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絵画ミニミニミステリー 第149回「林武『薔薇』1960年代」

 薔薇、バラ、ばら。
 これでもかと自己主張する薔薇たち。この絵の作者、林武は1896年東京麹町に生まれ、これを描いたのが70歳にさしかかるころ頃と思われる。林は79歳で亡くなるが、人生の晩年の作品になる。そうなのだが、それにしても力強い絵だ。フォービズムの影響だと言ってしまえばそれまでだが、老年期に差し掛かったにもかかわらずこの迫力はどこからくるのだろうか。

模写『薔薇』

 人生百年時代のわたしたちに何かヒントを与えてくれるかもしれない。そのエネルギーの根源に迫ってみたい。

 林武の父は国語学者、祖父は歌人、曾祖父は水戸派の国学者で優秀な学才揃いの家系に生まれたが、生活は苦しかったようで牛乳販売店の手伝いをしている。これは、今の朝ドラ「ばけばけ」の松野家や雨清水家のような上級の没落武士だったかもしれない。

 林が牛込の小学校に通っているときの同級に、夢見るような甘い女性像を描いた東郷青児がおり、当時からふたりして画才を認められていた。
 1914年(18歳)になり真剣に画家を目指すが、生活は苦しくペンキ絵職人などしてなんとか糊口をしのいでいた。
 1920年(24歳)やっと入学した日本美術学校も半年で退学している。学費が払えなくなったのか、それとも学ぶべきものが見いだせなかったのか、その理由を突き止めることができなかった。

 そうではあったが、1921年(25歳)第9回二科展で『婦人像』が初入選し、同時に樗牛(ちょぎゅう)賞を受ける。その勢いで渡辺幹子と結婚する。夫婦仲はとても良かったという。
 1934年(38歳)念願の渡欧を果たす。と、いうことは絵が高額で売れ、パトロンが付いていたということだろう。フランス、ベルギー、オランダ、イギリス、ドイツ、スペインを訪れているが、この旅で林は何を見、何を感じたのだろうか。
 1937年(41歳)欧州滞在中に描いた作品展が松坂屋で施される。
 1949年(53歳)『梳る女』などで第1回毎日美術賞を受賞する。

 1952年(56歳)梅原龍三郎、安井曽太郎の後任として東京美術学校の教授に就任する。十分な美術教育を受けていない林武にとって、日本の美術教育を牽引してきた二人の後任を任され、これで父や祖父、曾祖父に並び超えることができたと万感の思いを抱いたことだろう。
 1963年(67歳)東京芸術大学を定年退職する。
 1975年肝臓がんのため死去。享年79。

 駆け足で林武の経歴を追ってきた。幼年から青年期は貧しく、教育一家であるにもかかわらず十分な美術教育を受けることができていない。それでも林には人並み以上の絵に対する才能があった。その恵まれた才能を生かすも殺すもこの先は本人次第である。
 林には絵の才能以上にいい絵を描きたい、そのためには限られた人たちからの指導や忠告を忠実に繰り返し繰り返し練習実行し、たゆまぬ努力をし続けたのだ。それを成し続けることができたのは、林の胸の奥に、腹の底にメラメラと消えることのない情熱の炎を抱いていたからだ。
 
人生百年を活力ある人生にするためには、林のような熱情を持ち続けること、それに尽きるのだ。

 林の受賞歴は以下のようである。


  •  1921年(大正10年、25歳) 第8回二科展 樗牛賞受賞

    1.  1922年(大正11年、26歳) 第9回二科展 二科賞受賞

    2.  1949年(昭和24年、53歳) 第1回 毎日美術賞受賞

    3.  1956年(昭和31年、60歳) 第2回現代美術展 大衆賞

    4.  1959年(昭和34年、63歳) 第15回 日本芸術院賞

    5.  1967年(昭和42年、70歳) 第17回 朝日賞(文化賞)

    6.     同年(70歳)       文化勲章

  •  1975年(昭和50年、79歳) 贈従三位(没時叙位)、銀杯一組(没時受賜)

 これほどまでに錚々たる受賞歴だが、重要文化財に指定された作品は現時点ではない。
 それは何故だろうか。大きな誤解と叱責を覚悟して記すなら、梅原龍三郎のマティス的フォービズムの画風に似ているからではないだろうか。

模写 梅原龍三郎『薔薇』1939年
模写 安井曽太郎『薔薇』1932年


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