絵画ミニミニミステリー 第155回「ギュスターヴ・モロー『出現』1874年~76年」
ギュスターヴ・モローはジョルジュ・ルオーとアンリ・マティスの師匠で、自分の考えを押し付けることなく弟子たちの個性を重んじた。19世紀末の師弟関係としては極めて珍しい関係ではなっかただろうか。
そんな想いからモローの模写を試みたのだが、模写して初めて分かるモローの凄さがあった。それをお話ししようと思う。

模写するまで、いやルオーを模写するまでモローという画家を避けていた。何故なら気持ちの悪い絵を描く画家だったからで、気持ち悪いもの、怖いものは基本的に好きではないからだ。
モローは1826年建築家の父と音楽家の母との間にパリで生まれたが、子供時分は体が弱く、絵を描いて遊んでいた。
1846年(20歳)エコール・デ・パリ(官立美術学校)に入学し、ローマ賞を目指すが、何度も落選する。美術学校を退学し、その後ロマン派の影響を受ける。
1849年から54年までフランス政府から絵画の注文を受ける。
1857年念願のイタリア旅行を自費で行き、ティツィアーノ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロの絵を模写し、この地でドガやドローネら多くの新進画家たちと知り合う。
イタリアから帰国し、その成果を表現するようになる。1864年(38歳)『オディプスとスフインクス』をサロンに発表。その過激な絵にサロンは難色を示したが、ナポレオン皇帝のお買い上げとなり、当代一の画家の仲間入りする。
この作品からモロー独自の象徴主義とも幻想主義とも呼ばれる世界に入っていく。そして多くのサロメ作品が生み出され、その頂点となる『出現』が創出される。
サロンで発表されるとたちまちにして話題となり、絵画界だけでなく、文学界、演劇界にも強烈な印象を与えた。
サロメに関する演劇やオペラが公演され、後には映画にもなっている。それ程までに強烈な印象をフランス、パリの人びとに与えたのがこの『出現』だ。
日本人のわたしたちには、いやわたしにはピンとこないシーンなのだが、どうしてサロメなのか、かいつまんでお話ししておこう。
この絵の左端に座っているのがヘロデ王。下に控えているのが妃のへロデア。ヘロデ王とヘロデアは近親結婚であり、聖ヨハネに反対される。そのためヨハネは投獄される。
妖艶な姿の舞姫がサロメ。実在の人物だ。サロメはへロデアの娘で、ヘロデ王は義父になる。サロメはヘロデ王の前で踊り、絶賛される。褒美に「お前の望むもの何でも叶えてやろう」と言われ、サロメは投獄されているヨハネの首を求めた。
画面の左に死刑執行人が剣と持って立っている。差し出された使徒ヨハネの首が光り輝いている。
そういう幻想的で象徴的なシーンを描いたものだ。
1888年(42歳)美術アカデミーの会員に選ばれ、1892年(46歳)エコール・デ・ボザールの教授になり、弟子の個性を尊重し、才能を自由に伸ばす指導を行う。
先に記したようにルオーとマティスは彼の弟子で、モローを超える有名な画家に育て上げる。
そして晩年のモローだが、サロンから疎まれるようになり、パリ郊外の屋敷に閉じこもるようになるが、個展や展覧会は開かれていた。
1898年死去。享年72。
アトリエには油彩画800点、水彩画575点。デッサン7000点が残され、屋敷は「ギュスターブ・モロー美術館」として公開され、初代館長にジョルジュ・ルオーが務めている。
モローが亡くなるとモローの弟子たちはサロンから追放され、ルオーの生活は困窮することになる。
モローの弟子、ルオーとマティスの絵を比べ見てみると、この3人は共鳴することなく独自の道を進んだことがわかる。師匠としてのモローが真の天才を見分ける眼を持っていたことがわかる。われわれの知るルオーとマティスの誕生はモローなくしては存在し得なかったのだ。


