ファミレスで見た、キャンドルの火のような幻の幸福
今年の前半に、小さな子供を連れて、ひさびさに実家を訪れたとき、なんとも言えない印象的な場面があった。
涙が出そうになり、理由がわかるような、わからないような、未解決の感情……。
登場人物は4人。わたしと、小学生に上がる前のわたしの子供。そして、わたしの両親(わたしの奥さんは今回欠席)。
わたしの両親は、ただ離婚していないだけの夫婦。母は、未来永劫、父を呪うための存在であり、父は呪われるだけの存在だ。
普段の生活ではずっと別行動をしている。それなのに、わたしの子供を連れて外にお昼ごはんを食べに行く流れになったとき、奇跡のコラボレーションが起きた。
この記事は、幸福論の中核になる大事なお話です。「Just幸福論」とセットになったマガジンもご用意しています。
両親がふたりとも付いてくることになったのだ。この特殊な家庭においては奇跡。孫と一緒に出かけたい気持ちをおたがい譲れなかったのだろう。
しかも一台の車で出かけたものだから、車内でも、呪いは遺憾なく発揮された。
「その道、そっち」※呪われてる側
「わかってる(話しかけるな!)」※呪ってる側
田舎の町に昔からあるファミレスに入った。
通されたのは小さなテーブルだったので、下の図のような配置になった。

物理的に狭かったのもあるが、なんとも息苦しい感じがした。子供はそんな空気感におかまいなし。いつものとおり、マイペースだった(好き嫌いを言いながらお子様セットを食べていた)。
父と母は、おたがいをガン無視しながら、孫に話しかけた。わたしはテーブルが狭かったこともあり、傍観者のような位置になる。まるで撮影のために備え付けられたカメラのように。
食事が進むにつれて、なんとも言えないせつない気持ちになった。緊迫感は緊迫感であたりを漂っているのだけど、別のスペースの感情は、気を抜くと涙が出てきそうな種類のものだった。
そのときに理解できたのは、このふたりは、わたしの孫を通じて、幼い日のわたしを見ているのだろうな、ということ。だけど、なぜそれが泣きそうな感情につながるのか理解できなかった。
その後、崩壊した家族の絆。時の流れと無常を感じ、それが悲しかったのだろうか。
それから半年以上が経ち、ふとこの場面を思い出したときに、せつなさの正体がわかったような気がした。
わたしは幸福な幻を見たのかもしれない。マッチ売りの少女が、マッチを擦ったときに一瞬見える幸福な光景。すぐに消えてしまう儚い幻。
わたしの視点は、ずっと傍観者としてのカメラの位置にあったわけではない。子供の視点を通じても、あの光景にアクセスしていた。まぶしすぎて、直視できず、すぐに引っ込めたけれども。
人生で一番幸福な瞬間というのは、幼いころ、両親の愛情を一身に受けているときではないだろうか。
間違いないと、わたしの心は言う。だけど、それは幻のようなものだ。幸福の最中にあるとき、それが至上の幸福であることに気づかない。
大人になってから、あのシチュエーションがあったからわたしは気づくことができた。しかも、半年以上が経過したあと。
もっと言うと、あれは現実には存在しなかった絵だ。わたしには2歳下の弟がいたため、両親の愛情を一身に受けることはできなかった。
理想化された、つくりものの絵だけれど、あれは、神様が一瞬見せてくれた至高の幻だった。
わたしは正しかった。
それで泣きそうにならないなんてことはあり得ない。

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「みんな幸せそうだなあ……」昔、新宿の雑踏を見ながら、ある友人が漏らした言葉を今でも覚えている。そのときは気持ちが弱ってたんだろうね。違う…
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