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The Uninvited 〜招かれざる者〜

 シャルティアに客が来たことは、一度もなかった。

 それはジェミニの結界があるからだとディランが言っていた。屋敷の周囲に幾重にも張り巡らされた術式が、無関係の人間の知覚から屋敷の存在そのものを消す。地図に載らず、道を辿っても辿り着けず、目の前にいても見えない。シャルティアはそういう場所として存在していた。

 だから、呼び鈴が鳴ったとき、屋敷の全員が動きを止めた。


 ハナがリビングでリュカと話していたのは、午後の遅い時間だった。

 銀色の長い髪を緩く流し、淡い色のシャツを着たリュカが、本のページを繰りながら穏やかな声で何かを語っていた。ハナは向かいのソファに深く沈んで、ロングワンピースの裾を手持ち無沙汰に引っ張りながら彼の話を聞いていた。茶色い長い髪がソファの背もたれに広がって、黒い瞳が午後の光を映していた。

 リン、と。

 澄んだ音が、屋敷の奥から届いた。

 リュカの手が止まった。ハナも体を起こした。二人は顔を見合わせた。

「……今、呼び鈴?」

「聞こえたね」とリュカは言った。その青い瞳から、穏やかさがすっと抜けた。


 廊下へ出ると、すでにジェミニが玄関の方へ向かっているところだった。

 黒い執事服に白い手袋、黒髪に銀縁の眼鏡、アイスブルーの瞳。その姿は常と変わらず完璧に整っていたが、白手袋の指先が空中で何かを確かめるように動いていた。術式を走らせている。

「ジェミニ」とリュカが声をかけた。「結界は?」

「……異常はございません」とジェミニは静かに言った。「破られた形跡がない。にもかかわらず、音がした」

「どういうこと」

「内側から、鳴らされた可能性があります」

 その言葉が廊下に落ちた瞬間、空気が変わった。

 ハナの背筋を、細い寒気が走った。


 玄関の扉を開けると、そこに人が立っていた。

 年齢は分からなかった。四十代にも六十代にも見えた。背が低く、くすんだ茶色のコートを着て、片手に古い革鞄を提げている。顔立ちは平凡で、どこにでもいるような印象だったが、瞳だけが違った。灰色がかった瞳の奥に、深い層があった。何かを何十年も積み重ねてきた人間の目だった。

「シャルティアで合っておりますね」とその人物は言った。声は穏やかで、しかし確信に満ちていた。「セイラン=ノクターンを訪ねてきた」


 知らせを受けたセイランが玄関へ来るまで、ほんの数分だった。

 しかしその数分で、屋敷の空気は完全に張り詰めた。ジェミニは扉の前に立ったまま来客を屋敷に入れなかった。ルークがどこからともなく現れ、銀髪を揺らしながら無表情で来客を観察していた。白いスーツに金のイヤーカフ、琥珀色の瞳が、まるで対象を宙で解析するように来客の上を滑った。

 ディランは玄関とは反対側の廊下の角に立ち、腕を組んでいた。黒いシャツの袖をまくり上げ、灰色の瞳が静かに状況を見ていた。彼が何も言わないのは、言葉より先に動ける位置を取っているからだとハナには分かった。

 そこへ、足音もなくセイランが来た。

 深い紫に黒の混ざる長髪を後ろで緩く束ね、黒とボルドーを基調とした装飾入りの長衣を纏っている。黒曜石の瞳が来客を見た瞬間、その瞳の奥で何かが動いた。驚き、ではなかった。認識、だった。

「……ラグ」とセイランは言った。

「覚えていてくれたか、セイラン」と来客は言った。その口元が、わずかに緩んだ。「十五年ぶりかな」


 ジェミニが応接室へ案内することを渋ったが、セイランが短く「構わない」と言った。その一言で場が動いた。

 応接室に入ったのはセイランと来客、そしてハナだった。ハナが入ろうとしたとき、セイランが何も言わずに扉を開けたままにしていた。それが許可だとハナは受け取った。

 ジェミニは扉の外に立ち、白手袋の指を組んだ。


 ラグと名乗った人物は、革鞄を膝の上に置いて椅子に座った。セイランは向かいに座り、ハナはその隣に控えた。

「単刀直入に話す」とラグは言った。「お前に記憶を返しに来た」

 セイランの指先が、長衣の上でわずかに動いた。

「……誰の記憶だ」

「お前自身のだ」

 沈黙が部屋に満ちた。ハナはセイランを見た。彼の表情は動かなかった。しかしその静けさが、動かないことによって何かを押し込めているような種類のものだと、ハナには分かった。

「十五年前」とラグは続けた。「お前はある依頼を受けた。依頼主はお前の記憶の一部を対価として要求した。お前は応じた。俺はその場に立ち会った証人だ」

「知っている」とセイランは言った。「だからこそ聞く。なぜ今、返しに来た」

「依頼主が死んだ。三週間前に。遺言で、俺に預けられた。セイランに返せ、と」

 ラグは鞄を開けた。中から、小さな硝子の容器を取り出した。親指ほどの大きさで、中に何かが揺れていた。光ではなかった。もっと粘度のある、記憶の残滓のような何かが、硝子の内側でゆっくりと動いていた。

 セイランは容器を見た。長い間、見ていた。

「……何が入っている」とセイランは言った。「俺は対価として何を渡した」

「それは」とラグは言った。「開けてみないと分からない。俺には記憶術の心得がない。中身を確認できなかった」


 ラグが帰った後、応接室は静かだった。

 セイランは椅子に座ったまま、テーブルの上に置いた硝子の容器を見ていた。ハナはその隣にいた。何も言わなかった。言葉を探していたわけではなく、ただ、隣にいることが今の自分にできることだと思っていた。

 やがてジェミニが扉から入ってきた。

「来客の気配を追いました」と彼は言った。「屋敷の外へ出た痕跡は確認できましたが、どこから現れたかの経路が辿れません。術式を潜り抜けた形跡もない」

「では内側から来た、という線は」とルークが続けた。いつの間にか彼も入室していた。「統計的に考えれば、あの人物は以前この屋敷に接触したことがある可能性が高い。その際に残した何らかの痕跡が、今日の侵入経路になったと推測されます」

「つまり」とディランが扉に寄りかかりながら言った。「前に誰かが招き入れた」

 全員の視線が、一瞬だけセイランに集まった。

 セイランは容器から目を離さなかった。

「……ラグは十五年前、俺の依頼に関わった人間だ。その頃俺がこの屋敷にいたなら、彼が屋敷の気配を知っていたとしても不思議はない」

「セイランが以前からシャルティアに?」とハナは思わず聞いた。

「短い期間だが」と彼は言った。それ以上は語らなかった。


 夜になった。

 他の者たちが部屋へ戻っても、セイランは応接室に残った。ハナも残った。

 テーブルの上の硝子容器は、夜の灯りの中でも内側のものが微かに揺れていた。

「……開けるの?」とハナは聞いた。

「まだ分からない」とセイランは言った。「自分が何を失ったのかを知らずに十五年過ごした。それが今夜戻ってくることを、俺がどう受け取るべきか」

「怖い?」

 彼は少しの間、黙った。

「怖い、という感情に近いものがある」とセイランは言った。「珍しいことだ」

 ハナはその横顔を見た。記憶術師として他者の感情を幾千と読んできたこの男が、自分の感情を「珍しい」と言う。それがおかしいわけでも悲しいわけでもなく、ただ、胸に刺さった。

「じゃあ」とハナは言った。「私が隣にいる間に開けて」

 セイランがハナを見た。

「怖いなら、一人でいるより誰かいた方がいい。私でよければ」

 彼は長い間、ハナを見ていた。黒曜石の瞳の奥で、何かが静かに動いた。

「……お前は」と彼は言った。「いつもそうやって、踏み込んでくる」

「嫌?」

「嫌ではない」

 それだけ言って、彼は容器に手を伸ばした。


 黒い手袋を外した。

 手の甲に浮かぶ細い刻印が、灯りを受けて光る。長い指が硝子の容器を包むように持ち、親指で封を外した。

 何も起きなかった。

 音もなく、光もなく、ただ容器の中で揺れていたものが、静かに霧散した。セイランの目が、わずかに閉じた。瞼の裏で何かが流れているのだとハナには分かった。記憶が戻るとはこういうことなのか、と思いながら、ハナはただ彼の隣に座っていた。

 どれくらい経ったのか。

 セイランがゆっくりと目を開けた。

 その瞳が、いつもとわずかに違った。深さが増したというよりも、何かが埋まったような、長い間空白だった場所に言葉が入ったような、そういう変化だった。

「……何が入ってたの」とハナは静かに聞いた。

 セイランは少しの間、黙っていた。

「ある人間の最期の記憶だ」と彼は言った。「俺が十五年前に読んで、対価として渡した。依頼主はそれを欲しがっていた。自分が愛した人間の、最後の瞬間を」

「……セイランが読んだ記憶を、そのままあなたから取った?」

「記憶術師から記憶を抜くことができる人間がいる。稀だが、いる。依頼主はそういう術を持っていた」とセイランは言った。「俺は対価として同意した。何を渡すかも分かった上で」

「なんで」

「金のためではない」と彼は即座に言った。「依頼主は、その人間の最期に立ち会えなかった。後悔していた。せめて記憶の中だけでも、その瞬間を持ちたいと言った」

 ハナは黙っていた。

「俺には断れなかった」とセイランは続けた。「記憶を失うことへの代償として何が生じるか、術師として知っていた。それでも断れなかった」

「……その人が、そんなに大切な記憶だったから?」

「誰かの痛みを、正当な理由なく拒める人間ではなかった」

 それがセイランの告白だった。寡黙で、感情を表に出さないこの男の、核のような場所にある何かだった。


 気がつくとセイランの手が、ハナの手に重なっていた。

 テーブルの上で、刻印の浮いた手が、ハナの指を静かに包んでいた。先に動いたのは彼の方だった。

「ハナ」

「うん」

「今夜、そばにいてくれるか」

 問いとしては珍しかった。いつもの彼は問わない。確かめるか、あるいはただ側にいる。それが問いになったのは、今夜の彼が普段よりも少しだけ、柔らかい場所にいるからだとハナには分かった。

「いるよ」とハナは言った。「最初からそのつもりだった」


 セイランの部屋は、いつも夜の色をしていた。

 窓が大きく、カーテンを引かなければ夜空がそのまま壁になる。ランプをひとつだけ点けると、部屋の輪郭がゆっくり浮かんだ。本棚、古い机、硝子の小瓶が並ぶ棚。墨と白檀の香りが満ちていた。

 セイランはハナの前に立ち、その髪に手を伸ばした。茶色い長い髪を、指で梳くように触れる。いつもより動作が遅かった。記憶が戻ったことで何かが変化したのか、あるいは今夜という夜が彼の中で特別な重さを持っているのか、ハナには分からなかった。

「……セイラン、大丈夫?」

「大丈夫だ」と彼は言った。「ただ」

「ただ?」

「十五年分の空白が埋まると、少し、揺れる」

 ハナは何も言わずに、彼の長衣の前に手を当てた。胸のあたりに、そっと。心音を確かめるように。

 セイランは目を閉じた。

 それからハナの手を取り、甲に唇を落とした。記憶を読む口づけではなく、ただの、触れるための口づけだった。

「今夜のお前の記憶は読まない」と彼は言った。唇をハナの手の甲に当てたまま。「ただ、触れたい」

「うん」

「お前が嫌でなければ」

「嫌じゃない」とハナは言った。「ずっとそう言ってる」

 低く、息を吐くような音がした。笑ったのかもしれない。彼が笑うとき、音はほとんどない。でも気配が変わる。ハナはもうそれが分かった。


 長衣が床に落ちた。

 ハナのワンピースを解く指は、いつもと同じように正確で、しかし今夜はどこかに切迫したものが混じっていた。十五年分の記憶が戻ったことで、何かが動いているのかもしれなかった。

 ハナが彼の名前を呼ぶと、その切迫がわずかに和らいだ。名前を呼ばれることが、今夜の彼には必要なのかもしれないと思って、ハナはもう一度呼んだ。

「セイラン」

「……ここにいる」と彼は言った。

 ここにいる。その言葉が、ひどく真剣だった。どこにも行かないという宣言のように、あるいは自分自身への確認のように。

 ハナは彼を引き寄せた。


 記憶術師の触れ方は、いつも静かだった。

 しかし今夜は静けさの中に、普段とは違う熱があった。抑えているのではなく、抑えようとして届かない種類の熱。それがハナの皮膚を通じて伝わってきた。

 ハナが声を漏らすたびに、彼の腕が強くなった。記憶を読む能力が無意識に働いているのか、ハナが何を求めているかを正確に知っているような動きをした。それが怖いというよりも、こんなに深く知られているという感覚が、ハナの全身に満ちた。

 やがて全てが溢れて、静かになった。


 セイランがハナの髪を梳きながら、窓の外を見ていた。

 夜空には星が出ていた。シャルティアの周囲は街から離れているため、光が少なく、星が多い。ハナはその星を眺めながら、彼の胸の上で息を整えた。

「……ラグって人、また来ると思う?」

「分からない」とセイランは言った。「用は済んだはずだ。だが」

「だが?」

「あの男の記憶を読んでいない。来た理由が本当に遺言の執行だけだったかどうか、確かめていない」

 ハナは少し体を起こして彼を見た。

「気になるなら、追う?」

「お前は」とセイランは言った。少し呆れたような、しかし柔らかい声で。「ずいぶん積極的だな」

「だってハラハラしたじゃない。続きが気になる」

 沈黙。

「……俺も」と彼は言った。「気になっている」

「じゃあ一緒に調べよう」

「お前を連れて行くとは言っていない」

「連れて行って」

「……」

 長い沈黙だった。ハナは彼の顔を見ていた。黒曜石の瞳が、夜空を映してから、ハナに戻ってきた。

「危険がある場合は従え」と彼は言った。

 それが了承だった。

「分かった」とハナは言って、また彼の胸に頭を戻した。

 窓の外で、夜が深く続いていた。ラグという男が何者で、十五年前のセイランの依頼に何が絡んでいたのか、まだ何も解けていなかった。ただ、謎の続きがあるということが、今のハナには少しだけ嬉しかった。

 セイランの手が、また髪を梳き始めた。

 シャルティアは静かだった。結界の内側で、屋敷は息をしていた。今夜来た客が何かを残していったとしたら、それは硝子の容器の中身だけではないかもしれない、とハナはぼんやり思った。


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