ネルソン・グッドマン「世界制作の方法」レポート

▫️本文は、2023年10月14日にネルソン・グッドマン著「世界制作の方法」の冒頭を読んで作成したレポートです。
▫️一部、noteの機能を用いて読み易くしています。


ネルソン・グッドマンの提示した”世界制作”に関するさまざまな考え方には概ね理解・賛同・共感できる部分があった。少なくとも、「世界のつくられ方」に関して、「不断に使用される多種多様な工程のいくつかを示唆する」彼の試みは読者である私に届いた実感が確かにある。以下、その中でもとくに思考を深められた部分について、本文の内容を引用しながら箇条書きの形式で記していく。

「物理学自体、断片的で不安定な体系」

ネルソン・グッドマン「世界制作の方法」(p.23/L.15)

上記にあるように、ある一つの視点による世界の捉え方を取り上げて、卓越した体系だと奉るのは大変傲慢な姿勢であるように私も感じたことがある。
我々の生きるこの現実世界には、これまで先人が積み重ねてきた叡智として様々な学問分野が存在している。しかし、それらは世界を捉える際の視点や思想、アプローチが異なるだけであり、その観点の分だけ専門分野が立ち上がっているのだと自分は考える。人々が持つ信念、自分の思想にしっくりとくるものに従って各学問領域に分かれていくのであり、そういった意味ではある種宗教のようなものであると認識している。
大学受験を見据えていた当時高校生の自分はこれを感覚的に考えており、どの学問領域にも希望を見出せていなかった。結果として、これもまた直観的ではあるが、自分の手に馴染む社会へのアプローチとして長年関わってきた美術分野にのみ他とは異なる光を見出し、進路を決め現在に至るように思う。

「あるシステムを別のシステムへ還元できたなら、世界=ヴァージョン間の相互関係を理解するためにかけがえのない寄与になる」「しかし、正しい意味で厳密な還元はまれであって、ほとんどつねに還元は部分的なものでしかないし、たとえ厳密な還元がおこなわれることがあるにしても、それが唯一のものであることはめったにない」

ネルソン・グッドマン「世界制作の方法」(p.24/L.5) (p.24/L.6)

この記述には、心からの同意を示したい。
わかりやすいのが言語の壁だと思った。私は外国語を学ぶ際に常々考えることがある。それは、”翻訳”を真の意味で行うことは不可能ではないかということである。この考えを持ち始めたきっかけは確か義務教育において英語を学ぶ過程にあった。当時の私は『面白い』という日本語に対応する英語にinterestingとfunnyがあることを知った頃だった。日本語では一通りの表現しかない形容詞が、国境を越えると複数の表し方をすることができる、その事実に驚愕し絶望した。我々が当たり前に用いていた母国語は、ある意味で表現力に乏しい可能性があることにその時初めて気づいたからだ。ただ、どちらの言語に表現力の優劣があるということを述べたいのではなく、言語はその国の思想に根強く由来し成立されてきたものなのだ(本文でいうところの「どの側面にアクセントを置くかという違い」(p.33/L.9))ということへの気づき、そしてそれは必ずしも一対一対応する単語が存在しているわけではないという落胆である。
その後年齢を重ねるにつれて、ドイツ語は哲学的な概念を考える際に扱いやすい言語であるということや、フランス語には独自の発音方法があることなどを知り、英語だけでなく他言語にも異なる視点でズレがあることを実感した自分は、徐々に確信を得るようになった。言語にはわかりやすく人類の相互理解における障壁がある。皮肉にも言語とは人類が生きてきた軌跡の賜物であり、各々で高度な文明を築き上げてきた人類が誇る発明である。それゆえに独自で発達したそれらの障壁を越え真の意味で同じ立場に立つことは困難であるのだと確信的な諦めをどこかで感じている。
また同時に、私は異なる言語を操る彼らとは真の意味で心を通じ合えることは未来永劫ないのだ、という失望感に苛まれるようになった。それどころか、同じ言語を扱う日本人同士ですら言葉の意味の捉え方に微妙な違いが存在している気もする。そういったレベルでのズレまで考慮するとすれば、我々人間は真の意味で互いを純度100パーセントで理解し合うことは不可能なのである。寄り添う努力をするか否か、そういった問題とは別ベクトルで私はそう考えている。
2023年夏秋に指導教員と共著したペーパーでは、『理解し合えない絶望の谷』という言葉でこれを表現した。

「真理はもったいぶった厳格な主人であるどころか、従順で素直な召使いなのだ」

ネルソン・グッドマン「世界制作の方法」(p.43/L.6)

数学の公式や定理、とくに数字の単位を見るとそう思う。自分はよく単位の変換を行う際に『なぜ1mはこの長さで定まるに落ち着いたのだろう』ということを幼少期から現在に至っても度々考える。メートルに限らずリットルでもグラムなんでも、とにかく”我々が基準だと信じて疑わない長さではないスケールで1m/1L/1gが定められた世界線”に思考を巡らせる。こういった経験から、ネルソン・グッドマンの「『真理を、真理全部を、ただ真理のみを』というモットーは、それゆえ、世界制作者にとって厄介で無力な方針(ポリシー)だ」(p.45/L.10)という姿勢には納得できる部分が多々あった。

「補充のもっとも目覚しい事例が見出されるのは、運動の知覚の場合だ」「知覚世界における運動は、時として物理的刺激に対する複雑で豊かな肉付けから生まれる」「知覚ははるかに大きな創造力をもっている」

ネルソン・グッドマン「世界制作の方法」(p.39/L.11) (p.39/L.11) (p.40/L.1)

個人的には、本文の中でもとくに印象的な部分である。私の研究ひいては興味や生き方のルーツになりうる記述だったからだ。
自分は現在、”プルフリッヒ効果”という錯視を用いた擬似立体視アニメーションの手法開拓、およびその手法検討のための制作を研究にて取り上げている。上記の周辺記述からはいくつかの発見があった。
まずは、アニメーションという手法の強烈な魅力についてである。アニメーションの真の魅力は我々の視覚的な知覚の補間が生み出す”空想的”な動きにあると私は考えている。現実には存在していない部分を見る、この興味深い事実の説明として「大きな創造力」を持つ知覚システムが「複雑で豊かな肉付け」をしているという表現がとても印象的だった。
次に、自分自身が制作に錯視を取り扱っている理由への再確認である。私は初めて本手法を用いた唯一無二の作品を鑑賞した際、擬似的にもかかわらずその強力な立体視を得たことに大変驚愕した。そして、物理的には平面映像にも関わらず、簡単な一手を加えることで立体的に知覚できる視覚システムがあったことに驚いた。何より、人が頭の中で作り出してしまった立体感で我々は感動することができてしまうこの事実に強烈な興味を持ち惹かれた。その感動から現在上記手法の研究を行うに至っている。このことからも「知覚ははるかに大きな創造力をもっている」ことは明らかだろうと私も思う。
アニメーション手法の魅力に加え、プルフリッヒ効果の体験からも得た確信的な私見として、『我々人間に”実際に存在していること”すなわち”実在”は必ずしも必要でない』と私は考えている。錯視を制作に用いているもう一つの意味づけに、現実世界と空想世界の架け橋を担わせたいという意図がある。上記の擬似立体視体験のように、現実と空想の境目が曖昧になる瞬間が我々人間には多々ある。それが目に見える形に現れてくるものが錯視であり、言い換えれば現実世界と空想世界の架け橋的な存在であるとも言える。私はこの錯視を使うことで、私たちの想像する自由な空想世界をもっと我々の生きるリアルな空間に引き寄せ、現実世界の体験をもっと彩り豊かな楽しいものにしていきたいと考えている。そのために、アニメーションを扱い、錯視を扱っているのだろうと思わされた。
同時に、「運動を知覚することは、しばしばそれを生み出すことである」(p.49/L.10)と本文でも述べられていたように、私はある種「世界を発見」し、世界を「作り直す」ことを取り扱っているのだと気付かされた。確かに本研究制作を通して、「理解と創造は手を携えている」(p.49/L.13)ことを実感する。

「どういう理由でこうした補充がおこるかは、考察の魅力ある主題である」

ネルソン・グッドマン「世界制作の方法」(p.40/L.6)

自分もそのように感じる。人間の視覚システムの神秘。もし人間の創造主がいたとして、彼がなぜ我々に「補充」の機能を与えたのか。我々はなぜ「補充」の機能を授かる必要があったのだろうか。人間もこの世界における種の一つでしかなく、歯車の一つでしかないことを実感させられる。

「さまざまな見方に気づいたからといって絵はひとつも描けない」

ネルソン・グッドマン「世界制作の方法」(p.48/L.8)

まさに自分が自分を生きる中で課題としていることをネルソン・グッドマンは記述していた。世界制作の方法、そのメカニズムをどれだけ理解していても、具現化しなければそれは無に等しい。我々は現実世界に文字なり言葉なり絵画なりで表出し表現して初めて、その思考を持っていることが証明できる。逆を言えば、その手を動かす過程を怠ればどれだけ尊い思考を持っていたとしても、持っていないものとみなされるのである。その具象がたとえ脳にある思考の全てを反映できていなかったとしても、そもそも”全て”とは膨大すぎて包摂した具象を作り上げるのは物理的に不可能であるのだから、部分的にでも思考を表出した方が良い、つまりは兎に角手を動かすことから始めてみるのが良い、ということだと自分は解釈した。
ひとえに『哲学的行動主義』という考え方もあるように、人は行動によってでしか思考を、心を具現化できないからである。

「内容は形式なしでは消失してしまう」「世界がなくても言葉は存在できるが、言葉なり他の記号なりを欠けば世界は存在できないのである。」(p.26/L.8)(p.26/L.9)といった記述にも同様の理解をしている。

【参考文献】
ネルソン・グッドマン「世界制作の方法」,ちくま学芸文庫, 2008年2月
妹尾武治「未来は決まっており、自分の意志など存在しない。心理学的決定論」, 光文社, 2021年3月

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