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乳首の先っぽに、尊厳は宿る

「おっぱいを触ると怒られる」
こんな当たり前のことを、少し真剣に考えてみたい。
なぜ怒られるのか。「マナーだから」「法律だから」——そういう答えは正しいが、何かを説明していない。怒りの手前にある、もっと根っこのものに触れていない。

メルロ=ポンティは言った。身体は「私が持つもの」ではなく、「私がそこに宿っているもの」だと。
椅子は私の外にある。しかし手は違う。手は世界を触ると同時に、世界から触られる。能動と受動が同時に起きる場所——それが身体だ。
つまり、誰かの身体に無断で触れるということは、その人の「世界との接点」を無断で侵すことになる。部位の問題ではない。そこに「その人がいる」という事実への侵入だ。

カントはもっと直接的だった。人間を「手段」として扱ってはならない、と。
無断で触れる行為は、相手を「触れる対象」として扱うことだ。同意という手続きを飛ばすとき、私たちは相手の人格を一時的に消去している。怒りはその消去への抗議だ。

ではなぜ、性的な部位はとりわけ強い怒りを生むのか。
そこには「性的自己決定」という層が重なっているからだと思う。身体の主権に加えて、自分の性をどう生きるかという、もう一枚の尊厳が。
それは傷つきやすく、しかし誰にも譲れない領域だ。

ここまで考えてきて、私はふと思う。
尊厳とは何か、と問うより——尊厳とはどこにあるか、と問う方が正確かもしれない。
制度の中にあるのではない。法律の条文にあるのでもない。
では、どこに?

My guess、、と言っておこう。
尊厳は、乳首の先っぽに宿っている。
メルロ=ポンティが言った「世界との接点」。カントが言った「手段にしてはならない場所」。性的自己決定の最前線。あらゆる哲学的蓄積を、この小さな突起が静かに引き受けている。
触れる前に、そこに「人がいる」と気づくこと。
触らないでください。
それだけのことが、なぜこんなに難しいのだろう——という問いは、答えないまま置いておく。
そして、それを許すための女は、トロンとした目であなたを見つめる。
尊厳とは、そこに同意があるかどうか、だけの話だったのかもしれない。

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あるといえばある いるといえばいる 闇と音 目を瞑り 深呼吸 貯まることないと思いますが念のため、人のために使います。