外から見る力。」

ハニ丸「外から見る力……。」

幸せ之助さんは、さっきまで見せてくれていた昼間の写真をもう一度スマホに表示した。

ハニ丸「こうして見ると、本当に分かりやすいですね。」

幸せ之助「でしょ?」

ハニ丸「自分では笑顔のつもりだったんですけど。」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「写真で見ると、全然違います。」

幸せ之助「それが客観視。」

ハニ丸「なるほど。」

幸せ之助「自分の中にいる時は気づけないことも、外から見ると気づける。」

リナ「写真とか動画って分かりやすいよね。」

マスター「正直、見たくない現実も映りますけどね。」

ハニ丸「それは今日よく分かりました。」

幸せ之助「ニャハハ♪」

幸せ之助さんは楽しそうに笑ったあと、少し真面目な顔になった。

幸せ之助「でもね、客観視って、自分を責めるためにするものじゃないんだよ。」

ハニ丸「責めるためじゃない。」

幸せ之助「うん。次に良くするヒントを見つけるために見るの。」

ハニ丸「次に良くするヒント。」

幸せ之助「そう。」

幸せ之助さんはスマホの写真を指差した。

幸せ之助「この顔を見て、ハニ丸くんが“うわぁ、ボクってダメだなぁ”で終わったら意味がない。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「でも、“あ、この時は焦ってたんだな”って気づけたら?」

ハニ丸「次は焦らないようにしようって思えます。」

幸せ之助「そう。“お客様に声をかけたら逃げちゃった”で落ち込むだけなら、ただの失敗。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「でも、なんで立ち去ったかを客観的に考えられたら?」

ハニ丸「あっ。」

あの時のボクは、『なんで?』としか思えなかった。

もしかしたら、あのお客様はただ見ていただけだったのかもしれない。まだ買うかどうか決める前だったのかもしれない。いきなり声をかけられて、気まずくなったのかもしれない。

ハニ丸「そう考えると、改善点が見えてきます。見る位置とか、声をかけるタイミングも大事なんですね。」

幸せ之助「おっ。」

リナ「いい気づき。」

マスター「正直、成長してますね。」

ハニ丸「ありがとうございます。」

幸せ之助「客観視ができると、失敗がただの失敗で終わらなくなる。上手くいかなかった理由を考えられるようになるんだよ。」

ハニ丸「行動が変わる。」

幸せ之助「そう。お店の中から見る景色と、お客様の立場で見る景色は違うからね。」

リナ「実際にお客様の通る道を歩いてみるのもいいよ。」

ハニ丸「お客様の通る道ですか?」

リナ「うん。お客様の目線でニャン丸くんを見てみるの。看板は見えるかな、とか。メニューは分かりやすいかな、とか。声をかけられたらどう感じるかな、とか。」

ハニ丸「なるほど……。」

マスター「カフェでもありますよ。お客様側の席に座ってみると、店員側では気づかなかったことが見えたりします。」

ハニ丸「へぇ。」

幸せ之助「そういうこと。」

幸せ之助さんはうなずいた。

幸せ之助「客観視って怖い時もある。未熟な自分が見えるから。」

ハニ丸「今日かなり見えました。」

幸せ之助「でも見えれば直せる。だから強いんだよ。」

ハニ丸「客観視って、成長するための武器なんですね。」

幸せ之助「そう。」

幸せ之助さんは嬉しそうに笑った。

幸せ之助「いい表現だね。」

リナ「ハニ丸くん、だんだん言葉にするの上手になってきたね。」

マスター「正直、最初の頃とは別人です。」

ハニ丸「そんなにですか?」

マスター「はい。最初の頃は、8×8も怪しかったので。」

ハニ丸「それまだ引っ張ります!?」

幸せ之助「ちなみに8×8は?」

ハニ丸「64です!」

幸せ之助「おぉ〜。」

リナ「成長した。」

マスター「感動です。」

ハニ丸「そこで感動しないでください!」

みんなの笑い声が、夜のカフェに広がった。

その中で、ボクはもう一度スマホの中の自分を見た。

『見えたら、変えられる。』

今日の失敗も。
今日の不安も。
今日の引きつった笑顔も。

ちゃんと見つめれば、きっと次に繋げられる。

そう思えた。

③ 心のアンテナ

幸せ之助「よし。第3時限。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「客観視のお話をしたわけですが。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「成長する人には、もう1つ共通点があります。」

ハニ丸「なんですか?」

幸せ之助「心のアンテナ。」

ハニ丸「なんですか、それ?」



幸せ之助「例えばさ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「今から赤い車を探してみて。」

ハニ丸「赤い車ですか?」

幸せ之助「うん。」

ボクは窓の外を見た。

すると。

ハニ丸「あ。」

幸せ之助「見つかった?」

ハニ丸「ありました。向こうの街頭の下に赤い車ありますね。」

幸せ之助「でしょ?」



幸せ之助「でもね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「その赤い車。ハニ丸くんが気にして探すまでは存在してなかったのかな?」

ハニ丸「いや、ありましたよね。」

幸せ之助「そう。」

幸せ之助さんはニコッと笑った。

幸せ之助「見えてなかっただけ。」

ハニ丸「あ。」

幸せ之助「人間の脳って面白くてね。」

幸せ之助「何を探すか決めると、その情報を勝手に集め始めるんだよ。」

ハニ丸「探すって決めるだけで?」

幸せ之助「そう。例えば"お客様に喜んでもらうヒントを探そう"そう決める。すると、他のお店の接客、看板、メニュー、商品の見せ方、お客様の反応、そういうものが自然と目に入るようになる。」



リナ「まるちゃんがいつも見てるやつね。」

幸せ之助「そうそう。」

マスター「たしかに、よく見てますよね。」

ハニ丸「そうなんですか?」

リナ「うん。」

リナさんは少し笑った。

リナ「ご飯食べにお店に行っても、このメニュー見やすいなぁ。この店員さんの声かけ素敵だなぁ。このお店、お客様が安心して注文できる工夫してるなぁ。ってやってる。」

ハニ丸「デート中ですよね?」

リナ「デート中。」

幸せ之助「いやいや。それはリナちゃんも一緒にね。ボクたち仲良しだから。何してても同じものを見てる。そう、2人の未来もね。フッ。」

ハニ丸「はいはい。」

カッコつけてキザに笑った幸せ之助さんを軽くあしらった。

リナ「やだぁ〜恥ずかしい〜、キャッキャッ♡」

ハニ丸「はいはい。」

全くこの夫婦は。

マスター「私が妻の真澄美さんに言ったら、間違いなくスルーされます。下手したらブッ飛ばされます。あわわわ......。」

ハニ丸「言わなきゃいいじゃないですか。」

全くこの大人たちは。

幸せ之助「ねぇねぇ、お取り込み中のところ申し訳ないんだけど、お話に戻っていい?」

ハニ丸「話が脱線したのはあなた達大人3人のせいですけどね!いいですよ、どうぞ。」

幸せ之助「ありがとう。でも、そういうのも別に、勉強しようとしてるわけじゃないんだよ。」

ハニ丸「違うんですか?」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助「ただ、『もっとお客様に喜んでもらうには?』ってアンテナを立ててるだけ。」

ハニ丸「あ。」

幸せ之助「そうするとね。世の中全てが教科書になる。」

ハニ丸「教科書。」

幸せ之助「うん。スーパーも。コンビニも。カフェも。遊園地も。全部ヒントだらけ。」

マスター「なるほど。」

リナ「だから飽きないんだろうね。」

幸せ之助「そう。」

幸せ之助さんはうなずいた。

幸せ之助「心のアンテナって特別な能力じゃない。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「何を集めたいか決めるだけ。例えばハニ丸くんなら。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「『お客様に喜んでもらうヒント』でもいい。『良い接客』でもいい。『笑顔』でもいい。何でもいいから決める。」

ハニ丸「何でもいい......。」

幸せ之助「すると。」

幸せ之助さんは優しく笑った。

幸せ之助「今まで見えていなかったものが、少しずつ見えるようになる。」

ボクは今日1日を思い出した。

お客様の表情。
立ち止まった人。
通り過ぎた人。
買ってくれた人。

たしかに、何を見るか決めていたら、
今日見えていた景色も違ったのかもしれない。

幸せ之助「客観視で気づく。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「心のアンテナで材料を集める。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「この2つを続けると。」

幸せ之助さんはニコッと笑った。

幸せ之助「人は勝手に成長していくんだよ。」

ボクは静かにうなずいた。

なんだか明日から、
見る景色が少し変わりそうな気がした。

④ 師匠はどこにでもいる

幸せ之助「最後に一番大事なお話をしておこうと思う。」

ハニ丸「一番大事。」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんは少しだけ真面目な表情になった。

幸せ之助「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「師匠って誰だと思う?」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「ボク?」

ハニ丸「そうですよね?」

幸せ之助「半分正解。」

ハニ丸「半分?」

幸せ之助「もちろんボクも師匠。リナちゃんも師匠。マスターも師匠。」

マスター「正直、恐縮です。」

幸せ之助「でもね。」

幸せ之助さんはニコッと笑った。

幸せ之助「師匠はどこにでもいる。」

ハニ丸「どこにでも?」

幸せ之助「うん。」



幸せ之助「例えば。今日、最初にクレープを買ってくれたお客様。」

ハニ丸「あ。」

幸せ之助「そのお客様は何を教えてくれた?」

ハニ丸「……。」

少し考える。

ハニ丸「お客様が来てくれることのありがたさ。」

幸せ之助「そう。つまり先生。」

ハニ丸「なるほど。」

幸せ之助「じゃあ。午前中の売れなかった2時間は?」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「それも先生。」

ハニ丸「売れなかった時間がですか?」

幸せ之助「うん。焦る自分。不安になる自分。余裕を失う自分。それを教えてくれた。」

ハニ丸「あ……。」

幸せ之助「今日のハニ丸くんは。売れたことからも学んだ。売れなかったことからも学んだ。どっちも先生だったんだよ。失敗も、嫌な出来事も、全部先生になる。」

幸せ之助さんは優しく笑った。

幸せ之助「だって、何かを教えてくれてるでしょ?」

ハニ丸『……。』



たしかにそうかもしれない。

今日だって、
売れなかった時間があったから、
不安になる自分に気づけた。
余裕の無い自分にも気づけた。

幸せ之助「だからね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「客観視する。心のアンテナを立てる。そうすると。世の中が師匠だらけになる。」

ハニ丸「師匠だらけ。」

幸せ之助「うん。そして。」

幸せ之助さんは少し楽しそうに笑った。

幸せ之助「そういう人は成長が早い。だって毎日。何十人もの師匠から教わってるようなものだから。」

リナ「それは強いね。」

マスター「正直、勝てる気がしません。」

幸せ之助「だからボクはね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「これから先、困ったことがあったら、まず考える。この出来事は何を教えてくれているんだろう?てね。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「そう考えるクセを付けるといいと思うよ。」



ボクは静かにうなずいた。

今日1日だけでも、
たくさんの師匠がいたように、
これから先の人生も、
いろいろな師匠たちとの出会いの連続なのかもしれない。
そう思った。

⑤ 宿題

幸せ之助「よし。じゃあ最後。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「宿題です。」

ハニ丸「出た。」

リナ「先生っぽい。」

マスター「正直、ここまで来ると学校ですね。」

幸せ之助「ニャハハ♪」



幸せ之助「でも簡単だよ。」

ハニ丸「本当ですか?」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんは指を1本立てた。

幸せ之助「今日から毎日。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「1人、師匠を見つける。」

ハニ丸「師匠?」

幸せ之助「誰でもいい。」

ハニ丸「誰でも?」

幸せ之助「お客様でもいい。店員さんでもいい。テレビの人でもいい。本の著者でもいい。猫でもいい。」

ハニ丸「最後おかしくないですか?」

幸せ之助「猫から学ぶことは多い。」

リナ「それは否定できない。」

マスター「正直、猫派です。」

ハニ丸「仲間が増えてる。」

幸せ之助「とにかく。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「今日この人から何を学んだかな?って考える。」

ハニ丸「なるほど。」

幸せ之助「例えば今日なら、最初のお客様も先生。売れなかった時間も先生。写真を撮ってたボクも先生。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「毎日1人、毎日1つ。それだけ。」

ハニ丸「それで成長するんですか?」

幸せ之助「するよ。」

幸せ之助さんは即答した。

幸せ之助「だって、1日1個なら。1年で365個だよ?」

ハニ丸「あ。」

幸せ之助「365個の学び。365人の師匠。結構すごくない?」

ハニ丸「たしかに。」

幸せ之助「しかも無料♪お得ぅ〜♪」

ハニ丸「またそこ。」

リナ「大事なんだね。」

幸せ之助「大事♪」

みんなが笑った。



幸せ之助「だから宿題。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「明日から毎日。今日の師匠は誰だった?何を教えてもらった?それを考えること。」

ハニ丸「分かりました。」

幸せ之助「そして。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「できればノートに書く。」

ハニ丸「ノート?」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「じゃあ、今も教わったことをノートに書き留めてるんで、そこに書くようにします。」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんはニコッと笑った。

幸せ之助「それが、未来のハニ丸くんへのプレゼントになるからね。」

ボクは静かにうなずいた。

今日だけでも、
たくさんの師匠がいた。

もしそれを毎日続けたら――
1年後のボクは、
今とは少し違う景色を見ているのかもしれない。
そう思った。

⑥100点の1日

気が付くと時計は23時を回っていた。

ハニ丸「もうこんな時間。」

リナ「本当だ。」

マスター「もう寝る時間ですね。」

幸せ之助「楽しいと早いねぇ。」

ハニ丸「今日はありがとうございました。」

ボクは頭を下げた。
本当に色んなことがあった。

初めてのお客様。
初めての売上。
初めての反省会。
初めて知ることばかりだった。

幸せ之助「どういたしまして〜♪」

リナ「お疲れさま。」

マスター「正直、今日は100点でしたよ。」

ハニ丸「100点ですか?」

マスター「ええ。」

マスターは微笑んだ。

マスター「ちゃんとオープンできましたから。」

ハニ丸「あ。」

朝、幸せ之助さんが言っていた言葉を思い出した。
『今日はちゃんとオープンできたら100点。』

幸せ之助「ほらね。」

ハニ丸「本当だった。」

幸せ之助「だから言ったじゃん。」

みんなが笑った。



しばらくして、
幸せ之助さんとリナさんも立ち上がった。

幸せ之助「じゃあボクたちも帰ろっか。」

リナ「そうだね。」

ハニ丸「ありがとうございました。」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんは少しだけ真面目な顔になった。

幸せ之助「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「明日も色々あると思う。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「お客様が来る日もある。来ない日もある。上手くいく日もある。失敗する日もある。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「でもね。」

幸せ之助さんはニコッと笑った。

幸せ之助「全部、成長の材料。」

ハニ丸「成長の材料。」

幸せ之助「うん。だから。」

幸せ之助さんは人差し指を立てた。

幸せ之助「困ったら。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「もう1人の自分に相談する。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「心のアンテナを立てる。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「そして。」

幸せ之助さんは店内を見回した。

幸せ之助「師匠を探す。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「それだけでいい。」

ボクは静かにうなずいた。

いつの間にか、
最初に会った頃よりも、
少しだけ前が見えている気がした。

幸せ之助「じゃあね〜♪」

リナ「おやすみ。」

2人は店を出ていった。

カラン♪

扉が閉まる。

静かになった店内で、
ボクはしばらく入口を見つめていた。

マスター「良い師匠ですね。」

ハニ丸「はい。」

マスター「でも。」

ハニ丸「?」

マスターは少し笑った。

マスター「これから先は、ハニ丸くん自身が歩く道です。」

ハニ丸「……。」

マスター「誰かが代わりに成長してくれることはありませんから。」

ハニ丸「そうですね。」

マスター「だから。」

マスターは優しくうなずいた。

マスター「楽しんでください。」

ハニ丸「はい。」

その言葉を聞きながら、
ボクは窓の外を見た。

野良猫のクレープ。
オープン初日。

長い1日だった。
でも、終わった気はしなかった。

むしろ――

ハニ丸『ここから始まるんだ。』

そんな気がしていた。

⑦ 師匠たちとの別れ

翌日の夜。

2日目の営業を終えたボクは、
いつものようにカフェへ戻ってきた。

カラン♪

扉を開ける。

すると。

幸せ之助「おかえり〜。」

リナ「お疲れさま。」

ハニ丸「あ、お疲れ様です。」

2人は昨日と同じ席に座っていた。
なんだか少しホッとした。

ハニ丸「今日はお休みだって言ってたから、見に来てくれるのかと思ってたんですけど。」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「来なかったですね。」

リナ「ごめんね。」

ハニ丸「どこか出掛けてたんですか?」

幸せ之助「へ?」

幸せ之助「ああ、今日は引っ越しの準備してた。」

ハニ丸「え?」

一瞬、意味が分からなかった。

ハニ丸「引っ越し?」

リナ「うん。」

ハニ丸「誰がですか?」

幸せ之助「ボクたち。」

ハニ丸「……え?」

幸せ之助「明日の朝には出発するよ。」

ハニ丸「明日?」

リナ「そう。」

ハニ丸「もう?」

幸せ之助「もう。」

ボクは言葉を失った。
たしかに幸せ之助さんたちは旅をしていると言っていた。ずっとここにいるわけじゃない。頭では分かっていた。

でも。

ハニ丸『こんなに早く?』

そんな気持ちだった。

ハニ丸「もっといるのかと思ってました。」

幸せ之助「ニャハハ♪そう思うでしょ?」

ハニ丸「思いますよ。」

リナ「私たちも本当はもう少し居たいんだけどね。」

少しだけ沈黙が流れた。

すると、幸せ之助さんが笑った。

幸せ之助「でもさ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「ボクたちがずっと横にいたら。」

ハニ丸「?」

幸せ之助「ハニ丸くん成長しないじゃん。」

ハニ丸「いやいや。そんなことないですよ。」

幸せ之助「ある。」

ハニ丸「あります?」

幸せ之助「ある。」

リナ「ある。」

マスター「正直、あります。」

ハニ丸「全員同じ意見なんですね。」

みんなが笑った。

幸せ之助「だってさ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「困ったら聞けばいい。悩んだら聞けばいい。分からなかったら聞けばいい。それじゃ自分で考えなくなる。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「商売ってね。最後は自分で考える仕事なんだよ。」

ボクは黙って聞いていた。

たしかにそうかもしれない。
幸せ之助「だから。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「これからは。」

幸せ之助さんはニコッと笑った。

幸せ之助「自分で考える。もう1人の自分に相談して。客観視して。心のアンテナを立てて。師匠を探す。昨日教えたこと全部使えば大丈夫。」

ハニ丸「でも。」

幸せ之助「ん?」

ハニ丸「本当に大丈夫なんですか?」

少しだけ弱音みたいな言葉が出た。

幸せ之助「大丈夫。」

即答だった。

ハニ丸「なんでそんなに自信あるんですか?」

幸せ之助さんは少し考えてから答えた。

幸せ之助「昨日教えたことを、ちゃんと使おうとしてたから。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「昨日もそう。今日もそう。分からないなりに必死だった。そういう人はね。ちゃんと成長する。」

リナ「私もそう思う。」

ハニ丸「……。」

なんだか
少しだけ胸が熱くなった。

しばらくして、
幸せ之助さんとリナさんは立ち上がった。

幸せ之助「じゃあね〜。」

リナ「1年後、楽しみにしてるね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「次に会う時。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「もっと良い顔になってろよ〜。」

ハニ丸「努力します。」

幸せ之助「努力じゃない。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「楽しむ。」

そう言って、幸せ之助さんは笑った。

カラン♪

扉が閉まる。
ボクはしばらく入口を見つめていた。



マスター「行ってしまいましたね。」

ハニ丸「はい。」

マスターは静かにコーヒーを飲んだ。
そして、少しだけ笑った。

マスター「実は。」

ハニ丸「?」

マスター「お2人が言ってたんですよ。」

ハニ丸「何をですか?」

マスター「弟子入りしたあの日から。オープンまでの1ヶ月ちょっと。ずっと見ていて、ハニ丸くんなら大丈夫だって。」

ハニ丸「……。」

マスター「一生懸命な人は道を切り拓く。だから心配していないそうです。」

ハニ丸「そうだったんですね。」

マスター「それに。」

ハニ丸「それに?」

マスターは吹き出した。

マスター「どちらかと言うと。」

ハニ丸「はい。」

マスター「地獄の特訓だったのは幸せ之助さんの方だったように見えました。」

ハニ丸「え?」

マスター「毎日毎日、ハニ丸くんが同じ失敗するので。」

ハニ丸「あ。」

マスター「正直、よく耐えたなと思います。」

ハニ丸「そこは否定できません。」

2人で笑った。



野良猫のクレープ。
営業2日目。

師匠たちは旅立った。
でも、不思議と不安はなかった。

ハニ丸『大丈夫。』

そう思えた。

だって、
これから先も、
毎日たくさんの師匠たちがいるのだから。

⑧ ハニ丸くんのお弟子さんノート

オープン初日と、2日目。
ボクはたくさんのことを学んだ。

クレープの作り方でもなく。
接客のやり方でもなく。
もっと大事なことを。



初日の朝のボクは緊張していた。
オープンしたらお客様が来てくれると思っていた。

でも現実は違った。
2時間、誰も来なかった。

「大丈夫かな。」
「本当に売れるのかな。」
「ボクなんかにできるのかな。」

そんなことばかり考えていた。

今思えば、あの時のボクは目の前の不安しか見えていなかった。

師匠は言った。

「心の余裕が無くなると周りが見えなくなる。」

本当にその通りだった。

ボクは写真を撮られていることにも気づかなかった。師匠が近くにいたことにも気づかなかった。

でも、最初のお客様が来てくれた。

クレープを作って。
渡して。

「ありがとう。」と言ってもらった。

そして見送った時。

あの瞬間だけは、
心の中が不思議なくらい穏やかだった。

今日の写真を見た時。

1番自然に笑っていたのも、
その瞬間だった。



【初日に学んだこと】

・心の余裕が無くなると視野が狭くなる

・人は自分のことになると冷静さを失う

・そんな時はもう1人の自分と会話すると良い

・意識したものを心のアンテナは集め始める

・師匠はどこにでもいる

・成長のヒントは日常の中にたくさん落ちている



【今日の師匠】

最初のお客様



【教えてもらったこと】

お客様が来てくれることは当たり前じゃない。
買ってもらえることも当たり前じゃない。
「ありがとう」と言ってもらえることも当たり前じゃない。

だからこそ嬉しい。



【もう1人の自分からの言葉】

まだオープン初日だろ。
慌てるな。
焦るな。
1歩ずつでいい。

たぶん、今日のボクは、
未来のボクにそう言われると思う。



【明日の宿題】

今日の師匠を見つけること。
そして、
何を教えてもらったか考えること。

最初は難しいかもしれない。
でも、
もし毎日1つずつ見つけられたら、
1年後のボクは、
365個の学びを持っていることになる。

それって、ちょっとすごいことかもしれない。



野良猫のクレープ。
オープン初日終了。

売上は23個。

でも今日手に入れたものは、
23個以上だった気がする。

明日からは、
幸せ之助さんもリナさんもいない。

少し寂しい。

でも、
マスターが教えてくれた。

2人は、
ボクなら大丈夫だと言ってくれていた。

一生懸命な人は、
道を切り拓く。

その言葉を信じてみようと思う。

1年後。

胸を張って、
また師匠たちに会えるように。

明日から、
ボクは自分の足で歩いてみる。


第6章  1年後の再会

① 1周年の朝

あれから1年が経った。

今日は――

野良猫のクレープ1周年記念日。

まだ朝早いスーパーの駐車場にキッチンカーを停めながら、ボクは少しだけ空を見上げた。

1年前。
何も分からないまま始めたこのお店も、なんとか1周年を迎えることができた。

もちろん楽な1年じゃなかった。
売上が伸びず不安になった日もあった。
失敗して落ち込んだ日もあった。
それでも続けてこられたのは、応援してくれる常連さんたちのおかげだった。

最近では顔なじみのお客様も増えた。
「今日も来たよ。」
「また来ちゃった。」
そんな言葉を掛けてもらえるたびに嬉しくなった。

そして何より――
ボク自身が以前よりずっと落ち着いて仕事ができるようになっていた。
焦って周りが見えなくなることも少なくなったし、お客様の顔を見る余裕もできた。

幸せ之助さんたちに教わったことは、本当に間違っていなかったんだと思う。

そして今日は、
1年ぶりに師匠たちが帰ってくる日でもあった。
ボクは朝から少しソワソワしていた。

「ちゃんと成長したなって思ってもらえるかな。」
そんなことを考えながら準備を進めていると――
ふと視界の端に人影が映った。

ハニ丸「ん?」

少し離れた場所。
1台の車にもたれかかるようにして、スーツ姿のおじさんが座り込んでいた。

ハニ丸「え?」

近づいてみる。
50代くらいだろうか。
ネクタイは少し曲がっていて、まるで酔っぱらったまま眠ってしまったような姿だった。

そして――
ピクリとも動かない。

ハニ丸「だ、大丈夫ですか!?」

ボクは慌てて駆け寄った。

ハニ丸「もしもし!?大丈夫ですか!?」

ボクが肩を軽く揺すろうとしたその時だった。

突然、すぐ近くから声が聞こえた。

???「あー、ハニ丸くん。大変だ。」

ハニ丸「うわっ!?」

ボクは思わず飛び上がった。
慌てて辺りを見回す。
でも誰もいない。

???「いやぁ〜困ったなぁ〜。」

ハニ丸「え?」

???「朝起きたらさぁ。」

ハニ丸「え?」

???「おじさんと中身が入れ替わっちゃった。」

ハニ丸「……は?」

???「どうしよう。」

ハニ丸「どうしようじゃないですよ!」

聞き覚えのある声だった。

というか、
聞き間違えるはずがなかった。

ハニ丸「師匠?」

???「うん。」

ハニ丸「師匠ですよね?」

???「たぶん。」

ハニ丸「たぶんじゃないんですよ!」

???「いやぁ〜、朝起きたらおじさんになっててビックリしちゃった。」

ハニ丸「絶対嘘ですよね!?」

???「失礼だなぁ。ボクがそんな嘘つく人に見える? ウソツキニ ミエル バアイハ 1ト シャープヲ、 ミエナイ バアイハ 2ト シャープヲ オシテクダタサイ。」

ハニ丸「もう絶対に師匠でしょ!」

???「ムムム、さてはチミの正体は名探偵だな。」

ハニ丸「名探偵じゃなくても、誰でも分かります!」

???「へ?そうなの?」

ハニ丸「そうですよ!」

ボクはもう一度辺りを見回した。

でもやっぱり誰もいない。

声だけが聞こえる。

ハニ丸『どこだ?』

キョロキョロしていると、近くの車の陰から聞き慣れた笑い声が響いた。

「ニャハハハハハハハ!」

ハニ丸「あっ。」

幸せ之助「バレちゃったぁ〜!」

車の陰から飛び出してきたのは、満面の笑みを浮かべた幸せ之助さんだった。

ハニ丸「やっぱり師匠じゃないですか!」

幸せ之助「いやぁ〜危なかった。もう少しでおじさんとの入れ替わり生活が始まるところだった。」

ハニ丸「始まりません!」

幸せ之助「そうかなぁ?」

ハニ丸「そうです!」

幸せ之助「相変わらずツッコミが激しいね、ハニ丸くんは。」

ハニ丸「師匠は相変わらず悪ふざけが過ぎるんですよ!」

その後ろから、呆れたような顔をしたリナさんも歩いてきた。

リナ「おはよう、ハニ丸くん。」

ハニ丸「おはようございます。じゃなくて!なんなんですかこれ!」

幸せ之助「サプライズ。」

ハニ丸「意味がわからないです。」

幸せ之助「1年ぶりの再会だからね。盛大に驚かせてあげようと思って。」

ハニ丸「方向性がおかしいんですよ!」

幸せ之助「ニャハハハ♪」

すると――

その時だった。

車にもたれかかっていたおじさんが、

「うぅ〜ん……。」

と声を漏らしながら目を覚ました。

幸せ之助「あ、おじさん起きた。」

おじさん「あれ……?」

幸せ之助「おじさん、おじさん。ボクのこと覚えてる?」

おじさん「あっ!」

おじさんは幸せ之助さんを指差した。

おじさん「昨日の探偵さん!」

幸せ之助「しーーーっ!!」

おじさん「え?」

幸せ之助「おじさん!それトップシークレットって昨日教えたよね!?」

おじさん「あっ!す、すみません!」

幸せ之助「ボクは今、ヤバい組織に追われてる身なんだから!」

おじさん「そ、そうでした!」

幸せ之助「ボクの正体がバレたら、おじさんも危ないんだよ!」

おじさん「すみません!」

ハニ丸「いやいやいやいや。」

おじさん「え?」

ハニ丸「ちょっと待ってください。」

幸せ之助「なに?」

ハニ丸「これ、どういう状況なんですか?」

おじさん「え?」

幸せ之助「え?」

ハニ丸「いや、え?じゃないですよ!」

おじさんはボクを見た。

おじさん「ということは……。」

ハニ丸「はい?」

おじさん「あなたも探偵さんなんですか?」

幸せ之助「おじさん!!」

おじさん「はっ!」

幸せ之助「トップシークレッツ!!」

おじさん「あっ!重ね重ねすみません!」

リナ「あ!」

ハニ丸「え?」

リナ「まるちゃん、ちゃんと2つ目のトップシークレットだからトップシークレッツって複数形になってた!」

幸せ之助「キラン♪」

おじさん「本当だ。」

幸せ之助「キラン♪キラン♪」

リナ「すごい。」

幸せ之助「キラン♪キラン♪キラン♪」

ハニ丸「そこ感心するとこじゃないですよ!!調子に乗せてどうするんですか!」

幸せ之助「ニャハハハハハ!」

リナ「ふふふ。」

おじさん「いやぁ、危なかった。」

ハニ丸「何も危なくないんですよ!この状況でまだ信じてるんですか!おかしいでしょ!まったくもう。」

こうして、1年ぶりの再会は相変わらず意味不明なところから始まったのだった。

② おじさん事件の真相

ハニ丸「というか師匠。」

幸せ之助「ん?」

ハニ丸「そもそもこのおじさん誰なんですか?」

おじさん「え?」

幸せ之助「おじさんだよ。」

ハニ丸「それは見れば分かります。」

リナ「昨日ね、居酒屋さんで仲良くなったの。」

ハニ丸「居酒屋さん?」

幸せ之助「うん。」

リナ「まるちゃんはノンアルコールビール。」

幸せ之助「ボク、お酒飲めないから。」

ハニ丸「相変わらずですね。」

リナ「私はオレンジジュース。」

ハニ丸「それも相変わらずですね。」

おじさん「私だけ普通に飲んでました。」

幸せ之助「しかも結構飲んでた。」

おじさん「楽しかったもので。」

幸せ之助「ボクも楽しかったよ♪」

リナ「まるちゃんはノンアルなのに酔っ払ってたけどね。」

ハニ丸「ノンアルで酔える人、本当にいるんですね。」

幸せ之助「才能だと思う。」

ハニ丸「絶対違います。」

幸せ之助「ニャハハハ♪」

リナ「それでね。」

ハニ丸「はい。」

リナ「気付いたらおじさん寝ちゃって。」

幸せ之助「起きなかった。」

おじさん「申し訳ないです。」

リナ「朝まで放っておくわけにもいかないから車に乗せて送ろうと思ったんだけど。」

幸せ之助「全然起きない。」

ハニ丸「なるほど。」

幸せ之助「それでね、『あ!』って思ったの。」

ハニ丸「その『あ!』が嫌な予感しかしないんですけど。」

幸せ之助「いいこと閃いた♪」

ハニ丸「やっぱり。」

リナ「止めたんだけどね。」

幸せ之助「サプライズの方が大事。」

ハニ丸「何も大事じゃないです。」

幸せ之助「それでおじさんの胸ポケットにスピーカーにしたスマホ入れて。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「近くの車の陰に隠れて。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「しゃべった。」

ハニ丸「小学生ですか。」

幸せ之助「小学生だったら思いつかなかったと思う。」

ハニ丸「それはそうですけど。」

リナ「まるちゃん、朝からずっとワクワクしてたよ。」

幸せ之助「うん♪大成功だった♪」

ハニ丸「失敗ですよ。」



すると、
おじさんのお腹が小さく鳴った。

ぐぅ〜。

みんなが一斉におじさんを見た。

おじさん「あ。」

幸せ之助「あ。」

リナ「あ。」

ハニ丸「朝から何も食べてないんですか?」

おじさん「さっきまで寝てましたから。」

ハニ丸「あ、そうですよね。」

幸せ之助「よし。」

リナ「何がよしなの?」

幸せ之助「せっかくだし。」

幸せ之助さんはキッチンカーを指差した。

幸せ之助「おじさん、クレープ食べよう♪」

おじさん「いいんですか?」

ハニ丸「もちろんです。」

幸せ之助「1周年記念日だし。」

リナ「私も食べたい。」

幸せ之助「みんなでクレープ食べよう♪」

ハニ丸「結局みんな食べるんですね。」



3人はメニュー表の前に並んだ。

おじさん「うーん。」

幸せ之助「悩んでる。」

リナ「悩んでるね。」

おじさん「実は私、チョコバナナが好きなんですよ。」

幸せ之助「おお。」

おじさん「でも最近は甘過ぎるのがちょっと苦手で。」

リナ「分かる。」

おじさん「それに男1人だとクレープ屋さんって入りづらくて。」

ハニ丸「へぇ。」

おじさん「本当はもっと気軽に買いたいんですけどね。」

幸せ之助「なるほどなるほど。」

幸せ之助さんはニヤニヤしていた。

でも、
ボクの心には別の言葉が引っかかっていた。

甘過ぎない。
男1人でも買いやすい。
チョコバナナ。

ハニ丸「おじさん。」

おじさん「はい?」

ハニ丸「ちょっと試してみたいことがあるんですけど。」

おじさん「え?」

ハニ丸「ビターチョコを少し使って、大人向けに作ってみてもいいですか?」

おじさん「そんなことできるんですか?」

ハニ丸「やってみます。」

おじさんは嬉しそうに笑った。

おじさん「じゃあお願いします。」



クレープを作りながら、ボクはふと気付いた。

以前だったら聞き流していたかもしれない。
でも今は違う。
何気ない会話の中にも。
お客様の想いや好みが隠れている。
そんな気がした。



完成したクレープを受け取ったおじさんは、
ひと口食べるなり目を丸くした。

おじさん「美味しい。」

ハニ丸「本当ですか?」

おじさん「うん。」

おじさんはもうひと口食べた。

おじさん「これ好きだなぁ。」

幸せ之助「ほら。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「聞こえたでしょ?」

ハニ丸「何がですか?」

幸せ之助「お客さんの声。」

ハニ丸「・・・。」

幸せ之助「大事にしなね。」

ボクは静かに頷いた。



その後、幸せ之助さんたちはおじさんを家まで送り届けるため車へ戻っていった。

去り際、
おじさんは窓を開けて大きく手を振った。

おじさん「探偵さ〜ん!」

幸せ之助「しーーーーっ!!」

おじさん「あっ!」

リナ「まだ信じてる。」

幸せ之助「ニャハハハハハ!」

もう一生おじさんは信じてるんだろうな。
こうして一年ぶりの再会は、相変わらず騒がしく始まったのだった。

③ 成長の証

おじさんを送り届けるために出発した幸せ之助さんたちを見送り、ボクは営業を再開した。

今日は1周年記念日ということもあってか、その直後からたくさんのお客様が来てくれた。

「おめでとう!」

「1年頑張ったね!」

「今日もチョコバナナお願い!」

そんな言葉を掛けてもらいながら、ボクは次々とクレープを焼いていく。

ありがたい。
本当にありがたい。
1年前には想像もできなかった光景だった。



そして昼過ぎ。
見慣れた車が再び駐車場へ戻ってきた。

ハニ丸『帰ってきた。』

ボクはクレープを作りながら、ちらりと車の方へ目を向けた。幸せ之助さんたちもボクに気付いて手を振っている。
ボクも軽く手を振り返した。



しばらくしてお客様の列が途切れた。
すると幸せ之助さんとリナさんがキッチンカーへやって来た。

幸せ之助「ただいま〜♪忙しそうだねぇ。」

ハニ丸「お陰様で。」

リナ「おじさん、すごく美味しいって喜んでたよ!」

ハニ丸「いやぁ、ホッとしました。ありがとうございます。」

幸せ之助「ニャハハハ♪」



幸せ之助さんはニヤニヤしてボクを見ている。

ハニ丸「なんですか?」

幸せ之助「ちゃんと周り見えてるじゃん。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「1年前なら気付かなかったと思う。」

ハニ丸「何がですか?」

幸せ之助「ボクたちが戻ってきたこと。」

ハニ丸「あ。」

言われてみればそうだった。
1年前のボクは目の前のことで精一杯だった。
少しお客様が続いただけで焦ったし、周りを見る余裕なんてほとんど無かった。

でも今日は違う。

営業しながらも駐車場の様子が見えていた。
お客様の表情も見えていた。

さっきのおじさんとの会話だってそうだ。
何気ない言葉の中に気になるものを見つけていた。



リナ「私もそう思った。」

ハニ丸「本当ですか?」

リナ「うん。」

リナさんは優しく笑った。

リナ「笑顔も自然になったしね。」

ハニ丸「そうですか?」

リナ「前は頑張って笑顔を作ってる感じだった。」

幸せ之助「今はニヤニヤしてる。」

ハニ丸「それ褒めてます?」

幸せ之助「褒めてない。」

ハニ丸「ですよね。」

幸せ之助「でも成長はしてる。」

ハニ丸「どっちなんですか。」

幸せ之助「ニャハハハ♪」



その時だった。
1人の常連さんがキッチンカーへやって来た。

常連さん「ハニ丸くん、こんにちは〜!」

ハニ丸「あ!こんにちは!」

常連さん「今日も元気だねぇ。」

ハニ丸「ありがとうございます!」

常連さん「1周年おめでとう!」

ハニ丸「ありがとうございます!」

常連さん「じゃあ、いつものね♪」

ハニ丸「はい!いつものですね!」



そのやり取りを見ながら幸せ之助さんが小さく頷いた。

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「ちゃんと1年やった顔になった。」

ハニ丸「1年やった顔?」

幸せ之助「そう。」

幸せ之助さんは常連さんの後ろ姿を見ながら言った。

幸せ之助「お客さんがハニ丸くんのこと好きになってる。」

ハニ丸「......。」

幸せ之助「それは1日や1週間じゃ作れない。」

リナ
「積み重ねてきた証拠だね。」



ボクは少し照れくさくなった。

でも、1年間続けてきたことを認めてもらえた気がして、素直に嬉しかった。



幸せ之助「よし。」

ハニ丸「はい?」

幸せ之助「じゃあ今夜は答え合わせだ。」

ハニ丸「答え合わせ?」

リナ「1年分のね。」

幸せ之助「宿題ノート持ってきてる?」

ハニ丸「あっ。」

幸せ之助「持ってきてるよね?」

ハニ丸「......。持ってきてます。」

幸せ之助「よろしい。」

幸せ之助さんはニヤリと笑った。

なぜだろう。
褒められて嬉しいはずなのに、
なんだか少しだけ試験前みたいな気分になった。

④1年分の答え合わせ

その日の営業を終えた頃には、すっかり日も暮れていた。

閉店作業を終えたボクたちは、1年前と同じようにマスターのカフェへ向かった。

カラン♪

扉を開く。

増子「いらっしゃいませ。」

ハニ丸「あ。」

増子「あ、ハニ丸くん。」

ハニ丸「久しぶり。」

増子「1周年おめでとう。」

ハニ丸「ありがとう。」

増子「最近すごいらしいね。」

ハニ丸「何が?」

増子「常連さんいっぱい増えたって。」

ハニ丸「お陰様で。」

増子「ふふっ。」

その時だった。

幸せ之助「おぉ〜!」

リナ「こんばんは。」

増子「あ、はじめまして。」

幸せ之助「はじめまして〜♪」

リナ「ハニ丸くんからお話聞いてるよ。」

増子「変な話じゃないですよね?」

幸せ之助「たぶん大丈夫。」

ハニ丸「たぶん?」

増子「ちょっと不安になった。」

リナ「ふふふ。」

そこへ奥から聞き慣れた声が響いた。

マスター「おぉーーー!!」

幸せ之助「あ。」

リナ「あ。」

ハニ丸「あ。」

マスター「幸せ之助さん!リナさん!」

マスターは満面の笑みで駆け寄ってきた。

マスター「お待ちしてましたぁぁぁ!!」

幸せ之助「マスター久しぶり〜♪」

リナ「元気そうね。」

マスター「元気です!絶好調です!」

幸せ之助「なんか前より元気じゃない?」

マスター「そうなんです!」

マスターはなぜか胸を張った。

マスター「最近お客様が増えまして!」

幸せ之助「へぇ〜。」

リナ「すごいじゃない。」

マスター「毎日楽しいです!」

幸せ之助「よかったねぇ。」



増子ちゃんに案内され、ボクたちは1年前と同じ席に座った。
テーブルの上には、1年間書き続けてきた宿題ノート。幸せ之助さんがそれを手に取る。

ペラ。
ペラペラ。
ペラペラペラ。

幸せ之助「おぉ。」

リナ「いっぱい書いたねぇ。」

ハニ丸「一応毎日続けてました。」

幸せ之助「偉い。」

ハニ丸「本当ですか?」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんは頷いた。

幸せ之助「ちゃんと自分のお店と向き合った証拠だから。」

ハニ丸「......。」

幸せ之助「続けるって案外難しいんだよ。」

リナ「途中で面倒になるしね。」

幸せ之助「でもチミはちゃんと続けた。」

ハニ丸「はい。」



しばらくノートを眺めた後、
幸せ之助さんは顔を上げた。

幸せ之助「じゃあ問題です。」

ハニ丸「問題?」

幸せ之助「この1年で何を学びましたか?」

ハニ丸「えっ。」

リナ「テスト。」

ハニ丸「聞いてないですよ!」

幸せ之助「今言った。」

ハニ丸「ですよね。そういう人ですもんね。」



ボクは少し考えた。
そしてゆっくり口を開いた。

ハニ丸「心の余裕です。」

幸せ之助「ほう。」

リナ「うん。」

ハニ丸「1年前のボクは本当に余裕が無かったです。少し忙しくなるだけで焦るし。売上が悪ければ落ち込むし。失敗したら引きずるし。周りなんて全然見えてませんでした。」



ハニ丸「でも師匠たちは、まず基本だけを徹底的にやれって言いましたよね。」

幸せ之助「言ったねぇ。」

ハニ丸「最初は意味が分かりませんでした。でも同じことを繰り返してるうちに、少しずつ余裕ができてきたんです。」

リナ「うん。」

ハニ丸「焦らなくなった。周りが見えるようになった。お客様の顔も見えるようになった。」



ハニ丸「今日のおじさんもそうです。」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「前のボクだったら聞き流してたと思います。でも今は、お客様が何を考えてるのか気になるようになりました。どうしたらもっと喜んでもらえるんだろうって。」

幸せ之助さんは静かに頷いた。

幸せ之助「100点。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「それが1年目の答え。」

リナ「うん。」

幸せ之助「商売の勉強をしたんじゃない。チミはまず、自分の心を整える勉強をしたんだ。」

ハニ丸「......。」

幸せ之助「心の余裕ができる。周りが見える。お客さんが見える。それがその先に繋がる。」



リナ「じゃあ私からも質問。」

ハニ丸「はい。」

リナ「この1年で一番変わったことは?」

ハニ丸「......。」

少し考える。
でも答えはすぐに見つかった。

ハニ丸「商売が楽しくなりました。」

幸せ之助「おぉ。」

リナ「いい答え。」

ハニ丸「前は売れるか売れないかばかり考えてました。でも今は違います。どうしたらもっと良くなるんだろう。どうしたらもっと喜んでもらえるんだろう。それを考えるのが楽しいんです。」

しばらく沈黙が流れた。
そして幸せ之助さんが小さく笑った。

幸せ之助「合格。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「1年目の課題。ちゃんとクリアしてる。」

その言葉を聞いて、
ボクは少しだけ胸が熱くなった。

1年間、必死だった。
迷った日もあった。
それでも続けてきた。

その1年を、
1番認めてほしかった人たちが認めてくれた。



幸せ之助「じゃあ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「そろそろ次の話をしようか。」

ハニ丸「次?」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんはニヤリと笑った。

幸せ之助「2年目の課題のお話。」

リナ「ようやくだね。」

ハニ丸「ようやく?」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんは楽しそうに頷いた。

幸せ之助「今までは土台作りだったから。」

ハニ丸「土台......。」

幸せ之助「2年目はもっとワクワクするよ。」

ハニ丸「ワクワク?」

幸せ之助「ニャハハハ♪」

幸せ之助さんは意味深に笑った。

そしてボクはまだ知らなかった。
2年目の課題が、ボク自身の人生を大きく変えることになるなんて。

⑤ マスターの大繁盛

幸せ之助「ところでさ。」

ハニ丸「はい?」

幸せ之助「さっきから気になってたんだけど。」

リナ「私も。」

ハニ丸「何がですか?」

幸せ之助「このお店。」

リナ「すごくお客さん増えてない?」

ボクは店内を見回した。

確かに今日は平日の夜だった。
それなのに店内はほぼ満席だった。
カウンター席にも人がいて、
テーブル席も埋まっている。

増子ちゃんは注文を取りながら忙しそうに動き回り、マスターも厨房とホールを行ったり来たりしていた。

ハニ丸「そうなんですよ。」

幸せ之助「やっぱり。」

ハニ丸「ここ半年くらいで一気に増えました。」

リナ「すごいねぇ。」

ハニ丸「ボクも最初はビックリしました。」

幸せ之助「へぇ〜。」

その時だった。

近くのテーブル席のお客さんが会話に入ってきた。

お客さんA「だって面白いもん。」

ハニ丸「あ。」

マスターの常連さんだった。

幸せ之助「面白い?」

お客さんA「うん。」

お客さんB「この店、普通のカフェじゃないから。」

幸せ之助「ほぉ。」

お客さんA「この前なんかさ。マスターにおすすめ聞いたんだよ。」

幸せ之助「うんうん。」

お客さんA「そしたら。」

お客さんB「そしたら?」

お客さんA「客寄せで赤字になるメニュー勧められた!本当はこの値段だと赤字だけどお得だからって!」

幸せ之助「ニャハハハハハ!」

リナ「えぇっ!?」

ハニ丸「またやったんですか。」

その声を聞いたマスターが厨房から顔を出した。

マスター「またとは失礼ですね!」

ハニ丸「事実じゃないですか。」

マスター「だって本当なんです!」

幸せ之助「なんで!?」

マスター「期間限定で安くしてたのでお得だったので。」

お客さんA「そうそう。」

マスター「だから黒毛和牛のビーフシチューをオススメしました。」

幸せ之助「でも利益少ないんでしょ?」

マスター「赤字です!」

幸せ之助「ニャハハハハハ!」

リナ「正直過ぎる。」

お客さんB「しかもね。」

幸せ之助「まだあるの?」

お客さんB「ある。」

お客さんA「この前なんか。」

マスター「やめましょうよ!」

お客さんA「ランチ頼もうとしたら。」

お客さんB「うん。」

お客さんA「今日は向かいの定食屋さん行った方がいいですよって言われた。」

幸せ之助「ギャハハハハハ!!」

リナ「なんでぇ!?」

マスター「だって向こうの日替わり定食がカニクリームコロッケだったんです!」

幸せ之助「だから?」

マスター「私も食べたいくらい美味しいんです!」

幸せ之助さんは椅子を叩きながら笑い始めた。

幸せ之助「ダメだぁ〜!」

リナ「まるちゃん笑い過ぎ。」

幸せ之助「だって商売下手過ぎるもん!」

マスター「ひどい!」

お客さんA「でもね。」

幸せ之助「うん?」

お客さんA「だから来ちゃうんだよ。」

店内が少し静かになった。

お客さんB「この人、本当に嘘つかないから。」

お客さんA「信用できるんだよね。」

お客さんB「損することまで正直に言うし。」

お客さんA「だから逆に安心して頼める。」

幸せ之助「......。」

リナ「......。」

ハニ丸「......。」

マスターは少し照れくさそうに頭を掻いた。

マスター「いやぁ。」

マスター「そんな大したことじゃないですよ。」

お客さんA「そういうところ。」

お客さんB「そこだよね。」

店内に笑いが広がった。

幸せ之助さんはしばらくその光景を眺めていた。

そして――

小さく頷いた。

幸せ之助「なるほどねぇ。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんは嬉しそうに笑った。

幸せ之助「ちゃんと輝いてる。」

ハニ丸「輝いてる?」

幸せ之助「うん。」

リナ「私もそう思う。」

ハニ丸「......。」

ボクだけ話が見えなかった。
幸せ之助さんはそんなボクを見てニヤリと笑った。

幸せ之助「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい?」

幸せ之助「マスターのお店が繁盛してる理由、分かる?」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「なんでこんなに人が集まるんだと思う?」

ハニ丸「それは......。」

答えようとして、
言葉が止まった。

幸せ之助さんは楽しそうに笑う。

幸せ之助「それがね。」

リナ「次のお話。」

幸せ之助「2年目の課題に繋がるんだよ。」

ボクはまだ知らなかった。

この答えが――

これから先のボク自身の人生を大きく変えることになるなんて。

⑥ ワクワクの正体

幸せ之助「答えは簡単なんだよ。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「マスターはマスターだから。」

ハニ丸「......はい?」

リナ「出た。」

幸せ之助「ニャハハ♪」

ハニ丸「全然分からないんですけど。」

幸せ之助「だと思った。」

幸せ之助さんはコーヒーを一口飲んだ。

幸せ之助「じゃあ質問。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「マスターってどんな人?」

ハニ丸「どんな人......。」

少し考える。

ハニ丸「優しい人です。」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「お客さん想いです。」

幸せ之助「うんうん。」

ハニ丸「正直です。」

幸せ之助「それだ。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「それ。」

幸せ之助さんはマスターを指差した。

幸せ之助「マスターの武器。」

マスター「武器?」

幸せ之助「うん。」

リナ「確かに。」

マスター「えぇ?」

幸せ之助「普通の人は損すること言わない。」

マスター「そりゃまぁ、そうですよね。」

幸せ之助「うん、言わない。」

リナ「言わないね。」

幸せ之助「でもマスターは言う。」

ハニ丸「確かに。」

幸せ之助「しかも無意識。」

マスター「そんなつもり無いんですけど。」

幸せ之助「そこが怖い。」

マスター「怖い!?」

幸せ之助「ニャハハハ♪」

店内に笑いが広がった。



幸せ之助「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「1年目は何やった?」

ハニ丸「心の余裕です。」

幸せ之助「そう。」

幸せ之助さんは頷いた。

幸せ之助「余裕が無いと周りが見えない。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「でも余裕ができると見えてくる。」

ハニ丸「お客さん。」

幸せ之助「そう。」

リナ「周りもね。」

幸せ之助「そしてね。」

ハニ丸「?」

幸せ之助「最後に見えてくるものがある。」

ハニ丸「最後?」

幸せ之助「自分。」

ハニ丸「自分......。」



幸せ之助「みんなね。すごい人になろうとするんだ。特別な何かを探そうとする。でも大体違う。」

ハニ丸「違う?」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんはマスターを見る。

幸せ之助「マスターは正直者。」

マスター「はい。」

幸せ之助「それを極めただけ。」

マスター「極めてないですよ!?」

幸せ之助「極まってる。」

リナ「極まってる。」

ハニ丸「極まってますね。」

マスター「えぇぇ......。」



幸せ之助「だから2年目の課題はね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「売上じゃない。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「もっとワクワクするやつ。」

ハニ丸「ワクワク......。」

幸せ之助「ハニ丸くんらしさ探し。」

ハニ丸「ボクらしさ?」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんはニヤリと笑った。

幸せ之助「チミの中にも。まだ気付いてない宝物がある。それを見つけるのが2年目。まぁ、その話は次だね。」



その時のボクはまだ分かっていなかった。

自分らしさを見つけることが、
商売を変えるだけじゃない。
人生そのものを変えることになるなんて。

そしてその答えは――
意外なほど近くに隠れていたのだった。

⑦ ハニ丸埋蔵金

幸せ之助「よし。」

ハニ丸「はい?」

幸せ之助「じゃあ早速掘ろう。」

ハニ丸「何をですか?」

幸せ之助「埋蔵金。」

ハニ丸「え?え?え?埋蔵金て何ですか?」

リナ「始まった。」

増子「始まりましたね。」

マスター「始まりましたよ。」

ハニ丸「みんな慣れてません?」

幸せ之助「宿題ノート貸して。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助さんはノートを開いた。

ペラ。
ペラペラ。
ペラペラペラ。

幸せ之助「ふむふむ。」

ハニ丸「何見てるんですか?」

幸せ之助「宝探し。」

ハニ丸「ノートで?」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんはあるページで手を止めた。

幸せ之助「お。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「これ好きだった?」

ハニ丸「どれですか?」

そこには半年前の出来事が書かれていた。
常連のおばあちゃんのために、
食べやすいクレープを考えた日の話だった。

ハニ丸「あぁ。」

幸せ之助「楽しかった?」

ハニ丸「楽しかったです。」

幸せ之助「なんで?」

ハニ丸「喜んでもらえたから。」



幸せ之助「次。」

ペラ。

今度は子ども向けクレープを考えた日のページ。

幸せ之助「これは?」

ハニ丸「楽しかったです。」

幸せ之助「なんで?」

ハニ丸「子どもたちが喜んだから。」



ペラ。

お客様の声から新メニューを作った日のページ。

幸せ之助「これは?」

ハニ丸「それも楽しかったです。」

幸せ之助「なんで?」

ボクは少し考えた。

ハニ丸「お客様の想像を超えられたからです。」

幸せ之助「ほう。」



幸せ之助さんはニヤリと笑った。

幸せ之助「見えてきた。」

ハニ丸「何がですか?」

幸せ之助「埋蔵金。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「共通点あると思わない?」

ハニ丸「共通点?」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「……。」

ハニ丸「全部、お客さんが関係してる。」

幸せ之助「そう。ハニ丸くんさぁ。誰かの為にクレープ考えるのが好きなんじゃない。」

ハニ丸「あ。」

幸せ之助「人を喜ばせるのが好きなんだ。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「もっと言うと。相手に合わせて何かを考えるのが好き。」

リナ「あぁ。」

増子「確かに。」

マスター「確かにですね。」

ハニ丸「そうなんですかね。」

幸せ之助「そうだよ。」



幸せ之助「だって、チミのワクワクポイント全部そこにある。」

ノートをトントンと叩く。

幸せ之助「新しい材料じゃない。売上でもない。クレープそのものでもない。」

幸せ之助さんはあるページをボクに見せた。

幸せ之助「誰かのために考えてる時。そこだけ異常に文章長い。」

ハニ丸「あ。」

改めて見返すと本当だった。
売上を書いているページより。
失敗を書いているページより。
お客様との出来事を書いているページの方が圧倒的に長い。



幸せ之助「勘違いしちゃダメだよ。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「人と違うことするのが個性じゃない。奇抜なことするのも個性じゃない。目立つことするのも個性じゃない。」

幸せ之助さんは続けた。

幸せ之助「個性ってね。掘るものなんだ。」

ハニ丸「掘る?」

幸せ之助「うん。ワクワクすることを。もっと深く。もっと深く。もっと深く。」

ハニ丸「ワクワクすることを、もっと深く。」

幸せ之助「掘って。磨いて。磨いて。磨いて。」

ハニ丸「掘って、磨いて。」

幸せ之助「そうやってピッカピカになる。」

店内が静かになった。



幸せ之助「マスターは正直者。」

マスター「はい。」

幸せ之助「正直だから輝いてるんじゃない。」

マスター「え?」

幸せ之助「正直な自分を磨いてきたから輝いてる。」

リナ「なるほど。」

増子「確かに。」

幸せ之助「損すると分かってても本当のことを言う。お客さんにとって良いと思ったらそうする。ずっとそれを続けてきた。」

ハニ丸「......。」

幸せ之助「マスターはね、正直な人を演じてるわけじゃない。」

幸せ之助さんは続けた。

幸せ之助「だから今のマスターになった。」

マスター「確かに、演じてはないですね。」

幸せ之助「うん。正直な自分を掘って。掘って。掘って。磨いて。磨いて。磨いて。その結果が今のマスター。」

リナ「なるほど。」

増子「だから自然なんですね。」

幸せ之助「そう。個性ってね。」

ハニ丸「個性?」

幸せ之助「作るものじゃない。」

店内が静かになる。

幸せ之助「見つけて、磨くものなんだ。」

マスター「そんな大したことしてませんよ。」

幸せ之助「してる。」

リナ「してる。」

増子「してます。」

ハニ丸「してますね。」

マスターは少し照れくさそうに頭を掻いた。



幸せ之助「ハニ丸くんも同じ。」

ハニ丸「ボクも?」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助は微笑みながら頷いた。

幸せ之助「ワクワクすることを磨くんだ。ワクワクってね。神様がくれた探知機なんだよ。自分の中に眠ってる宝物を見つけるためのね。」

ハニ丸「探知機?」

幸せ之助「うん、ハニ丸埋蔵金探知機。」

リナ「長い。」

増子「長いですね。」

マスター「長いです。」

幸せ之助「正式名称だから。」

ハニ丸「絶対違います。」

店内に笑いが広がった。



幸せ之助「でもね。」

幸せ之助「ハニ丸くんみたいに一生懸命夢中になれる人は。その探知機に従うのが1番いい。」

ハニ丸「従う……。」

幸せ之助「うん。ワクワクする。気になる。もっと知りたい。そこに宝物が埋まってる。」

ハニ丸は黙った。

今まで考えたこともなかった。
クレープが好きなんだと思っていた。
商売が好きなんだと思っていた。

でも――
その奥にあるものは違うのかもしれない。

幸せ之助「焦らなくていい。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「埋蔵金は逃げない。もうすでにハニ丸くんの中に眠ってるものだから。」

幸せ之助さんは優しく笑った。



幸せ之助「2年目はね。その宝物を磨く1年。」

ハニ丸「磨く......。」

幸せ之助「そう。ワクワク探知機に従う。深く掘る。磨く。」

ハニ丸「......。」

幸せ之助「するとね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「ハニ丸くんにしかできない商売になる。」

ボクは宿題ノートを見つめた。
そこには1年分の自分がいた。

そしてその中に――
まだ見ぬハニ丸埋蔵金の地図が隠されているような気がした。

幸せ之助「きっと。ハニ丸埋蔵金が見つかるから。」



その時のボクはまだ知らなかった。

自分らしさを見つけることが、
商売を変えるだけじゃない。
人生そのものを変えることになるなんて。

そして――
その宝物は、
思っていたよりずっと近くに埋まっていたのだった。

⑧ ニャーニャーの声

幸せ之助「よし。」

ハニ丸「はい?」

幸せ之助「埋蔵金の話はここまで。」

ハニ丸「ここまでなんですか?」

幸せ之助「うん。」

リナ「十分長かったしね。」

増子「かなり長かったです。」

マスター「埋蔵金だけで1時間くらい話してましたよ。」

幸せ之助「大事な話だから。」

ハニ丸「とりあえずワクワクしてます!」

幸せ之助「ハニ丸くんは単純だからねぇ。」

ハニ丸「もう特に否定はしません。」

幸せ之助「ニャハハハ♪」



幸せ之助「そうだ。」

ハニ丸「はい?」

幸せ之助「猫の神様持ってきて。」

ハニ丸「猫の神様ですか?」

幸せ之助「うん。」

リナ「あぁ。」

ハニ丸「持ってきますけど。」

増子「猫の神様?」

マスター「例の置物ですか?」

ハニ丸「そうです。」



ボクは店を出た。

キッチンカーのダッシュボードの上。

そこに1年間ずっと置いてあった猫の置物があった。

営業の日も。

休みの日も。

移動中も。

ずっとそこにいた。

ボクは猫の神様を手に取り、店へ戻った。



ハニ丸「持ってきました。」

幸せ之助「おぉ〜。」

リナ「久しぶり。」

増子「可愛いですね。」

マスター「なんだか縁起良さそうですね。」

ハニ丸「でも相変わらず喋りませんよ。」

幸せ之助「そうかなぁ。」

ハニ丸「そうですよ。」

幸せ之助「猫の神様。」

店内が少し静かになった。

そして――

猫の神様「ニャーニャー。」

ハニ丸「え?」

思わず声が出た。

幸せ之助「ん?」

ハニ丸「今……。」

リナ「あ。」

幸せ之助「聞こえた?」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「何て聞こえた?」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「何て聞こえた?」

ハニ丸「……。」

ボクは猫の神様を見た。

ハニ丸「ニャーニャーって。」

幸せ之助「おぉ。」

リナ「聞こえたんだ。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんは嬉しそうに頷いた。

幸せ之助「ちゃんと成長してるね。」

ハニ丸「いや、意味が分からないんですけど。」

幸せ之助「ニャハハハ♪」

ハニ丸「本当に。」

増子「どういうことなんですか?」

リナ「秘密。」

増子「えぇ。」

ハニ丸「いや、ボクも知りたいんですけど。」

幸せ之助「知らなくていいよ。」

ハニ丸「良くないですよ。」

幸せ之助「ニャハハハ♪」



幸せ之助「そうだ。」

ハニ丸「はい?」

幸せ之助「明日から猫の神様は厨房の中に置いて。」

ハニ丸「厨房?」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「なんでですか?」

幸せ之助「その方がいいから。」

ハニ丸「全然説明になってないんですけど。」

幸せ之助「そう?」

ハニ丸「そうです。」



しばらく沈黙が流れた。

増子ちゃんは不思議そうな顔をしている。

ボクも意味が分からない。

でも――

なぜかマスターだけは黙っていた。

マスター「……。」

幸せ之助「ん?」

マスター「いや......。」

幸せ之助「なに?」

マスター「なんでもないです。」

幸せ之助「ふーん。」

マスターは猫の神様を見つめたまま、
それ以上は何も言わなかった。



ハニ丸「本当に厨房に置くんですか?」

幸せ之助「置く。」

ハニ丸「理由は?」

幸せ之助「まぁ、そのうち分かるよ。」

ハニ丸「......。」

リナ「分からないままかもしれないけどね。」

ハニ丸「どっちなんですか。」

幸せ之助「たぶんそのうち分かる。」

ハニ丸「たぶん......。」

幸せ之助「ニャハハハ♪」



その時のボクは、
何が起きたのか全然分からなかった。

今まで聞こえていたのは、
ただの「カラン」という音だけだった。

それなのに――
今日は確かに聞こえた。

「ニャーニャー。」

気のせいだったのか。
そうじゃなかったのか。
ボクには分からない。

ただ一つだけ確かなのは、
幸せ之助さんが、その声を聞いて嬉しそうに笑っていたことだった。

そして――
その不思議な出来事の直後、
ボクはもっと大きな出来事を知ることになる。

⑨ 2年間の別れ

しばらくの間、
誰も猫の神様の話をしなかった。

というより――
話題にしようとしても、
何を聞けばいいのか分からなかった。

ボク自身、
まだ頭の整理が追いついていなかった。



幸せ之助「さて。」

ハニ丸「はい?」

幸せ之助「そろそろ帰ろっか。」

ハニ丸「あ。」

時計を見る。
気付けば、もうかなり遅い時間になっていた。

増子「あら、もうこんな時間。」

マスター「ずいぶん話し込みましたね。」

リナ「楽しかったね。」

幸せ之助「うん♪」



幸せ之助さんは立ち上がった。

そして――
どこか満足そうな顔でボクを見た。

幸せ之助「じゃあハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「次は3周年の日ね。」

ハニ丸「......え?」

一瞬、意味が分からなかった。

ハニ丸「3周年?」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「来年じゃなくて?」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「再来年?」

幸せ之助「うん♪」

店内が静かになった。

増子「え?」

マスター「3周年って......。」

リナさんは特に驚いた様子もない。
どうやら最初から知っていたらしい。

ハニ丸「ちょっと待ってください。」

幸せ之助「ん?」

ハニ丸「2年も会わないんですか?」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「なんでですか!?」

幸せ之助「だって。」

幸せ之助さんは当たり前のような顔で言った。

幸せ之助「これからハニ丸くんが自分で掘る時間だから。」

ハニ丸「掘る......。」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「でも分からないこといっぱいありますよ?」

幸せ之助「あるねぇ。」

ハニ丸「困ったらどうするんですか?」

幸せ之助「困ればいい。」

ハニ丸「えぇ!?」

幸せ之助「迷えばいい。」

ハニ丸「いやいや。」

幸せ之助「失敗すればいい。」

ハニ丸「いやいやいや。」

幸せ之助「遠回りもすればいい。」

ハニ丸「師匠としてどうなんですかそれ。」

幸せ之助「ニャハハハ♪」

幸せ之助さんは笑いながら言った。

幸せ之助「だってそれ全部必要だから。」

ハニ丸「......。」

幸せ之助「ボクが答え教えちゃったら。」

ハニ丸「......。」

幸せ之助「ハニ丸くんの埋蔵金じゃなくなる。」

その言葉に、
ボクは何も言えなくなった。



幸せ之助「1年目は土台。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「ここから2年は宝探し。」

ハニ丸「......。」

幸せ之助「そして3周年の日。」

幸せ之助さんはニヤリと笑った。

幸せ之助「どんな顔になってるか見せて。」



ハニ丸「......。」

なんだろう。

寂しいはずなのに。

少しだけワクワクもしていた。

リナ「大丈夫。」

ハニ丸「え?」

リナ「ちゃんと成長してるから。」

ハニ丸「......。」

リナ「1年前のハニ丸くんなら心配だったけど。」

ハニ丸「今は?」

リナさんは優しく笑った。

リナ「今は大丈夫。」



幸せ之助さんは出口へ向かった。
リナさんも続く。

幸せ之助「じゃあね。」

ハニ丸「......はい。」

幸せ之助「宿題忘れないように。」

ハニ丸「宿題?」

幸せ之助「猫の神様。」

ハニ丸「あ。」

幸せ之助「厨房ね。」

ハニ丸「......分かりました。」

幸せ之助「よろしい。」

カラン♪

ドアが開く。

そして――

2人は店を出ていった。



ボクはしばらくその扉を見つめていた。

2年。
長いような。
短いような。

でもきっと。
あっという間なんだろう。

テーブルの上には、1年分の宿題ノート。
そしてその隣には、小さな猫の神様。

ボクは猫の神様を見つめた。
今日聞こえた、あの不思議な声。
「ニャーニャー。」
あれは一体何だったんだろう。

幸せ之助さんは言っていた。
『まぁ、そのうち分かるよ。』
『分からないままかもしれないけど。』
『たぶんそのうち分かる。』

相変わらず意味は分からなかった。

でも――
その時のボクはまだ知らなかった。
幸せ之助さんが言っていた意味を。

そして、半年後。
その言葉の意味を、
思い知ることになるなんて。

想像もしていなかったのだった。

⑩ 猫の神様の声

それから半年が経った。
野良猫のクレープは、相変わらず少しずつ成長していた。

1周年の日から、ボクは幸せ之助さんに言われた通り、猫の神様をキッチンカーの厨房の中に置くようになった。

正直、最初は意味が分からなかった。

ハニ丸「なんでここなんだろうなぁ。」

そう思いながらも、
営業の日には必ず猫の神様を厨房の端に置いた。

たまに――
カラン♪
と音が鳴る。

そして時々――
猫の神様「ニャーニャー。」

ハニ丸「……。」

ハニ丸「今の、やっぱり聞こえてるよなぁ。」

でも、それ以上のことは何も起きなかった。
猫の神様は相変わらず、
小さな置物のままだった。



その日は閉店間際だった。
最後のお客様が帰り、
ボクは片付けを始めていた。

すると――
見覚えのある女性が、
ゆっくりとキッチンカーへ近付いてきた。

ハニ丸「あ。」

以前、一度だけ来てくれたお客様だった。
たしかあの時は、
「高いクレープ屋ね。1番安いの。」
そう言われたのを覚えている。

正直、あまり良い印象ではなかった。



女性客「……。」

女性はメニューを見上げた。

そして――

女性客「こないだ食べたけど。」

ハニ丸「はい。」

女性客「高い割に大したことなかった。」

ハニ丸「……。」

女性客「それだけ。」

そう言うと、
女性はそのまま立ち去っていった。



静かな時間が流れる。

1年前のボクだったら、
きっと引きずっていたと思う。

なんなんだよ。
わざわざ言いに来るなよ。
そんなふうに思っていたかもしれない。

でも――
不思議と今は違った。

ハニ丸『あの人には合わなかったんだな。』

ただ、そう思った。

そして自然と、
いつものお客様たちの顔が浮かんだ。

「今日も来たよ。」
「また来ちゃった。」
「ハニ丸くんのクレープ好きなんだよね。」
そう言ってくれる人たち。
ボクのお店を好きでいてくれる人たち。

ハニ丸『全員に好かれなくてもいい。ボクのお店を好きでいてくれる人たちを大事にしよう。』

そう思った。

その時だった。



カラン♪

厨房の奥で、
小さな音が鳴った。

ハニ丸「ん?」

ボクは振り返った。

そこには、
いつもの猫の神様。
いつもの置物。
いつものドヤ顔。

そして――

猫の神様「お前さん。」

ハニ丸「……え?」

猫の神様「ようやくワシの声が聞こえるようになったかのぉ。」

ハニ丸「……。」

ハニ丸「……えぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」

猫の神様「うるさいのぉ。」

ハニ丸「しゃ、しゃべった!?」

猫の神様「しゃべるわい。」

ハニ丸「え?え?え?猫の神様?」

猫の神様「そうじゃ。」

猫の神様は、
いつものドヤ顔のまま言った。

猫の神様「ワシ、猫の神様じゃ!」

ハニ丸「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」



カラン♪

野良猫のクレープ。
2年目の途中。

ボクはついに――
猫の神様の声を聞いてしまったのだった。


第7章 猫の神様の声

①少しだけ見える景色

あの日。
猫の神様が突然しゃべった後――
実は少しだけ会話をした。



ハニ丸「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」

猫の神様「うるさいのぉ。」

ハニ丸「しゃ、しゃべった!?」

猫の神様「しゃべるわい。」

ハニ丸「猫の神様?」

猫の神様「そうじゃ。」

ハニ丸「本物?」

猫の神様「偽物の猫の神様もおるのか?」

ハニ丸「いや、そうじゃなくて!」

猫の神様「そうじゃないなら本物の猫の神様じゃろうな。」

ハニ丸「意味が分からないんですけど!」

猫の神様「意味も何も無い。ワシは猫の神様じゃ。」

ハニ丸「あ〜もう〜分から〜ん!!」

猫の神様「ニャハハ。」

ハニ丸「笑い方まで師匠っぽいんですけど!」

猫の神様「幸せ之助ちゃんとは仲良しでマブダチだからのぉ♪」

ハニ丸「マブダチ?は?え?友達なんですか?」

猫の神様「マブじゃ、マブ。マ・ブ・ダ・チ!」

ハニ丸「神様が使う言葉のイメージにマブダチとか無いんですけど!」



しばらくそんなやり取りが続いた。

でも――
今思えば、あの時のボクは完全に混乱していた。

猫がしゃべった。
いや、置物がしゃべった。
いや、神様だった。
もう何が何だか分からない。

ハニ丸「と、とりあえず聞きたいこといっぱいあるんですけど!」

猫の神様「あるじゃろうな。」

ハニ丸「商売の神様って何なんですか!?」

猫の神様「ほう。」

ハニ丸「なんでボクにだけ聞こえるんですか!?」

猫の神様「ほうほう。」

ハニ丸「師匠は何者なんですか!?」

猫の神様「ほうほうほう。」

ハニ丸「なんで全部ほうなんですか!」

猫の神様は楽しそうにヒゲを揺らした。
そして――

猫の神様「まぁ。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「今日のところは挨拶だけじゃな。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「続きはまた今度じゃ。」

ハニ丸「いやいやいやいや!」

猫の神様「今日は帰ってゆっくり休むがよい。」

ハニ丸「待ってください!」

猫の神様「明日も営業じゃろ。」

ハニ丸「それはそうですけど!」

猫の神様「寝不足でクレープ焦がしたら大変じゃ。」

ハニ丸「それはそうですけど!」

猫の神様「ではまた明日。」

ハニ丸「ちょっ――」

カラン♪

それっきりだった。
猫の神様は再び置物に戻った。

何が起こったのか分からないまま、
猫の神様のことが頭の中をグルグル回る。

帰って布団に入ったものの。

ハニ丸「……。」

ハニ丸「……。」

ハニ丸「いや寝られるかぁぁぁ!!」



そして翌日。
ボクは見事に寝不足だった。

ハニ丸「あふぅ……。」

大きなあくびをしながらキッチンカーの準備をする。時計を見る。朝6時。

いつもと同じ時間。
いつもと同じ景色。
違うのは――

厨房の棚の上にいる猫の神様だけだった。


ハニ丸「……。」

猫の神様「……。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「……。」

ハニ丸「なんで黙ってるんですか。」

猫の神様「朝は弱い。」

ハニ丸「神様にも朝弱いとかあるんですか。」

猫の神様「知らん。」

ハニ丸「また知らない。」

結局その後も猫の神様は大したことを話してくれなかった。たまに一言。二言。意味深なことを言うだけ。相変わらず説明はしてくれない。



そして営業が始まった。

いつもの常連さん。
いつものお客様。
いつもの1日。

でも――
少しだけ違った。

常連さん「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい?」

常連さん「最近なんだか楽しそうだね。」

ハニ丸「え?」

常連さん「なんか雰囲気変わった。」

ハニ丸「そうですか?」

常連さん「うん。」

そう言って笑った。

また別の日。

常連さん「この前おすすめしてくれたやつ、美味しかったよ。」

ハニ丸「本当ですか?」

常連さん「うん。また食べたい。」

また別の日。

お客様「今日も来ちゃった。」

ハニ丸「ありがとうございます。」

お客様「だって来たくなるんだもん。」

そんな言葉を聞くたびに。
なぜだろう。
以前より少しだけ心に残るようになった。



夜、宿題ノートを書いている時だった。

ハニ丸「……。」

ボクはペンを止めた。

最近、お客様の言葉が妙に気になる。
前から同じようなことは言われていたはずなのに、なぜだろう......。

今は少し違って聞こえる。

カラン♪

棚の上から音がした。
猫の神様がこちらを見ている。

猫の神様「気になるかの。」

ハニ丸「何がですか?」

猫の神様「その言葉じゃ。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「良いぞ。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「それでいい。」

ハニ丸「何がですか?」

猫の神様「気になるということはの。」

猫の神様は少しだけ笑った。

猫の神様「聞こえ始めとる。」

ハニ丸「何がですか?」

猫の神様「商売の神様の声じゃ。」

ハニ丸「……は?」

猫の神様「ニャハハ。」

ハニ丸「いや説明してくださいよ!」

猫の神様「まだ早い。」

そう言うと、猫の神様はまた黙ってしまった。



ボクは知らなかった。

商売の神様の声が、
空から聞こえる声でも、
神様だけに聞こえる特別な声でもないことを。

そして――
ボクはずっと前から、
その声を聞いていたことを。

② 神様の声の正体

翌日、ボクは営業の準備をしながら考えていた。

商売の神様の声。
昨日からずっと頭の中をグルグルしている。

ハニ丸「......。」

厨房の棚を見る。
猫の神様は今日もドヤ顔だった。

ハニ丸「猫の神様。」

猫の神様「なんじゃ。」

ハニ丸「商売の神様って何なんですか?」

猫の神様「商売の神じゃ。」

ハニ丸「そのまんま!説明を聞きたいんです!」

猫の神様「商売に関することに携わる神じゃ。」

ハニ丸「説明になってないんですよ。」

猫の神様「質問には単刀直入に答えておる。お前さんの質問の仕方が悪いんじゃ。」

猫の神様は気にした様子もない。

ハニ丸「じゃあ、聞きますけど、もしかして。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「空から声が聞こえるんですか?」

猫の神様「聞こえん。」

ハニ丸「夢の中とか?」

猫の神様「出てこん。」

ハニ丸「頭の中に直接!?」

猫の神様「入らん。」

ハニ丸「じゃあ何なんですか!」

猫の神様は呆れたように首を振った。

猫の神様「お前さん。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「商売の神を何だと思っとる。」

ハニ丸「神様です。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「神様だから。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「神っぽいと思います。」

猫の神様「お前さん......。」

ハニ丸「え?なんですか?」

猫の神様「算数だけでなく、国語も怪しいのぉ。」

ハニ丸「え?」

ボクは少し考えた。
国語も怪しいと言われたのは図星だった。
でも、商売の神様のことをボクは知りたかった。

ハニ丸「雲の上とかにいるんですか?」

猫の神様「おらん。」

ハニ丸「いないんですか。」

猫の神様「そんな暇じゃない。」

ハニ丸「ダメだぁ。ヒントください、ヒント!」

猫の神様はニヤリと笑った。

猫の神様「では質問じゃ。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「1周年の日。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「おじさんおったじゃろ。」

あの酔っ払いのおじさん。
まだ探偵を信じているおじさん。

ハニ丸「え!まさか!」

猫の神様「ん?なんじゃ?どうした?」

ハニ丸「あのおじさんが商売の神様だったんですか!?」

猫の神様「あのおじさんは。」

ハニ丸「あの、おじさんは?」

猫の神様「おじさんじゃ。」

ハニ丸「引っ掛け問題!?」

猫の神様「話の途中でお前さんが勝手に『え!まさか!』とか言い出しただけじゃろうが。何が『引っ掛け問題!?』じゃ。」

ちーん。



猫の神様「ビターチョコのクレープ作ったじゃろ。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「なんで作った?」

ハニ丸は少し考えた。

ハニ丸「甘すぎるのが苦手って言ってたから。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「男1人でも買いやすいのがあったらいいなって言ってたから。」

猫の神様「うむ。」

猫の神様は尻尾を揺らした。

猫の神様「それじゃ。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「それが商売の神の声じゃ。」

ボクは固まった。

ハニ丸「......え?」

猫の神様「おじさんが喋ったじゃろ。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「ちゃんと聞いたじゃろ。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「だから作ったじゃろ。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様は大きく頷いた。

猫の神様「それじゃ。」

ハニ丸「いやいやいや。」

猫の神様「なんじゃ。」

ハニ丸「それおじさんの声ですよ。」

猫の神様「そうじゃ。」

ハニ丸「神様じゃないじゃないですか。」

猫の神様「神じゃ。」

ハニ丸「どっちなんですか!」

猫の神様は楽しそうに笑った。



猫の神様「ニャハハ。」

猫の神様「お前さんはまだ分かっとらんのぉ。」

そして猫の神様は少しだけ真面目な顔になった。

猫の神様「神はの。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「大体、人間の言葉を借りて喋るんじゃ。」

ハニ丸は思わず黙った。

猫の神様「お客さん。常連さん。取引先。仲間。その辺でたまたま出会う人間。時には嫌な出来事。」

猫の神様は続けた。

猫の神様「ヒントはずっと出しとる。でも余裕が無いと聞こえん。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「だから1年目に心の余裕を作ったんじゃろ。」

③ ずっと聞いていた声

ハニ丸「……。」

しばらく言葉が出なかった。
神様は人の言葉を借りて喋る。

そう言われても、
すぐには理解できなかった。

ハニ丸「でも。」

猫の神様「なんじゃ。」

ハニ丸「そんなのただの会話じゃないですか。」

猫の神様「そうじゃ。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「会話じゃ。」

ハニ丸「いや、だから。」

猫の神様「だから何じゃ。」

ハニ丸「神様の声には聞こえないんですけど。」

猫の神様は大きくため息をついた。

猫の神様「お前さん。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「クレープ屋を始めて何年じゃ。」

ハニ丸「1年半くらいです。」

猫の神様「その間、お客さん何人来た。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「何千人じゃ?」

ハニ丸「いや、分からないです。」

猫の神様は頷いた。

猫の神様「その中で。何人がお前さんにヒントをくれたと思う?」

ハニ丸は黙った。

猫の神様「1人か?10人か?100人か?」

そして小さく笑った。

猫の神様「ほとんど全員じゃ。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「じゃが、余裕が無いと聞こえん。」

その言葉を聞いた瞬間。
ふと、色々な出来事が頭に浮かんだ。

「甘過ぎるのは苦手なんだよね。」
あのおじさん。

「この前おすすめしてくれたやつ美味しかった。」
常連さん。

「また来ちゃった。」
笑顔のお客様。

「もう少し小さいサイズない?」
子ども連れのお母さん。

「男1人だと入りづらいんだよね。」
サラリーマンのお客さん。

ハニ丸「あ……。」

猫の神様「思い出したか。」

ハニ丸「いっぱいあります。」

猫の神様は満足そうに頷いた。

猫の神様「ずっと喋っとったんじゃ。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「商売の神は忙しいからのぉ。」

ハニ丸「忙しい?」

猫の神様「直接一人一人に説明なんかしてられん。」

ハニ丸「そんな理由なんですか。」

猫の神様は真顔だった。

猫の神様「そんな理由じゃ。」

ハニ丸「もっと神秘的な理由かと思いました。」

猫の神様「だから人間を使う。」

そして少しだけ真面目な声になる。

猫の神様「お客さんの口を借りる。常連さんの口を借りる。時にはクレームを入れたりな。」

ハニ丸「クレームも?」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸は眉をひそめた。

猫の神様「嫌な言葉だから全部無視。褒め言葉だから全部正解。そんな単純な話ではない。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「大事なのは。その言葉の奥に何があるかじゃ。」

ボクは静かに考えた。
確かにそうだった。
「高い。」
と言われたこともある。
でも、
「高いけどまた来た。」
と言ってくれる人もいた。
「待ち時間長い。」
と言われたこともある。
でも、
「待ってでも食べたい。」
と言ってくれる人もいた。

ハニ丸「あ……。」

猫の神様「見えてきたか。」

ハニ丸「少しだけ。」

猫の神様は満足そうに笑った。

猫の神様「良い。」

そして、いつになく優しい声で言った。



猫の神様「お前さんはの。もうずっと聞いておったんじゃ。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「聞こいておった。じゃが意味が分からなかった。」

ハニ丸は言葉を失った。

猫の神様「だから1年目は余裕を作った。2年目は意味を知る。」

カラン♪

小さく音が鳴る。

猫の神様「ここからじゃぞ。」



そしてボクはまだ知らなかった。

商売の神様の声は、
聞こえるようになったら終わりではない。

むしろ――
そこからが本当の始まりだったことを。

④ 心の余裕の本当の意味

カラン♪

猫の神様の声が静かに響いた。

猫の神様「ここからじゃぞ。」

ハニ丸「ここからって。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「でも。」

猫の神様「なんじゃ。」

ハニ丸「最近は前より見えてる気がします。」

猫の神様「ほう。」

ハニ丸「お客さんの顔も見えるし。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「何を考えてるのか気になるし。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「商売も前より楽しいです。」

猫の神様は満足そうに頷いた。

猫の神様「それで良い。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「むしろ、それが大事なんじゃ。」

ボクは少し首を傾げた。

ハニ丸「でも、それって普通じゃないですか?」

猫の神様「普通?」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「普通ではない。」

ハニ丸「そうなんですか?」

猫の神様は少しだけ真面目な顔になった。



猫の神様「お前さん。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「1年目の頃を思い出してみい。」

ボクは少し考えた。

営業が始まる。
売上が気になる。
暇だと不安になる。
失敗すると落ち込む。
忙しくなると焦る。
そんな毎日だった。

猫の神様「その頃。お客さんは見えておったか?」

ボクは少し考えた。

ハニ丸「見てたつもりでした。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「でも今思うと。」

ボクは苦笑いした。

ハニ丸「見えてなかったかもしれません。」

猫の神様は頷いた。

猫の神様「そうじゃ。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「余裕が無い時はの。お客さんを見る。ではなく。お客さんを通して自分を見てしまう。」

ハニ丸「自分?」

猫の神様「そうじゃ。」

猫の神様は続けた。

猫の神様「売れた。嬉しい。売れない。不安。
褒められた。嬉しい。文句を言われた。落ち込む。」

ハニ丸「......。」

猫の神様「全部、自分が中心じゃ。」

ボクは何も言えなかった。
図星だった。

猫の神様「それが悪い訳ではない。誰でも最初はそうじゃ。」

猫の神様は優しく言った。



猫の神様「じゃが。余裕ができると変わる。」

ハニ丸「変わる?」

猫の神様「うむ。売れた。嬉しい。ではなく、なんで喜んでくれたんじゃろう。」

ハニ丸「......。」

猫の神様「また来た。嬉しい。ではなく、なんでまた来てくれたんじゃろう。」

ハニ丸「......。」

猫の神様「高い。ムカつく。ではなく、何がそう思わせたんじゃろう。」

ハニ丸「あ……。」

猫の神様は笑った。

猫の神様「やっと自分以外を見る余裕ができたんじゃ。」

ボクは静かに頷いた。
確かにそうだった。

最近のボクは、
お客様の言葉の理由が気になっていた。

なんで喜んでくれたんだろう。
なんで来てくれたんだろう。
なんでそう思ったんだろう。

猫の神様「余裕とはの。」

猫の神様はゆっくり言った。

猫の神様「楽になることではない。暇になることでもない。悩みが無くなることでもない。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「周りを見る余裕ができることじゃ。」

カラン♪

小さく音が鳴った。

猫の神様「そして、周りが見えるようになると。」

ハニ丸「なると?」

猫の神様「次は自分が見えてくる。」

ハニ丸「自分……。」

猫の神様は意味深に笑った。

猫の神様「そこからが2年目の本番じゃ。ニャハハ。」



ボクはまだ知らなかった。

お客様の言葉の中に、
商売のヒントが隠れていたように。

自分自身の中にも、
まだ見つけていない宝物が眠っていることを。

そして――

その宝物こそが、
幸せ之助さんが言っていた
「ハニ丸埋蔵金」の正体だったのだった。

⑤ 神様は答えを教えない

カラン♪

猫の神様は楽しそうにヒゲを揺らした。

猫の神様「そこからが2年目の本番じゃ。」

ハニ丸「……。」

ハニ丸「じゃあ。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「ボクの埋蔵金って何なんですか?」

猫の神様「知らん。」

ハニ丸「即答!」

猫の神様「ニャハハ。ワシは即答選手権ベスト8まで行ったからのぉ。」

ハニ丸「え?師匠もそれに出てベスト16とか言ってましたけど、まさか本当にあるんですか?その選手権て?」

猫の神様「ああ、幸せ之助ちゃんを破ってワシはベスト8まで勝ち上がったからのぉ。」

ハニ丸「ええ〜!?じゃあ、本当にあるんですね?」

猫の神様「ない。本当はない。冗談じゃ。」

ハニ丸「それならさっき本当にあるんですか?って聞いた時に即答しましょうよ。」

猫の神様「そういうとこじゃな、ワシがベスト8止まりだったのも。」

ハニ丸「だから、その選手権ないんですよね?」

猫の神様「ない。」

ハニ丸「話戻していいですか?」

猫の神様「勝手にせい。」

ハニ丸「ボクのハニ丸埋蔵金て何だと思いますか?」

猫の神様は尻尾をゆらゆら揺らした。

猫の神様「お前さん。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「宝探ししたことあるか?」

ハニ丸「あります。」

猫の神様「宝の地図を渡されての。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「掘る前に答えを聞くか?」

ハニ丸「聞きません。」

猫の神様「なぜじゃ。」

ハニ丸「つまらなくなるから。」

猫の神様「そういうことじゃ。」

ハニ丸「……。」



猫の神様は満面の笑みを浮かべた。

猫の神様「じゃがの。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「本当はそれだけではない。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「もっと大事な理由がある。」

猫の神様は少しだけ真面目な顔になった。

猫の神様「もしワシが。お前さんの埋蔵金はこれじゃ。お前さんの個性はこれじゃ。そう教えたらどうなると思う?」

ハニ丸は少し考えた。

ハニ丸「信じると思います。」

猫の神様「じゃろうな。」

ハニ丸「師匠が言うなら尚更。」

猫の神様「うむ。」

猫の神様は静かに頷いた。

猫の神様「じゃが。それはワシの答えじゃ。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「お前さんの答えではない。」

店の中が静かになる。

猫の神様「教わった答えは便利じゃ。早いし。失敗も少ない。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「じゃがな。教わった答えは、大体みんな同じところに辿り着く。」

ハニ丸「同じところ?」

猫の神様「うむ。本で読んだ答え。先生に教わった答え。誰かの成功法則。全部役には立つ。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「じゃが。」

猫の神様はニヤリと笑った。

猫の神様「個性にはならん。」

ボクは思わず黙った。

猫の神様「マスターを見てみい。」

ハニ丸「あ。」

猫の神様「誰かに。"あなたの個性は正直者です。正直を極めなさい。"そう教わったと思うか?」

ハニ丸「思いません。」

猫の神様「そうじゃろ。」

猫の神様は笑った。

猫の神様「損もした。失敗もした。遠回りもした。それでも正直を続けた。だから今のマスターがおる。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「真似しようと思えばできるぞ。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「正直者のフリくらいはな。」

ハニ丸「あ……。」

猫の神様「じゃが。マスターにはなれん。」



ハニ丸は静かに頷いた。
確かにそうだった。
マスターの言葉には説得力がある。
あれは技術ではない。
生き方そのものだ。

猫の神様「お前さんも同じじゃ。」

ハニ丸「ボクも?」

猫の神様「うむ。」

猫の神様「ワクワクすることがあるじゃろ。」

ハニ丸「あります。」

猫の神様「それを掘るんじゃ。」

ハニ丸「掘る……。」

猫の神様「もっと深く。もっと深く。もっと深くじゃ。」

猫の神様は続けた。

猫の神様「誰かを喜ばせて嬉しかった。なんで嬉しかった?また来てくれた。なんでまた来てくれた?夢中になった。なんで夢中になった?そうやって掘る。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「するとの。」

猫の神様は優しく笑った。

猫の神様「お前さんにしか見つからん宝物が出てくる。」

ハニ丸「ボクにしか……。」

猫の神様「そうじゃ。」

猫の神様「だからワシは教えん。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「ヒントは出す。」

ハニ丸「ヒント。」

猫の神様「うむ。じゃが掘るのはお前さんじゃ。」



しばらく沈黙が流れた。

ハニ丸「なんか。」

猫の神様「なんじゃ。」

ハニ丸「大変そうですね。」

猫の神様「大変じゃ。」

ハニ丸「即答。」

猫の神様「ニャハハ。遠回りもする。失敗もする。迷子にもなる。」

ハニ丸「嫌だなぁ。」

猫の神様「じゃが。」

猫の神様は満足そうに笑った。

猫の神様「それが1番面白い。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「野良猫もそうじゃ。誰かの真似をして生きとらん。必死に生きながら、自分の道を見つける。」

猫の神様はボクを見た。

猫の神様「お前さんも野良猫になるんじゃ。」

カラン♪

小さな音が鳴った。



ボクはまだ知らなかった。

自分の中に眠る宝物が、
どんな形をしているのか。

でも――
その宝物を見つけるための地図は、
もう手の中にあった。

褒められたこと。
嬉しかったこと。
夢中になったこと。

そして――
心がワクワクしたこと。

次の2年間は、
その地図を頼りに進む旅になるのだった。


第8章 野良猫の教え

①野良猫は誰の真似もしない

それから数日後。
営業前の準備をしながら、
ボクは宿題ノートを見返していた。

幸せ之助さん。
猫の神様。
2人とも同じようなことを言う。

答えは教えない。
自分で掘れ。
ワクワク探知機を信じろ。
でも――
どうしてなんだろう。

そんなことを考えていると。

カラン♪

棚の上から音がした。

猫の神様「難しい顔しとるのぉ。」

ハニ丸「してます?」

猫の神様「しておる。」

ハニ丸「実はちょっと気になってることがあって。」

猫の神様「なんじゃ。」

ハニ丸「師匠。」

猫の神様「幸せ之助ちゃんか。」

ハニ丸「はい。」

ハニ丸「昔から野良猫リスペクトって言ってたじゃないですか。」

猫の神様「あぁ。」

ハニ丸「結局あれって何なんですか?」

猫の神様は少しだけ笑った。

猫の神様「良い質問じゃ。」

ハニ丸「やっと褒められた。」

猫の神様「100回に1回くらいはな。」

ハニ丸「少なっ!」

猫の神様「ニャハハ。」



猫の神様は窓の外を見た。
するとちょうど、
駐車場の端を1匹の野良猫が歩いていた。

猫の神様「あれじゃ。」

ハニ丸「猫?」

猫の神様「うむ。」

野良猫は誰に言われるでもなく歩いている。
誰かの顔色をうかがう訳でもない。
堂々としている。

猫の神様「お前さん。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「あの猫は誰かの真似をしとるか?」

ハニ丸「してないと思います。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「たぶん。」

猫の神様「たぶん?」

ハニ丸「猫社会のこと知らないので。」

猫の神様「確かに。」

猫の神様は頷いた。

猫の神様「じゃがな。あの猫は毎日必死じゃ。」

ハニ丸「必死?」

猫の神様「飯を探す。危険を避ける。寝る場所を探す。生きる。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「誰かに正解を教わる暇なんか無い。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「だから見る。聞く。感じる。考える。」

猫の神様は続けた。

猫の神様「そして、自分で決める。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「それが野良猫じゃ。」



しばらく沈黙が流れた。

猫の神様「人間はの。すぐ答えを探したがる。」

ハニ丸「耳が痛いです。」

猫の神様「知っとる。」

ハニ丸「バレてた。」

猫の神様「ニャハハ。」



猫の神様「このやり方で合っとるか。失敗しないか。正解はどれか。みんなそればかり聞く。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「じゃが。」

猫の神様は優しく笑った。

猫の神様「人生に正解はあまり無い。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「あるのは、お前さんの答えだけじゃ。」

ボクは思わず猫の神様を見た。

猫の神様「だから幸せ之助ちゃんは教えんかった。ヒントはやったがな。」

ハニ丸「あ。」

猫の神様「だからワシも教えん。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「自分で見つけるんじゃ。」

駐車場の野良猫は、
いつの間にか姿を消していた。

猫の神様「野良猫はの。自由だからカッコいいわけでない。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「必死に生きとるからカッコいいんじゃ。」

その言葉は、
なぜだか妙に心に残った。
そしてボクは少しずつ理解し始めていた。

幸せ之助さんが言っていた
「野良猫リスペクト」

それは自由気ままに生きることじゃない。
誰かの真似をするのでもない。
必死に見て、
必死に聞いて、
必死に考えて、
自分の答えを見つけること。

その生き方そのものを、
リスペクトしていたのだった。

②必死に見る、必死に聞く


翌日の営業中のことだった。

ハニ丸「ありがとうございましたー!」

お客様を見送る。
そして次のお客様がやって来る。
いつも通り。
本当にいつも通りだった。

でも――
最近のボクは少しだけ違った。

『なんであの人はチョコバナナを選んだんだろう。』
『なんであの人はいつも同じメニューなんだろう。』
『なんであの人は迷わず注文できたんだろう。』

以前なら考えもしなかった。
でも今は気になる。
気付くと、お客様を見ていた。



その日の夜。
宿題ノートを書いていると。

カラン♪

棚の上から音がした。

猫の神様「見とるのぉ。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「お客さん。」

ハニ丸「あ。」

猫の神様はニヤリと笑った。

猫の神様「野良猫みたいになってきた。」

ハニ丸「褒めてます?」

猫の神様「褒めとる。」

ハニ丸「やった。」

猫の神様「100回に1回くらいな。」

ハニ丸「やっぱり少ない。ははは!」

猫の神様も楽しそうに笑った。

猫の神様「お前さん。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「野良猫はな。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「観察の達人じゃ。」

ハニ丸「観察?」

猫の神様「うむ。」

猫の神様は窓の外を見た。

猫の神様「敵がおるか。安全か。食べ物はあるか。雨は降るか。」

ハニ丸「......。」

猫の神様「全部見とる。」

ハニ丸「確かに。」

猫の神様「見てないと死ぬからな。」

ハニ丸「それは必死になりますね。」

猫の神様「じゃろ。」



猫の神様は続けた。

猫の神様「商売も似たようなもんじゃ。」

ハニ丸「商売も?」

猫の神様「うむ。」

猫の神様「お客さんが何を喜ぶか。何に困っとるか。何を求めとるか。何が嫌なんか。」

ハニ丸「......。」

猫の神様「全部ヒントじゃ。」

ボクは少し考えた。

ハニ丸「でも。」

猫の神様「なんじゃ。」

ハニ丸「ボク、そんなに観察力ある方じゃないですよ。」

猫の神様は大きくため息をついた。

猫の神様「また始まった。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「人間の悪い癖じゃ。」

ハニ丸「何がですか?」

猫の神様「すぐ才能の話にする。」

ハに丸「え?」

猫の神様「観察力は才能ではない。」

ハニ丸「......。」

猫の神様「興味じゃ。」

ハニ丸「興味?」

猫の神様「知りたいと思うかどうか。気になるかどうか。それだけじゃ。」

ボクは思い返した。
最近の自分を。

なんで喜んでくれたんだろう。
なんでまた来てくれたんだろう。
なんでそう思ったんだろう。

確かに、見ようとしていた。



猫の神様「お前さん。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「最近、お客さんを見るの楽しいじゃろ。」

ハニ丸「……。」

ハニ丸「楽しいです。」

猫の神様は満足そうに頷いた。

猫の神様「それで良い。興味があるから見る。見るから気付く。気付くから分かる。分かるから面白くなる。」

猫の神様は笑った。

猫の神様「ワクワク探知機が反応しとるんじゃ。」

ハニ丸「あ。」

猫の神様「お前さんの宝物は。そういうところに埋まっとるかもしれんな。」



その言葉を聞いて、
ボクは少しだけ宿題ノートを見つめた。

猫の神様は言っていた。

興味があるから見る。
見るから気付く。
気付くから分かる。

そしてボクはまだ気付いていなかった。

この観察が――
これから自分の個性を見つけるための、
大切な手掛かりになることを。

③褒められたことノート


その日の営業が終わった後、
ボクは宿題ノートを開いていた。
猫の神様に言われた言葉が、
ずっと頭に残っていた。

興味があるから見る。
見るから気付く。
気付くから分かる。

ハニ丸「……。」

何となくページをめくる。

すると、
昔の宿題が目に入った。

・今日も笑顔が良いと言われた
・話しやすいと言われた
・また来るねと言われた
・元気をもらったと言われた
・おすすめしてくれて助かったと言われた

ハニ丸「……。」

気付けば、
似たような言葉がたくさん並んでいた。

カラン♪

棚の上から音がした。

猫の神様「見つけたかの。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「宝物じゃ。」

ハニ丸「宝物?」

猫の神様「うむ。」

猫の神様はノートを指さした。

猫の神様「そこにいっぱい埋まっとる。」

ボクは改めてノートを見る。
でも正直よく分からない。

ハニ丸「褒められたことですよ?」

猫の神様「そうじゃ。」

ハニ丸「宝物なんですか?」

猫の神様「なんで褒められたと思う?」

ハニ丸「え?」

猫の神様「そこじゃ。」

ボクは少し考えた。

笑顔が良い。
話しやすい。
元気をもらった。

ハニ丸「うーん……。」

猫の神様「分からんか。」

ハニ丸「分からないです。」

猫の神様「算数と国語だけじゃなく、探し物も苦手じゃな。」

ハニ丸「失礼なんですけど。」

猫の神様「ニャハハ。」



そして猫の神様は少しだけ真面目な顔になった。

猫の神様「お前さん。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「人はな。」

猫の神様「当たり前にできることほど気付かん。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「自分にとって普通だからじゃ。」

ボクは黙った。

猫の神様「じゃから褒められても。そんなこと普通じゃろ。たまたまじゃろ。運が良かっただけじゃろ。そうやって流してしまう。」

ハニ丸「……。」

図星だった。

猫の神様「じゃがの。何回も同じことを言われるなら。そこに何かある。」

ハニ丸はもう一度ノートを見た。

話しやすい。
相談しやすい。
また来るね。
元気をもらった。
会いに来た。

似た言葉が、何度も何度も出てくる。

ハニ丸「あ……。」

猫の神様「気付いたか。」

ハニ丸「ちょっとだけ。」

猫の神様は嬉しそうに笑った。

猫の神様「良い。」

猫の神様「埋蔵金はの。」

猫の神様「いきなり見つからん。じゃが掘ると少しずつ見えてくる。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「まずは集めるんじゃ。」

ハニ丸「集める?」

猫の神様「褒められたこと。喜ばれたこと。感謝されたこと。」

猫の神様はニヤリと笑った。

猫の神様「お前さんが当たり前だと思っとることの中に。宝物が埋まっとるかもしれんぞ。」

ボクは静かにノートを閉じた。
まだ何が宝物なのかは分からない。

でも――
少しだけワクワクしていた。

自分の中にある何かを、
探してみたくなったからだ。

そしてボクはまだ知らなかった。
宝物を掘るためには、
褒められたことだけでは足りないことを。

本当に大事なヒントは――
むしろ、
嫌だったことの中にも埋まっていたのだった。

④嫌だったことノート


翌日の夜。
ボクは宿題ノートを開いていた。

昨日、猫の神様は言った。

『褒められたことの中に宝物が埋まっとる。』

なら――
嫌だったことの中にも、
何か埋まっているんじゃないだろうか。

そんなことを考えながら、
ボクはページをめくった。

そこに書いてあったのは――
嫌だったこと。
失敗したこと。
落ち込んだこと。

・高いと言われた
・待ち時間が長いと言われた
・甘すぎると言われた
・無愛想なお客様に落ち込んだ
・注文を間違えて焦った
・忙しくて笑顔が引きつった

ハニ丸「……。」

以前なら、ただ嫌な思い出だった。
でも今は少し違う。

『何かあるのかな。』
気付けば、そんな目で見ていた。

カラン♪

棚の上から音がした。

猫の神様「掘っとるのぉ。」

ハニ丸「掘ってます。」

猫の神様「良い。」

ハニ丸「宝探し中です。」

猫の神様「ニャハハ。」

猫の神様は楽しそうに笑った。



猫の神様「で。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「何か見つかったか?」

ハニ丸「まだ分かりません。」

猫の神様「ほう。」

ハニ丸「でも。」

ボクはノートを見た。

ハニ丸「なんで嫌だったんだろうって考えてます。」

猫の神様は満足そうに頷いた。

猫の神様「そこじゃ。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「そこを掘るんじゃ。」

ボクは最初のページを見た。

『高いと言われた。』

ハニ丸「……。」

猫の神様「なんで嫌だった?」

ハニ丸「それは……。」

少し考える。

ハニ丸「一生懸命作ってたからです。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「美味しいと思ってたし。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「喜んでほしかったから。」

猫の神様は静かに頷いた。

猫の神様「そうじゃな。」

次のページを見る。

『待ち時間が長いと言われた。』

ハニ丸「これは……。」

猫の神様「なんじゃ。」

ハニ丸「申し訳なかったからです。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「待たせたくなかった。」

猫の神様「うむ。」

次のページ。

『甘すぎると言われた。』

ハニ丸「これは。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「自分では良いと思ってたからです。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「でも。」

ハニ丸は少し考えた。

ハニ丸「その人には違ったんですよね。」

猫の神様「そうじゃ。」



猫の神様は静かに言った。

猫の神様「嫌だったことにはの。お前さんが大事にしとるものが隠れとる。」

ハニ丸「大事にしているもの。」

猫の神様「そうじゃ。喜んでほしい。待たせたくない。美味しいと思ってほしい。」

ハニ丸「......。」

猫の神様「全部、お前さんの想いじゃ。」

ハニ丸「……。」

ボクはノートを見つめた。

嫌だったこと。
失敗したこと。
落ち込んだこと。
そこには、
ただの嫌な思い出が書いてある訳じゃなかった。

自分が何を大切にしているのか。
何を届けたいと思っているのか。
そのヒントが隠れていた。

猫の神様「それにな。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「嫌だったことは、お店の輪郭も教えてくれる。」

ハニ丸「輪郭?」

猫の神様「うむ。」

猫の神様「高いと思う人もおる。甘すぎると思う人もおる。待てん人もおる。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「全員を満足させることはできん。」

ボクは静かに頷いた。

それは、
この一年半で少しずつ分かってきたことだった。

猫の神様「じゃから考えるんじゃ。」

ハニ丸「何をですか?」

猫の神様「誰を喜ばせたいのか。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「どんな店にしたいのか。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「どんな自分でいたいのか。」

その言葉を聞いた時、
ボクは少しだけ気付いた。

褒められたことは、
自分の得意を教えてくれる。

嫌だったことは、
自分の大切なものを教えてくれる。

どちらも――
埋蔵金へ続く地図だった。



そしてボクはまだ知らなかった。

褒められたこと。
嫌だったこと。

その両方を掘り続けた先に――
ようやく見つかる宝物があることを。

その宝物こそが、
幸せ之助さんの言う
『ワクワク探知機』
と深く繋がっていたのだった。

⑤ワクワク探知機


その夜、ボク1人で宿題ノートを見ていた。

褒められたこと。
嫌だったこと。
嬉しかったこと。
悔しかったこと。

気付けば、
色んな出来事が少しずつ繋がり始めていた。

ハニ丸「……。」

笑顔が良いと言われた。
また来るねと言われた。
会いに来たと言われた。
待たせたくなかった。
喜んでほしかった。
美味しいと思ってほしかった。

ハニ丸「あ。」

その瞬間、頭の中で何かが繋がった気がした。

カラン♪

棚の上から音がする。
猫の神様がこちらを見ていた。



猫の神様「何か見つけたかの。」

ハニ丸「……たぶん。」

猫の神様「ほう。」

ハニ丸「ボク。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「人を喜ばせるのが好きなのかもしれません。」

猫の神様は静かに笑った。

猫の神様「やっとか。気付くの遅いのぉ。」

ボクは苦笑いした。

でも、なぜだろう。
嫌な気はしなかった。

ハニ丸「でも、そういえば。」

猫の神様「なんじゃ。」

ハニ丸「師匠にも似たようなこと言われた気がします。」

猫の神様はニヤリと笑った。

猫の神様「言うとったな。」

ハニ丸はノートを閉じた。

あの1周年の日の営業が終わった夜。
幸せ之助さんは宿題ノートを見ながら言っていた。

ボクが人を喜ばせるのが好きで、誰かの為に考える事が好きなんじゃ無いかって。
確か、そんなことを言われた。

ハニ丸「その時も。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「大事なことを言われた気はしてたんです。」

猫の神様「じゃろうな。」

ハニ丸「でも。」

ボクは少し考えた。

ハニ丸「今とは違うんです。」

猫の神様「ほう。」

ハニ丸「あの時は。」

ハニ丸「師匠に言われた答えでした。」

猫の神様は黙って聞いている。

ハニ丸「でも今は。」

宿題ノートを見る。

褒められたこと。
嫌だったこと。
お客様の言葉。
ビターチョコのクレープ。
また来てくれる常連さん。
全部が繋がっていた。

ハニ丸「自分で見つけた気がします。」

しばらく沈黙が流れた。
そして。

猫の神様「じゃから教えんのじゃ。」

ハニ丸「え?」



猫の神様は優しく笑った。

猫の神様「答えを聞くのは簡単じゃ。じゃが。自分で辿り着いた答えは。」

猫の神様はゆっくり言った。

猫の神様「誰にも奪われん。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「真似もできん。それがお前さんの答えになる。」

ボクは黙った。

なぜだろう。
その言葉が、すごくしっくりきた。



ハニ丸「あ……。」

そして、もう1つのことにも気付いた。

ハニ丸「だから、師匠たちは。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「2年間、ボクから離れたんですね。師匠たちを頼らずに、ボク自身が気づくために。」

猫の神様は嬉しそうに笑った。

猫の神様「やっと分かったか。」

ハニ丸「はい。」

もし最初から答えを教えられていたら、ボクは分かったつもりになっていたかもしれない。

でも、
実際にお客様と向き合って。
失敗して。
喜んでもらって。
悩んで。
考えて。
宿題ノートを書いて。

そうやって辿り着いたからこそ、今の答えはちゃんと自分のものになっている気がした。

猫の神様「幸せ之助ちゃんもな。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「お前さんが自分で見つける方が楽しいと思っとったんじゃろ。」

ハニ丸「師匠らしいですね。」

猫の神様「ワクワク大好きじゃからな。」

思わず笑った。
確かにその通りだった。



猫の神様「ワクワク探知機というのはの。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「答えを探す道具ではない。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「自分を探す道具じゃ。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「何をしている時に楽しいか。何をしている時に夢中になるか。何をしている時に心が動くか。」

猫の神様は笑った。

猫の神様「そこに埋蔵金が埋まっとる。」



ボクは静かに宿題ノートを見つめた。

人を喜ばせること。
笑顔を見ること。
相手に合わせて考えること。

もしかしたら――
それが、
ボクの埋蔵金の入り口なのかもしれない。



そしてボクはまだ知らなかった。

埋蔵金は、
見つけたら終わりではないことを。

むしろ――
そこから磨き続けることで、
初めて本当の個性になっていくことを。

⑥本当の野良猫のクレープ


それからしばらくして、
ボクは営業の合間に新しいメニューのことを考えていた。
昔からメニューを考えるのは嫌いじゃなかった。

でも最近は少し違う。
ただ新しいクレープを作りたい訳じゃない。

ハニ丸「……。」

宿題ノートを見る。

人を喜ばせるのが好き。
相手に合わせて考えるのが好き。
それが、
ボクの埋蔵金かもしれない。

ハニ丸「じゃあ。」

ふと思った。

ハニ丸「ボクらしいクレープって何だろう。」



その時だった。

カラン♪

猫の神様が尻尾を揺らした。

猫の神様「やっとそこまで来たか。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「個性の話じゃ。」

ハニ丸「あ。」

猫の神様は楽しそうに笑った。

猫の神様「人間はの。個性というと変わったことをしたがる。」

ハニ丸「確かに。」

猫の神様「奇抜な色。変な名前。見たことない組み合わせ。」

ハニ丸「ありますね。」

猫の神様「じゃが。」

猫の神様は首を振った。

猫の神様「それは個性とは限らん。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「目立つだけじゃ。」

ボクは思わず笑った。
確かにそうだった。



猫の神様「お前さん。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「ビターチョコのクレープ覚えとるか。」

ハニ丸は頷いた。

ハニ丸「もちろん。」

あのおじさんの一言から生まれたクレープ。

猫の神様「なんで作った。」

ハニ丸「喜んでほしかったからです。」

猫の神様「うむ。誰に。」

ハニ丸「甘いのが苦手な人に。」

猫の神様「うむ。」

猫の神様は満足そうに頷いた。

猫の神様「それじゃ。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「それが個性の始まりじゃ。」

ハニ丸は少し考えた。

猫の神様「野良猫はの。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「誰かと違うことをしようとは考えん。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「生きるために考える。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「結果として違うだけじゃ。」

その言葉を聞いた瞬間。
何となく分かった気がした。

ハニ丸「あ。」

ボクは今まで、
個性とは特別なものだと思っていた。
でも違う。

誰かを喜ばせたい。
こうしたらもっと良くなるかもしれない。
この人にはこれが合うかもしれない。

そうやって考えていたら、
結果として少しずつ、
自分らしい形になっていく。

猫の神様「そういうことじゃ。」

心を読まれた気がした。



ハニ丸「じゃあ。」

猫の神様「なんじゃ。」

ハニ丸「ボクらしいクレープって。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「ボクが作りたいクレープじゃなくて。」

猫の神様「ほう。」

ハニ丸「ボクが喜ばせたい人のために考えたクレープなのかもしれません。」

猫の神様は大きく頷いた。

猫の神様「良い。」

久しぶりに100点満点の「良い」だった。

ハニ丸「……。」

ふと笑ってしまった。

ハニ丸「なんだ。ボク、ずっと探してたのに。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「もうずっとやってたんですね。」

猫の神様は満足そうに頷いた。

猫の神様「埋蔵金というのはな。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「意外と自分の足元に埋まっとるもんじゃ。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「お前さんはの。相手に合わせて考えるのが好きなんじゃろ。」

ハニ丸「たぶん。」

猫の神様「なら。」

猫の神様はニヤリと笑った。

猫の神様「それを磨けば良い。」

ハニ丸「磨く。」

猫の神様「うむ。埋蔵金は見つけて終わりではない。磨いて初めて宝になる。」

ボクは静かに頷いた。



その夜。
宿題ノートの最後のページに書いた。

『ボクは人を喜ばせるのが好き。』
『相手に合わせて考えるのが好き。』
『だから、そんなクレープを作りたい。』

まだ形にはなっていない。
でも、少しだけ見えた気がした。

ボクだけの答えが。

そしてボクはまだ知らなかった。

その小さな答えが――
これからたくさんのお客様との出会いを通して、
さらに磨かれていくことを。

そしてその先に、
売上や人気だけではない、
もっと大きな宝物が待っていることを。


第9章  幸せの循環

①常連さんという宝物

ある日の営業中だった。

ハニ丸「ありがとうございましたー!」

いつものようにお客様を見送る。

すると。

常連さんA「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい?」

常連さんA「来週来れないんだよね。」

ハニ丸「あら、そうなんですか。」

常連さんA「出張。」

ハニ丸「それは仕方ないですね。」

常連さんA「だから今日2個買う。」

ハニ丸「なんでですか。」

常連さんA「来週の分。」

ハニ丸「絶対持たないですよね。」

常連さんA「バレたか。」

2人で笑った。



その直後。

常連さんB「こんにちはー。」

ハニ丸「あ、こんにちは!」

常連さんB「今日は娘も連れてきた。」

小さな女の子がぺこりと頭を下げる。

ハニ丸「ありがとう。」

女の子「いちご。」

ハニ丸「いちごですね。」

常連さんB「最近ずっと楽しみにしてたんですよ。」

女の子は照れながら頷いた。



さらに。

常連さんC「おーい。」

ハニ丸「あ。」

常連さんC「この前おすすめしてくれたやつ。」

ハニ丸「はい。」

常連さんC「美味かった。」

ハニ丸「良かったです。」

常連さんC「だからまた来た。」

ハニ丸「ありがとうございます。」



気付けば。

いつもの顔。
いつもの会話。
いつもの笑顔。

そんな1日だった。



夜、宿題ノートを書いていると。

カラン♪

猫の神様が現れた。

猫の神様「賑やかじゃったのぉ。」

ハニ丸「そうですね。」

猫の神様「楽しそうじゃった。」

ハニ丸「楽しかったです。」

猫の神様は少しだけ笑った。

猫の神様「お前さん。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「いつの間にか増えたのぉ。」

ハニ丸「何がですか?」

猫の神様「仲間じゃ。」

ハニ丸「仲間?」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「お客様ですよ。」

猫の神様「そうかの。」

ハニ丸は少し考えた。
確かにお客様だ。

でも、
毎週来てくれる人もいる。
顔を見ると安心する人もいる。
しばらく来ないと心配になる人もいる。

ハニ丸「あ……。」

猫の神様「気付いたか。」

ハニ丸「ボク。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「名前覚えてます。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「好きなメニューも。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「仕事の話とか。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「家族の話とかも。」

猫の神様は満足そうに頷いた。

猫の神様「売上は大事じゃ。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「じゃがの。」

猫の神様は静かに言った。

猫の神様「お前さんが本当に集めたのは売上だけか?」

ハニ丸「……。」

その言葉に、今日の1日が頭に浮かんだ。

来週来れないから2個買う常連さん。
娘を連れてきてくれたお母さん。
また来たと言ってくれたお客様。

ハニ丸「違うかもしれません。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「ボク、人との繋がりを集めてたのかもしれません。」

猫の神様は嬉しそうに笑った。

猫の神様「それをな。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「常連さんという宝物と言うんじゃ。」



ボクは静かに宿題ノートを閉じた。

昔のボクは、常連さんが増えると売上が安定すると考えていた。
もちろんそれも間違いじゃない。

でも今は少し違う。

会いに来てくれる人がいる。
応援してくれる人がいる。
笑顔を見せてくれる人がいる。
それは数字では測れない宝物だった。



そしてボクはまだ知らなかった。

この宝物は――
自分が集めようと思って集めたものではなく。

誰かを喜ばせたいと思い続けた結果、
自然と集まってきたものだったことを。

②応援される人

数日後のことだった。
営業が終わり、片付けをしていると。

ハニ丸「ふぅ。」

ふと、駐車場を見た。
今日は平日だった。
それなのに、
思ったよりたくさんのお客様が来てくれた。

ハニ丸「……。」

不思議だった。

もちろん、
立地が良かった日もある。
イベントの日もある。
運が良い日もある。
でも、それだけじゃない気がしていた。



その時だった。

カラン♪

棚の上から音がした。

猫の神様「考え事かの。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「珍しい。」

ハニ丸「失礼ですよ。」

猫の神様「ニャハハ。」

ハニ丸「猫の神様。」

猫の神様「なんじゃ。」

ハニ丸「常連さんのことなんですけど。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「なんで来てくれるんでしょう。」

猫の神様は少し考えた。

猫の神様「クレープが美味いからじゃな。」

ハニ丸「それだけですか?」

猫の神様「違うな。」

ハニ丸「どっちなんですか。」

猫の神様は楽しそうに笑った。

猫の神様「では質問じゃ。」

ハニ丸「またですか。」

猫の神様「またじゃ。」

猫の神様「お前さん。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「今日来た常連さん。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「何年くらい来とる?」

ハニ丸「長い人だと1年以上です。」

猫の神様「ほう。」

ハニ丸「2年近い人もいます。」

猫の神様は頷いた。

猫の神様「その間。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「何回会ったと思う?」

ハニ丸「え?」

猫の神様「10回か?」

ハニ丸「もっとです。」

猫の神様「50回か?」

ハニ丸「それくらいの人もいるかも。」

猫の神様「100回は?」

ハニ丸「いると思います。」

猫の神様は笑った。

猫の神様「じゃろ。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「100回も会って。100回も話して。100回も笑って。何も残らんと思うか?」

ハニ丸は黙った。

確かに、
毎回少しずつ話していた。

仕事の話。
家族の話。
趣味の話。
天気の話。
くだらない冗談。
本当に色んな話をした。

猫の神様「応援というのはの。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「お願いしてもらうもんではない。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「積み重なるもんじゃ。」

猫の神様は続けた。

猫の神様「喜んでもらいたい。待たせたくない。また来てほしい。楽しんでほしい。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「お前さんはずっとやっとった。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「じゃから返ってきただけじゃ。」



その言葉を聞いた時。
ふと、昔のことを思い出した。

開業したばかりの頃。
売上が少なくて。
不安で。
必死だった頃。

それでも一生懸命やっていた。
毎日。
ただひたすら。
目の前のお客様を喜ばせたかった。



ハニ丸「あ……。」

猫の神様「気付いたか。」

ハニ丸「応援って。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「集めるものじゃないんですね。」

猫の神様は満足そうに頷いた。

猫の神様「種みたいなもんじゃ。」

ハニ丸「種。」

猫の神様「うむ。」

猫の神様「毎日少しずつ撒く。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「すぐには咲かん。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「じゃが忘れた頃に咲く。」

ボクは静かに笑った。
確かにそうだった。

今来てくれている常連さんたちも、
昨日できた繋がりじゃない。
何ヶ月も。
何年も。
積み重なったものだった。

猫の神様「だからの。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「応援される人になろうとするな。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「喜ばれる人になれ。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「応援は後から勝手についてくる。」

その言葉はなぜだか、
すごく師匠っぽい気がした。



そしてボクはまだ知らなかった。
応援されることの本当の意味を。

それは――
自分が頑張るための力になるだけじゃない。
誰かの人生にも、
少しずつ幸せを広げていく力になることを。

そのことを、
ボクは次第に知っていくことになるのだった。

③増子ちゃんの存在

それから数日後。

営業が終わり、
ボクと増子ちゃんはカフェの片付けをしていた。

増子ちゃん「終わったー。」

ハニ丸「お疲れ。」

増子ちゃん「疲れた。」

ハニ丸「まだ若いのに。」

増子ちゃん「その言い方、おじさん。」

ハニ丸「失礼だな。」

増子ちゃん「事実。」

2人で笑った。
こんなやり取りも、もう何年目だろう。



初めて会ったのは、
ボクがこのカフェに来た頃だった。

増子ちゃんはまだ中学生。

その後、
高校生になって店を手伝うようになり、
気付けば今もこうして一緒に働いている。

増子ちゃん「そういえばさ。」

ハニ丸「ん?」

増子ちゃん「最近楽しそうだよね。」

ハニ丸「そう?」

増子ちゃん「うん。」

ボクは少し考えた。

ハニ丸「そんなに変わったかな。」

増子ちゃん「変わった。」

即答だった。

ハニ丸「出た、即答。」

増子ちゃん「え?即答がどうかしたの?」

ハニ丸「いや、何でもない。」

即答選手権が頭をよぎったけど、それは言わないことにした。

ハニ丸「ところで、最近のボク、どこが変わったと思うの?」

増子ちゃんは腕を組んだ。

増子ちゃん「前はさ。」

ハニ丸「うん。」

増子ちゃん「今日は暇だったとか。」

ハニ丸「あー。」

増子ちゃん「今日は忙しかったとか。」

ハニ丸「あー。」

増子ちゃん「そんな話ばっかだった。」

ハニ丸「言ってたかも。」

増子ちゃん「言ってた。」



増子ちゃんは続けた。

増子ちゃん「でも最近。」

ハニ丸「うん。」

増子ちゃん「〇〇さん来たとか。」

ハニ丸「うん。」

増子ちゃん「娘さん連れてきてくれたとか。」

ハニ丸「うん。」

増子ちゃん「また来てくれたとか。」

ハニ丸「うん。」

増子ちゃん「そんな話ばっか。」

ボクは思わず笑った。
確かにそうだった。

最近、営業が終わると。

今日はあの人が来てくれた。
こんな話をした。
喜んでくれた。
そんなことばかり考えていた。

ハニ丸「歳かな。」

増子ちゃん「違うと思う。」

ハニ丸「即否定。」

増子ちゃん「即否定。」

2人でまた笑った。



少しだけ沈黙が流れる。

そして。

増子ちゃん「でも。」

ハニ丸「ん?」

増子ちゃん「今の方がハニ丸くんっぽい。」

ハニ丸「どういう意味?」

増子ちゃんは少しだけ考えた。

増子ちゃん「昔からじゃん。」

ハニ丸「何が。」

増子ちゃん「人のこと気にするの。」

ハニ丸「そう?」

増子ちゃん「そう。」

ハニ丸「自覚ない。」

増子ちゃん「知ってる。」

増子ちゃんは笑った。

増子ちゃん「お客さんだけじゃないし。」

ハニ丸「え?」

増子ちゃん「店の人も。」

ハニ丸「……。」

増子ちゃん「マスターも。」

ハニ丸「……。」

増子ちゃん「取引先の人も。」

ハニ丸「……。」

増子ちゃん「みんな。」



ボクは少しだけ考えた。
そう言われると、
昔からそうだったかもしれない。

喜んでほしい。
困っていたら力になりたい。
楽しくいてほしい。
そんなことばかり考えていた気がする。

増子ちゃん「だからさ。」

ハニ丸「うん。」

増子ちゃん「最近変わったんじゃなくて。」

ハニ丸「うん。」

増子ちゃん「元に戻っただけじゃない?」

ハニ丸「元に?」

増子ちゃん「そう。」

その言葉を聞いた瞬間、
なぜだろう。
少しだけ胸が温かくなった。

最近のボクは、自分の埋蔵金を探していた。

人を喜ばせること。
相手に合わせて考えること。
それが自分らしさかもしれないと、
ようやく気付き始めた。

でも、増子ちゃんの言葉を聞いて思った。

もしかしたら、新しく何かになった訳じゃない。
昔から持っていたものを、
思い出しただけなのかもしれない。

増子ちゃん「何ニヤニヤしてるの。」

ハニ丸「してない。」

増子ちゃん「してる。」

ハニ丸「してない。」

増子ちゃん「してる。」

2人で笑った。



その日の帰り道。
ボクはふと思った。

幸せ之助さんも。
猫の神様も。
新しい自分を探せとは言わなかった。

自分を掘れと言った。

きっと。埋蔵金というのはどこか遠くにあるものじゃない。

ずっと前から自分の中にあって、
気付いていなかったものなのだ。



そしてボクはまだ知らなかった。

その埋蔵金は、
1人で磨くものではないことを。
人との繋がりの中で磨かれ、
育ち、大きくなっていくことを。

そのことを、
これから少しずつ知っていくことになるのだった。

④マスターの背中


ある日の夕方だった。
営業も落ち着き、
店内には常連さんが数人残っていた。

ボクはカウンターの中で洗い物をしながら、
何となくその様子を見ていた。



常連さんA「マスター。」

マスター「はい。」

常連さんA「息子の就職が決まったんですよ。」

マスター「それは良かったですね。」

常連さんA「ありがとうございます。」

マスター「頑張ったのは息子さんですよ。」

常連さんA「それでも嬉しくて。」

マスター「そうでしょうね。」

常連さんA「今日は報告したくて来ました。」

マスター「わざわざありがとうございます。」

常連さんは嬉しそうに笑っていた。
マスターも笑っていた。

でも、
特別なことを言っているようには見えなかった。



また別の日。

常連さんB「マスター。」

マスター「はい。」

常連さんB「聞いてくださいよ。」

マスター「どうしました?」

常連さんB「また健康診断で引っかかりまして。」

マスター「あらら。」

常連さんB「甘いもの控えろって。」

マスター「それは大変ですね。」

常連さんB「でもクレープは食べます。」

マスター「ほどほどにしてくださいね。」

店内に笑いが起きる。



また別の日。

学生のお客様「マスター。」

マスター「はい。」

学生のお客様「第一志望受かりました。」

マスター「おめでとうございます。」

学生のお客様「ありがとうございます。」

マスター「頑張りましたね。」

学生のお客様「はい。」

学生は少し照れながら笑った。

そんな光景を、
ボクは何年も見てきた。



営業終了後。
片付けをしながら、ふと聞いてみた。

ハニ丸「マスター。」

マスター「はい。」

ハニ丸「みんなマスターに色んな話しますよね。」

マスター「そうですか?」

ハニ丸「そうですよ。」

マスター「気のせいじゃないですか。」

ハニ丸「絶対違います。」

マスターは少しだけ笑った。

ハニ丸「なんでなんですか?」

マスター「なんでと言われましても。」

ハニ丸「ありますよ。理由。」

マスター「ありませんよ。」

ハニ丸「怪しいなぁ。」

マスター「失礼ですね。」

2人で少し笑った。

しばらくして、
マスターは手を止めずに言った。

マスター「ただ。」

ハニ丸「はい。」

マスター「来てくださった方には。」

ハニ丸「はい。」

マスター「少しでも楽しい時間を過ごして帰ってほしいと思っています。」

ハニ丸「……。」

マスター「それだけですよ。」

静かな言葉だった。

でも、なぜだろう。
その言葉が妙に心に残った。



帰り道。
ボクはその言葉を思い返していた。

少しでも楽しい時間を過ごして帰ってほしい。

それは、
最近、自分が考えていたこととどこか似ていた。

喜んでほしい。
楽しんでほしい。
また来たいと思ってほしい。

気付けば、ボクも同じことを考えていた。

ハニ丸「あ……。」

思わず立ち止まる。

もしかしたら。

ボクが大切にしていること。
人を喜ばせたいと思う気持ち。
人との繋がりを大切にすること。

それは、
幸せ之助さんに教わったものだけじゃない。

ずっと前から、
毎日のように目の前で見ていたものだった。

マスターは教えようとしていた訳じゃない。
語ろうとしていた訳でもない。

ただ、ずっとやっていただけだった。

そしてボクは、
そんな背中を見ながら育っていたのだ。



その時、
少しだけ分かった気がした。

応援される人とは。
特別な人ではない。

目の前の人を大切にすることを、
何年も続けられる人なのかもしれない。

そしてボクはまだ知らなかった。

マスターが何十年も続けてきた
その姿こそが――
お金や人気よりも大きな幸せへ繋がる、
本当の商売の形だったことを。

⑤幸せは人との間にある


ある日の帰り道だった。

ボクは車を走らせながら、
ぼんやりとマスターの言葉を思い出していた。

『少しでも楽しい時間を過ごして帰ってほしい。』

ハニ丸「……。」

不思議だった。

昔のボクなら。
売上が増えた。
お客様が増えた。
人気が出た。
そんなことが嬉しかったと思う。

もちろん今でも嬉しい。
でも、最近は少し違っていた。

『あの人元気そうだったな。』
そんなことを考えている自分がいた。

数日前に来た常連さん。
仕事が大変だと言っていた。
でもその日は笑っていた。

娘さんを連れてきてくれたお母さん。
嬉しそうにクレープを食べる娘さんを見て笑っていた。

就職が決まった学生さん。
報告しに来てくれた。

ハニ丸「……。」

気付けば、思い出すのは売上じゃなかった。
人だった。



その夜。
宿題ノートを書いていると。

カラン♪

猫の神様が現れた。

猫の神様「何を考えとる。」

ハニ丸「幸せについてです。」

猫の神様「珍しい。」

ハニ丸「最近は失礼が多いですね。」

猫の神様「通常運転じゃ。」

ハニ丸は苦笑いした。



ハニ丸「猫の神様。」

猫の神様「なんじゃ。」

ハニ丸「ボク。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「最近、嬉しかったこと思い出そうとすると。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「人の顔ばかり浮かぶんです。」

猫の神様は静かに笑った。

猫の神様「それで良い。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「幸せは1人では作れん。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「美味しかった。ありがとう。また来るね。頑張ってね。全部、人との間に生まれる。」


ハニ丸は黙った。
確かにそうだった。

どんなに売上が増えても。
どんなに有名になっても。
1人で喜ぶより
誰かと笑い合う方が嬉しい。

猫の神様「お金は大事じゃ。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「成功も大事じゃ。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「じゃが。」

猫の神様は優しく笑った。

猫の神様「それだけで幸せにはならん。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「幸せというのはの。人と人の間に咲く花みたいなもんじゃ。」

ボクはその言葉を静かに聞いていた。

帰り際に笑ってくれるお客様。
応援してくれる常連さん。
一緒に働く増子ちゃん。
背中を見せ続けてくれたマスター。
幸せ之助さん。
リナさん。
猫の神様。

ボクの周りにはたくさんの人がいた。

そして、その人たちとの繋がりこそが、
今のボクを幸せにしてくれているのだと
少しだけ分かった気がした。



そしてボクはまだ知らなかった。
幸せの輪は、
そこで終わるものではないことを。

誰かにもらった幸せは、
また別の誰かへ渡っていく。
そうやって広がっていくものなのだということを。

⑥幸せの輪


ある日の営業中だった。

ハニ丸「ありがとうございましたー!」

お客様を見送った時だった。
1人の女性が近付いてきた。

女性「こんにちは。」

ハニ丸「こんにちは。」

女性は少し緊張したように笑った。

女性「実は初めて来ました。」

ハニ丸「ありがとうございます。」

女性「友達に勧められて。」

ハニ丸「あ、そうなんですね。」

女性は頷いた。

女性「すごく元気が出るお店だから行ってみなって。」

ハニ丸「え?」

思わず聞き返した。

女性「クレープも美味しいけど。」

女性は少し笑った。

女性「なんか元気になれるよって。」

ハニ丸「……。」

女性は注文を終え、
クレープを受け取って帰っていった。

でも、その言葉だけが妙に心に残った。



その夜。
宿題ノートを書いていると。

カラン♪

猫の神様が現れた。

猫の神様「どうした。」

ハニ丸「今日ですね。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「元気になる店って言われたんです。」

猫の神様「ほう。」

ハニ丸「そんなつもり無かったんですけど。」

猫の神様は笑った。

猫の神様「だいたいそういうもんじゃ。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「本当に大事なもんほど。本人は気付かん。」

ハニ丸「またそれですか。」

猫の神様「またじゃ。」

ハニ丸は苦笑いした。

猫の神様「その人を連れて来た友達は。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「なんで勧めたと思う。」

ハニ丸「……。」

少し考える。

ハニ丸「喜んでくれたから。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「元気になったから。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「また来たいと思ったから。」

猫の神様「うむ。」

猫の神様は頷いた。

猫の神様「それが輪じゃ。」

ハニ丸「輪。」

猫の神様「お前さんが喜ばせる。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「喜んだ人が誰かを喜ばせる。」

ハニ丸「……。」

猫の神様「そしてまた誰かが幸せになる。」

ボクは静かに聞いていた。

猫の神様「幸せというのはな。」

ハニ丸「はい。」

猫の神様「独り占めすると消える。」

ハニ丸「え?」

猫の神様「渡すと増える。」

ハニ丸は思わず笑った。

ハニ丸「それ変なルールですね。」

猫の神様「幸せは変なもんじゃ。」

猫の神様も笑った。



その時。

ふと、
常連さんたちの顔が浮かんだ。

娘さんを連れて来てくれるお母さん。
友達を紹介してくれる常連さん。
家族にお土産を買って帰るお客様。

気付けば、
ボクは1人で商売をしていた訳じゃなかった。

たくさんの人が、
幸せを繋いでくれていた。

ハニ丸「……。」

猫の神様「なんじゃ。」

ハニ丸「ボク。」

猫の神様「うむ。」

ハニ丸「思ったより幸せ者かもしれません。」

猫の神様は満足そうに頷いた。

猫の神様「今さら気付いたか。」

ハニ丸「遅いですか?」

猫の神様「かなり遅い。」

ハニ丸「ひどい。」

猫の神様「ニャハハ。」



その夜。
宿題ノートの端っこにボクは小さく書いた。

『幸せは集めるものじゃない。』
『繋がっていくもの。』
『そして気付けば、自分の周りに輪になっているもの。』

そして、
この小さな幸せの輪が――

やがて自分の人生そのものを支える、
大きな宝物になっていく。


第10章 卒業

①野良猫のクレープ3周年

ある日の朝だった。
ボクはいつものように営業準備をしていた。

今日は特別な日。
野良猫のクレープ3周年だった。

ハニ丸「3年かぁ。」

思わず呟く。

長かったような。
短かったような。

色んなことがあった。

失敗もした。
悩んだ日もあった。
でも、
無事にこの日を迎えていた。



その時だった。
少し離れたところから2人の人影が見えた。

ハニ丸「……。」

見覚えがあった。
いや、忘れるはずがなかった。

ハニ丸「あ……。」

ボクは思わず立ち止まった。

そこにいたのは――
幸せ之助さん。
そして、リナさんだった。

幸せ之助「おはよう。」

リナ「久しぶり。」

ハニ丸「師匠……。」

2年ぶりだった。
最後に会った日から、
本当に2年経っていた。

ハニ丸「来てくれたんですね。」

幸せ之助「そりゃ来るよ。」

リナ「3周年だもん。」

ボクは思わず笑った。

なんだろう。
嬉しいのに、少しだけ緊張もしていた。

幸せ之助「まだ準備中?」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「じゃあ待つ。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「お客さんだから。」

ハニ丸「師匠なのに。」

幸せ之助「今日はお客さん。」

リナ「私もお客さん。」

ハニ丸「なるほど。」

幸せ之助「特別扱い禁止。」

ハニ丸「厳しい。」

幸せ之助「ニヤリ。」

リナ「そこ笑うところじゃない。」

3人で笑った。



オープン時間になる。

ハニ丸「お待たせしました。」

幸せ之助「はい。」

ハニ丸「ご注文は?」

幸せ之助「おすすめ!」

ハニ丸「またですか。」

幸せ之助「またですけど、何か?」

ハニ丸「何系です?」

幸せ之助「ハニ丸系。」

ハニ丸「何ですかそれ。」

リナ「私も分からない。」

幸せ之助「ボクも分からない。」

ハニ丸「分からないんか〜い!」



クレープを作る。

以前なら緊張していたかもしれない。
でも今は違った。
自然と手が動く。

気付けば幸せ之助さんリナさんと、
笑い合いながら作っていた。



幸せ之助さんはクレープを受け取ると、
ひと口食べた。
もぐもぐ。もぐもぐ。

そして。

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「どうですか?」

幸せ之助「美味し〜〜〜い♪」

ハニ丸「ありがとうございます!」

嘘じゃないことは
幸せ之助さんの表情が物語っていた。

幸せ之助「ちゃんとハニ丸系のクレープだね。」

リナ「うん、ハニ丸系だね!」

ハニ丸「リナさんまで、ハニ丸系って。」

でも、
師匠2人の満足そうな顔が見れたことが
何より嬉しかった。



すると。

常連さんA「おはよう!」

ハニ丸「あ、おはようございます!」

常連さんA「3周年おめでとう!」

ハニ丸「ありがとうございます!」

常連さんA「今日は来ないとね。」

ハニ丸「嬉しいです。」

さらに。

常連さんB「おめでとうございます!」

常連さんC「3年続けるってすごいよね。」

ハニ丸「皆さんのお陰です。」

その後も
いつもの常連さんたちが次々とやって来る。

いつもの会話。
いつもの笑顔。
いつもの景色。

幸せ之助とリナさんは、
少し離れた場所でその様子を見ていた。

リナ「愛されてるね。」

幸せ之助「うん。」

リナ「みんな楽しそう。」

幸せ之助「そうだね。」

幸せ之助さんは少しだけ嬉しそうに笑った。



お昼を過ぎた頃。

幸せ之助「じゃあボクたちは行くね。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「マスターとも話したいし。」

リナ「久しぶりだからね。」

ハニ丸「あ、そうですね。」

幸せ之助「終わったらカフェ来て。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「ノート持ってる?」

ハニ丸「あ。」

幸せ之助「レシピノート。」

ハニ丸「持ってます。」

幸せ之助「よし。」

ハニ丸「……。」

実は2年前のあの日の夜、
幸せ之助さんから、
「思いついたクレープは全部ノートに書いておきな。」
と言われていた。

幸せ之助さんはニヤリと笑った。

幸せ之助「じゃあ後で。」

リナ「またね。」

ハニ丸「はい。」

2人はゆっくり歩いて行った。

ボクはその背中を見送る。
懐かしいような。
嬉しいような。
少しだけ緊張するような。
不思議な気持ちだった。



営業はまだ続く。

でも、
今日が特別な日になることだけは、
なんとなく分かっていた。

営業が終わった後、
2年間書き続けたレシピノートが――

自分自身の成長を証明し、
思いもよらない新しいステージへと
ボクを導いていくことになる。

②レシピノート

営業が終わった頃には、
外はすっかり暗くなっていた。

ボクは急いで片付けを終えると、
2年間書き続けたレシピノートを抱えて
カフェへ向かった。



カラン♪

ドアを開ける。

マスター「お疲れ様です。」

ハニ丸「お疲れ様です。」

増子ちゃん「あ、お帰り。」

リナ「お疲れさま。」

幸せ之助「お疲れ〜。」

いつもと変わらない声だった。

ふと店内を見渡す。

テーブルもカウンターも綺麗に片付いていた。

ハニ丸「あれ?」

増子ちゃん「あれじゃない。」

リナ「今日は臨時休業。」

ハニ丸「え?」

マスター「今日は大事な日ですから。」

幸せ之助「貸し切りで〜す♪」

滅多なことでは臨時休業なんてしないのに、
マスターの親心のような配慮を感じた。



幸せ之助「持ってきた?」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「見せて。」

ハニ丸「はい。」

少しだけ緊張しながらレシピノートを渡す。

幸せ之助さんはノートを受け取ると、
静かに開いた。

ページをめくる。

パラ。

まためくる。

パラ。

店内は妙に静かだった。

ハニ丸「……。」

増子ちゃん「……。」

リナ「……。」

マスター「……。」

幸せ之助さんだけが黙って読んでいる。

ハニ丸「どうですか?」

幸せ之助「まだ。」

ハニ丸「はい。」

またページをめくる。

パラ。

パラ。

パラ。

最初の頃のページには、
失敗作もたくさんあった。

甘すぎたもの。
作るのに時間がかかりすぎるもの。
見た目だけ派手なもの。

思いつくたびに書いて、
消して、
また書いた。

幸せ之助さんは何も言わない。
ただ読み続けていた。



そして、
最後のページまで読み終える。
パタン。
ノートが閉じられた。

ハニ丸「どうでした?」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「面白かった。」

ハニ丸「本当ですか?」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「良かった。」

少しだけ肩の力が抜けた。

でも、幸せ之助さんは続けた。

幸せ之助「ところで。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「これ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「何冊目?」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「ノート。」

ハニ丸「あ。」

少し考える。

ハニ丸「たぶん。」

ハニ丸「5冊目です。」

幸せ之助「ほう。」

リナ「そんなに?」

増子ちゃん「知らなかった。」

マスターも少し驚いていた。

ハニ丸「途中でいっぱいになって。」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「買い足して。」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「またいっぱいになって。」

幸せ之助さんは静かに笑った。

幸せ之助「そっか。じゃあ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「ボクが見たかったのは。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「このレシピじゃない。」

ハニ丸「え?」



店内が静かになる。

幸せ之助さんはノートを軽く叩いた。

幸せ之助「ボクが見たかったのは。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「レシピよりも。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「5冊目まで埋めたノートそのもの。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「どれだけ書いたのかを見るつもりだった。」

ハニ丸「......。」

幸せ之助「だってさ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「思いつきで始める人は山ほどいる。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「でも。」

幸せ之助さんはノートをポンポン叩く。

幸せ之助「5冊埋める人は少ない。」

言葉が出なかった。

新しいクレープ。
面白いアイデア。
個性的なメニュー。
そういうものを見られると思っていた。

でも違った。

幸せ之助「思いついた時だけ書いた?」

ハニ丸「違います。」

幸せ之助「忙しい日も?」

ハニ丸「書きました。」

幸せ之助「疲れてる日も?」

ハニ丸「書きました。」

幸せ之助「売れなかった日も?」

ハニ丸「……書きました。」

幸せ之助さんは満足そうに頷いた。

幸せ之助「じゃあ合格!!」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「まずはね。」

ハニ丸「まずは?」

幸せ之助はニヤリと笑った。

幸せ之助「本番はこれから。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「次は中身の話をしようか。」



ボクは思わず背筋を伸ばした。

2年間書き続けたレシピノート。

その本当の答え合わせが、
いよいよ始まろうとしていた。

③もう教えることはない

幸せ之助さんは再びレシピノートを開いた。

パラ。

パラ。

何ページかめくる。

そして、あるページで手を止めた。



幸せ之助「これ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「誰向け?」

ハニ丸「小さい子ども向けです。」

幸せ之助「ほう。」

ハニ丸「見た目が可愛くて。」

ハニ丸「食べやすくて。」

ハニ丸「写真も撮りたくなるような感じです。」

幸せ之助「なるほど。」



またページをめくる。

パラ。

幸せ之助「これは?」

ハニ丸「仕事帰りの人向けです。」

幸せ之助「なんで?」

ハニ丸「疲れてる日に食べたら元気出そうだなって。」

幸せ之助「うん。」



また別のページ。

幸せ之助「これは?」

ハニ丸「常連さんです。」

幸せ之助「へぇ。」

ハニ丸「甘いの好きなんです。」

幸せ之助「ニャハハ。」

ハニ丸「しかも毎回新作食べてくれるので。」

幸せ之助「良いお客さんだ。」

ハニ丸「本当に。」



そんなやり取りがしばらく続いた。

幸せ之助さんは、
レシピそのものについては何も言わない。

美味しそうとも。
ダメそうとも。
何も言わない。

ただ、
「誰向け?」
「なんで?」
それだけを聞いていた。

やがて。

パタン。

再びノートが閉じられた。



ハニ丸「どうですか?」

幸せ之助「何が?」

ハニ丸「レシピです。」

幸せ之助「あぁ。」


幸せ之助さんは少し考えた。

そして。

幸せ之助「別に。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「良いも悪いも分からない。」

ハニ丸「えぇ!?」

増子ちゃん「ひどい。」

リナ「ひどい。」

マスター「ひどいですね。」

幸せ之助「なんで!?」

ハニ丸「今までの時間!」

幸せ之助「ニャハハ!」

店内に笑いが広がった。



幸せ之助「だってさ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「食べるのボクじゃないし。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「食べるのはお客さん。」

幸せ之助さんはノートを軽く叩いた。

幸せ之助「磨くのもお客さん。育てるのもお客さん。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「だから、これはハニ丸くんとお客さんで作っていくものだよ。」

ハニ丸「ボクとお客さん。」

幸せ之助「うん。商売ってそういうもん。最初から完成なんかしない。」

ハニ丸「あ。」

幸せ之助「作って。喜んでもらって。また直して。また作って。そうやって育つ。」

幸せ之助さんの言葉ひとつひとつが、
心の奥深くに染み渡っていく。

幸せ之助「だからね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「ボクが口出したらダメなんだ。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「ボクのクレープになるから。」

店内が静かになった。
幸せ之助さんは優しく笑う。

幸せ之助「ハニ丸くんのクレープは。ハニ丸くんのクレープじゃないとダメだ。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「ハニ丸くんの個性だから。」

その言葉を聞いた瞬間、
2年間の出来事が頭をよぎった。

宿題ノート。
埋蔵金。
褒められたこと。
失敗したこと。
お客様との会話。
常連さんたち。
全部が繋がった気がした。

ハニ丸「じゃあ。」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「師匠は何を見てたんですか?」

幸せ之助さんは笑った。

幸せ之助「誰のために作ろうとしてるか。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「それだけ。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「全部答えられた。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「お客さんの顔が見えてた。」

幸せ之助さんは静かに頷いた。

幸せ之助「だから。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「昔のハニ丸くんだったら。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「何が売れるか考えてた。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「今は違う。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「誰が喜ぶか考えてる。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「もう教えることはないや。」



ボクは言葉を失った。

答え合わせ。
何か特別な評価があると思っていた。
でも違った。

師匠は、
答えをくれた訳じゃない。
正解を教えてくれた訳でもない。

ただ、
自分で見つけた答えを、
認めてくれたのだった。

その瞬間。

なぜだろう。
嬉しいのに、
少しだけ寂しかった。

④ お陰様

店内は静かだった。

『もう教えることはないや。』

幸せ之助さんの言葉が、
まだ胸の中に残っていた。

ハニ丸「……。」

なんだろう。
嬉しい。
でも少しだけ寂しい。
そんな不思議な気持ちだった。



幸せ之助「どうした?」

ハニ丸「いや。」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「ボク。」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「ここまで来れたのって。」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「自分の力じゃない気がするんです。」

幸せ之助さんは少し笑った。

幸せ之助「そう?」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「例えば?」

ハニ丸は少し考えた。

ハニ丸「マスターがいなかったら。」

マスター「……。」

ハニ丸「ここで働いてないです。」

ハニ丸「増子ちゃんがいなかったら。」

増子ちゃん「え?」

ハニ丸「たぶん何回も心折れてます。」

増子ちゃん「そんなに?」

ハニ丸「そんなに。」

増子「なんか嬉しい。」

ハニ丸「常連さんがいなかったら。」

幸せ之助「......。」

ハニ丸「3年続いてないと思います。」

幸せ之助「......。」

ハニ丸「師匠がいなかったら。」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「野良猫のクレープも始まってません。」


店内が静かになる。

幸せ之助さんは少しだけ嬉しそうに笑った。

幸せ之助「そっか。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「じゃあさ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「逆に聞くけど。」

ハニ丸「?」

幸せ之助「ハニ丸くんが何もしなかったら。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「マスターに会えた?」

ハニ丸「……。」

会えていない。

幸せ之助「増子ちゃんに会えた?」

ハニ丸「……。」

会えていない。

幸せ之助「常連さんは?」

ハニ丸「……。」

来ていない。

幸せ之助「野良猫のクレープは?」

ハニ丸「……。」

存在していない。

幸せ之助「じゃあ。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「どっちも正解じゃない?」



ボクは黙った。

どっちも正解。

その言葉が妙に心に残った。

幸せ之助「人は1人じゃ生きられない。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「でも、誰かのお陰だけでも生きられない。」

リナが頷く。

リナ「確かに。」



幸せ之助「ハニ丸くんが頑張った。だからみんなが集まった。」

ハニ丸「......。」

幸せ之助「みんなが支えた。だからハニ丸くんも頑張れた。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「両方。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「それがお陰様だと思う。」



その瞬間、
3年間の景色が頭の中を流れた。

初めてクレープを買ってくれたお客様。
失敗して落ち込んだ日。
励ましてくれた常連さん。
笑い合った増子ちゃん。
背中を見せ続けてくれたマスター。

そして。

いつも自由で、
いつも楽しそうだった師匠たち。



ハニ丸「……。」

幸せ之助「どうした?」

ハニ丸「いえ。」

ボクは少し笑った。

ハニ丸「ボク。」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「思ったより幸せ者だったみたいです。」

増子ちゃん「今さら?」

リナ「遅い。」

マスター「遅いですね。」

幸せ之助「かなり遅い。」

ハニ丸「ひどいなぁ!」

店内に笑い声が広がった。



でも、
なぜだろう。

胸の奥は少し熱かった。

ここまで来られたのは、
みんなのお陰。

でも、
最初の一歩を踏み出したのは自分だった。

そして、その一歩を支えてくれた人たちがいた。

お陰様。
その言葉の意味が、
少しだけ分かった気がした。

⑤ 今のハニ丸くん

幸せ之助さんはコーヒーをひと口飲んだ。

幸せ之助「そういえばさ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「今、クレープ何種類くらいあるんだっけ?」

ハニ丸「え?」

突然の質問だった。

ハニ丸「レギュラーメニューですか?」

幸せ之助「うん。」

ハニ丸「今は30種類くらいです。」

増子ちゃん「そんなにあるんだ。」

リナ「私も思った。」

ハニ丸「期間限定も入れたらもっとあります。」

幸せ之助「へぇ。」

幸せ之助さんは嬉しそうに笑った。



幸せ之助「新作は?」

ハニ丸「今も作ってます。」

幸せ之助「どれくらい?」

ハニ丸「月に1〜2個くらいですかね。」

幸せ之助「ほう。」

ハニ丸「思いついたら試してます。」

幸せ之助「そっか。あのレシピノートのレシピは、もう商品として出せる仕上がりのもけっこうあるの?」

ハニ丸「100個くらいは出せると思います。もちろん、まだ今後も磨いていくつもりですけど。」

幸せ之助「うん。素晴らしい。」

リナ「本当、頑張ったんだね。」



幸せ之助「常連さんは増えた?」

ハニ丸「かなり。」

幸せ之助「どれくらい?」

ハニ丸「分からないですけど。毎週来てくれる人もいるし。毎月来てくれる人もいるし。3年間ずっと来てくれてる人もいます。」

幸せ之助「へぇ。」

リナ「すごいね。」

増子ちゃんも頷いていた。



幸せ之助「今は営業楽しい?」

ハニ丸「楽しいです。」

即答だった。

自分でも驚くくらいだった。

昔は違った。
売上ばかり気にしていた。
失敗ばかり気にしていた。

でも今は違う。

ハニ丸「お客さんと話すのも楽しいし。新作考えるのも楽しいし。営業も好きです。」

幸せ之助「そっか。」



幸せ之助さんは、
どこか安心したような顔をした。

そして。

幸せ之助「じゃあ良かった。」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「いや、なんでもない。」

ハニ丸「?」



マスターが静かにコーヒーを置く。

増子ちゃんも、
リナさんも、
なぜか少しだけ笑っていた。

でも、
ボクだけは意味が分からなかった。



幸せ之助「でもさ。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「3年って早いね。」

ハニ丸「早かったですね。」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助さんは少しだけ遠くを見る。
そして小さく呟いた。

幸せ之助「本当に早かった。」



その言葉の意味を。

この時のボクは、
まだ知らなかった。

⑥お祝いのケーキ

幸せ之助「よし!」

幸せ之助「じゃあ今日のミーティングは終わり〜♪」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「みんなでケーキ食べよう♪」

ハニ丸「ケーキ?」

リナ「ふふふ。」

増子ちゃん「食べましょ♪食べましょ♪」

ハニ丸「え?」

リナさんは少し笑った。

リナ「実は今日のお昼にみんなで作ったの。」

ハニ丸「えぇ!?」

増子ちゃん「サプライズ成功。」

ハニ丸「全然気付かなかった。」

リナ「今日はハニ丸くんが主役だからね。」

ハニ丸「ありがとうございます。」

幸せ之助「増子ちゃん。」

増子ちゃん「はーい。」

幸せ之助「お願い。」

増子ちゃん「了解です。」

増子ちゃんは奥へ向かった。

しばらくして戻ってくる。

その手には、
大きなお皿があった。

A3用紙くらいありそうな、
大きな四角いお皿だった。

増子ちゃんはそれを、
幸せ之助さんへ手渡した。

そして。

幸せ之助さんは、
そのケーキを両手で持った。



ボクは少し驚いた。

幸せ之助さんが、
珍しく背筋を伸ばしていたからだ。

いつものような、
ふにゃふにゃした雰囲気じゃない。

どこかピシッとしていた。

幸せ之助さんは、
ゆっくりとボクの前まで歩いて来る。

ハニ丸「?」



その時だった。

リナさんがボクの後ろへ回る。

そして、
椅子に手を掛けた。

リナ「はい。」

ハニ丸「え?」

リナ「ハニ丸くんも立って。」

言われるまま立ち上がり、
幸せ之助さんと向き合う。

そして、
何気なくケーキへ目を向けた。

ボクは固まった。

そこにあったのは
普通のケーキじゃなかった。


卒業証書だった。


卒業証書を模した、
大きなケーキだった。

ハニ丸「え……。」

頭が追いつかない。

なんで?
卒業証書?

その瞬間だった。

「卒業証書、授与!!」

マスターの大きな声が店内に響いた。

ボクは思わず顔を上げる。

マスターは真っ直ぐ前を向いていた。

でも、
その目は真っ赤だった。

マスター「卒業生――」

一瞬だけ声が詰まる。

マスター「ハニ丸くん!!」



その瞬間。
全部を理解した。


卒業。


今日。
ボクは卒業するんだ。

涙が溢れた。

ハニ丸「はいっ!!」

自分でも驚くくらい大きな声だった。
涙が止まらなかった。

幸せ之助さんは、静かに頷いた。

そして。

卒業証書ケーキを抱えたまま、
読み上げる。

幸せ之助「卒業証書。」

店内が静まり返る。

幸せ之助「あなたは、お客様を想いレシピノートを書き続けました。売れる商品を探すのではなく。喜ぶ人の顔を探すようになりました。失敗を恐れず。お客様と一緒にクレープを育て続けました。そして、お陰様の意味を知りました。」

ハニ丸「......。」

幸せ之助「よって、幸せ之助夫婦門下生としての修行を修了したことを認めます。」

幸せ之助が顔を上げて
真っ直ぐにボクの目を見ると。

幸せ之助「よくここまで来たね。」

幸せ之助さんの表情は、
優しかった。

幸せ之助「卒業、おめでとう!!」



もう限界だった。

涙が止まらない。

3年前。
何も分からなかった。
ただ必死だった。

売上ばかり追いかけて。
失敗ばかり恐れて。
何が正解かも分からなくて。

それでも必死に前へ進んできた。

マスター。
増子ちゃん。
常連さんたち。
リナさん。

そして、
いつも自由で、
いつも楽しそうだった師匠。

気付けば、
たくさんの人に支えられていた。

涙が止まらなかった。

⑦ 明日から

幸せ之助「よし!じゃあケーキ食べよ〜♪」

ハニ丸「切り替え早っ!」

増子ちゃん「本当に。」

リナ「いつものこと。」

マスター「ですね。」

店内に笑い声が広がった。



さっきまで泣いていたのに、
気付けばみんな笑っている。

卒業証書ケーキは切り分けられ、
それぞれの皿へ運ばれていく。

増子ちゃん「美味しい〜♪」

リナ「頑張ったもん。」

幸せ之助「ボクも混ぜた。」

リナ「邪魔してた。」

幸せ之助「えぇ!?」

ハニ丸「想像できる。」

マスター「私も、正直邪魔だなぁって思ってました。」

幸せ之助「ひどい。」

また笑いが起きた。



それからしばらく
みんなで思い出話をした。

初めて会った日のこと。
宿題ノートのこと。
埋蔵金のこと。
失敗した日のこと。
笑った日のこと。

気付けば、
あっという間に時間が過ぎていた。



そして、
時計の針が遅い時間を指した頃。

幸せ之助「じゃあ。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「そろそろ帰るね。」

リナ「長居しちゃった。」

増子ちゃん「楽しかったです。」

マスター「ありがとうございました。」



みんな立ち上がる。
ボクも立ち上がった。

不思議だった。
寂しいはずなのに
不安はなかった。



ハニ丸「師匠。」

幸せ之助「うん?」

ハニ丸「ありがとうございました。」

幸せ之助さんは少し笑った。

幸せ之助「こちらこそ。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「楽しかった。」

ハニ丸「ボクもです。」



幸せ之助さんは少しだけ考える。

そして。

幸せ之助「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「楽しんでね。」



たったそれだけだった。

頑張れでもない。
成功しろでもない。
もっと売れでもない。

楽しんでね。

それは、
ずっと師匠が大切にしてきた言葉だった。

ハニ丸「はい。」

ボクは力強く頷いた。



店の外へ出ると、
夜風が少し気持ち良かった。

幸せ之助さんとリナさんは、
ゆっくり車へ向かう。

幸せ之助「じゃあね〜。」

リナ「またね。」

ハニ丸「はい!」

増子ちゃん「またです!」

マスター「お気を付けて。」

車のドアが閉まる。
エンジンがかかる。

そして、
車はゆっくりと夜の街へ走り出した。



その姿が見えなくなるまで、
ボクたちは見送っていた。

増子ちゃん「行っちゃったね。」

ハニ丸「うん。」

少しだけ沈黙。
そして。

増子ちゃん「で?」

ハニ丸「?」

増子ちゃん「明日の新作どうするの?」

ハニ丸「え?」

増子ちゃん「卒業したんだから。」

ハニ丸「……。」

増子ちゃん「自分で考えないと。」

ハニ丸「それもそうだ。」

増子ちゃん「考えてないの?」

ハニ丸「考えてない。」

増子ちゃん「ダメじゃん。」

思わず笑った。

なんだろう。
さっきまで泣いていたのに。
もう次の話をしている。

でも、
それで良い気がした。

卒業は終わりじゃない。
始まりだ。



ボクは夜空を見上げた。

師匠はいなくなった。
少しだけ寂しかった。

でも、
不思議と不安はなかった。

これからは
自分の足で歩いていく。

自分のクレープを作っていく。
自分の物語を生きていく。

これからは
師匠との物語じゃない。

ボクの物語だ。



野良猫のクレープ4年目は――

明日から始まる。


エピローグ

幸せは今ここにある

ボクはハニ丸。
愛する妻と一緒にカフェを営む35歳だ。

毎日たくさんの常連さんが来てくれる。

笑い声があって、
他愛もない会話があって、
「また来るね。」
そんな言葉が飛び交う。

昔のボクだったら、
もっと大きな夢を持たなきゃいけないと思っていたかもしれない。

もっと成功しなきゃいけない。
もっと頑張らなきゃいけない。
そんなふうに思っていたかもしれない。

でも今は違う。

今のボクにとって幸せは今ここにある。

夢というほど大したものではないのかもしれない。

でも、
愛する人がいて。
大切なお客様がいて。
大好きな仲間たちがいて。
毎日笑いながら仕事ができる。

それ以上望むものは、
今のところ特に思い当たらない。

今日もカフェはたくさんのお客様で賑わい、
気付けば閉店時間になっていた。

最後のお客様を見送ると、
ボクは店の外へ出た。

ドアの横にある「Open」の看板を裏返そうとして――
思わず足を止めた。

1匹の黒猫が、
こちらをジーッと見ていたからだ。

ハニ丸「やぁ、黒猫さん。」

黒猫は返事をするわけでもなく、
ただ静かにこちらを見ていた。

そして、
ふと思い出した。

そういえば――
あの夜も。

幸せ之助さんと初めて出会った夜も、
お店の外に黒猫がいたんだった。

ハニ丸「あれから10年かぁ。」

思わず笑みがこぼれる。

あの日のボクは、
自分が何をしたいのかも分からなかった。
将来が不安だった。
夢も無かった。

でも――

人生って本当に分からない。

あの日、あの出会いがあったから
今のボクがいる。

ハニ丸「キミがそこにいてくれたお陰で、懐かしい思い出が蘇ったよ。」

黒猫は小さく尻尾を揺らした。
まるで、
「そうかい。」
とでも言うように。

そしてそのまま、
トコトコと物陰の向こうへ消えていった。

ハニ丸「ありがとう、黒猫さん。」

ボクは小さく手を振った。


店の外の片付けを済ませ、
ボクは店内へ戻った。

妻の増子は最後のお客様が帰ったばかりのテーブルを片付けているところだった。

増子「おかえり。」

ハニ丸「ただいま。」

増子「今日もたくさん来てくれたね。」

ハニ丸「うん。」

増子「みんな本当に楽しそうだった。」

ハニ丸「そうだね。」

増子はクスッと笑った。

増子「あなたもね。」

ハニ丸「え?」

増子「今日ずっと幸せそうだったよ。」

ハニ丸「幸せだからね。」

増子は少し照れくさそうに笑った。

増子「そう言い切れるようになったんだね。」

ハニ丸「え?」

増子「昔はそんなこと言わなかったじゃない。」

ハニ丸「あぁ。」

確かにそうだった。

昔のボクは、
幸せになりたいと思っていた。

でも、
幸せが何なのかは分かっていなかった。

何かを手に入れれば
幸せになれると思っていたし、
何かを成し遂げれば
満たされると思っていた。

でも今は違う。

ハニ丸「今思うと、あの頃のボクは焦ってたんだろうね。」

増子「そうかもね。」

ハニ丸「夢を見つけなきゃとか。成功しなきゃとか。何者かにならなきゃとか。」

増子「うん。」

ハニ丸「でも結局。」

ボクは店内を見渡した。

閉店後の静かな店内。
いつもの席。
いつもの景色。
大切なお客様たちが残していった温かい空気。

ハニ丸「ボクはこういう毎日が欲しかったんだと思う。」

増子「ふふふ。」

ハニ丸「だから今は十分幸せ。」

増子「私も。」

2人で顔を見合わせて笑った。

しばらくして。

増子「そういえば外で何してたの?」

ハニ丸「あぁ。」

ボクはさっきの黒猫の話をした。

増子「黒猫さん?」

ハニ丸「うん。」

増子「珍しいね。」

ハニ丸「それがさ、なんか懐かしくなっちゃって。」

増子「懐かしい?」

ハニ丸「幸せ之助さんと初めて会った夜。」

増子「あぁ。」

ハニ丸「そういえば、あの日も黒猫がいたなって。」

増子は優しく笑った。

増子「10年前だね。」

ハニ丸「うん。早いよね。」

増子「早い。」

ハニ丸「ついこの前みたいな気もするし。」

増子「大昔みたいな気もする。」

ハニ丸「分かる。」

ボクたちは笑った。

本当に色んなことがあった。

弟子入り騒動。
キッチンカー開業。
失敗。
挑戦。
出会い。
別れ。

そして――
たくさんの笑顔。

ハニ丸「幸せ之助さん。リナさん。猫の神様。マスター。真澄美さん。みんな元気かなぁ。」

増子「元気じゃない?」

ハニ丸「かなぁ。」

増子「だってあの人達だよ?」

ハニ丸「確かに。」

増子「普通に暮らしてる姿が想像できない。」

ハニ丸「それはボクも。」

増子「絶対なんかやってる。」

ハニ丸「やってるね。」

増子「しかも楽しそうなこと。」

ハニ丸「間違いない。」

増子は楽しそうに笑った。

増子「最強パーティーだもんね。」

ハニ丸「うん。」

ボクも笑った。

ハニ丸「最強パーティー。今頃何してるのかなぁ……。」


時は遡ること5年前。

ボクのキッチンカーが5周年を迎えた日のことだった。

あの日の朝、
ボクはいつもより少しだけ早く目を覚ました。

ハニ丸「よし。」

カーテンを開ける。
気持ちの良い青空が広がっていた。

ハニ丸「晴れた。」

思わず笑みがこぼれる。

その日は特別な日だった。
キッチンカーを始めて5年。

決して順風満帆だったわけじゃない。
失敗もした。
落ち込んだ日もあった。
心が折れそうになったことだってある。

それでも、
気付けば5年。

そしてこの日、
ボクは5周年記念イベントを開催することになっていた。

増子「おはよう。」

ハニ丸「おはよう。」

3周年記念日のあの夜、
みんなと別れた後にお互いの気持ちを伝え合い、
ボクと増子は付き合い始めていた。

それから2年、
増子は時間を作っては手伝いに来てくれている。

増子「緊張してる?」

ハニ丸「少しだけ。」

増子「ウソ。」

ハニ丸「バレた?」

増子「顔見れば分かる。」

ハニ丸「実はかなり緊張してる。」

増子はクスクス笑った。

増子「大丈夫だよ。」

ハニ丸「かなぁ。」

増子「大丈夫。」

増子は優しく笑った。

増子「だって5年だよ?」

ハニ丸「うん。」

増子「5年間続けてこれたんだもん。」

ハニ丸「そうだね。」

増子「それだけでも十分すごいと思う。」

ボクは少しだけ肩の力が抜けた。

ハニ丸「ありがとう。」

増子「どういたしまして。」

そして、増子はニヤリと笑った。

増子「それに。」

ハニ丸「ん?」

増子「今日は幸せ之助さん達も来るんでしょ?」

ハニ丸「来る。」

増子「常連さん達も?」

ハニ丸「たぶんたくさん来る。」

増子「お父さん達も来るって言ってたよ。」

ハニ丸「お父さん達?マスターと真澄美さん、夫婦揃って来てくれるんだ。嬉しいな。」

増子「うん、お父さんとお母さん一緒に来るって。」

増子は肩をすくめた。

増子「賑やかになるね。」

ハニ丸「それは間違いない。それなりに忙しくなって、みんなに良いところ見せれると良いんだけど。」

ボクたちは顔を見合わせて笑った。

その予想は良い意味で裏切られることになる。

オープン時間の1時間前、
すでに長い行列ができていたからだ。

ハニ丸「え?」

増子「え?」

ハニ丸「えぇぇぇぇぇっ!?」 

ボクは思わず二度見した。

キッチンカーの前には、
見慣れた顔がたくさん並んでいた。

常連さんA「おはようございまーす!」

常連さんB「5周年おめでとう!」

常連さんC「今日は朝から来ちゃった!」

ハニ丸「み、皆さん……。」

増子「すごい……。」

まだオープンまで1時間もある。
それなのに駐車場のあちこちから
次々と人が集まってくる。

常連さんD「今日は仕事休んできた!」

常連さんE「私もー!」

常連さんF「有給使いました!」

ハニ丸「そんな使い方あります!?」

みんな楽しそうに笑った。

その時だった。

ブォォォォォン!
聞き覚えのあるエンジン音が響いた。

ハニ丸「あ。」

増子「あ。」

1台の車がゆっくりと近付いてくる。

車が停まり、ドアが開いた。

そして。

幸せ之助「おは、ニャ〜〜〜〜!!」

ハニ丸「朝から全力!」

幸せ之助「今日はお祭りだからねぇ〜♪」

リナ「おはよう、ハニ丸くん。」

増子「おはようございます!」

幸せ之助さんはキッチンカーを見るなり満面の笑顔になった。

幸せ之助「いやぁ〜。5周年かぁ〜。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「早いねぇ。」

ハニ丸「本当ですよ。」

幸せ之助「ついこの前まで。」

幸せ之助はニヤニヤしながら言った。

幸せ之助「弟子にしてくださ〜い!やだぁ〜!お願いしますぅ〜!やだぁ〜!シャーーーッ!!キィーーーーッ!!」

ハニ丸「全部1人で再現しないでください!」

リナ「ふふふ。」

幸せ之助「懐かしいなぁ〜♪」

ハニ丸「懐かしいですね。」

その時。

別の方向から聞き覚えのある声が響いた。

???「ハニ丸くーーーん!!」

ハニ丸「あ。」

増子「あ。」

マスターだった。

しかも。

マスター「5周年おめでとうございますぅぅぅぅぅぅ!!」

すでに泣いていた。

ハニ丸「早いですって!」

真澄美「まだ始まってもいないのに。」

マスター「だって嬉しいんです!!」

幸せ之助「出た。」

リナ「出たね。」

真澄美「出やがったな。」

マスター「なんですかその反応!?」

真澄美さんと幸せ之助さんリナさんは初対面。
お互いに会うのを楽しみにしていた。

真澄美「どうもはじめまして。うちのやかましい旦那と、将来のお婿さんと、可愛い娘が、大変お世話になっております。」

マスター「あ、こちら妻の真澄美さんです。」

リナ「どうもはじめまして。リナです。お会いできて嬉しい♪」

幸せ之助「はじめまして。メチャクチャ鬼みたいに怖くて強い奥さんって聞いてます!よろしくお願いします。」

真澄美「まぁ!お2人とも聞いてた通りの素敵な方で、お会いできて嬉しいです。」

優しい笑顔で挨拶を交わした真澄美さんは、
そーっと逃げ出そうとしたマスターの首元をガシっと鷲掴みにした。

マスターの顔はみるみる青ざめた。

真澄美「本当、こいつらビシバシやらないと、すぐ調子に乗るもんですから。何かあったら遠慮なくボッコボコにしてやってくださいね。」

リナ「真澄美さん、本当に男の人ってそうなんですよねぇ。うちもすぐ調子に乗っちゃうんですよぉ。マスターと一緒だと尚更なんで、私も真澄美さんと同盟組んで目を光らせないと!」

真澄美「まぁ!嬉しい!リナさんとは仲良くなれそう!」

リナ「私も嬉しい!よろしくお願いします、真澄美さん♪」

幸せ之助「ほらぁ、マスターがいつもすぐ調子に乗るから同盟組まれちゃったじゃん。ちゃんとしてね、マスター。」

マスター「あわわわわわ......。」

ハニ丸「マスター、しっかりしてくださいね!」

みんなが笑った。

空は青く晴れていた。
キッチンカーの前には長い行列。
大好きな人たちの笑顔。

5年前、
何も分からないまま弟子入りした
あの日のボクが見たら、
きっと信じないだろう。

でも、
これは間違いなく、
ボクがずっと欲しかった景色だった。

そしてイベントが始まった。

ありがたいことに、
オープン直後からキッチンカーの前には
長い列ができた。

常連さんA「5周年おめでとう!」

常連さんB「今日は絶対来ようって決めてたんだ!」

常連さんC「もう5年なんだねぇ。」

たくさんの人が声を掛けてくれる。

ボクは何度も何度も
「ありがとうございます。」
を繰り返した。

今があるのは――
たくさんの人たちに支えられてきたお陰だった。

増子「次の予約のお客様だよー!」

ハニ丸「はーい!」

幸せ之助「弟子ぃ〜!頑張れぇ〜!」

ハニ丸「師匠は応援じゃなくて手伝ってください!」

幸せ之助「やだぁ〜♪」

リナ「ほら、まるちゃん。」

幸せ之助「はぁ〜い。」

真澄美「相変わらずね。」

マスター「相変わらずですね。」

真澄美「お前も泣き過ぎだけどな。」

マスター「今日は特別です!」

真澄美「さっきから3回目だぞ?」

マスター「まだノルマの途中です。」

ハニ丸「回数決まってるんですか!?」

みんなが笑った。

忙しい。
でも楽しい。

ふと顔を上げる。
お客様が笑っている。
増子が笑っている。
幸せ之助さん達が笑っている。
ボクも笑っている。

その瞬間、
ふと思った。

あぁ。
これがボクのやりたかったことなんだなって。

大きな成功じゃなくていい。
有名にならなくてもいい。
ただ目の前の人を笑顔にできる仕事をしたい。

ボクはいつの間にか、
そんな夢を叶えていたんだ。

気付けば夕方になっていた。

朝から続いていた行列も少しずつ落ち着き、
最後の予約のお客様へクレープを渡し終えた。

ハニ丸「ありがとうございましたー!」

お客様「また来るねー!」

ハニ丸「お待ちしてます!」

大きく手を振る。

そして、
ようやく5周年イベントは無事に終了した。

ハニ丸「終わったぁぁぁ……。」

その場にしゃがみ込む。

増子「お疲れ様。」

ハニ丸「疲れたぁ……。」

増子「でも楽しそうだった。」

ハニ丸「楽しかった。」

増子「うん。」

ハニ丸「めちゃくちゃ楽しかった。」

増子は嬉しそうに笑った。

その時だった。

幸せ之助「ボクの可愛いお弟子ちゃ〜ん!」

ハニ丸「はい?なんですか急に。気持ち悪いなぁ。」

幸せ之助「今日はお祝いの日だからねぇ〜♪」

リナ「みんなでご飯行くよ。」

ハニ丸「みんなで?」

真澄美「もちろん。」

マスター「5周年記念パーティーです!!」

ハニ丸「パーティー!?」

幸せ之助「パーティー♪」

マスター「パーティーです!!」

真澄美「だから何でそんなにテンション高いんだよ、また調子に乗りやがって。」

マスター「だって嬉しいんです!!」

みんなが笑った。

片付けを終え、車に荷物を積み込む。
ふと隣を見ると増子も荷物を運んでいた。

この5年間。
楽しいこともあった。
大変なこともあった。
上手くいかない日もあった。

それでも増子はいつも隣にいてくれた。

ハニ丸「増子。」

増子「ん?」

ハニ丸「今日はありがとう。」

増子「急にどうしたの?」

ハニ丸「いや。」

少しだけ照れくさくなった。

ハニ丸「なんとなく。」

増子は優しく笑った。

増子「こちらこそ。」

ハニ丸「え?」

増子「5年間ありがとう。」

その言葉に。

なぜだろう。
胸の奥が少しだけ熱くなった。

ハニ丸「……うん。」

増子「さ、行こ。」

ハニ丸「うん。」

ボクは頷いた。

そしてまだこの時のボクは――

今日という日が、
人生でもうひとつの大きな記念日になることを
知らなかった。

パーティー会場に着く頃には、
すっかり日も暮れていた。

幸せ之助「かんぱ〜〜〜い!!」

全員
「かんぱーい!!」

グラスが軽やかな音を立てる。
5周年パーティーが始まった。

幸せ之助「いやぁ〜。」

幸せ之助「へなちょこ弟子が5周年だなんて。」

ハニ丸「師匠のお陰ですよ。」

幸せ之助「違う違う。」

幸せ之助は首を横に振った。

幸せ之助「続けたのはチミだよ。」

リナ「そうだね。」

真澄美「本当に立派になったもんだ。」

マスター「うぅっ……。」

ハニ丸「泣くの早いですって。」

マスター「まだ4回目です!!」

真澄美「また増えたな。」

幸せ之助「順調だねぇ〜。」

みんなが笑った。

料理が並ぶ。
会話が弾む。
笑い声が響く。
とても幸せな時間だった。

その時。

真澄美「なぁ。」

真澄美さんがニヤニヤしながら言った。

真澄美「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい?」

真澄美「いつ結婚するの?」

ブフッ!

ボクは思い切り吹き出した。

ハニ丸「な、何ですか急に!」

増子「えっ!?」

増子も真っ赤になっている。

真澄美「だって商売始めて5年だろ?付き合って2年だろ?そろそろいいんじゃない?」

リナ「確かに。」

幸せ之助「確かにぃ〜。」

マスター「確かにですね。」

ハニ丸「なんで全員参加なんですか!?」

幸せ之助「いやいや。」

幸せ之助は当然のような顔をした。

幸せ之助「ボク達ずっと待ってるんだけど。」

ハニ丸「何をですか!?」

幸せ之助「プロポーズ。」

ハニ丸「ぶふぅっ!!」

増子「もうっ!!」

増子は顔を真っ赤にしてうつむいた。

真澄美「かわいい。」

リナ「かわいい。」

マスター「かわいいですね。」

ハニ丸「みんな揃って何なんですか!」

幸せ之助「だってさぁ。」

幸せ之助は不思議そうな顔をした。

幸せ之助「チミ達、もうどう見ても夫婦じゃん。」

ハニ丸「いやいやいや!」

幸せ之助「違うの?」

ハニ丸「違います!」

幸せ之助「えっ。」

リナ「えっ。」

真澄美「えっ。」

マスター「えっ。」

ハニ丸「なんで皆そんな反応なんですか!?」

幸せ之助「こっそり籍だけ入れ忘れてるのかと思ってた。」

リナ「私も。」

真澄美「私も。」

マスター「私もです。」

増子は顔を真っ赤にしたまま俯いている。

ハニ丸「そんなわけないじゃないですか!だいたい、お父さんとお母さんまで一緒になって!」

その時、急にマスターの顔が険しくなった。

マスター「ムムム!キミにお父さんと呼ばれる筋合いはな〜〜〜い!!」

一気に辺りが静まりかえる。
すると。

幸せ之助「第二のお父さんみたいって言われて泣いちゃってたくせに?」

リナ「ついさっきまで一緒になって盛り上がってたのに?」

増子「本当は嬉しいくせに?」

真澄美「てか、うるせ〜し。急にデカい声出すな。」

ち〜んと静まりかえるマスター。

幸せ之助さんがポンポンと肩を叩いてマスターに声をかける。

幸せ之助「マスターは言ってみたかったんだよね。」

マスター「え?」

幸せ之助「結婚の挨拶に来た娘さんの交際相手に。キミにお父さんと呼ばれる筋合いはな〜い!!って。ど定番の名セリフを。」

マスター「……。」

幸せ之助「ただそれだけだったんだよね。」

マスター「……。」

幸せ之助「ドンマイ♪」

マスターはまた泣いていた。
『この人、本当に泣いてばっかりだな、今日。』ってボクは思っていた。


真澄美「でもさ。私達は別に今すぐ結婚しろって言ってるわけじゃないのよ。」

ハニ丸「はい。」

真澄美「ただ。この子のこと。」

真澄美は隣の増子を見た。

真澄美「ちゃんと幸せにしてあげてね。」

増子「お母さん!」

真澄美「何だよ。」

増子「恥ずかしい!」

幸せ之助「ニャハハハ♪」

リナ「ふふふ。」

ボクは少し照れながら頭をかいた。

ハニ丸「そのつもりです。」

真澄美「そのつもり?」

ハニ丸「はい。もう少しだけ。もう少し自分に自信がついたら。その時はちゃんと。」

増子は驚いたように顔を上げた。
真澄美さんは優しく笑った。
マスターは静かにボクを見ていた。

そして。

マスター「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

マスター「キミは、これまで何を学んできたんですか?」

ハニ丸「え?」

マスター「キッチンカーを始めた頃のキミは、何も出来なかったじゃないですか。」

ハニ丸「うっ。」

幸せ之助「確かに。」

リナ「確かに。」

ハニ丸「みんな一斉に乗っからないでください。」

マスターは笑った。

マスター「でも。今のキミはここまで来た。それはなぜですか?」

ハニ丸「それは……。」

マスター「キミが頑張ったから?」

ハニ丸「それもありますけど。」

マスター「それだけですか?」

ハニ丸「……違います。」

マスター「そうでしょう。」

マスターは静かに頷いた。

マスター「支えてくれる人がいたからですよ。幸せ之助さんがいて。リナさんがいて。常連さん達がいて。増子がいて。みんながいたから、今のキミがいるんです。」

ハニ丸「……。」

マスター「だったら、どうして結婚だけは、1人で自信をつけてからじゃなきゃいけないんですか?」

ハニ丸「……。」

マスター「2人で自信をつけていけばいいじゃないですか。私はそう思いますよ。」

ハニ丸「……。」

マスターの言葉が、
胸の奥に静かに落ちていった。

1人で自信をつけてからじゃなくて、
2人で自信をつけていけばいい。

その言葉を聞いた瞬間、
ボクの中で何かが決まった気がした。

ハニ丸「増子。」

増子「え?」

ボクは増子の方を見た。
心臓がうるさいくらい鳴っている。

でも、
不思議と迷いはなかった。

ハニ丸「ボクはまだ完璧じゃないし。これからも失敗すると思う。」

増子「うん。」

ハニ丸「でも。これから先も、楽しい日も、大変な日も。一緒に笑いながら歩いていきたい。」

増子の目が少し潤んだ。

ハニ丸「増子。ボクと結婚してください!」

店内が静まり返った。

増子は何も言わず、
しばらくボクを見ていた。

そして、増子は涙を浮かべながら笑った。

増子「よろしくお願いします。」

その瞬間。

マスター「うおおおおおおおおおおおおっ!!」

ハニ丸「マスター!?」

マスターは両手で顔を覆って泣いていた。

真澄美「泣き過ぎだろ。」

マスター「これは泣くでしょう!!」

幸せ之助「ヒューヒュー♪」

リナ「おめでとう、ハニ丸くん!増子ちゃん!」

幸せ之助「おめでと〜♪」

真澄美「幸せにしなかったら、分かってんだろうな?」

ハニ丸「はい!」

幸せ之助「こわぁ〜。」

真澄美「まるちゃんもね。」

幸せ之助「なんでボクも!?連帯責任?」

リナ「日頃の行いね。」

みんなが笑った。

涙と笑いが混ざった、
とても幸せな時間だった。



少し落ち着いた頃、
マスターが静かに口を開いた。

マスター「ハニ丸くん。増子。」

ハニ丸「はい。」

増子「なに?」

マスター「実は私からも、ひとつ話があります。」

真澄美さんは黙って頷いた。

マスター「私は、そろそろカフェを引退しようと思っています。」

ハニ丸「え?」

増子「お父さん……。」

マスター「そして。」

マスターはまっすぐボクたちを見た。

マスター「もし2人がよければ、あのカフェを任せたい。」

ハニ丸「……。」

言葉が出なかった。

マスター「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

マスター「あの店は、私にとって大切な場所です。でも今は、キミたちなら任せられると思っています。」

増子「お父さん……。」

マスター「もちろん、すぐにとは言いません。」

マスター「準備も必要です。」

マスター「でも。」

マスターは優しく笑った。

マスター「2人なら、あの店をもっと温かい場所にしてくれる。」

胸の奥が熱くなった。
あのカフェーー
ボクが何も持っていなかった頃に、
マスターが居場所をくれた場所。
幸せ之助さんと出会った場所。
人生が動き始めた場所。

その場所を、
今度はボクたちが受け継ぐ。

ハニ丸「……やります。」

増子「うん。」

ハニ丸「2人で、大切に守ります。」

増子「うん。大切にする。」

マスターは嬉しそうに笑った。

マスター「ありがとう。」

その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥が熱くなった。

あのカフェは、
ボクが何者でもなかった頃に
居場所をくれた場所だった。

夢が無かったボクに、
働く場所をくれた場所。

幸せ之助さんとリナさんに出会った場所。

そして、
増子と一緒に笑ってきた場所。

その場所を、
今度はボクたちが受け継ぐ。

怖くないと言ったら嘘になる。

でも、
不安よりも大きいものがあった。

増子となら、
きっと大丈夫だと思えた。

ボクは増子を見た。
増子も同じようにボクを見ていた。

何も言わなくても分かった。

これからは、
2人であの場所を守っていくんだ。

そう思ったら、
胸の奥がじんわり温かくなった。

マスター「うぅっ……。」

ハニ丸「マスター?」

マスター「もうダメです……。」

真澄美「また泣くのかよ。」

マスター「だって……。ハニ丸くんと増子が……。2人でカフェを守るって……。こんなの泣くに決まってるじゃないですかぁぁぁ……。」

真澄美「はいはい。」

リナ「ふふふ。」

幸せ之助「マスター、今日の涙ノルマ完全に突破したね。」

マスター「記録更新です!」

ハニ丸「そこ誇らなくていいです。」

みんなが笑った。

本当にどうしようもないくらい
涙と笑いが混ざった、
とても幸せな時間だった。

その空気が、
少しだけ静かになった頃。

幸せ之助さんが、
突然ポンと手を叩いた。

幸せ之助「よし!」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「じゃあ次はボクの番ね♪」

まだ見ぬワクワクの先の大冒険

幸せ之助さんが、
突然目をキラキラさせた。

リナ「まるちゃん、急にどうしたの?目がキラキラしてて何か嫌な予感がするんだけど。」

ハニ丸「ボクも嫌な予感しかしないです。」

幸せ之助「まぁまぁ。マスター、引退するの?」

マスター「はい。まだ少し先ですが。」

幸せ之助「じゃあさぁ。」

幸せ之助さんは身を乗り出した。

幸せ之助「引退したら、ボクの夢の実現を手伝ってよ。」

マスター「夢?」

幸せ之助「うん。」

幸せ之助「一緒に人生の大冒険に旅立とうよ!」

ハニ丸「人生の大冒険!?」

マスター「……なんか楽しそうですね。」

真澄美「ちょっと、お前なぁ。」

マスター「いや、でも。」

マスターは少しワクワクした顔をしていた。

マスター「なんか楽しそうじゃないですか。」

幸せ之助「はい、決まり〜♪」

ハニ丸「決まるの早っ!」

幸せ之助「じゃあ今から何やるか考えてみるね。」

リナ「今から?」

幸せ之助「10分ちょうだい!」

ハニ丸「長いのか短いのか分からない!」

真澄美「人生の大冒険決める時間じゃないだろ。」

マスター「会社設立より早いですね。」

リナ「いつもこんな感じだから。」

幸せ之助「シーッ!今考えてるから!」

(3秒後)

幸せ之助「よし!」

ハニ丸「早っ!」

増子「10分どこ行ったの?」

真澄美「人生の大冒険、3秒で決めるな。」

マスター「もはや即決選手権です!」

リナ「私、ずっとこれに振り回されてるんですよ、皆さん。」

ハニ丸「激しく同情します。」

そんなボクたちを気にもせず、幸せ之助さんの目はますます輝いていった。

幸せ之助「ボク、猫ちゃん好きじゃん?」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「だから猫カフェもいいなって思ったんだけど。」

リナ「うん。」

幸せ之助「でもそれじゃつまらないし、ボク、飼い猫ちゃんより野良猫さんの方が好きなんだよね。」

ハニ丸「出会った頃から野良猫愛ハンパないのは知ってますけど。」

幸せ之助「野良猫カフェやりたい!」

ハニ丸「は?」

幸せ之助「店員さん、全員猫!」

ハニ丸「絶対無理です。そもそも野良猫なんていつもいるわけじゃないし、それ以前に無理ですよ。」

幸せ之助「ふん!」

幸せ之助さんは偉そうに腕を組んだ。

幸せ之助「凡人のチミには可能性を見出せないだけだ。」

ハニ丸「急に偉そう!」

幸せ之助「凡人は黙っていたまえ。」

リナ「まるちゃん。」

幸せ之助「ごめんなさい。」

それでも幸せ之助さんの目はキラキラしていた。

幸せ之助「あ!」

ハニ丸「今度は何ですか?」

幸せ之助「また閃いた!」

リナ「嫌な予感が止まらない。」

真澄美「噂には聞いてたけど、マジでヤバいやつだな。」

増子「うん、ずっと一緒にいるリナさんを尊敬します。」

ハニ丸「いや、この人はまだこんなもんじゃない。たぶん、この後とんでもないことを言い出すに違いない。」

マスター「とりあえず、聞くだけ聞いてみましょう。」

そして、幸せ之助さんはルンルンしながら話しを続けた。

幸せ之助「野良猫って、つまり野生の猫ってことでしょ?」

ハニ丸「まぁ……広く考えれば。」

幸せ之助「ライオンって猫科だよね?」

ハニ丸「え?」

幸せ之助「野良猫カフェ。」

全員「......。」

幸せ之助「それはつまり。」

全員「......。」

幸せ之助「野生のライオンとたわむれて癒される、超ワイルドな猫カフェ!」

店内が静まり返った。

ハニ丸「……。」

増子「……。」

リナ「……。」

マスター「……。」

真澄美「……。」

幸せ之助「どう?」

ハニ丸「どう、じゃないです!」

幸せ之助「マスターはコーヒー担当よろしくぅ〜♪」

マスター「なるほど。サバンナでコーヒーですか。」

ハニ丸「納得しないでください!」

真澄美「でも。」

真澄美さんが少しだけ笑った。

真澄美「ちょっと面白そうじゃない。」

ハニ丸「真澄美さんまで!?」

リナ「まるちゃんが言い出したら、だいたい止まらないからね。」

ハニ丸「それを言ったら、もう野放し!!」

幸せ之助「じゃあ決まり!」

ハニ丸「決まってないです!」

幸せ之助「アフリカ行こう!」

マスター「アフリカ。」

真澄美「アフリカね。」

リナ「アフリカかぁ。」

ハニ丸「みんな受け入れるの早過ぎません!?」

幸せ之助さんは満面の笑顔で言った。

幸せ之助「人生はね、ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい?」

幸せ之助「ワクワクした方に進んだ方が面白いんだよ。」

その言葉に、
ボクは何も言えなくなった。

だって。

それはボクが、
この人からずっと教わってきたことだったから。

幸せ之助「ねぇ、マスター。」

マスター「はい。」

幸せ之助「一緒に行こうよ。」

マスターは真澄美さんを見た。

真澄美さんは少し呆れたように笑った。

真澄美「どうせ行きたいんでしょ。」

マスター「……はい。」

真澄美「なら行けばいいじゃない。」

マスター「真澄美さん……。」

真澄美「ただし。」

マスター「はい。」

真澄美「私も行く。」

マスター「え?」

真澄美「お前だけ行かせたら、絶対調子に乗るから。」

幸せ之助「正解!」

マスター「そこは否定してください!」

リナ「賑やかになりそうね。」

幸せ之助「よ〜し、そうと決まったら猫の神様も一緒に連れて行こう!」

ハニ丸「猫の神様?」

幸せ之助「ジャジャーン!」

幸せ之助さんは、どこからともなく高さ20センチくらいの猫の顔がついたヘンテコなロボットを取り出した。

全員「……。」

幸せ之助「これはボクの超お気に入り、超合金スーパーねこちゃんロボ!」

ハニ丸「名前の情報量が多い!しかも、超合金っていうかブリキだし!」

幸せ之助「チミはいちいち細かいんだよ、いつもいつも。」

ハニ丸「師匠はいちいちツッコミどころだらけなんですよ、いつもいつも。」

幸せ之助「まぁいい。大冒険に相応しいこの超合金スーパーねこちゃんロボに、猫の神様を宿らせてパーティーに加えよう!」

リナ「まるちゃん、また変なこと言い出した。」

その時だった。

超合金スーパーねこちゃんロボの目が、ピカッと光った。

猫の神様「なぁなぁ、お前さん、お前さん。」

ハニ丸「しゃ、しゃべったぁぁぁぁ!!」

マスター「神様ですか!?」

真澄美「最新型のロボだろ。しゃべってるし。」

ハニ丸「え?マスターもお母さんも聞こえるんですか?」

マスター「はい。実は1周年記念日の夜も、私には聞こえてました。あの時、猫の神様に黙ってるように言われまして。」

ハニ丸「ええ〜!?」

猫の神様「細かいことは気にせんでよかろう。こりゃあ楽しい冒険になりそうじゃな♪」

幸せ之助「ほらぁ〜♪」

リナ「ほらぁ〜じゃないのよ。」

幸せ之助「これで決まり!」

幸せ之助「最強パーティー結成だぁ〜♪」

ボクは笑った。

まさか、
ボクのプロポーズの日に。

カフェを受け継ぐ話と。

アフリカで野良猫カフェをやる話が同時に生まれるなんて。

やっぱり人生は、
思っている以上に面白い。

幸せ之助「よし、じゃあさ。」

幸せ之助さんは、
超合金スーパーねこちゃんロボをテーブルの真ん中に置いたまま言った。

幸せ之助「さっさと若い2人には結婚してもらって。」

ハニ丸「さっさとって。」

幸せ之助「カフェの引き継ぎして。」

増子「簡単に言うね。」

幸せ之助「みんなそれぞれ準備しよう!」

リナ「まるちゃん、勢いだけで人生動かそうとしてるでしょ。」

幸せ之助「人生は勢いも大事!」

真澄美「否定はしないけど、準備は必要だろ。」

マスター「そうですね。」

マスターは少し真面目な顔になった。

マスター「カフェの引き継ぎも、すぐにというわけにはいきません。」

ハニ丸「はい。」

マスター「お客様にもきちんと伝えたいですし。」

増子「うん。」

マスター「ハニ丸くんと増子にも、覚えてもらうことがたくさんあります。」

ハニ丸「そうですよね。」

マスター「それに。」

マスターは少しだけ照れくさそうに笑った。

マスター「私も、あの店とちゃんとお別れする時間が欲しいです。」

店内が少し静かになった。

マスターにとって、
あのカフェは人生そのものだった。

たくさんのお客様と出会い、
たくさんの時間を過ごし、
たくさんの笑顔を見てきた場所。

その場所を手放すのは、
きっと簡単なことではない。

ハニ丸「マスター。」

マスター「はい。」

ハニ丸「ゆっくりで大丈夫です。」

増子「うん。」

増子は優しく頷いた。

増子「私たちも、ちゃんと準備したい。」

真澄美「じゃあ1年。」

ハニ丸「1年?」

真澄美「1年あれば、引き継ぎも結婚の準備もできるだろ。」

幸せ之助「アフリカの準備も?」

真澄美「それは知らんけど。」

幸せ之助「えぇ!?ま、ボクも知らんけど。どっちみち行ってみなきゃ分かんないし。」

リナ「え?まさかのノープランで行く気?でも、1年くらいがちょうどいいかもね。」

マスター「そうですね。」

マスターは深く頷いた。

マスター「では、1年後。」

マスターはボクと増子を見た。

マスター「1年後に、カフェをハニ丸くんと増子へ引き継ぎます。」

ハニ丸「はい。」

増子「うん。」

マスター「そして私は――」

マスターは少しだけ遠くを見た。

マスター「人生の大冒険へ旅立ちます。」

幸せ之助「おぉ〜!」

マスター「サバンナでコーヒーを淹れます!」

ハニ丸「もう受け入れてる!」

マスター「そのうち【商売の神様】から番組出演依頼が来ちゃうかもしれません!」

マスターの目がキラキラ輝いていた。

幸せ之助「いいねぇ〜!」

マスター「特集タイトルはきっとこうです。」

『元カフェ店主、サバンナで奇跡の一杯を淹れる』

ハニ丸「もう番組タイトルまで考えてる!」

真澄美「出演前提で話すな。」

猫の神様「なかなか愉快な人間じゃのぉ。」

マスター「神様に褒められました!」

真澄美「たぶん褒めてない。」

幸せ之助「ニャハハハハ!」

笑い声が広がった。

この日。
ボクと増子は結婚を決めた。
マスターのカフェを受け継ぐことも決めた。
そして、
幸せ之助さんたち最強パーティーは、
アフリカで野良猫カフェを始めることを決めた。

普通なら、
人生の大きな決断は、
もっと厳かで、
もっと真剣で、
もっと慎重なものなのかもしれない。

でも。

ボクたちらしくていい。

そう思った。

笑いながら決めた未来なら、
きっと笑いながら歩いていける。

そんな気がした。



そして、
準備期間の1年が過ぎた。

ボクと増子は結婚した。

キッチンカーを続けながら、
少しずつカフェの仕事を覚えた。

マスターからコーヒーの淹れ方を教わり、
真澄美さんから帳簿の見方を叩き込まれ、
増子と何度も話し合った。

どんなお店にしたいのか。
どんなお客様を大切にしたいのか。
どんな毎日を積み重ねたいのか。

答えは、意外と最初から決まっていた。

マスターが大切にしてきたものを守る。
その上で、
ボクたちらしい温かさを少しずつ足していく。
それだけだった。


そして、
カフェの引き継ぎの日がやってきた。

朝。
ボクと増子は、
いつもより早くカフェに着いた。

看板にはまだ、
マスターがつけた名前が残っている。

TOO HONEST CAFE。
正直過ぎるカフェ。

ボクはその看板を見上げた。

ハニ丸「いよいよだね。」

増子「うん。」

ハニ丸「緊張してる?」

増子「少しだけ。」

ハニ丸「ウソ。」

増子「バレた?」

ハニ丸「顔見れば分かる。」

増子「実はかなり緊張してる。」

ボクたちは顔を見合わせて笑った。
どこかで聞いたような会話だった。

でも、
あの時とは違う。
この時はもう人生を共に歩む夫婦だった。

カラン♪

ドアを開けると、
マスターがカウンターの中に立っていた。

マスター「おはようございます。」

ハニ丸「おはようございます。」

増子「お父さん、おはよう。」

真澄美「遅せぇぞ。」

増子「まだ開店2時間前だよ。」

真澄美「最後の日くらい、気持ちは5時間前に来い。」

ハニ丸「厳しい!」

マスター「真澄美さんは今日も絶好調ですね。」

真澄美「お前も泣く準備はできてるのか?」

マスター「はい!」

ハニ丸「準備しなくていいです!」

その時。

店の外から、
聞き慣れた声が響いた。

幸せ之助「おは、ニャ〜〜〜〜!!」

ハニ丸「来た。」

増子「来たね。」

リナ「おはよう。」

幸せ之助「今日は旅立ちの日だねぇ〜♪」

リナ「その前に、カフェの引き継ぎの日ね。」

幸せ之助「あ、そうだった。」

ハニ丸「忘れないでください。」

猫の神様「なぁなぁ、お前さん、お前さん。」

幸せ之助さんの胸元のポケットから、
超合金スーパーねこちゃんロボがひょこっと顔を出していた。

ハニ丸「あ、猫の神様。今はこっちの中にいるんでしたね。どうも慣れないなぁ。」

猫の神様「ワシも最強パーティーの一員じゃからのぉ。そりゃ、おるわい。」

真澄美「そもそもロボが神様っておかしいだろ。前々から思ってたけど。」

猫の神様「それは言わない約束じゃろ?」

真澄美「そんな約束してねぇけどな。ま、面白いし、よろしく頼むわ!」

猫の神様「そうじゃな、最強パーティーの仲間じゃからな♪」

幸せ之助「ほらぁ〜♪やっぱり良いパーティー♪」

リナ「だから、ほらぁ〜じゃないの。」

みんなが笑った。

開店時間になると、
常連さんたちが次々とやって来た。

マスターの引退を知って、
たくさんの人が顔を見せてくれた。

常連さんA「マスター、長い間お疲れ様。」

常連さんB「寂しくなるねぇ。」

常連さんC「でも、ハニ丸くんと増子ちゃんなら安心だね。」

マスター「ありがとうございます。」

マスターは何度も頭を下げた。
そのたびに泣きそうになっていた。

真澄美「泣くなら閉店後にまとめて泣け。」

マスター「予約制ですか?」

真澄美「そうだ。」

幸せ之助「涙も予約制。」

ハニ丸「そんな制度ないです。」

お客様たちは笑っていた。
泣きながら笑っていた。

きっと、
これがマスターの作ってきたカフェなのだ。

正直で。
温かくて。
少し変で。
でも、
また来たくなる場所。

ボクはその景色を目に焼き付けた。


やがて閉店時間になった。

最後のお客様を見送り、
店内にはボクたちだけが残った。

マスターはカウンターに立った。
いつもの場所。
長い間、
マスターが守り続けてきた場所。

マスター「ハニ丸くん。増子。」

ハニ丸「はい。」

増子「うん。」

マスターは少し震える手で、
カフェの鍵を差し出した。

マスター「今日から、この店をお願いします。」

ボクはその鍵を受け取った。
小さな鍵だった。

でも、
とても重かった。

ハニ丸「はい。」

増子「大切にします。」

マスターは笑った。

そして。

マスター「うぅっ……。」

ハニ丸「早いですって。」

マスター「無理です……。」

真澄美「まぁ、今日くらいは泣け。」

マスター「真澄美さぁぁぁん……。」

幸せ之助「泣きながら旅立つ男、マスター!」

猫の神様「なかなか縁起が良いのぉ。」

リナ「そうなの?」

猫の神様「知らん。」

ハニ丸「知らないんかい!」

みんなが笑った。


そして、
いよいよ旅立ちの時間になった。

店の外には、
幸せ之助さんたちの荷物が積まれた車が停まっていた。

なぜか屋根の上には、
猫耳の飾りがついていた。

ハニ丸「車、猫になってる。」

幸せ之助「大冒険仕様!」

リナ「昨日の夜、急に付け始めたの。」

真澄美「やめさせなかったのか?」

リナ「無理でした。」

真澄美「なんとなく分かる。」

幸せ之助「マスター!」

マスター「はい!」

幸せ之助「コーヒー豆持った?」

マスター「持ちました!」

幸せ之助「真澄美さん!」

真澄美「何だ?」

幸せ之助「マスターの手綱持った?」

真澄美「持った。」

マスター「私は馬ですか!?」

猫の神様「猫型バスに人間と神と手綱付きの元カフェ店主。」

ハニ丸「情報量が多い!」

増子「本当に大丈夫かな。」

リナ「大丈夫かは分からないけど。」

リナは優しく笑った。

リナ「きっと楽しいよ。」

幸せ之助「それが一番大事!」

幸せ之助さんは満面の笑顔で言った。

幸せ之助「じゃあ、ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「カフェ、楽しんでね。」

ハニ丸「……はい。」

幸せ之助「頑張り過ぎなくていいからね。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「ちゃんと笑って。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「ちゃんと増子ちゃんと相談して。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「ちゃんとお客様と楽しんで。」

ハニ丸「はい。」

幸せ之助「そして。」

幸せ之助さんは少しだけ真面目な顔になった。

幸せ之助「幸せは、遠くに探しに行かなくてもいいからね。」

ハニ丸「……。」

幸せ之助「今ここにある幸せを、大事に育ててね。」

胸の奥が熱くなった。

ハニ丸「はい。」

ハニ丸「師匠。」

幸せ之助「うん?」

ハニ丸「ありがとうございました。」

幸せ之助さんはニコッと笑った。

幸せ之助「こちらこそ。」

リナ「増子ちゃん。」

増子「はい。」

リナ「ハニ丸くんのこと、よろしくね。」

増子「はい。」

リナ「でも、頑張り過ぎたらちゃんと怒ってね。」

増子「得意です。」

ハニ丸「得意なんだ。」

真澄美「増子、遠慮するなよ。」

増子「うん。」

ハニ丸「味方がいない。」

マスター「ハニ丸くん。」

ハニ丸「はい。」

マスターは涙を浮かべながら、
それでも笑っていた。

マスター「あの店を、よろしくお願いします。」

ハニ丸「はい。」

マスター「そして。」

マスター「そのうち【商売の神様】から出演依頼が来たら、録画してください。」

ハニ丸「まだ言ってる!」

幸せ之助「大丈夫。ボクたち、世界を獲るから。」

ハニ丸「何を!?」

猫の神様「野良猫カフェ界じゃな。」

ハニ丸「そんな界隈ないです!」

幸せ之助「作ればいいんだよ。」

その言葉に、
ボクは笑った。

本当にこの人は、
いつだってそうだった。

ないなら作る。

分からないなら進む。

怖いなら笑う。

そして、
ワクワクした方へ歩いていく。

幸せ之助「じゃあね〜!」

リナ「またね。」

マスター「行ってきます!」

真澄美「しっかりやれよ、2人とも。」

猫の神様「お前さんたちも、達者でな。」

ハニ丸「はい!」

増子「いってらっしゃい!」

車のドアが閉まり、
エンジンが響き渡る。

猫耳のついた車は、
ゆっくりと走り出した。

幸せ之助さんが窓から身を乗り出す。

幸せ之助「ハニ丸くーん!」

ハニ丸「はい!」

幸せ之助「人生はー!思ってるよりー!面白いよー!」

その声が、
遠ざかっていく。

ボクと増子は、
その車が見えなくなるまで手を振り続けた。

やがて車は角を曲がり、
夜の街の向こうへ消えていった。

静かな風が吹いた。

増子「行っちゃったね。」

ハニ丸「うん。」

増子「大丈夫かな。」

ハニ丸「分からない。」

増子「だよね。」

ハニ丸「でも。」

ボクは笑った。

ハニ丸「大丈夫。最強パーティーだから。」

増子「うん。」

増子も笑った。

増子「そうね。」

ボクは店の方を振り返った。

今日から、
ここがボクたちのカフェになる。

マスターが守ってきた場所。
たくさんの人に愛されてきた場所。

そしてこれから、
ボクと増子が育てていく場所。

ハニ丸「増子。」

増子「ん?」

ハニ丸「明日からよろしくね。」

増子「こちらこそ。」

増子は少し笑って、
ボクの手を握った。

その手は温かかった。

ハニ丸「よし。」

増子「うん。」

ボクたちは並んで、
カフェの中へ戻った。

新しい毎日が、
静かに始まろうとしていた。


そして、
時は現在に戻る。
閉店後のカフェ。

テーブルを片付け終えた増子が、
不思議そうにボクを見ていた。

増子「何考えてたの?」

ハニ丸「あぁ。」

ハニ丸「幸せ之助さん達、今頃どこかでワクワクしてるんだろうなって。」

増子「してるでしょ。」

ハニ丸「だよね。」

増子「たぶん今頃、ライオンに追いかけられてるんじゃない?」

ハニ丸「ありえる。」

増子「それで幸せ之助さんが『猫ちゃん速い〜♪』って喜んでる。」

ハニ丸「ありえる。」

増子「お父さんはコーヒー豆抱えて泣いてる。」

ハニ丸「ありえる。」

増子「お母さんが全員まとめて怒ってる。ライオンにも。」

ハニ丸「確実。」

ボクたちは笑った。

笑いながら、
閉店後の店内を片付けていく。

カップを洗う音。
椅子を戻す音。
明日の仕込みを始める音。

特別なことなんて、
何もない。

でも。

その何でもない時間が、
たまらなく愛おしかった。

増子「ねぇ。」

ハニ丸「ん?」

増子「私たちもでしょ?」

ハニ丸「え?」

増子「私たちも、ワクワクしてるでしょ?」

ボクは少し考えた。
そして笑った。

ハニ丸「うん。」

ハニ丸「ボクたちも。」

増子「ふふふ。」

ハニ丸「明日は常連さんの誕生日だし。」

増子「ケーキ、仕込まないとね。」

ハニ丸「新作の試作もしたい。」

増子「また増やすの?」

ハニ丸「ちょっとだけ。」

増子「絶対ちょっとじゃない。」

ハニ丸「バレた?」

増子「顔見れば分かる。」

ボクたちはまた笑った。

外は静かだった。

カフェの明かりだけが、
夜の中にぽっと灯っている。

この小さな場所に、
ボクの幸せはある。

大きな夢じゃないかもしれない。

世界を驚かせるような成功でもないかもしれない。

でも、
愛する人と笑い合いながら。

大切なお客様を迎えながら。

毎日を丁寧に積み重ねていく。

それが今のボクの夢だ。

そして、
その夢はもう叶っている。

ハニ丸「増子。」

増子「なに?」

ハニ丸「明日も楽しもうね。」

増子「うん。」

増子は笑った。

増子「明日も楽しもう。」

ボクは店内を見渡した。

マスターから受け継いだカウンター。

常連さんたちが座る席。

増子が笑っている場所。

そして、
あの日から続いている物語。

幸せ之助さん。
リナさん。
マスター。
真澄美さん。
猫の神様。

みんなからもらったものが、
この場所に息づいている。

幸せは、
どこか遠くにあるものじゃなかった。

もっと成功した先にあるものでもなかった。

もっと頑張ったご褒美でもなかった。

幸せは。

今ここにある。

明日の仕込みを終えると、
ボクたちは店の明かりを消した。

ハニ丸「お疲れ様。」

増子「お疲れ様。」

外に出て鍵を閉める。

夜空を見上げると、
星が少しだけ見えた。

どこか遠くで、
黒猫の鳴き声が聞こえた気がした。

ニャー。

ハニ丸「……。」

増子「どうしたの?」

ハニ丸「いや。」

ボクは笑った。

ハニ丸「なんでもない。」

そして、
増子と並んで家路についた。

明日もまた、
カフェを開ける。

お客様を迎える。

笑って、
働いて、
時々失敗して、
また笑う。

そんな毎日が続いていく。


ボクはハニ丸。
愛する妻と一緒にカフェを営む35歳だ。

今のボクにとって幸せは――
今ここにある。


猫の神様と商売の神様 完

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