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2025/8/20 下北沢の珈琲屋についての思い出

2025/8/18

「当店は禁煙となっております」



2020~2024

大学時代、暇があるとよく下北沢に行っていた。


大して忙しい大学生活を送っていたわけではないので、結構な頻度で下北に足を運び、ただプラプラとしていた。バンドとも演劇とも無縁だった僕にとって、下北には目的がなく、することは無かった。古本屋でひたすら背表紙を眺めたり、古着屋を冷やかしたり、たまに友達と酒を飲んだり、カラオケに行ったり、デートしたり。小綺麗な映画館ができたのは、大学2年か3年の頃だったか。


何にもすることが無く、ただ時間を過ごしたかった僕の唯一の味方で、数少ない居場所となっていたのは、下北のあちこちにある喫茶店だった。一人で長時間だらだら過ごしていても誰にも咎められず、本を読むにもぼーっと考え事をするにも最適な場所である。何より下北の喫茶店は喫煙に寛容だった。その頃、僕は実家に住んでいたのだが、煙草を吸うと家族があまりいい顔をしないし、大学の喫煙所も数が限られていたので、吸おうと思ったら必然的に外へ出ざるを得なかった。僕にとって、下北はでっかい喫煙所だった。


つむじ風、Blue Monday、pebble、いーはとーぼ、トロワ・シャンブル、シーシャ2号店、透明薔薇、3rd stone cafe

どこもこの令和の時代に席で煙草が吸える喫茶店だ。それぞれ固有の思い出があるお店ばかりだが、中でも一番足繁く通っていたのは、一番街のほど近くにある、こはぜ珈琲だった。なぜか。実家から徒歩か自転車で下北に行くと一番手前にあるからというのも理由の一つだったが、何よりこはぜは圧倒的に安かった。300円あれば、ブレンドコーヒーが一杯飲めたのだ。大学生なら大体そうだと思うが、それほどお金に余裕があったわけではない僕にとって、これは非常に有り難かった。2杯ぐらい頼んで長時間粘る分にも、時間がない時にサッと立ち寄る分にもちょうど良かった。


大体は一番安いブレンドかアイスコーヒーを頼んでいたが、たまの贅沢にコーヒーフロートを飲むと、最後にアイスが溶けて甘いカフェオレみたいになって美味しい。ホットサンドも絶品だ。ツナチーズかハムチーズ。小倉あんは頼んだことがない。店内には大きな焙煎機があって、豆だけを買いに来るファンも多い。トイレの壁や扉は年中ハロウィン仕様でシールが貼られているのに、扉に貼られた映画や劇団のポスターはこまめに貼り替えられている。


こはぜ珈琲ももちろん煙草が吸えるのだが、店内は禁煙で、店前と小さな通りを挟んだ向かいにいくつかテーブルと簡単な椅子が並べてあって、そこが喫煙席だった。合計で6~7席ぐらいあるが、わざわざこはぜにコーヒーを飲みに来るのは喫煙者ばかりなので、外の喫煙席だけ埋まっていることもしばしばある。そういう時は、一旦20分ほど古着屋でも行って時間を空けてからまた来るか、店内で座ってコーヒーを飲みながら、外の席が空かないか目を光らせる。僕が一番お気に入りだったのは、入り口のすぐ脇にある大きな丸テーブル周りの二席で、椅子がガタガタしないし、通りに向かって煙を吐きながら、下北を歩く人達を眺めるのが好きだった。


何か目的があったわけでもないのに、今こうして思い返すと、こはぜにはいくつもの思い出がある。本を読んで、レポートを書いて、待ち合わせして、考え事をして、ただコーヒーを飲んだ。頻繁に顔を合わせる全身タトゥーまみれの長髪の男が何者か予想したのも一回や二回ではない。来るたびに男は美しく煙草を巻いて吸っていた。当時付き合っていた子に振られて、呼び出した友達に慰められたのもこはぜだった。


一時期は、大学よりも下北に行っていたことの方が多かったぐらいだが、大学を卒業して以降は行く回数も減り、こはぜからも足が離れた。実家を出てからは、より顕著になった。



2025/7~8

いつも通っている美容院があるので、髪を切りに行く頻度で(大体月に一回ほど、もう少し期間が空く時もある)下北沢に行く。ちょうど一ヶ月前ぐらい、馴染みの美容師から衝撃の事実を知らされた。こはぜ珈琲が移転するとのことだった。たまに手から煙草が香る彼とは、しばしば喫煙できる下北のお店の話をするのだ。突然の知らせに驚きながらも、その時はそのまま話が流れていった。

そこからしばらくして、こはぜ珈琲を舞台にした映画がつくられて、来年公開とのニュースを目にした。主演は藤原さくらで、閉店・移転までの一ヶ月間を描くという。下北沢によく行く人なら一度は見かけたことのある柄本時生も出るらしい。愛聴しているファミじわ(藤原さくらと日高七海)の二人が出演し、舞台がこはぜ珈琲とあっては観に行くしかないと心に決めた。



2025/8/18
髪が少し伸びてきたので、仕事が終わってから一ヶ月ぶりに下北沢に行った。街を歩く人々の顔が何だか若い。
いつもの美容師に改めてこはぜ珈琲の移転について聞くと、すでに移転したと知らされた。Google Mapには馴染みのない場所が表示され、小洒落た店内の写真が出てきた(今年の五月末に移転していたらしい)。まだ営業時間内であることを確かめて、マップを見ながらこはぜ珈琲に辿り着いた。店先に小さな椅子があるのを見て、少しホッとしながら店内に入る。ちょうど家のコーヒー豆が切れていたのだった。

レジ横に陳列されたコーヒー豆をしげしげと見ながら、どう注文したものかと悩んでいると、若い男性が3人で店に入ってきて、店員さんにお土産を渡していた。どうやら馴染みの客らしい。

こはぜブレンドの豆があったので、200gくださいと店員さんに頼んだ。見かけたことのない顔だ。焙煎の程度や挽き方を聞かれたが、分からないのでおすすめされるがままにした。

少し時間がかかると言われたので、聞いてみた。

「外も禁煙ですか」
「店内は禁煙となっております」

店内という言葉の響きのせいだろうか。「今はもう吸えないんですよ〜」的なセリフを心のどこかで期待していたのだろうか。あの細い路地裏と地続きな感じが欲しかったのだろうか。大きな焙煎機も変わらぬマークもあるというのに?
そのとき自分の中で、かけらみたいなものが削り取られたような気がした。記憶か思い出か、愛着か。何かは分からないし、決して大きな部分ではないけれど、確かに自分の中に存在していたものが、今はもうない。

10分もないくらいの待ち時間がどうにも手持ち無沙汰で持て余した。
こはぜでコーヒー豆を買うのも、コーヒーを飲まないのも、煙草を吸わないのも初めてだった。


何となく歩きたくなって、しばらく歩いてから自転車に乗って帰った。帰りながら、『おい、ハンサム!』の吉田鋼太郎を思い出していた。町の中華屋が閉店するからといって、普段通いもしないのに行列をつくる人々に苦言を呈する常連客の吉田鋼太郎。ドラマを観ていた時は深く頷いたものの、現実だとそう上手くはいかない。


帰ってからは丁寧にお湯を沸かし、細心の注意をはらってこはぜブレンドを淹れる。


下北の細い路地裏の味がした。自分がコーヒーの味を覚えているのに驚いた。
やはりこはぜには煙草が合う。


キタウラシュンタロウ




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