バス停のおばちゃんの話
「はぁーい。いってらっしゃーい」
泣きじゃくる娘を保育園へ預け、笑顔の先生に背を向け私は仕事へと急いだ。
当時、保育園から徒歩2分のバス停でバスに乗り、職場へと出勤していた。「今日も泣いてたけど大丈夫かな」保育園の連絡帳アプリに、今日食べた朝ごはんとコメントを入力しながら、ぼんやりと娘のことを考えていた。
ここのところ、登園時間になると泣きじゃくる娘に、どうしたらいいものかと頭を悩ませていた。朝からわが子の泣き声を聞くのは苦痛そのものだった。
ぼーっと考えていたら、バスが来るのが見えた。先に並んでいる人は乗らないようなので、会釈をしてバスのステップを登った。切り替えて出勤しよう。
「おーい!今日はそのバスに乗るのー?」
定期をタッチしようとしたところで、背後から声が聞こえてきた。
「いつもそのバスじゃないよね?」
慌ててバスの行き先表示を確認すると、いつもと違うバスだった。
急いでバスを降りると、先ほど声をかけてくれた年配の女性が、マスクの上からちょこんと出ている目を三日月みたいに細めて笑っていた。
「いつもさ、同じバスだからついつい声かけちゃったよ。ごめんね!でもよかった!」そう言ってガハハと笑ってくれた。
それが、私とおばちゃんのバス停での出会いだった。どうやら、いつも保育園へ娘を預けて、足早にこちらにやってくるのを毎日見ていたそうだ。
「あんた、毎朝よくやってるよ。偉いね」そう言って黒飴を一粒、私の手のひらに乗せてくれた。一緒にバスに乗って他愛もない話をしながら、おばちゃんは職場があるバス停で先に降りて行った。
それからは顔を合わせれば、おばちゃんの仕事の話を聞いたり、子どもの体調不良で会社に行けなかったこととか色んな話をした。出勤前のほんの数分が好きな時間になった。
だけど、私たちはお互いの名前も知らなかった。傍から見たらちゃんと知り合い同士に見えていただろう。だけど、この距離感が無性に居心地がよかった。
そんなある日、バス停につくと大きなタッパーを持ったおばちゃんがこちらを見てにんまりとしていた。「これさぁもらったきゅうりなんだけど、浅漬けにしてみたんだ。食べる?」
蓋を開けると酢のツーンとした匂いが香ってきた。薄く切られたきゅうりたちがタッパーいっぱいに詰め込まれている。「いただきます」私はきゅうりを指先でつまんで口に運んだ。
多分、朝からバス停できゅうりの浅漬けを食べたのは、私ぐらいだろう。
だけどそのきゅうりの浅漬けは、今まで食べた中で一番おいしかった。イヤイヤ怪獣と戦う私のボロボロの体に、塩分が染み渡った。
「これ後で食べなよね」そう言って、タッパーごと私に渡して先にバスに乗り込んでいった。
おばあちゃんがいたらこんな感じだったのかな。私の祖母たちは皆物心つく前にはいなかったので、おばあちゃんというものを知らずに育った。
「あんた、おばあちゃんが生きていたら多分おばあちゃん子だったよ」
よく母に言われていた。そんなことを考えながら優先席のおばちゃんを見つめていた。お気に入りのピンクのショルダーバッグをどさっと膝の上に乗せて、浅めに腰掛ける姿に本当のおばあちゃんを重ねた。
さっき食べたきゅうりの味がまだ口に残っていた。
それから少しして私は引っ越しが決まって、その土地を離れることになった。何か最後にお返ししたいと思って、出掛け先で見つけたおばちゃんが喜びそうなおせんべいを買った。
「会えた日にこれを渡して、お別れを言おう」いつ会ってもいいように、バックにおせんべいを忍ばせた。
だけど、いざおばちゃんの顔を見たら、おせんべいを渡せなかった。普通に「引っ越すことになって~」って一言がでなかった。
いつもあんなにくらだらないことを話して笑いあっていたのに。
最後までゆるっとした関係のままでいたかった。
きっとおばちゃんは「あの子最近見なくなっちゃったねぇ」なんて言いながら他の人とまた、バス停の友達を作るだろう。
それでよかった。しんみりした別れは似合わない。おばちゃんがまたそこで笑っていればそれでいい。
今でもきゅうりの浅漬けを食べると、おばちゃんの声とくしゃっと笑った顔が浮かんでくる。元気にしているだろうか。おばあちゃんの味を知らないおばあちゃんの味。
またいつか偶然会えたら、あの時お別れが言えなかったことを笑って話したい。おばちゃんありがとう。
あの美味しいきゅうりの浅漬けの作り方教えてください。
