見出し画像

夢と鰻とオムライス 第7話

<前話  最初から読む  次話>

◇ 

 犬の遠吠えのような余韻が耳に残っている。
 近所の犬が鳴いているのだろうか。でも、犬にしては鳴き声が少ししわがれている。一体どこの犬だろう、そう思っているうちに目が覚めた。
 時計の針を見ると、夜の七時を指している。
 随分と長い昼寝をしてしまったようだ。

「おーい。飯だぞー」
 こうちゃんが呼んでいる。飯と言われて、急に腹が鳴り出した。
「今行くー!」
 どんなものが出来上がっているのか、わくわくしながらリビングに向かう。テーブルを見ると、そこには大きなアルミの両手鍋が、どーんと構えるように置かれていた。

「鍋?」
 夏に鍋物。うんざりするほど熱そうだが、いい匂いの湯気が立っている。
「これが山梨の郷土料理、《ほうとう》だ」
「へえ」
 見た目はほぼ、味噌煮込みうどんだ。

 こうちゃんは冷蔵庫から、一升瓶のワインを取り出すと、グラスに勢いよく注いだ。黄色みがかった色の白ワインだった。
「瞬太が飲めたらなぁ」
 こうちゃんは、そう言って、またため息をつく。
「あと三年待ってよ。そのときは付き合うからさ」
「そりゃ楽しみだな。さぁ、食おう」
 こうちゃんが器にほうとうをよそって手渡してくれた。熱々だ。

「いただきます」
 ふうふう息を吹きかけて冷ましながら口に運ぶ。くたくたになった野菜と麺が、もったりとした汁に絡まり一体となっている。味はとことんまろやかでやさしい。和風ではあるが、舌にまとわりつく感触は、具だくさんのポタージュスープのようだ。

「こうちゃん、これ、めっちゃくちゃ旨い!」
 熱くてたまらないのに、掻き込むようにして、夢中になって食べる。
「かぼちゃも旨いんだけど、たっぷり入った油揚げが最高に旨いんだよなぁ」
 ワイン片手にほうとうを味わいながら、こうちゃんが言う。
「不思議なんだけど、ほうとうと一升瓶のワインってすごく合うんだよ。今日は白ワインにしたけど、赤も旨いんだ。あーあ、瞬太が飲めたらなぁ」

 まだ言っている。
 俺はこうちゃんの嘆きを無視して食べ進めた。熱さと暑さに汗が噴き出す。見た目は地味なのに、こんなに旨いなんて驚きだ。ほうとうって、こういう食べ物だったのか。
「ほうとうは山梨に行けば店でも食えるが、こういうどろっとしたのは、なかなかお目にかかれない。山梨の家庭の味だな」
「へぇー」
 店でなかなか食べられないものを、どうしてこうちゃんが作れるのだろう。
「誰かに作り方教わったの?」
 その問いに、こうちゃんは寂しそうな顔をした。

「うん……いや、実はな、前の奥さんが、よく作ってくれたんだよ。さすがに夏には食べなかったけど、冬至とかにさ、かぼちゃのほうとう作ってくれて……。こうして一升瓶ワインと一緒に食べたもんだよ。別れてもう四年になるなぁ……」
 そういう話に繋がるとは思わなかった。
 こうちゃんはグラスを空にし、そこにまたワインを注ぐ。いつもより、早く酔いが回っているように見えた。

「瞬太は恵梨子に会ったことなかったっけ?」
「名前くらいは聞いたことがあったような気がするけど、顔は見たことない」
「そうか……俺にはもったいないくらいの美人だったよ」
「へぇ」
「でも、そのせいなのか、職場で嫌がらせされて、精神的に参っちゃったんだ。ちょうど俺も独立に向けて忙しくしてる頃でさ。帰りが深夜になることもざらだった。いろいろと疑心暗鬼になってたんだろうな。俺の帰りが遅いのは浮気だって疑われた。どう考えてみても、あのときの恵梨子は普通じゃなかった。今ならそう思えるけど、当時は無性に腹が立ってさ。疑いは晴れても、要らぬ意地を張ったせいで、元通りにはならなかった。そこから離婚までが早かったよ」

 こうちゃんはほうとうをかき込み、流し込むようにしてワインを飲むと、赤ら顔で遠くを見つめた。
「離婚届に判を押したとき、しまったと思った。不安にさせた俺が悪かったんだって、気づいたんだ。やり直そうって言えたら、元に戻れる気がしたのに、勇気がなかった。後ろ髪引かれるようにして出て行く恵梨子に、俺は何も言えなかったんだ」
 糸みたいにピンと張った意地は、どちらかが歩み寄らないと緩むことはない。こうちゃんは自ら進んで歩み寄らなかったことを、今でも後悔しているようだった。

「恵梨子さんは今どこにいるの?」
「会社を辞めて実家に戻ったって聞いたけど、その先はわからないなぁ」
「実家って、山梨?」
「いや、東京。恵梨子のお母さんの実家が山梨なんだ。子供の頃、恵梨子が、おじいちゃんの家で食べてたほうとうが、これ」
 こうちゃんが指差した大鍋は、すっかり空になっている。

「山梨かぁ。小学生のときの林間学校以来、行ってないなぁ」
「行ってみたいか?」
 そんなふうに訊かれると、行ってみたい気もする。
「まあね」
 俺が答えると、こうちゃんは意を決したように、
「じゃあ、行くかぁー」
 そう言って、グラスに残ったワインを飲み干した。



第8話につづく

<前話  このお話のマガジンへ  次話>


いいなと思ったら応援しよう!

花 丸恵 お読みいただきありがとうございました! サポ―トのお金は資料本や必要な書籍購入の資金にさせていただきます。