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第7章 軍港がなければ三浦半島の発展もなかった ~軍都・横須賀の戦前と戦後  

※草稿段階です

序 東郷平八郎の謝辞が示した、勝利の影の立役者としての小栗上野介と横須賀

 明治四十五年のある日、東郷平八郎は自邸に一組の遺族を招いたと伝えられています。
 それは、幕末に横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)の建設を主導しながら、新政府によって「逆賊」として処刑された小栗上野介忠順の子孫でした。
【図版1 横須賀製鉄所・造船所周辺の古写真】
 

横須賀明細弌覧圖(横須賀造船所と明治時代の横須賀)

 酒宴がたけなわになった頃、東郷は彼らに向き直り、「日本海海戦でロシア艦隊に勝つことができたのは、小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげです」と静かに礼を述べた、とする逸話が残されています。
 日露戦争で日本海軍が動員した艦艇の多くは、横須賀や呉などの軍港で建造され、整備もまた横須賀のドックで行われていました。
【図版2 明治期「横須賀軍港全図」】
 例:「大日本帝国横須賀全図 横須賀軍港」(明治二十七年)や、日本遺産関連の横須賀港周辺の絵図・海図。
 東郷のことばには、こうした軍港・工廠インフラが、近代日本の国防を支える「見えにくい背骨」であったという認識が、きわめて凝縮されたかたちで表れているといってよいと思います。
 つまり横須賀は、東郷自身の目から見ても、単なる一地方都市ではなく、「国の命運を左右する軍港」として意識されていたのです。
 この章では、この「国防の要」としての横須賀が、やがて軍国主義の進展とともにどのように軍事一色の都市へと変貌し、さらに敗戦と米軍占領を経て、戦後の米軍基地と海上自衛隊の街へと連続していったのかをたどっていきたいと思います。
 前章で見てきた鉄道・道路・埋立といったインフラの集中は、決して中立的な「近代化」の結果ではなく、こうした軍事的な要請と深く結びついていました。
 なぜ横須賀に、これほどまでに軍事と交通と資本が集中的に投下されたのか――その問いに向き合うために、まずは観光港から機密軍港へと変わっていく過程を、市民の生活から見ていくことにします。


第1節 観光港から機密軍港へ ― 軍国主義と市民生活


 明治のはじめ、横須賀は「近代日本のショーウィンドウ」としての顔を持っていました。
 新政府が威信をかけて整備した軍港や造船所は、半ば観光施設のように扱われ、軍艦見物や軍港見学は、外来者にとっても地元住民にとっても一種の名物だったのです。
 軍と市民との距離は、いまの私たちが想像するよりもずっと近く、軍服姿の兵士たちが商店街を歩き、軍港の風景が「横須賀らしさ」の象徴として受けとめられていました。
【図版3 大正初期の「横須賀市街全図」】
 汐入・横須賀中央・本港周辺の位置関係が一目でわかる地図を掲載します。
 出典例:軍港堂書店「横須賀市街全図」(大正2年)紹介記事、旧軍港市関係資料。
 しかし、日清・日露戦争を経て日本の軍国主義が進展するにつれて、横須賀の軍港は次第に「見せる軍港」から「隠す軍港」へと性格を変えていきます。
 軍事機密の観点から、軍港周辺には立入禁止区域が増え、フェンスや門が設けられ、かつては自由に往来できた道や海辺が、少しずつ市民の視線から遮られていきました。
 軍は市民を労働力として必要としつつも、軍人と住民との関係は、近くにいながら互いの内側を知らない、微妙な距離感を帯びたものになっていきます。
【図版4 軍港周辺のゲート・フェンスを写した戦前~占領期の写真】
 たとえば、旧「横須賀軍港駅」(現・汐入駅)周辺やヴェルニー公園対岸の軍港を写した写真など。
 ここで意識しておきたいのは、横須賀そのものが「平地の少ない都市」だったという前提です。
 横須賀市の大部分は標高50〜150メートルほどの丘陵地が占めており、小さな河川の浸食によって生まれた谷戸地形が複雑に入り組んでいます。
 もともとの市街地は、そうした谷戸の谷底や、わずかな海岸沿いの低地に細長く張りつくようにして形成されていましたが、明治以降、海に近い平坦地の多くは軍港・造船所・工廠・関連施設に優先的に割り当てられていきました。
 その結果、横須賀では、「わずかな平地」をめぐって軍と市民が無言のうちに土地を奪い合う構図が生まれます。
 軍港・ドック・兵舎・練兵場といった軍事施設が、港湾周辺の平坦地や埋立地を次々と占有していく一方で、後から流入してきた市民は、残された谷戸の奥や斜面に住宅を求めざるをえなくなっていったのです。
 今日「横須賀らしい風景」として語られることの多い、谷戸にびっしりと家が張りついた景観は、その一部が、こうした空間の奪い合いの帰結として強制された側面を持っていると言えるかもしれません。
 同時に、軍港の拡張と軍需産業の集積は、横須賀に大量の人口流入を引き寄せました。
 工員や下請け業者、軍と関わりのある商売を求めてやってくる人びとが急増し、当初の都市計画では想定していなかった斜面や谷戸にまで住宅が建ち並ぶようになっていきます。
 本来なら家を建てることをためらうような急傾斜地や細い谷筋まで宅地化が進み、「軍港のための人口膨張」が、横須賀の都市構造そのものをいっそう歪ませていったのです。
【図版5-a 戦前・戦後初期の航空写真(斜面市街地の広がりがわかるもの)】構造としての歪
 戦前と戦後初期の航空写真を並べ、谷戸・斜面への市街地拡大を俯瞰的に示します。出典例:国土地理院空中写真、横須賀市史資料など。
【図版5-b 現在の谷戸の階段道路と密集住宅の地上写真】身体感覚としてのざらつき
 坂本・田戸台・船越・汐入裏など、谷戸の奥へ向かって階段状の道路が垂直に伸び、その両側に家々が張りつく様子を撮影した写真を地名を銘記して掲載。
 「車の入れない細い階段を何十段も上がらなければ自宅にたどり着けない」「高齢化とともに日常生活そのものが負担になっている」といった現代の状況も、簡潔なキャプションで示しておくとよいでしょう。
 こうした変化は、市民生活の隅々にじわじわと影を落としていきました。
 軍需工場で働くことは、安定した収入をもたらす一方で、軍事機密や規律によって生活の自由を制約し、地域全体が「軍の都合」に合わせて動くことを当然視する空気も生み出していきます。
 観光客に開かれた港町から、フェンスとゲートに囲まれた「機密軍港」への変身は、横須賀の風景だけでなく、人びとの時間感覚や仕事の選択、子どもの遊び場に至るまで、生活世界の基調を静かに書き換えていったのでした。

「軍都の発展」がもたらした現代の負の遺産
ここで意識しておきたいのは、横須賀そのものが「平地の極端に少ない都市」であったという前提です。横須賀市の大部分は標高50〜150メートルほどの丘陵地が占めており、複雑に入り組んだ谷戸地形が連なっています。明治以降、海に近いわずかな平坦地の大部分は、軍港・造船所・工廠といった国家施設に優先的に割り当てられていきました。
その結果、横須賀では「平地」をめぐって軍と市民が無言のうちに土地を奪い合う構図が生まれます。軍事施設が港湾周辺の平坦地を占有する一方で、軍需産業の拡大に伴い急増した人口を背景に、流入した市民は、残された谷戸の奥や急峻な斜面に住宅を求めざるをえなくなりました。本来なら居住に適さないような細い谷筋や崖地までもが宅地化され、無数の「階段道路」が斜面を這うように形成されていったのです。
今日「横須賀らしい風景」として語られることの多い、谷戸にびっしりと家が張りついた景観は、こうした軍事優先の空間支配が市民を崖際へと押し出した帰結にほかなりません。かつて軍需産業の活力を支え、軍都の発展を象徴したこの高密度な斜面居住は、現代において「高齢化」「空き家問題」「防災上の脆弱性」という深刻な「負の遺産」へと反転しました。車両の進入が困難な地形は、生活利便性の低下を招き、都市の有機的な更新を阻む構造的な制約として横須賀を苦しめ続けています。
明治以来の「軍港のための発展」という原動力が、令和の現在、皮肉にも都市の持続可能性を脅かす代償となっている。このパラドックスこそが、軍事によって形作られた三浦半島の都市発展が抱える、最も重い影のひとつであると言えるでしょう。

第2節 軍のための町・横須賀中央と軍港周辺


軍港の性格が「見せる」から「隠す」へと変わっていく一方で、その周囲には、軍を相手にした町場が大きくふくらんでいきました。
 とくに軍港に面した汐入から本町、横須賀中央一帯にかけては、軍需品を扱う商店や飲食店、娯楽施設が密集し、「軍のための町」として独特の空気を帯びるようになっていきます。
【図版6 汐入~本町~横須賀中央周辺の市街地図(戦前~昭和初期)】
 汐入駅(旧・横須賀軍港駅)と軍港、本町通り、横須賀中央駅周辺の位置関係がわかる地図を掲載します。
 現在の京急汐入駅は、昭和五年に「横須賀軍港駅」として開業した駅で、その名が示すように軍施設との結びつきのなかで生まれた場所です。
 駅から海側へ数分歩くと、いまはヴェルニー公園として整備された海辺に出ますが、その対岸には、かつて日本海軍、そして戦後は米海軍と海上自衛隊の艦船がずらりと並んできました。
 汐入から本町にかけての通りは、軍人・軍属・工員たちが行き交う動線としてにぎわい、その周囲には、小さな飲み屋や料理屋、雑貨店が軒を連ねるようになります。
【図版7 ヴェルニー公園から望む軍港(現代写真を参考図として)】
 戦前・戦中の同位置からの写真があればベストですが、なければ現代写真を使い、「対岸の軍港」という構図を示します。
 一方、丘の上から谷戸にかけて広がる横須賀中央周辺は、より庶民的な歓楽の場として発展していきました。
 横須賀には、幕末にさかのぼる大滝町の公娼街を起点とし、その後柏木田などへ移転した遊郭の歴史があり、軍港都市の成立とともに公娼地もまた拡大・再編されていきます。
 政府公認の遊郭に加えて、私娼街や飲み屋街も周囲に広がり、兵士や工員、港で働く人々が夜な夜な集まる一角が、横須賀中央から若松町、安浦方面にかけて形成されていきました。
【図版8 大滝町・柏木田周辺の遊郭配置図と現在の町割り】
 遊郭が移転・拡大していく過程を示す簡単な図と、現在の地図を重ねることで、「軍港と歓楽街」の位置関係がわかるようにします。
 こうした歓楽街は、軍港都市に典型的な「陰のインフラ」として機能していました。
 長期の船務や工場勤務を終えた兵士や工員たちは、この地域で飲み、遊び、ときにトラブルを起こしながら、軍隊生活の緊張を一時的に忘れようとしました。
 そこでは、軍服姿の男たちと、彼らを相手に生計を立てる商人・飲食業・性労働者たちが、複雑にからみ合いながら暮らしていたのです。
【図版9 本町・どぶ板通り周辺の古写真】
 戦前~占領期の本町通り、いわゆる「どぶ板通り」に並ぶ店舗やネオンサインなどを写した写真を掲載し、「軍のための商店街」の雰囲気を伝えます。
 軍港周辺の商業地は、経済的には「軍に食べさせてもらう町」でもありました。
 軍艦の入出港や演習のスケジュールに合わせて客足が増減し、景気の良し悪しも、軍の動向や軍事予算の大小に左右される面が少なくありませんでした。
 その一方で、軍人と市民の関係は、雇用主と労働者、客と店との関係を通じて日常的につながりながらも、階級差や身分差、さらには「いつか戦地に行く人」と「送り出す側」との非対称性を抱え込んでいました。
 戦局が深まるにつれて、軍港への出入り口では身分証の提示や所持品検査が厳格になり、軍港内の撮影は禁止され、軍艦を写しただけでも「スパイ行為」と見なされかねないという緊張が、市民のあいだにじわじわと広がっていきます。
 このように、汐入から本町、横須賀中央一帯にかけての市街地は、軍港・工廠・鎮守府の存在を前提として構築された「軍のための町」でした。
 軍需品を扱う店、兵士相手の飲食店や娯楽施設、遊郭や私娼街が集中したこのエリアは、軍事施設そのものとは別のかたちで、「軍事一色の都市」としての横須賀を支える基盤だったといえます。
 次の節では、この「軍のための町」が、戦争の激化とともにどのような姿をとり、そして終戦へ向かうなかで何を経験したのかを、空襲と終戦の局面から見ていきたいと思います。



第3節 戦時下の横須賀となぜか「ほぼ無傷」での敗戦


 日中戦争から太平洋戦争へと拡大していくなかで、横須賀は「日本海軍の中枢を担う軍港」としての性格をいっそう強めていきました。
 鎮守府・海軍工廠・造船所・航空隊といった施設に加え、軍港外縁部にも倉庫や補給基地、防空施設が張り巡らされ、横須賀は地図の上で見る以上に、軍事インフラが密集した空間になっていきます。
 市民の暮らしもまた、防空訓練や灯火管制、勤労動員などを通じて「戦時体制の日常」に深く組み込まれていきました。
【図版10 昭和期の横須賀軍港配置図】
 軍港内のドック・工廠・艦艇係留位置と、市街地との位置関係がわかる図。出典例:横須賀市史、旧海軍関係資料。
 同じ海軍の街である呉が、1945年7月1日深夜から2日未明にかけて、B29による焼夷弾の大規模空襲を受け、市街地のおよそ337ヘクタールが焼失し、2000人を超える犠牲者を出したことはよく知られています。
 呉の空襲は、軍港と工廠のみならず、市街地全体を焼き尽くす「絨毯爆撃」として行われ、海軍の拠点そのものを機能不全に追い込むとともに、多くの市民生活を破壊しました。
 この呉の壊滅的被害と比べるとき、横須賀が「ほぼ無傷で終戦を迎えた」という語りが、戦後の横須賀で広く流布してきた背景が見えてきます。
【図版11 呉市街空襲の被害範囲図】
 呉の焼失区域と犠牲者数を示す図を簡略に紹介し、「横須賀との対比」として提示します。
 実際には、横須賀も決して「空襲のなかった街」ではありませんでした。
 アメリカ軍の記録や日本側の資料を総合すると、横須賀市は計11~12回の空襲を受け、とくに1945年だけで空襲警報が69回発令されていたことがわかっています。
1942年4月のいわゆるドーリットル空襲では、横須賀海軍基地内に爆弾が投下され、造船施設や停泊中の艦艇に被害が出ましたし、戦争末期には空母艦載機やB29による爆撃・機銃掃射が繰り返されました。
【図版12 神奈川県下の空襲回数表と横須賀の欄】
 神奈川県警察史などにまとめられた空襲回数・被災地域の一覧のうち、横須賀市に関する部分を抜粋して掲載します。
 なかでも、1945年7月18日の空襲は、横須賀軍港を標的とした大規模攻撃として位置づけられています。
 米軍の資料では、この日、空母艦載機を中心とする多数の戦爆連合機が横須賀軍港を攻撃し、戦艦「長門」をはじめとする艦艇や、造機工場など軍港内の施設に大きな被害を与えたとされています。
 横須賀海軍病院も空爆を受け、多数の死傷者が出ていたことが、後年の証言や市史編さんの過程で明らかになっています。
【図版13 1945年7月18日の空襲時の被害写真(軍港内・海軍病院など)】
 軍港内の被弾艦艇や破壊された施設、海軍病院周辺の写真があれば掲載し、「軍港の被害は深刻だった」ことを視覚的に示します。
 一方で、市街地への被害規模を見ると、呉や横浜のように中心市街地一帯が焼き尽くされるような絨毯爆撃は、横須賀では行われませんでした。
 1945年7月の空襲でも、攻撃の主眼は軍港内の艦艇や工場棟、燃料タンクといった「上物」に置かれ、民間人の犠牲も出てはいるものの、確認されている死者は数十名にとどまるとされます。
 石造ドライドックや埠頭、護岸といった基礎インフラは、多くが使用可能な状態を保っており、港湾の骨格そのものが破壊されることはありませんでした。
 そのため戦後の市民のあいだでは、「横須賀は空襲を免れた」「大きな被害はなかった」というイメージが長く語られてきたのです。
【図版14 横須賀市内の戦災被害マップ】
 汐入・坂本・山王町など、実際に被害が出た地域に印を付けた地図を示し、「一面焼け野原ではないが、局地的な被害はあった」ことを可視化します。
 では、なぜ呉や横浜に比べて、横須賀の市街地は相対的に被害が少なかったのでしょうか。
 戦後の横須賀では、「アメリカが戦後、自分たちの軍事基地として横須賀を使うつもりだったから、意図的に空襲を控えたのだ」という噂が、都市伝説のように語られてきました。
 近年の研究者は、こうした「配慮説」を裏づける直接的な史料は見つかっていないとしながらも、軍港施設の被害のあり方――艦艇や工場棟といった交換可能な「上物」は叩かれた一方で、ドック・護岸・港湾構造物といった再建に時間のかかる基礎インフラは相対的に温存された――に注目し、あらためて検証の必要性を指摘しています。
 いずれにせよ、横須賀が「ほぼ無傷で終戦を迎えた」という言い回しの裏側には、「市街地の全面焼失は免れた」という相対比較と、「軍港内部では艦艇や施設に深刻な被害が出つつも、港湾の骨格は生き残っていた」という二つの事実が併存していました。
 軍港のなかで艦艇や工場棟が破壊され、人びとが命を落としながら、そのすぐ背後の斜面や谷戸の町では、家並みが比較的そのまま残り、ドックや埠頭といった重インフラは使用可能な状態のまま残された――そのアンバランスさこそが、戦後の横須賀に特有の記憶のあり方を生み出したのだと思います。
 次の節では、この「選択的に残された軍港」としての横須賀が、どのようにして米軍占領と基地化のなかに組み込まれていったのかを見ていきたいと思います。


第4節 アメリカは戦後のために横須賀を温存した


 終戦のころ、横須賀軍港には、世界でも屈指の規模をもつドック群が並んでいました。
 なかでも知られているのが、第六ドック(6号ドック)です。
 巨大戦艦「大和」級を改装した空母「信濃」が建造されたこのドックは、長さ約360メートルの大規模船渠で、完成当時、世界最大級のドックのひとつとされていました。
【図版15 建造中の空母「信濃」と第六ドック空撮写真】
 B29による空撮写真や建造時の写真が現存していれば、キャプションで「信濃を収容した第六ドック」と明記します。
 前節で見たように、1945年7月の空襲によって、横須賀軍港内の艦艇や工場棟、燃料タンクなどは大きな損傷を受けましたが、石造ドックや岸壁、防波堤といった基礎インフラの多くは致命的な破壊を免れていました。
 言い換えれば、横須賀は「中身のかなりの部分を叩かれたが、器そのものは生き残った軍港」だったのです。
 アメリカ軍にとって、これは敗戦国の軍港を接収し、自軍の拠点として活用するうえで、きわめて都合のよい状況でした。
 日本の敗色が濃厚となる1945年の夏、アメリカ軍はすでに「日本占領後にどの港湾・基地を接収し、どこを解体するか」という計画を具体的に詰めていました。
 そのなかで、横須賀と厚木は、本州に上陸する連合国軍の最初の拠点候補として早い段階から位置づけられていたことが、近年の研究や証言から明らかになっています。
 日本側の降伏から半月あまり後の1945年8月30日、米海兵隊は久里浜・追浜方面から上陸し、横須賀海兵団や海軍航空基地など主要施設の接収と武装解除を整然と進めていきました。
【図版16 1945年8月30日の上陸・接収の様子】
 昭和館の記録映像や当時の写真から、追浜飛行場(レッドビーチ)への上陸、鎮守府庁舎への星条旗掲揚の写真などを掲載します。
 こうして横須賀軍港は、開戦前まで日本海軍の中枢基地であった空間が、そのままの姿でアメリカ海軍の基地へと引き継がれていきました。
 1945年9月2日の降伏文書調印と同じ日付で、横須賀海軍施設は正式に米海軍によって接収され、「横須賀海軍施設(U.S. Naval Base Yokosuka)」として再出発します。
 ドックや工廠、兵舎、倉庫、桟橋といった軍港インフラは、最小限の修復ののち、ほとんどそのまま米海軍の艦艇修理・補給拠点として再利用されていきました。
 その一方で、終戦直後の横須賀の市民生活は深刻な空白を経験しました。
 横須賀海軍工廠は1945年秋には廃止され、多数の工員や関連労働者が職を失い、軍需に依存していた地元経済は、一時期「巨大な失業都市」とも言うべき状態に陥ります。
 旧軍用地は大蔵省所管の遊休国有地となり、旧軍港市転換法による平和産業港湾都市への転換構想が掲げられつつも、具体的な企業誘致や産業転換はすぐには進まず、人びとは進駐軍関連の雑役や解体作業などに就きながら、辛うじて生活をつないでいきました。
【図版17 戦後直後の横須賀海軍工廠・市街地の写真】
 閉鎖された工場群や、引き揚げ者・失業者であふれる駅前・商店街の様子を伝える写真があれば、ここに配置します。
 この状況を大きく変える契機となったのが、1950年に勃発した朝鮮戦争でした。
 日本の港湾・造船所は「朝鮮特需」に沸き、米軍艦艇の修理や補給、物資輸送に関連する仕事が急増し、旧軍港市の一つである横須賀でも、港湾後背地の工場やサービス業が再び活気を取り戻していきます。
 戦後初期に深刻な失業と疲弊を経験した横須賀にとって、米軍基地とそこから派生する仕事は、皮肉にも「食べていくための重要な糧」となり、戦前の「軍需に依存する街」から「米軍基地経済に依存する街」への移行が進んでいきました。
【図版18 朝鮮戦争期の横須賀港・造船関連施設の稼働の様子】
 特需期に増加した貨物・艦艇、あるいは当時の工場のフル稼働ぶりがわかる写真を掲載します。
 この意味で、横須賀は、アメリカの視点から見ても「国防の要」であり続けました。
 冷戦の始まりとともに、横須賀基地は第7艦隊の重要な前進基地となり、後には空母「ミッドウェー」や原子力空母「ジョージ・ワシントン」が「母港」として配備されるまでになります。
 戦前日本の軍都としての横須賀と、戦後の米軍基地の街としての横須賀は、所有者だけが変わった「同じ軍事インフラ」の上に成り立っているだけでなく、市民の側から見ても、「軍事に依存せざるをえない経済構造」が形を変えて連続してきたと言えるのではないでしょうか。
 次の節では、こうして米軍基地として再出発した横須賀に、やがて海上自衛隊が重なり、二重の軍港都市としての姿を強めていく過程をたどっていきたいと思います。

第5節 米軍と海上自衛隊の街へ ― 二重の軍港都市


占領期を経て、横須賀は「アメリカ海軍の基地の街」としての顔をはっきりと持つようになりました。
 横須賀本港周辺には、在日米海軍の中枢である横須賀海軍施設(U.S. Fleet Activities Yokosuka)が置かれ、ドックや修理施設、補給基地、住宅地区など、巨大な軍事都市がそのまま城壁のように海辺を占めていきます。
 米第7艦隊の主力艦艇が行き交うこの基地は、冷戦期を通じて「極東におけるアメリカ海軍の中心基地」としての位置づけを強めていきました。
【図版19 現代の横須賀本港(米海軍基地と海自艦艇が並ぶ風景)】
 米軍艦艇と海上自衛隊艦艇が並んで停泊する様子を上空からとらえた写真を掲載し、「二重の軍港都市」としての現在の姿を見せます。
同じ頃、旧海軍の人材と施設を引き継ぐかたちで、新たに日本の「海の軍隊」が生まれました。
 1952年に海上保安庁の中に海上警備隊が発足し、その地方機関として「海上警備隊横須賀地方監部」が、田浦の旧海軍水雷学校跡地に設置されます。
 翌1953年に保安庁警備隊へ改組、1954年の自衛隊発足に伴って海上自衛隊となり、横須賀地方総監部を中心とする「横須賀基地」は、戦前の横須賀鎮守府と同様、日本の海上防衛の中枢のひとつとして位置づけられていきました。
【図版20 田浦地区(旧海軍水雷学校跡地と現在の海自第2術科学校)】
 戦前の写真と現在の配置図を並べ、「旧海軍教育機関→海自教育機関」という連続性を視覚化します。
 戦後の横須賀には、こうして「米軍基地」と「海上自衛隊基地」という二つの軍事拠点が、同じ湾の周囲に重なり合うという特異な構造が生まれました。
 横須賀本港側には米海軍の主要施設が広がり、その対岸や隣接する長浦・田浦などには、海上自衛隊の司令部や補給・教育施設が点在します。
 港を行き交う艦艇も、星条旗を掲げる米軍艦と、日の丸と「さくら星」を掲げる自衛艦が混在し、日常の風景として「二つの海軍」が共存しているのです。
【図版21 横須賀本港・長浦港・田浦湾を含む航空写真】
 米軍施設と海自施設の位置関係が一目でわかる図として用います。
 陸上では、国道16号線がこの「二重の軍港都市」を南北に貫いています。
 16号線沿いには、旧海軍時代からの弾薬庫跡や補給施設、戦車道路などが点在し、それらの多くが形を変えながら、いまも米軍・自衛隊の関連施設として使われています。
 道路そのものも、戦前・戦中には軍用道路として整備され、戦後は基地へのアクセス路や物流路として機能し続けており、「軍港都市の背骨」として横須賀の都市構造を規定してきました。
【図版22 国道16号線と主要基地施設の位置関係図】
 横須賀中央から田浦、追浜にかけての16号線と、沿線に並ぶ基地施設・関連施設を示す簡略図を掲載します。
 一方で、旧軍港市を「平和産業港湾都市」に転換することを目的とした旧軍港市転換法のもとで、横須賀市は旧軍用財産の転用にも取り組んできました。
 公共施設や住宅地、産業用地として活用された土地も多く、軍事施設の外側では、商業地や住宅地としての横須賀が段階的に広がっていきます。
 しかし、令和に入った現在もなお、市域の相当部分を米軍基地と自衛隊施設が占めており、基地の存在が都市の有機的な発展を制約しているという指摘も根強くあります。
 このように、戦前の「日本海軍の軍港都市」としての横須賀は、戦後には「米軍と海上自衛隊の二重の軍港都市」として姿を変えながらも、軍事拠点としての性格を濃く引き継いできました。
 港とドック、弾薬庫と補給路、そしてそれらを取り巻く商店街や住宅地――それらの重なり合いをたどることは、「軍事と日常が同じ地図の上に共存する街」としての横須賀の現在地を理解するうえで、欠かせない視点だと思います。
 次の節では、この二重の軍港都市が、さらに東京湾要塞という陸軍のレイヤーをも重ね合わせていたことを確認し、横須賀がいかに重層的な「軍事空間」として構成



第6節 要塞都市としての横須賀


 横須賀の軍事的な顔は、海軍の軍港や造船所だけではありませんでした。
 陸軍は、首都東京と横須賀軍港を守るために「東京湾要塞」と呼ばれる沿岸砲台群を湾口一帯に築き、その重要な一部が横須賀市内に集中していたのです。
 猿島・観音崎・走水・千代ヶ崎といった地名は、いまでは観光地やハイキングコースとして知られていますが、その足元には近代日本の要塞都市としての横須賀の姿が埋め込まれています。
【図版23 東京湾要塞全体図(猿島・観音崎・走水・千代ヶ崎・海堡の位置)】
 東京湾口をぐるりと囲む砲台群の位置を示した図を掲載し、「首都防衛線」の一角としての横須賀を視覚的に示します。
 猿島砲台は、明治14年に着工し、明治17年に竣工した、日本近代築城史の最初期に属する沿岸砲台のひとつです。
 27センチ加農砲や24センチ加農砲を備えた砲座に加え、地下施設や弾薬庫、観測所などが、レンガと石積みで堅固に造られ、東京湾内への敵艦侵入を阻止する役割を担っていました。
 その任務のなかには、横須賀鎮守府と横須賀・長浦両軍港の防御も含まれており、「横須賀の軍港を守るための要塞」として位置づけられていたことがわかります。
【図版24 猿島砲台跡(レンガ造りの地下通路や砲座跡)】
 現在公開されている猿島砲台跡の写真を用い、「軍港防衛のための陸軍要塞」という説明を添えます。
 千代ヶ崎砲台は、明治25年に着工し、日清戦争中の明治28年に竣工した沿岸砲台で、28センチ榴弾砲3砲座6門や臼砲・機関砲などを備え、久里浜湾口を挟んで東京湾への進入路を監視していました。
 ここには、江戸時代末期に会津藩が築いた平根山台場の系譜も重なっており、ペリー来航以降、三浦半島東側が一貫して「首都防衛の前線」として意識されてきたことがうかがえます。
 猿島砲台跡と千代ヶ崎砲台跡は、2015年に「東京湾要塞跡」として日本で最初の近代軍事施設の国史跡に指定され、その歴史的・技術的価値があらためて評価されつつあります。
【図版25 千代ヶ崎砲台跡(砲座の八角形のくぼみと地下施設)】
 ドローン撮影などで上から見た砲座群の配置がわかる写真を掲載し、「東京湾要塞の一部」という位置づけを説明します。
 観音崎や走水にも砲台・観測所などが置かれ、これらを総合した東京湾要塞は、一時期「アジア最強」とも評された防衛線を形成していました。
 この東京湾要塞は、形式上は陸軍の東京湾要塞司令部の管轄下にありながら、海域防御の面では横須賀鎮守府と連携して、帝都と横須賀軍港の両方を掩護することを目的としていました。
 陸海軍のあいだには、近代日本軍に共通するセクショナリズムや主導権争いも存在しましたが、横須賀のような狭い空間では、互いに施設を密接に隣り合わせながら、「帝都防衛」「軍港防衛」という共通の課題のもとで、一定の機能的連携をとらざるをえなかったのです。
 さらに、市民の日常生活のレベルでも、東京湾要塞は「目に見えない境界線」として影響を及ぼしていました。
 明治32年に制定された要塞地帯法と軍機保護法は、要塞周辺の一定範囲を「要塞地帯」に指定し、その内部での建物の新築・増改築や、地形を見通せる高層建築、さらには水陸の形状を測量・撮影・スケッチするといった行為を、要塞司令官の許可制としました。
 「何人といえども要塞司令官の許可を得るにあらざれば、要塞地帯内水陸の形状を測量、撮影、模写、録取することを得ず」という条文は、地元住民や旅人が、美しい海岸線や砲台跡を気軽にスケッチしたり写真に収めたりすることすら、取り締まりの対象になりうる環境を生み出しました。
 こうした法的枠組みのもとで、三浦半島東岸の広い範囲は、戦前期を通じて立入制限や建築規制、撮影・測量の禁止といった私権制限を受け続けていました。
 観音崎や猿島が「軍事機密の最前線」であったことは、単にそこに砲台や弾薬庫が存在したというだけでなく、周辺の住民が自宅の改築ひとつにも許可を要し、海や山の風景を自由に切り取ることのできない、「法と監視によって管理された空間」であったことを意味します。
 第1節で見た「機密軍港」と同様、ここでも軍事施設そのものに加えて、その周辺の地形・視線・情報が細かく管理されることで、横須賀の人びとの生活範囲は目に見えない網の目のような線によって区切られていったのです。
 ここには、「海軍の軍港都市・横須賀」と、「陸軍の首都防衛要塞」という二つの軍事レイヤーが重なり合っています。
 横須賀の市民は、海側には軍艦とドック、陸側には砲台と弾薬庫という、二重三重の軍事施設に囲まれた空間で日常生活を営むと同時に、要塞地帯法による法的な制約と監視の網のなかで暮らしていたことになります。
【図版26 横須賀市東部の要塞群と軍港・市街地の位置関係図】
 軍港、市街地、猿島・観音崎・走水・千代ヶ崎の位置を同一地図上に重ね、「軍事施設に取り囲まれ、法的にも管理された都市空間」であることを示します。
 こうして見てくると、横須賀は単に「軍港のある町」ではなく、「海軍の軍港」「陸軍の要塞」「戦後の米軍基地」「海上自衛隊基地」という軍事施設が層状に重なり合う、きわめて特異な空間だったことがわかります。
 軍事にかかわる制度や組織が変わっても、砲台やドックや基地といった物理的なインフラは、所有者を変えながら同じ場所に居座り続け、その周りの土地利用や視線、情報の流れを制約し続けてきました。
 その物理的かつ法的な「重み」が、横須賀という都市の歴史と市民の暮らしに、長く影を投げかけてきたのです。


結び 


 本章でたどってきたように、横須賀は明治以来、「軍港都市」としての性格を一貫して保持してきました。
 東郷平八郎が「国防の要」と呼んだ横須賀の軍港・造船所は、軍国主義の進展とともに機密性を高め、市民の生活空間にフェンスや立入禁止区域というかたちで入り込みながら、人口と市街地を膨張させていきました。
 さらに東京湾要塞の砲台群や、戦後の米軍基地と海上自衛隊基地の存在が重なり合い、横須賀は文字どおり「軍事一色に塗りつぶされた都市」として、戦前から戦後へと連続してきたのです。
 しかし、その上に積み重ねられてきたのは、軍事だけではありませんでした。
 基地のフェンスの外側では、商店街が息づき、住宅地が広がり、学校や公園、文化施設が少しずつ増えていきました。
 人びとは、軍事施設と共存せざるをえない現実のなかで、ときに抗い、ときに利用しながら、自分たちの生活と記憶の場を築いてきたのだと思います。
 軍港・要塞・基地という重層的な軍事インフラが、横須賀という都市の骨格をかたちづくってきたこと。
 その上で、市民がどのように暮らし、どのように軍事と距離を取ろうとしてきたのか――。
 第8章では、この「軍事一色の都市」のなかで紡がれてきた生活世界と記憶のあり方に目を向けていきたいと思います。


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